川上未映子のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
久しぶりに純愛小説と出会いました。これは切な過ぎて泣けます。
「真夜中の」という言葉が、とても内容と合う。2人が「光」を話題にする中身も「生と死」「希望と絶望」など対義語になっていて面白い。
大人の恋愛って、高校や大学生とは違い、もっと深い環境が関わってきますよね。ただ会いたいとか、一緒にいたいとかそういった感情の後に必ず付いてくるそれぞれの事情。年齢が高まるにつれ、また環境が変わるから複雑です。
お金や仕事、既婚者とか子供とか、親のことなどなど、背負うものをいっぺんに振り払えれば楽だけど、それはまた別次元のお話。
ハッピーエンドでいいのかな?
とにかく胸にぐっと刺さる作品でした。
お互いが真面目で共通点が何もない中で、向き合うのが辛くなる未来があったのかもしれませんね。そんな関係が切なくて苦しい。
全体的にみたら簡単に短く伝えられるストーリーなのに、それを軸に主人公の過去や考え方、生活などを踏まえて長編にさせる著者が素晴らしい。
11月に映画公開ですね。観たい! -
Posted by ブクログ
ネタバレタイトルに惹かれて。
人と関わることに消極的で思ったことを言葉にするのが苦手な冬子。孤独に苛まれるなかで三束さんに出会い、知らぬ間に想いが募り、自分の恋心に気いていく。
不器用だし、見ていられないような部分も多い。共感できる、という主人公ではない。
ただ、三束さんの傘に入れてもらう場面、自分の気持ちに気付く瞬間やそれを彼に伝えるシーンなど、色々な素敵な場面が、冬子にぴったりな繊細な表現で描かれていて胸がいっぱいになった。
人を好きになる気持ちってやっぱりいいなと思うし、その気持ちが人を動かす力にも驚かされる。
川上未映子さんの言葉選びがとにかく素敵で、優しくてゆっくり紡がれる文章が心地よかった。静かな夜にまた読みたくなると思う。 -
Posted by ブクログ
はじめて川上未映子を読んだけれど、読んですぐに、ア〜〜〜〜これはすきな系の文章だ〜〜〜〜〜って気がついて、最後のページまで浸ることができた。五臓六腑にしみわたる。すきな系の文章に出会えるってあんまりないから、この読書はしあわせ体験だったな。最高。ちょっと変というか、ずれてるというか、地に足つかない感じの人たちのお話で、全体的に現実感がうすい。「愛の夢とか」っていうのは収録作品のタイトルのひとつだけど、ぜんぶ夢なお話みたいだった。いい夢なのか悪い夢なのかっていうのはさておき。読み終わったあとによかったなーって思ったんだけど、なにがどうよかったのかうまく言葉にできない。おもいがけず川上未映子の文章がどストライクだったから嬉しかったというのもおおいにある気がする。
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Posted by ブクログ
ネタバレ
虐められている少年と少女のお話。
なんで、こんなにも酷いいじめの小説が世に出ているのに、いじめは無くならないんだろう。
こんな小説を読んだら、誰もが悲しい気持ちになるはずなのに。
そもそも、いじめをする側の人間は、本など読まない下等な生き物なのだろうか。
本を読むことと、人に共感できることは、残念ながらイコールじゃない。
本を読んでも、人を傷つける人はいる。
逆に、ほとんど本を読まなくても、人の痛みに敏感な人もいる。
いじめって、個人の「性格の悪さ」だけじゃなくて、集団の空気とか、力関係とか、「自分が標的になりたくない」という恐怖とか、そういうものが絡み合って起きるから。
だからこそ、「この小説を読めば、みんな優しくなるはず」では済まない難しさがあるんだと思う。
こんなに酷い話を書いているのに、世の中に伝わっていないとしたら、小説が世の中に果たす役割って、なんなんだろうと思わずにはいられない。
