【感想・ネタバレ】存在の耐えられない軽さのレビュー

あらすじ

舞台は東西冷戦下のチェコスロバキア。「プラハの春」と呼ばれる1968年に実現した束の間自由主義体制とその後のソビエト連邦の侵攻、「正常化」という名の大弾圧という歴史的な政治状況下で、苦悩する恋人たち。不思議な三角関係など、四人の男女のかぎりない愛と転落を、美しく描きだす哲学的恋愛小説。チェコ出身の作家ミラン・クンデラの代表作にして世界的ベストセラー。原著は1985年に刊行され、1988年にフィリップ・カウフマン監督、主人公トマシュにダニエル・デイ=ルイス、テレーザにジュリエット・ビノシュを起用して映画化されたことでも広く知られている。

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感情タグBEST3

Posted by ブクログ

愛と性は別であると考えて、短期間に複数人の女性と交際を繰り返すトマーシュ。浮気と本気の線引きがあり、彼なりの優先順位がある。トマーシュの強さとテレザの弱さのアンバランスの描写が、読んでいて苦しかった。
生き方の異なる2人が居れば、弱い方が耐えられない気持ちになるのは自然なことだと思う。
親しい人から、自分は替えがきく存在なんだと感じた瞬間に私は冷める。だからテレザに共感はできず私はサビナに憧れる。自分を大事にしてくれる人を見つけ、自分の居場所を自分の力で見つけて生きたい。
男女の性の価値観の違い。それによって生じる問題が政治的抑圧を背景に展開されていて物語に惹き込まれた。序盤以降は読みやすかった。

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2025年08月28日

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著者のミラン・クンデラが巧妙なのは、同じ人間の中に「重さ」と「軽さ」を同居させていること。

トマーシュは政治的信念については妥協しない重厚さを持ちながら、恋愛においては徹底的に軽やかだった。
彼の性的な「軽さ」は、一人ひとりの女性との関係に深い意味や責任を求めない。でも、それは彼なりの一貫性でもある。
興味深いのは、彼がテレザとの関係においてだけは「重さ」を感じていたこと。テレザは彼にとって唯一、軽やかに扱えない存在だった。
つまり、トマーシュは自分なりの価値基準を持っていた。政治的信念は重く、性的関係は軽く。そのバランスが彼という人間の核心だったことだ。そして、その矛盾を抱えた姿に、どこか共感を覚えた。

しかし彼が本書で本当に書きたかったことは、理想が先走って、個人の現実が踏みにじられていく世間への問題提起だったのだろう。それに気づくと改めて「重さ」と「軽さ」の意味を考えることになる。

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2025年08月01日

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静謐な文体で紡がれる哲学的小説。

自分という存在、そして今生きているこの人生は耐えられないほど軽いのか。それとも重いのか。この先ずっと、自問自答しながら生きていくことなりになりそう。
 


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2025年07月16日

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存在の耐えられない軽さ、素晴らしい本だったな
久しぶりに読後の余韻を深く感じている気がする
人生の必然性と偶然性、私たちはどちらに導かれていくのかそしてそのどちらに抗って生きいているのか
何も求めずにはいられない人間が自分がこれさえあれば生きていけるというものは何なのか
第二次世界大戦でドイツの侵攻によって、その後もプラハの春で自由化の動きをみせるがソ連の軍事介入によって制圧されたチェコスロバキアの時代の中で語られるからこそこの物語がもつ哲学がとんでもないメッセージ性を持っていた気がする

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2024年12月22日

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動乱のチェコで繰り広げられる、心震える男女の愛。

愛や誤解が招く幸も不幸も全て描き、読者に、世界にそれを問う。「Muss es sein?」

「一度は数のうちに入らない」が、人生に二度はない。そんな人生を我々はどう過ごすべきか。一瞬一瞬を大切に、重く扱い生きるのか。それとも過去を捨て軽やかにに生きるのか。

答え合わせのない暗中模索の人生のゴールは見つからないかもしれない。けれど、その日を信じて、僕らは「そうでなければならない」行動を続けるしかないのである。

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2024年11月07日

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私がこの作品を読もうと思ったのは「プラハの春」以後のプラハの雰囲気を知るためでした。この作品ではプラハの知識人たちが負うことになった苦難の生活の雰囲気をリアルに知ることでできます。また、この作品の中盤以降は特にこうしたソ連による支配に対する著者の分析が小説を介して語られます。これはかなりの迫力で息を呑むほどです。

