安藤礼二のレビュー一覧
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南伝とも北伝とさえも一線を画す、中国および日本の仏教。そこで展開される「空」「無」「道」「仏性」「不二」等々の概念と、キリスト教やイスラム教の神秘主義思想との異同や、それらが東西の哲学者・宗教者の中で響き合う様を、鈴木大拙の評伝を軸として描いていく。西田幾多郎やスウェデンボルク、あるいはスピノザやライプニッツの思想との関わりなども朗々と語られている。ただ、「一即多、多即一」の世界観が様々に形を変えて、巻頭から巻末まで繰り返し語られるのだが、そうしたあり方を「経験」したことのない者としては、どうしても言葉遊びのように聞こえてしまう。そしてそれは第5章「戦争と霊性」において、上のような議論が結局はただの現状肯定に陥りかねないものとして描かれることによって、よりその印象を強くさせられる。それはともかく、本書は様々な事柄を簡潔に整理していてくれて勉強になることが多かった。(例えば、第7章「禅」において、デカルト・スピノザ・ライプニッツの世界観(214頁ー)、ガウタマ=シッダールタに始まる仏教思想の変遷(262頁)、「仏性」についての諸議論(270頁ー、282頁ー)、等についての簡潔な整理)
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94 おそらく誤字 吉本が「古本」になっている
26 言語の2面性
指示表出=言語は、音や時空間、社会的習慣の影響を受けて、媒介的に成立する。
☆自己表出=すべての間接的・習慣的なものから脱して、言語それ自身自律的で、自らを動かすような「表現」。
82 そこでは言葉同士の微細な変化や、韻律の響き合い、さらにはそこに表現されたイメージの分裂と融合だけで、詩の新たな次元を拓こうとする。
50 共同幻想論→上部構造の自律性を主張
人間関係の三つの位相
・共同幻想=上部構造
・自己幻想
・対幻想=他者との一対一の関係、異性との関係(肉体関係の有無は問わない)、家族的概念
119 エルンスト・ヘッケルのテーゼ
胚胎が成長する過程は、それまで生物が進化してきたあらゆる段階と類比的関係にある。
122
アジア的段階=部族国家、弥生時代
アフリカ的段階=縄文時代
123 段階とは、空間と時間を繋げ、共に考えることができる歴史哲学的な指針である。 -
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昔の学者の人の言うことや書くことって、喩えると、視力のとてもいい人が、自分の見ているものを細かく伝えてくれるというのに近いような印象があります。同じように地面を見ていても、現代人よりも細かいところまで見えているし、気にも留めないようなところにも注意を払っている、というように。
たとえば一般化している「お祭(祭礼)」は神道の行事。でも日本人はあまりそれを宗教として感じていません。キリスト教やイスラム教、仏教には教義があるけれども、日本の神様に対しての教義を学ぶ一般人はいない。日本人の風俗をみれば日本人は無宗教ではないのだけれど、教義というものがないのだから日本人の意識上無宗教になっているのでしょう。そういった内容を、端的に指摘するところから話は始まっていきます。
本書は東京大学での昭和16年の講義録です。その当時、科学の発展が目覚ましいものと人々の意識に映り、そういったものこそがえらいものだ、とするようになっていた影響で、そんな社会の意識から薄れていき失われそうになっていた民俗的なものの連続性を土壇場でつないだ感がある著者です。その、土壇場で何をつないだのかを、本書の読解をもとにもうちょっと解説してみましょう。
近代化した日本では子どもたちは学校に通うことになります。学問などのために20代前半までその仕組みの内側で人生を送る者も多いことはみなさんおわかりだと思います。古来からの日本の村落で伝えられてきた習俗というものは、今で言えば前述のような、学校に通う期間に学校に通わずに身に染み込ませたものでした。なので現代人は、古来からの物心両面の生活様式を受け継ぎ覚え込む機会を失うことになりました。柳田国男は、そういった古来からの習俗を、近代化・西洋化・産業化の波によって闇に帰してしまうのに抗い、そこで踏みとどまり、後世に残す努力を果たした。それが、民俗学であり、柳田国男が興した学問ということなのでした。