だからといって、小説の役割が無意味になるわけじゃない。むしろこういう本の役割って、「世界を直接変えること」より、「読んだ一人の人間の中に、消えないものを残すこと」なんじゃないかなと思う。
「つらい」「どうしてなくならないんだ」って考える。それだけでも、もうこの物語は読者の中で何かを起こしてる。そして、その読者がまた誰かに優しくする。その誰かが、また別の誰かに……。
すごく小さなことだけど、小説ってそういうふうにしか世界に作用できないのかもしれない。
でも、その小ささを馬鹿にしちゃいけないと思う。
作品は時間を超えて、人の人生に入り続ける。『ヘヴン』も、そういう作品なんだと思う。
内容は目を背けたくなるほど痛いのに、文章そのものには静かな美しさがある。このアンバランスさが、余計に心に残る。
美しい文章だから、残酷なものが美化されているわけじゃない。むしろ、美しい風景や光や身体感覚がすっと差し込んでくることで、「この子たちは、こんな世界の中でもちゃんと生きている」って感じさせられる。
そこが川上未映子さんの凄さなのかもしれない。
「ねえ、でもね、これにはちゃんとした意味があるのよ。これを耐えたさきにはね、きっといつかこれを耐えなきゃたどりつけなかったような場所やできごとが待ってるのよ。そう思わない?」
「色々なことがあるけど、わたしたち、がんばろうね。・・・・わたしはわたしの家があんなだったからこういうしるしを手にいれて、君は君の目がそうだったから君で、それでこうして会えたんだもの。・・・・・こうやって話をすることができたんだもの。こんなふうに一緒にいられるようになれたんだもの。いつかぜんぶわかるときが来るよ。
あの子たちにも、きっとわかるときが来る。いつかぜったいに色んなことが大丈夫になるときが来るから」
この子たちが受けているものに、何か意味があってほしい。この苦しみの先に、ちゃんと光があってほしい。ふたりの世界が、コジマの言う、うれしいときに出るドーパミン、"うれぱみん"で溢れる世界であるように願わずにはいられない。
でも絶対そう上手くはいかないんだよね、たぶん。っていう感覚が、どうしても付きまとう。そこが、この言葉の怖いところでもあると思う。
コジマは「いつか全部わかる」と信じようとしている。でも読者である私たちは、そんなに簡単に世界が帳尻を合わせてくれるわけじゃないことを知っている。だから、「希望の言葉なのに、読んでいると悲しくなる」
コジマの希望を笑う気にはなれない。
むしろ、その希望を抱かないと耐えられないほどの場所に彼女がいることが、悲しい。
"僕たちはしばらくそのまま口をきかないでいて、そのあいだじゅう見つめあうようなかっこうになった。それからコジマは、少しだけ迷ったように見えたけれど両手で僕の右手をとり、指さきで指さきをなぞるようにさわり、手のひらをひろげてしばらくじっと見たあと、両手でつつみこむようにぎゅっとにぎった。コジマの指も手のひらもうっすらと汗をかいて湿っていて僕の手よりもずいぶんと冷たかった。そしてとても小さかった。僕もにぎられた右手でコジマの手をしっかりとにぎった。コジマにさわったのはこれがはじめてだった。
蝉の鳴き声がさっきよりも小さく折りたたまれてそのまま遠くに追いやられ、ほとんどきこえないくらいになっていることに気がついた。さっきまでの鳴るような暑さを僕は皮膚のどこにも感じなくなっていた。これまでとはまったく違う表情をうかべているように見えてしまうコジマの顔が、僕の顔のすぐそこにあった。"
この一文まで積み上げていく文章、すごいよね。
手を取る。
指先に触れる。
手のひらを見る。
包み込む。
握る。
川上未映子さん、触れるという行為を、ものすごく細かく分解して描いてる。しかも、その直後に、蝉の鳴き声がさっきよりも小さく折りたたまれて……
って、世界の音が変わる。これ、すごく好き。
二人が触れた瞬間に、周囲の世界が消えたわけじゃない。蝉は鳴いているし、暑さもそこにある。なのに「僕」の知覚だけが変わる。