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2024年08月18日

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ネタバレ

プラハの春とは、1968年のチェコにおける民主化・自由化運動である。作者のクンデラはこれを文化面で支えた作家だった。だが、この運動はソ連の介入によって鎮圧され、その後「正常化」の時代が始まる。この時代にクンデラは数々の弾圧を受け、1975年フランスに亡命した。これが本作の背景として描かれる。
この作品は風変わりな小説である。小説家はふつう、登場人物の行動をあれこれ解説したがらない。むしろ、解説のいらない文章を書くのが小説である。ところが本書では、作者であるクンデラ自身がたびたび表に顔を出す。これは恋愛小説に仕立てたクンデラの思想であり、あるいは思想について書かれた恋愛小説である。

外科医のトマーシュはいわゆるドンファンで、女とすぐに寝てしまうプレイボーイだ。ただし、どんな女とも一定の距離を置いた。妻とも別れた。軽さこそ彼が人生に求めるものである。だが、テレザは例外だった。彼女と恋に落ちてしまい、部屋に泊めるどころか結婚までしてしまう。トマーシュの人生にテレザが重くのしかかる。
ロシア軍が彼の国を占領したとき、二人はチューリヒに亡命した。だが、スイスにはサビナがいる。サビナはトマーシュが言うところの「性愛的友情」で結ばれた関係だ。テレザは彼女に嫉妬する。それで一人でプラハに戻ってしまう。トマーシュは重荷から解き放たれ、束の間の開放感を味わうが、長くは続かなかった。テレザには自分しかいない。これは自分にしかできないことだ。悩んだ末トマーシュは、テレザを追って占領下のプラハへ帰る。

この小説は、トマーシュ、テレザ、サビナ、フランツの可笑しくも悲しい恋愛模様を描いているが、トマーシュの物語について言えば、軽さと重さの間で引き裂かれた人生と言えよう。あるとき、トマーシュが新聞に投稿した批判文が当局の目に止まり、撤回するか職を追われるかの選択を迫られる。外科医は彼の天職であり、自分に課された使命だった。だが、彼は撤回を拒否して、みずから窓洗いという最下層に落ちる。彼にとっては、それが重荷を下ろすことなのである。

限りない軽さを追い求めるトマーシュに、運命が皮肉な決断を迫る。ある日、自分からはもう会わないと決めていた息子が接触してきて、恩赦を要求する嘆願書にサインしてくれと頼んできた。サインをすれば息子との関係が再び始まってしまう。サインしなければ彼は臆病者の烙印を押される。しかし、「サインすることはお父さんの義務ですよ!」という一言で、サインをきっぱり断る。ここでも彼は〝Es muss sein!〟(そうでなければならない)の重さから逃れようとする。

このように、トマーシュは絶えず軽さを求めるにもかかわらず、その先でまた彼を重たい決断が待っている。窓洗いとしての休息も、二年しか彼に安らぎを与えてくれなかった。追いかけてくる〝Es muss sein!〟。あらゆる重さから逃れたいトマーシュ。二人はプラハを出て田舎に引っ越す。その村には二人を知る者もいない。トマーシュはそこでトラックの運転手になる。
テレザは、トマーシュがこのようになってしまったのは自分のせいだと悔やむ。すべては彼が自分を追ってチューリヒを出たときから始まっていたと。そして、ここから先はもうどこへも行くことができない。それなのにトマーシュは、自分はここにいて幸せだという。自分も彼女も、何の使命も背負っていなくて幸せだと。だが、読者は雄弁な語り手から聞かされているのである。このあと二人を乗せたトラックが崖から転落することを。

トマーシュは本当に幸せだったのか。彼の決断は正しかったのか。作者は言う。一度限りの人生では、正しい決断というものは存在しない。いろいろな決断を比較するための、第二、第三の人生はないからである。
永劫回帰の世界では、一挙手一投足に耐えがたく重い責任が課せられる。しかし、そうではないわれわれの世界では、すべてが重さを失って空気のように軽くなり、無意味で現実感を欠いたものとなる。まさに、Einmal ist keinmal. (一回なんて、なかったのと同じ)なのである。