では、どんなことが書かれているかを、ふたつではありますが、短く紹介していきます。
まず、「物忌み(精進)」。今でも、神社では水で口を漱いだり手を洗ったりして身を浄めますが、祭りに際しての浄め方はもっと念が入っています。各地方によって差はあるのですが、たとえば家は戸締りをきちんとし、誰も外に出ず、誰も中に入れず、物音を立てずに過ごす。死の穢れを遠ざけ、夫婦の交わりも禁じられる。針仕事を止められたり、農業などで水が近辺にある地域だときゅうりを警戒したり(河童につながる話です)、いろいろと拘束があります。こういった習俗が、全国各地にあったわけです。それぞれに違いはあれど、共通する何かがそれらの行いには内在していて、つまりは根っこはかつて一つだったことを意味するのでした。中国などからの外来の文化や言葉が入ってくる以前から、日本には日本の神様があったというわけです。
次に氏神への祈願。氏神っていうのは本来、群れすなわちその土地の人間全体からの祈願を全体のために叶えるという性格のものだったのが、いつしか個人の祈願を受け付けるようになっていったのだ、とあります。個人の祈願はいわゆる抜け駆けなのでした。それが認められるようになったのは、個人の信心の深浅が目に付くようになったからだと柳田国男は自説を論じる。氏神を大切にする者と形式的に扱う者とが同じ恩恵を得ることに疑問が浮かんだのが、個人の祈願が受け付けられるようになった端緒ではないかと。そういうようなことが彼らしく解説されています。
というような解像度で「祭」を見ていく本です。最近では、祭りといえば観光化していて、見物人中心のものになりましたが、従来はその土地の氏神などとの交流が重要な点だったといわれます。神楽、舞、音楽。そういったものは神に対してのものであったのが、いつしか見物人を集めるものになった。儀式の意味が変わっていき、形骸化もしてきたのでした。この先、祭りは単なるイベントとしての性格を強めていくのでしょうけれども、古来の祭は意味が深くて様々で、人々の精神性と密着していたものだったことを、本書を皮切りとした学問から知ることができます。
風俗を風化させず残した柳田国男の仕事はとてもすごいものだと頭が下がります。この仕事の意味を、たとえば臨床心理学的な考え方から見てみると次のようになります。まず、人は自らの過去と真正面から対峙し、見つめ直したり受け入れたりすることが大切な場面はあると言われます。そこで、良いか悪いかはちょっとわからないのですが、そこから類推して考えてみれば、日本人であることのアイデンティティーだとか、実存性だとか、血の連続性だとかを自分自身で振り返ってみたい、知りたい、と思ったときの足がかりとなるのが、この民俗学ではないでしょうか。
教義のない宗教である神道が日本には空気として存在していて、その意味がまるで分からずにいてもまあ困らないことは困りません。ですが、ふと立ち止まって考えたい人っていうのは必ずいるわけです。そういった人は足場をしっかり固めたかったりするんですよ、しっかり踏ん張りたいがために。そして、そのような種類の人たちが、日本人総体としての舵取りをとったりもするんです。そっちにいっては危ないよ! と危険をかぎとって言ってくれる。そういう意味でも、知的空間の広さって大切で、知的空間を押し広げてくれるのが、「学問」であり、知ろうとしたときにそこに足掛かりや手掛かりがあると助かるものです。とくにこういった日常生活の謎についての学問であるような民俗学って、「知」と「生活」の溝を埋めるもののような気がします。亀裂や断絶を埋めたり、谷間に橋を架けたり、そういうふうな意味合いがあるのではないでしょうか。
なんだかだらだらと喋ってしまいました。それだけ伝えたい隙間のある本でもあるのです。喋るなら、同じ分量になったとしてももうちょっと端正にやればいいのに、難しいものです。そんなところで、終わっておきます。 -
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少し前の新聞に中村文則の「掏摸」が紹介されていた。中村さんは今や海外でも名を知られた作家だが、そのきっかけになったのが大江健三郎賞を受賞した本作が、賞の特典として翻訳されたからだ、という内容だった。