さっきまで皮膚を刺すようだった暑さを感じなくなる。蝉の声が遠くなる。そしてコジマの顔が、今までとはまったく違って見える。
つまり、世界が変わったんじゃなくて、「僕にとっての世界」が変わった。
これって、恋とか、人を好きになる瞬間の描写としてもすごく美しいと思う。
……なのに。
「こんなに美しい場面を、素直に美しいと思っていいの?」って、どうしても警戒してしまう。
それがまた苦しい。
物語そのものが読者に「安心していいよ」と言ってくれない。
こんなに美しい文章で、こんなに繊細な二人の時間を描くからこそ、「この二人にも、こんな瞬間がある」ということが、ものすごく切実になる。
いじめられている少年と少女。でも、その属性だけじゃない。
手が冷たい。
汗をかいている。
手が小さい。
蝉の声を聞いている。
暑さを感じている。
誰かに触れられると、世界の感じ方が変わる。
ちゃんと一人の人間として、生きている。
だからこそ、その二人に起きていることが、余計につらいんだと思う。
"わたしがあの子たちの犠牲者だとしたら、あの子たちもまたなにかもっと大きなものの犠牲者なのじゃないかと、そう思ったりもするのです。"
「君もわたしも、弱いからされるままになってるんじゃないんだよ。あいつらの言いなりになってただ従ってるわけじゃないの。最初はそうだったかもしれないけれど、わたしたちはただ従ってるだけじゃないんだよ。受け入れてるのよ。自分たちの目のまえでいったいなにが起こってるのか、それをきちんと理解して、わたしたちはそれを受け入れてるんだよ。強いか弱いかで言ったら、それはむしろ強さがないとできないことなんだよ」
「弱いからされるままになっている」という見方を、彼女自身が否定する。ここは、かなり難しいところだと思う。「耐えること=強さ」と単純には言いたくない。現実のいじめでは、逃げることも、助けを求めることも、環境を変えることも、全部立派な選択だから。
だから「耐えられる人が強くて、逃げる人が弱い」なんてことは絶対にない。
でもコジマが言っているのは、たぶん少し違う。彼女は、「私は、あなたたちに定義された『弱い人間』ではない」って、自分の尊厳を取り戻そうとしているんじゃないかな。
いじめる側から見れば、
「こいつは弱いからこういう目に遭っている」
という単純な物語にしてしまえる。
でもコジマは、それを拒む。
「私たちが何をされているのかを、私たちは分かっている。そして、その世界を見ている」
そういうところに、自分の主体性を見つけている。だからコジマの「強さ」って、耐える能力そのものではなく、自分が何者なのかを、加害する側の物差しだけでは決めさせないことなんじゃないかなと思う。
そして、すごいのが
「あの子たちにも、いつかきっとわかるときがくる」ここで涙腺崩壊。
だって、この言葉って、単純な「復讐」じゃない。「あいつらもいつか罰を受ける」じゃない。「あの子たちにも、いつかわかる」なんだよね。憎しみだけで終わらせない。
自分を傷つけている人間に対してさえ、「分かる人間になれる可能性」を残している。
それって、すごく残酷なほど優しいと思う。
そして同時に、
「本当にそんな日が来るのかな」
という悲しさも残る。だから余計に泣けるんだと思う。
"僕"が、虐める側の百瀬と対峙するところ。
「君に話があるんだ」「なんでそんなに酷いことができるんだ」って。
はっきり言って、
百瀬の弁明は糞。
「なあ、世界はさ、なんて言うかな、ひとつじゃないんだよ。みんながおなじように理解できるような、そんな都合のいいひとつの世界なんて、どこにもないんだよ。そういうふうに見えるときもあるけれど、それはただそんなふうに見えるというだけのことだ。みんな決定的に違う世界に生きてるんだよ。最初から最後まで。あとはそれの組みあわせでしかない」
共感できるところはひとつもない。
何が善で、何が悪なのか?