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2024年05月04日

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大大大好きな本。昔は恋愛とか自意識に責められ辛くて読めなかったが、やっと22歳になって読めるようになった。

地獄のような生活から出てくるこのタイトルがすごい。

結局この本は同じことをいろんな例えで言っているのだ。人生は一回きりでやり直しも繰り返しも起きない。もし何かが一回しか起きなかったのであらば、それは起きなかったことと同じ。こんなに耐え難く辛い人生も、実は1回しかないし、耐え切れないほどの軽さだったのだ。

この軽さは実は幸福なのである。


最後に好きな言葉。
⚪︎
地球が爆弾で震撼しようが、祖国が毎日新たに侵略され略奪されようが、すべての隣人が連行され処刑されようが、これらすべてのことは、たとえ認めることはできなくても耐えることはできる。しかし、たった一つの、愛する人の悲しみの原因になることは耐えることができなかった。
⚪︎

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2024年01月03日

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タイトルからかっこいい。
一回読んだら終わりという作品ではなく、生涯傍らに置いて節目に読み返せば、また違った印象をうけそう。哲学的で?な箇所も味わい深い名作。

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2023年09月18日

Posted by ブクログ

「人間というものは、ただ一度の人生を送るもので、それ以前のいくつもの人生と比べることもできなければ、それ以後の人生を訂正するわけにもいかないから、何を望んだらいいのかけっして知りえないのである」

ご冥福をお祈りします。

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2023年07月13日

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10年おきぐらいに気になって読み返し、そのたびに新たな発見がある。
哲学的ながらも文学として心地良いテクストで、気がつくと没入して読んでいる。
人生の最後にどういう心境で読むことができるか、自身の価値観が映し出される名作。

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2023年04月30日

Posted by ブクログ

存在の耐えられない軽さ

1.動機
読者レビュー「読んでみたら?の外国文学」にあったためです。
外国文学は、年に一冊読むか?読まないか?です。
結論、出会えてありがとうございます の書籍となりました。

2.舞台
ソ連に侵攻されたチェコが舞台です。
著者の故郷です。
チェコが開放されて、解禁となった著書であると後書きにありました。

3.主人公
外科医。応援でたまたまチェコへ。
外食先のレストランで1人のウェイトレスと出会います。
そのウェイトレスは、彼が読む書籍が、自身と馴染みのある同じ書であったため、彼に惹かれます。
そして、2人は、ソ連侵攻後に、夫婦となります。

4.書籍より
「人生のドラマは重さというメタファーで表現できる。その重さに耐えられるか?または下敷きになるか?勝つか?負けるか?」
「人間の真の善良さは、いかなる力も提出することのない人にのみ純粋にそして自由である。」

5.読みおえて
①国家と市民
②共産主義と民主主義
③母と娘
④男と女
⑤理性と欲望
⑥残された人と亡命した人
⑦人間と動物
⑧生存と死

読み返すことで、これらの構造があること、さらに複数のテーマが重曹的に展開されていることに気づきます。

チェコで侵攻を体験し迫害を受けた著者だからこそ描けた世界。
そして、この日本語訳が、解釈を読者に委ねてくれる幅を持たせてくれているのでは?と思えるほどの深い書でした。

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2023年03月19日

Posted by ブクログ

何度も読みたい作品

オススメされて読んだが、この小説をきっかけにミラン・クンデラにはまった。
数年経ってもう一度読んだとき、今と違う感想を抱くんだろうと思う。

是非手にとって読んで欲しい

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2023年01月31日

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難しいから、なかなか理解出来てないとは思うけど、読めてよかった。
愛ということについて普段深く考えることはないがトマーシュとテレザのやるせなさは感じられた。
共感するというよりはそんな考えもあるのね、と思った。
時間経ったら再読しようと思う。