大江健三郎賞は聞いたことがあったが、選考委員は大江健三郎さんひとりで、賞金の代わりに海外に翻訳されて紹介される、賞は八年続いて既に終了しているということも知らなかった。
で、その賞の始めから終わりまでの受賞作の紹介とそれぞれの著者との対談を収録されているのが本作。
なかなか手ごわい本だったがおもしろかった。
受賞作のどれも読んだことが無いが、長島有の本は読んでみたいと思った。対談も一番楽しかった。
大江さんも最後の方で言及されている。
大江健三郎もよく知らなかったが、ご自身のことに触れられている部分も多く、知ることができた。
大江さんの文学に対する誠実さで成り立っていた賞だった。それを支えていた優秀な編集者も。 -
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柳田『日本の祭』は実は既に持っている本に入っていたので、改めて買う必要はなく、単に間違ったのである。しかし、ほとんど覚えていないこれをこうして読み返してみた体験は得難いものだった。
たぶんこの書は柳田国男の代表作の一つと言ってよいだろう。比較的体系的に、日本の民俗的な祭について書かれており、いつもより散漫さが少ないし、読みやすく、民俗学入門書としてもわりといいのではないだろうか。
一カ所印象的だったのは、近頃の日本人は正月の意味もわからずに「おめでとう」とばかり言っている、と柳田がぼやいているくだり。そういえば正月もまた神事であったかもしれない。しかし世は移ろうものであり、民俗的事象も、日本が西洋文化を浴びるように受け入れ、めざましく「発展」を遂げた現在から言うと、「神事」が完全に忘却されてしまっているとしても、それをただ受け入れるしかないのではないかと思う。
ぜんたいに柳田国男には啓蒙的スタンスがいつもあって、日本の伝統的「民俗」の痕跡について、もっと日本人はみんな学ばなければならない、としつこく言っている。ほとんど一人で「日本民俗学」を創始したような人だから、そういう感情を持っていても仕方がないというか、共感的に理解することもできるのだが、さすがに21世紀の現在の時点からは冷めた目で見つめざるを得ない。
それはそれとして、やはり日本の民俗事象の「起源」をさぐってみるのは知的冒険として、実に楽しいことは確かなのだが。 -
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特に最初の出だしが難しいが20P超えたあたりからだいぶ読みやすくなる、途中哲学がやたら出てくるところも難しい。自分の理解した内容を記述。
ホカヒビト=乞食者。台湾蕃族慣習調査報告書、沖縄での体験から。蕃族においては結婚、戦争、狩猟はみな同じ霊的コミュニケーション。古代日本と台湾蕃族、沖縄。南の方からきた海の遊牧民であり他界への信仰を布教する伝道者でもある海部。組織的にわたってきた集団が天孫族。
ミコトモチ。言霊=霊的力を持った言葉。流動言語、喩。語根、言葉の意味の根源的なもの。
象徴言語:包括的→仮絶対→曖昧→無意義→暗示的→象徴的
エルンスト・マッハの感覚一元論、折口と親密な関係だった藤無染から教わったぽい。大学時代、同性愛。
フッサールの現象学、折口の言語情調論。斜聴、完全な断絶はない、過去と未来につながる。
言語を生成させる神と霊魂を生成させる神を結びつける、産霊。呪言の神。興台産霊神(コトドムスビノカミ)、中臣氏の祖先の天児屋根命はこの神の子。
思兼神、たくさんの心を兼ねて思う心を完全に表現する祝詞を案出する神。
ミコトモチ、神の言葉を預かる者。最高位のミコトモチが天皇。
大東亜共栄圏におけるイスラーム型天皇制。
超国家主義、日本型ファシズム。
北一輝は天皇と労働者が直結する社会主義的な戦闘国家を目指す。
大川周明は回教諸国連盟を中心とするもの。
石原莞爾は満州中心の東亜聯盟を昭和維新の核とする、天皇は盟主だが日本国は盟主ではない。
折口の天皇論、神道の宗教化、天皇制の一神教化。ミコトを預かるミコトモチ。
「国文学の発生」ミコトモチの初出、ホカヒビト論の完成。言霊と産霊概念の提示。
「ほうとする話」ミコトモチと「まつり」(祭=政)の本義論。
「神道に現れた民族論理」最もまとまったミコトモチ論、言霊と産霊概念の結合。
「大嘗祭の本義」霊魂論としての天皇論の完成、威霊としての天皇霊。
「古代人の思想の基礎」ミコトモチによる政治と宗教の統一、産霊概念の完成。
一神教的な神道の構築、平田篤胤への共感。