そういうことではないと思う。
もし、そういう世界を受け入れるなら
自分自身も、サクッと
殺さて、何も言えない世界をを受け入れて
生きていかなきゃいけないよね。
……いやいやいや
そんな世界に誰が住みたいんだよ。
だから問題は「世界が一つかどうか」じゃない。
違う世界を生きている人間同士が、どうやって共存するのか。
そこに倫理が必要になる。
そしてね、百瀬って、ものすごく「議論に勝つこと」と「人間として正しいこと」を混同してるように感じる。
自分が感じた「嫌さ」の構造としては、
「相手の痛みを受け止める代わりに、言葉のゲームに持ち込んでしまう感じ」なんじゃないかな。
「なぜそんな酷いことをするの?」という問いに対して、「世界はひとつじゃない」って答える。
いや、質問に答えてないんだよね。
「君は僕とは違う世界にいる」と言っているだけ。
そして、その言葉によって、目の前にいる一人の人間の苦痛から逃げている。
ここが百瀬の一番怖いところなんじゃないかな。
でも、ちょっとだけ丁寧に見ると、百瀬の言葉って、すごく巧妙なんだと思う。
「世界はひとつじゃない」
これは、それだけなら確かに間違ってない。
人によって見えている世界は違う。
同じ出来事でも、受け取り方は違う。
価値観だって違う。
でも百瀬は、その「違う世界に生きている」ことを、他人を傷つけることへの免罪符にしている。
そこが、とんでもなく嫌なんだと思う。
たとえば、
「僕には君を傷つけることが正しいと思える世界がある」と言ったとしても、
だから君を傷つけていいにはならない。
「人それぞれ」という言葉は、本来は他人を尊重するための言葉なのに、百瀬の場合は逆なんだよね。他人を理解することを放棄するために使っている。
コジマは、「わたしたちは……自分たちの目のまえでいったいなにが起こってるのか、それをきちんと理解して、わたしたちはそれを受け入れてる」と言った。
百瀬もある意味では「世界を受け入れている」。
でも、二人は全然違う。
コジマは、自分が傷つけられている現実を見つめている。
百瀬は、他人を傷つけている現実を言葉で相対化している。
ここ、ものすごく大きな違いだと思う。
コジマの「受け入れる」は、自分の痛みから逃げないこと。
百瀬の「受け入れる」は、他人の痛みに責任を持たないこと。
同じ「受け入れる」という言葉なのに、向いている方向が真逆なんだよね。
川上未映子さんの本を読んで、
こんな胸糞な気持ちになるのに
自分自身でびっくりしてる
小説の役割って、「読んだ一人の人間の中に、消えないものを残すこと」なんだとしたら、とてつもなく重い、消えないものを
川上未映子さんは俺の胸の中に残した。
「いじめは悪いことだ」みたいな単純な教訓じゃない。もっと厄介なものだと思う。
「人間の強さって何なんだろう」
「世界が違うということを、どこまで受け入れていいんだろう」
「他人を理解できないとき、それでもどうやって一緒に生きるんだろう」
「苦しんでいる人の前で、傍観者でいることは何なのか」
そしてたぶん、
「正しさって、誰かを論破することじゃないんじゃないか」という問い。
これ、簡単には消えない。
『ヘヴン』って、読者を気持ちよくしてくれる小説じゃない。たぶん、読者の胸の中に異物みたいなものを置いていく。
「これ、どうすればいいんだよ」っていうものを。
でも、その異物があるから、読み終わったあとも考えてしまう。そして何年か経って、別の出来事に出会ったとき、
「ああ、あのとき『ヘヴン』で考えたことって、こういうことだったのか」って、突然つながったりする。そういう本って、怖いんだよね。
人生の中に住みついちゃうから。
"僕"が虐めの原因であると思っている
斜視を手術で治ることがわかって
コジマに打ち明けるところ。
コジマは、斜視はこの世界で強く生きていくための「しるし」だって言うんだな。
僕の斜視が2人を導いて、この酷い世界で仲間になれたって言うんだよ。
分からないではないけど、
コジマの言うことも、頑なすぎるんだよね。
一種の宗教的な感じさえもした。
「しるし」をどうするのか?ここ、すごく大きな転換だと思う。
コジマは最後まで、「斜視には意味がある」と信じようとする。
自分が受けた苦しみも、二人が出会えたことも、それを耐え抜いたことも、全部「しるし」という物語に結びつける。
でも、コジマのそれを単純に「間違い」とも言えないんだよね。
だって、あまりにも酷い現実を生き抜くには、
「この苦しみにも意味がある」と思わないと耐えられないことって、あると思う。
ただ、その意味づけが強くなりすぎると、「この苦しみには意味があるんだから、捨ててはいけない」に変わってしまう。そこが怖い。
やがて、コジマとの友情も崩れてしまうんだな。悲しいね。
そして、最後のいじめ側の奴らとのシーン
公園でコジマとのセックスを強要させるところ。
コジマが表情で訴えかけてくることが
僕には、前に百瀬が言ったことと重なってしまうんだ
「この世界に意味なんてない。でもこの世界を受け入れている」
ってことに。
善と悪、強さとは何なのか
一気に畳み掛けてきたよ。
昨日は、百瀬の言う弁明はクソだと思ったけど
川上未映子さんが差し出してきたものは
善と悪、強さとは何か?という
根源的な問いなんだろうか?