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2025年07月31日

Posted by ブクログ

冒頭からニーチェの「永劫回帰」を持ってくるあたり、クンデラ氏の「自分の世界の様式」を表現し思索し実行している良作である。
永劫回帰から小説の主題である「存在の耐えられない軽さ」へ落とし込み、物語を通して深掘りしていく作品である。
人生も環境も自然も宇宙もあらゆる森羅万象が永遠に永遠に繰り返され、それらを乗り越える勇気(超人)へ至るとニーチェは言う。ニヒリズムではあるが、もう一度、同じ人生を歩みたいかと問う視点と、一度っきりの人生を全て奇跡的な偶然と捉え、その軽さの中で人生を歩みたいかと問う視点の両者の視点が読者をという「存在」という重さと軽さを同時に味わうことができ、深く思索することができるであろう。
私は思うのだ、重さも軽さもバランスだと。人によってその比率は異なるだろう。だが、変容し適応し、自分が生きるという人生で、どう生きたいのか問いを立て続けれ自分の人生という最後の刹那に結論が出るのであろう。良作である。

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2025年05月13日

Posted by ブクログ

哲学的で難解で、最初はおもしろくないなと読み始めたけど、中盤を越えたあたりから気付くとこの世界に入り込んでいた。存在の重さと軽さ、愛と性は別物であると複数の女性と浮気する外科医トマーシュ、やがて再婚する相手であるテレザと切れないサビナの人生もまた自分の存在について心を掻き乱す。テレザの愛犬カレーニンの最後の章は涙が出た。カレーニンだけがこの苦しさを癒してくれた唯一の存在だったから。

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2025年01月27日

Posted by ブクログ

愛とは何か。存在とは何か。
当時の歴史的背景を知らないので理解が及ばない箇所も多かったが、読むたびに味が出てきそうな作品。

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2025年01月15日

Posted by ブクログ

すごい時間かかってしまったので、覚えていたり、いなかったり。
最初からいきなり哲学っぽいのが来てびっくりしたけど、そこを乗り越えてからは面白かった。

架空の登場人物でありながら、本当にいそうな厄介さを持った人たちがこねこねと考えながら関係を続けていくのを読み進めていくのがおもしろい。
境遇も性格も似通うところはほとんどないのに、まず「わたし」がいて、わたしの支配の及ばぬところの、「あなた」がいる、そのままならなさについてあれこれと考える端々にたまにものすごく共感してしまう感じがあった。かも。

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2024年03月14日

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これは、恋愛小説なのか?哲学書なのか?
本書は今までに読んだことないジャンルの小説と感じた。
登場人物の心情を事細かに語る恋愛小説が展開されていくのですが、途中著者が主人公の心情がもう理解できないとのコメントを吐露するのです。
メタ恋愛小説的な構造が展開され、読者である私は虚をつかれるのです。
最初から哲学書として本書を読んでいたら、また違った心構えで読めたかもしれません。

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2023年10月25日

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ネタバレ

メタファーが出てくるとすぐに解説してくれて読みやすかった。
VI章前後で話の雰囲気がガラリと変わった感じがした

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2022年11月12日

Posted by ブクログ

男と女の物語は地球上どこにもあるけれど、文学上の創作上の高尚とも思える比喩が普遍になって、やっぱり卑近に戻ってきたという感想だ。

 「永劫回帰」などと、のっけから難しいと思わせるのが文学で、トマーシュがドンファンで、恋人となったテレザがかわいそう、と同情するのが普通でわかりやすいのか?

 このふたりのお国がチェコだから運命の歯車が狂ってきた?

 チェコ、遠い国の運命は北朝鮮の拉致事件が明るみに出てしまった今の日本でものすごくよくわかるということ。

 あれかこれか、あのときああすればこうならない。

 と、思っているひとが多いかもしれない。
 
 運命?

 なにがどうなって、こうなってくるのか。 

 あなたがわるい、いやわたしがわるい。

 でもだれにもとめられない。その時は選んでいるのだろうから。

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2025年09月11日

Posted by ブクログ

ページを開くと共産主義が垂れ込める東欧の暗さが流れ出てきた。予期していなかったから驚いた。

「存在の耐えられない軽さ」というこの言葉自体にめちゃくちゃ惹きつけられるのはどうして?