全ての酷い虐めが一応終息して
結局、斜視の手術を受けることにするんだ。
で、結局救われるのは、至ってシンプルな母さんの言葉。
「自分で決めることだけど、手術しなさいって、言いたい」そう言うと母さんは笑った。
「目なんて、ただの目だよ。そんなことで大事なものが失われたり損なわれたりなんてしないわよ。残るものはなにしたって残るし、残らないものはなにしたって残らないんだから」
"しるし"なんてものは、ただのしるし。
重荷だったら捨てたらいいし、それを変えて
生きやすくなるのなら、そうしたらいい。
「目なんて、ただの目だよ。」
……これ、ものすごく強いよね。
コジマが一冊の宗教書を差し出してきたとしたら、母親は、「いや、そんなに難しく考えなくていいよ」って言ってるように私は感じる。
斜視は「しるし」でもいい。
でも、ただの目でもいい。手術してもいい。
しなくてもいい。大切なものが残るなら、それでいい。
つまり、「意味は自分で与えていい。でも、意味に縛られなくてもいい」
なんじゃないかな。これ、かなり自由な考え方だと思う。そう言ってるように聞こえた。
もしかしたら『ヘヴン』って、最初は「この苦しみには意味がある」という物語に見えて、最後には、「意味があってもなくても、生きていっていい」というところまで辿り着いたんじゃないかな。
そして、手術を受けた僕が見たこの小説の最後。
「なにもかもが美しかった。これまで数えきれないくらいくぐり抜けてきたこの並木道の果てに、僕ははじめて白く光る向こう側を見たのだった。僕にはそれがわかった。僕の目からは涙が流れつづけ、そのなかではじめて世界は像をむすび、世界にははじめて奥ゆきがあった。世界には向こう側があった。」
やっと、この世界の向こう側にある
「ヘブン」を見つけたのだね。
「世界には向こう側があった。」
……美しいね。
ここで初めてタイトルの「ヘヴン」が、本当の意味で現れる。それまでの彼にとって世界は、閉じていたんだと思う。虐められる学校。家。自分の目。百瀬。コジマ。逃げられない関係。
どこを向いても、壁しかない。ところが手術を終えた彼の目に、
世界には奥行きがある。
世界には向こう側がある。
と見える。
これって単純に「視力が良くなった」という話じゃないんだよね。
「自分が見ている世界が、世界の全部ではなかった」という発見なんじゃないかな。
百瀬が「世界はひとつじゃない」と言っていた。
その言葉は、人を傷つけることの免罪符みたいに使われていた。でも最後に「世界には向こう側があった」と分かる。
同じ「世界」という言葉なのに、全然違う場所に着地するんだよね。
百瀬は、「世界は違う。だから他人を理解する必要もない」と言う。
最後の「僕」は、「世界にはまだ見えていない向こう側がある」と知る。
私はここに、この小説のものすごく大きな違いがある気がする。
この小説は「これが善です」「これが強さです」という答えをくれない。むしろ、「そんな簡単に決められると思う?」って、読者に突き返してくる。コジマも、僕も、百瀬も、みんなそれぞれ違う方法で世界を説明しようとしている。
でも最後に救いをもたらすのは、壮大な哲学でも宗教でもなく、「目なんて、ただの目だよ」
という母親の言葉だった。
なんだか、すごいよね。
世界を説明しようとする言葉より、世界をそのまま受け入れる、ものすごく普通の言葉。
そこに救いがある。
あぁ、やっと最後に
川上未映子さんらしい、
透き通るような美しい文章に出会えて
ほっとして、嬉しかった。