心理描写がとてもとても巧み。トマーシュ、テレザ、サビナの心の中、問題意識がどれも面白い。(トマーシュの浮気の理由はどんな欲求やねんって感じでウケつつ面食らった。サビナの一生の悲しさには鬱々としてくる。テレザの「裏切りに快感を覚える」のもなんじゃこりゃ!?というかんじ。)
でも私が今まで抱いたことのない感情がそこにはたくさんあった。そしてそれが手に取るように克明に分かった。

哲学的な恋愛小説だから、恋愛について考え込んでしまった時にもう一度読みたいな。


20221101 再読。ここまで理屈こねてる恋愛小説って他に見たことない。本当に面白い。カレーニンいとしい。

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2022年11月03日

Posted by ブクログ

かなり良い評判ばかりなので読んでみました。
小説というより哲学でした。
私にはまだ早かった、理解しようとできませんでした。ただし、登場人物がどんな人物で、何に苦悩し、何を訴えようとしているのかはわかりました。
哲学が好きな方はガチっとはまりそうな内容。

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2025年03月24日

Posted by ブクログ

冒頭からニーチェの永劫回帰が出てきて哲学的な内容。一度しかない人生の軽さ、選択の難しさ、人に対する愛と動物に対する愛の違いだったり考えさせられました。

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2025年02月23日

Posted by ブクログ

小説というより、一種の哲学書に近い感覚だった。結構な行数を不明瞭な視点(作者自身?)の思考に割かれているように思う。相当に人を選ぶが、ところどころに見過ごせない示唆がある。
ただ本当に人を選ぶ。心や時間の余裕がない時は余計に読めない。

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2024年07月20日

Posted by ブクログ

ミランクンデラ「存在の耐えられない軽さを読んだけど、色欲サイコパスの男とメンヘラガールの自己正当化話だなこれ、みたいな。
ただ、それぞれの奇行じみた行動の理由付けがキチキチなされてゆくので共感してしまうタイミングがあるし、終わり方ずるいよね。

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2024年02月26日

Posted by ブクログ

ネタバレ

「思想の氾濫」
面白い。難しい点もあった。ただ、この本に書かれている人物の人生を構築する価値観は、詳細的すぎてここに、まとめることはかなり難しい。
ただ、多角的に真実を突いている名著であることは間違いない。

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2023年12月22日

Posted by ブクログ

登場人物の心情描写を機械的に分析し、冷たさすら感じさせるほど淡々と綴る文体。基本的に彼ら彼女らの欠点ばかりが強調され、誰に対しても感情移入がしにくい。ジャンルとしては恋愛小説に分類されるらしいが、そのような描写を期待して読むことはおすすめしない。哲学的テーゼに触れるための媒体としても、哲学徒である私からすれば物足りず、終始どのように接すれば良いのか判断しかねる作品であった。
身も蓋もないことを言ってしまえば、作者はおそらく恋愛小説以外のもの(例えば論理的なミステリーなど)を書いてみればさらに良いものができるのではないかと、私などは思ってしまった。
評価の軸を変えれば、高い評価も可能ではありそうだ。

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2023年08月21日

Posted by ブクログ

感想
愛は誰のものでもない。だが私の人生には必要。愛がない人生をどうやって渡り歩けば良いのか。しかし与え続けなくてはいけない。

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2023年07月14日

Posted by ブクログ

:トピック
・存在の耐えられない軽さ
・キッチュ
・ニーチェの方へ

・存在の耐えられない軽さ
 「人生のドラマというものはいつも重さというメタファーで表現できる。われわれはある人間が重荷を負わされたという。その人間はその重荷に耐えられるか、それとも耐えられずにその下敷きになるか、それと争い、敗けるか勝つかする。しかしいったい何がサビナに起こったのであろうか?何も。一人の男と別れたかったから捨てた。それでつけまわされた?復讐された?いや。彼女のドラマは重さのドラマではなく、軽さのであった。サビナに落ちてきたのは重荷ではなく、存在の耐えられない軽さであった。」(p.156)
 「存在の耐えられない軽さ」という語句が登場するのはこの箇所だけだ。重さと軽さについての言及は作中の至る所に見られる。しかし重さや軽さよりも重要なのは「耐えられない」の方だろう。私の解釈では、存在の重さや軽さは生き方によって決まるが、それに「耐えられる=意味を見出せる」かどうかとは別問題である。
 引用した場面で、主人公格の一人であるサビナが人生の無意味さに直面し、そのことに絶望している。彼女は裏切りという存在の軽さに属する生き方をしていたが、それは他者の反応に意味を見出すものだ。つまりサビナは与えられる意味に依存して、自ら意味を見出す=自己に向き合うことをしなかった。だからサビナは、裏切った男の反応が得られかった時に存在の「耐えられない」軽さに陥ってしまったのだ。
 一方で、主人公であるトマーシュとテレザが存在の重さに到達していたことが、ラストシーンの「悲しみは形態であり、幸福は内容であった。」(p.395)という一文からわかる。悲しみは存在の重さに属するが、そこに積極的に意味を見出すことで、人生は耐えられないものではなくなる。悲喜交々の自己という存在に向き合う者に、幸福は満ちるからである。
 本書はニーチェ哲学を下敷きに東欧革命などの世界史的な事象を織り込んだ、比較的難易度の高い小説である。しかしそのタイトルである「存在の耐えられない軽さ」に着目すれば、【生きる意味は他者ではなく自分に見出せ】というシンプルなメッセージが読み取れるのではないかと思った。

・キッチュ
 「ヨーロッパのすべての信仰の背後には、宗教的であれ、政治的であれ、創世記の第一章があり、世界は正しく創造され、存在は善であり、従って増えるのは正しいという考えが出てくる。われわれはこの基本的な信仰を存在との絶対的同意と呼ぼう。[…]以上のことから、存在との絶対的同意の美的な理想は、糞が否定され、すべての人が糞など存在しないかのように振る舞っている世界ということになる。この美的な理想を俗悪なもの(Kitsch)という。」(pp.314-5)
 本書を読んで得た予想外の収穫が「キッチュ」という概念の理解だった。私がこの語を認識したのは現代美術について学んでいるときで、大きな子犬の彫像がキッチュであると言われてもいまいち理解できていなかった。しかし本書を読むと、確かにその子犬は糞などしないような見た目だったことが思い出される。つまり醜悪なものや嫌悪感を抱かせる事象から目を背け、きれいな表面だけを見せるのがキッチュさなのである。それはキリスト教道徳が存在を絶対善である神によって創造されたものであるとすることの必然的帰結なのだ。要するに神様は糞などしないし、神様に作られたきれいなものであるはずの存在も糞などしないのだ。
 さらに本書のタイトルである「存在の耐えられない軽さ」へつなげるならば、まさにこのキッチュという存在の全肯定が存在の軽さを生むのである。サビナの自己を全肯定し気に入らない他者を否定し裏切るという生き方は、キッチュそのものだったといえるだろう。なぜなら裏切りには、自分と他人のきれいな部分しか受け入れない側面があるからだ。そしてサビナはキッチュを嫌悪していたとも書かれており、同族嫌悪という著者クンデラの一流の皮肉に唸らされたものである。

・ニーチェの方へ
 「じゃれている雌牛ほど感動的なものはない。テレザはそれを同情をもって眺めて、人間というものは、サナダムシが人に寄生するように、牛に寄生して、ヒルのようにその乳房に吸いつくのだと独りごとをいう。[...]人間は牛の寄生虫であると、人間の動物誌の中で非人間はそう定義するであろう。」(p.360)
 ここが本書の中で最も衝撃的だった箇所である。家畜と人間の関係性への視点を真反対にひっくり返されたように感じた。人間が動物を支配しているという当たり前の関係が逆転しているような描写は、著者クンデラのニーチェ解釈が現れている部分である。ニーチェが晩年発狂し鞭打たれる馬に泣きついたというのは有名な話だが、クンデラはそれをデカルトを許してもらうため、つまり動物を機械と見做して人間を支配者だとする考えから立ち去るためだったのではないかと述べる(p.363)。この解釈に従えば、確かに人間は牛を飼っているのではなく牛に飼われているようなものだろう。そしてこのような考えはかつて異端だったかもしれないが、近年では菜食主義やヴィーガニズムなどの潮流も生まれており、肉食をする者たちの方が非人間であるとされそうな予感もする。こういった価値転覆は歴史の常であり、例えばフランス革命では絶対王政という当たり前が崩壊し民主主義が到来した。ニーチェはキッチュの時代に発狂してしまったが、ニーチェの方へと向かっている現代に生きていたならば、あるいは発狂することはなかったのかもしれない。人間ではなく動物たちのためのキリストとしてニーチェは罪を贖い、そして復活しようとしているのではないかと、つい妄想してしまう。

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2022年11月07日

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