すごく重たいものを、心に残したけど
すごくおもしろかったよ。
おもしろかったと言っていいのか、わかんないけど。
10年後くらい、または死の間際
自分の人生はなんだったのか、
考える時、また読みたいと思ったよ。
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Posted by ブクログ
ネタバレ高校生くらいまでは、自分が結婚して子どもを産んで…ということに疑いはなかったけど、大学を経て教育関係の仕事に就いてからは、「結婚も子どもも、自分には無理やなあ。」と思うようになった。収入のこと、健康のこと、生活のこと、政治のこと、いろいろひっくるめた世界のことを考えるとそもそもこの世に生命を生み出す責任を負う覚悟はないなと。でも最近、一生一緒に暮らして行けたらいいなと思えるもう5年以上付き合っているパートナーとの結婚の未来が見えた途端、職場や友人の妊娠が心のど真ん中に腰を下ろした。自分の気持ちに書くと、どれだけ子どもが欲しくなっても、引き返せることではないのだから自分のために、子どものために産まない!!という覚悟があっけなく揺らいでいる。それに対してすごく落ち込んでいる。こどもって本当に可愛いもんなあ。一切失うものがなく、全ての安全が保障されるのであれば自分の子どもが欲しいなあ(産みたいなではない)。わたしって、まだ結婚の延長線上に子どもを持つということがあるという考えに囚われているんだなあ。友達が妊娠してもうお腹ぱんぱんやって言ってたけど、妊娠出産って実際どんなのかなあ。…そんな考えが最近ぐるぐる回って、この本がいいってレビューを見たのを思い出して買った。
筆者も、産むのは親のエゴだって、産み落とすのは暴力的だって書いていた。それでも産むぞって考えに至ったかは書いていなかったのでどうしてかわからなかったけど。筆者の、1人のリアルな妊娠出産の生活や感情が読めてよかった。そうそう、私も、「子供産んだらあとは女は何もせんでいいやろ」という思想を持っているので、パートナーに当たり散らす未来は確定。やっぱり子どもを育てるのは辛くて大変ででも素晴らしいことらしい。でも私は妊娠出産自体恐ろしい気持ちが勝つ。つわりが怖い。流産が怖い。出産が怖い。障害が怖い。ホルモンバランスの変化が怖い。あらゆる事故が怖い。「この子のために死ねる」と何の疑いもなく思えることに対しても恐怖を感じる。ものの例えだということは重々承知の上、それほどまでに大切な存在は、一方で大変な重荷であろうと、思う。
筆者は子どもをとてもかわいい、これほどまでに幸せを感じたことはない、と書いていたけど、産まない人間に対する押し付けがましさがなかった。私みたいな人間でも素直にするすると読める文章でありがたかった。
世の中の子どもたちが幸せに暮らせますように -
Posted by ブクログ
作中で 「なぜ傍観するのか?」という切実な問いかけに対して 淡々と そして非情に語られる「無関心の理由 無関心でいることの正当性」は 一見 荒唐無稽で支離滅裂であるように感じられ、不快感を煽られるが、よくよく考えてみれば そこで語られるのは 彼らを取り巻く大人の社会 =私たちの生きる現実社会において 有形無形の暴力がはびこる理由、そして それらの暴力が糾弾されず むしろ容認され続ける理由にも聞こえてくる。そこに おぞましさがある。ハッピーエンドとはならず決して 後味のいい小説と言えないが 心にずっしりと残る、そしてそのずっしりをいつまでも留めておきたいと感じる作品。