川上未映子のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
はじめて川上未映子を読んだけれど、読んですぐに、ア〜〜〜〜これはすきな系の文章だ〜〜〜〜〜って気がついて、最後のページまで浸ることができた。五臓六腑にしみわたる。すきな系の文章に出会えるってあんまりないから、この読書はしあわせ体験だったな。最高。ちょっと変というか、ずれてるというか、地に足つかない感じの人たちのお話で、全体的に現実感がうすい。「愛の夢とか」っていうのは収録作品のタイトルのひとつだけど、ぜんぶ夢なお話みたいだった。いい夢なのか悪い夢なのかっていうのはさておき。読み終わったあとによかったなーって思ったんだけど、なにがどうよかったのかうまく言葉にできない。おもいがけず川上未映子の文章がどストライクだったから嬉しかったというのもおおいにある気がする。
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Posted by ブクログ
ネタバレ
虐められている少年と少女のお話。
なんで、こんなにも酷いいじめの小説が世に出ているのに、いじめは無くならないんだろう。
こんな小説を読んだら、誰もが悲しい気持ちになるはずなのに。
そもそも、いじめをする側の人間は、本など読まない下等な生き物なのだろうか。
本を読むことと、人に共感できることは、残念ながらイコールじゃない。
本を読んでも、人を傷つける人はいる。
逆に、ほとんど本を読まなくても、人の痛みに敏感な人もいる。
いじめって、個人の「性格の悪さ」だけじゃなくて、集団の空気とか、力関係とか、「自分が標的になりたくない」という恐怖とか、そういうものが絡み合って起きるから。
だからこそ、「この小説を読めば、みんな優しくなるはず」では済まない難しさがあるんだと思う。
こんなに酷い話を書いているのに、世の中に伝わっていないとしたら、小説が世の中に果たす役割って、なんなんだろうと思わずにはいられない。
だからといって、小説の役割が無意味になるわけじゃない。むしろこういう本の役割って、「世界を直接変えること」より、「読んだ一人の人間の中に、消えないものを残すこと」なんじゃないかなと思う。
「つらい」「どうしてなくならないんだ」って考える。それだけでも、もうこの物語は読者の中で何かを起こしてる。そして、その読者がまた誰かに優しくする。その誰かが、また別の誰かに……。
すごく小さなことだけど、小説ってそういうふうにしか世界に作用できないのかもしれない。
でも、その小ささを馬鹿にしちゃいけないと思う。
作品は時間を超えて、人の人生に入り続ける。『ヘヴン』も、そういう作品なんだと思う。
内容は目を背けたくなるほど痛いのに、文章そのものには静かな美しさがある。このアンバランスさが、余計に心に残る。
美しい文章だから、残酷なものが美化されているわけじゃない。むしろ、美しい風景や光や身体感覚がすっと差し込んでくることで、「この子たちは、こんな世界の中でもちゃんと生きている」って感じさせられる。
そこが川上未映子さんの凄さなのかもしれない。
「ねえ、でもね、これにはちゃんとした意味があるのよ。これを耐えたさきにはね、きっといつかこれを耐えなきゃたどりつけなかったような場所やできごとが待ってるのよ。そう思わない?」
「色々なことがあるけど、わたしたち、がんばろうね。・・・・わたしはわたしの家があんなだったからこういうしるしを手にいれて、君は君の目がそうだったから君で、それでこうして会えたんだもの。・・・・・こうやって話をすることができたんだもの。こんなふうに一緒にいられるようになれたんだもの。いつかぜんぶわかるときが来るよ。
あの子たちにも、きっとわかるときが来る。いつかぜったいに色んなことが大丈夫になるときが来るから」
この子たちが受けているものに、何か意味があってほしい。この苦しみの先に、ちゃんと光があってほしい。ふたりの世界が、コジマの言う、うれしいときに出るドーパミン、"うれぱみん"で溢れる世界であるように願わずにはいられない。
でも絶対そう上手くはいかないんだよね、たぶん。っていう感覚が、どうしても付きまとう。そこが、この言葉の怖いところでもあると思う。
コジマは「いつか全部わかる」と信じようとしている。でも読者である私たちは、そんなに簡単に世界が帳尻を合わせてくれるわけじゃないことを知っている。だから、「希望の言葉なのに、読んでいると悲しくなる」
コジマの希望を笑う気にはなれない。
むしろ、その希望を抱かないと耐えられないほどの場所に彼女がいることが、悲しい。
"僕たちはしばらくそのまま口をきかないでいて、そのあいだじゅう見つめあうようなかっこうになった。それからコジマは、少しだけ迷ったように見えたけれど両手で僕の右手をとり、指さきで指さきをなぞるようにさわり、手のひらをひろげてしばらくじっと見たあと、両手でつつみこむようにぎゅっとにぎった。コジマの指も手のひらもうっすらと汗をかいて湿っていて僕の手よりもずいぶんと冷たかった。そしてとても小さかった。僕もにぎられた右手でコジマの手をしっかりとにぎった。コジマにさわったのはこれがはじめてだった。
蝉の鳴き声がさっきよりも小さく折りたたまれてそのまま遠くに追いやられ、ほとんどきこえないくらいになっていることに気がついた。さっきまでの鳴るような暑さを僕は皮膚のどこにも感じなくなっていた。これまでとはまったく違う表情をうかべているように見えてしまうコジマの顔が、僕の顔のすぐそこにあった。"
この一文まで積み上げていく文章、すごいよね。
手を取る。
指先に触れる。
手のひらを見る。
包み込む。
握る。
川上未映子さん、触れるという行為を、ものすごく細かく分解して描いてる。しかも、その直後に、蝉の鳴き声がさっきよりも小さく折りたたまれて……
って、世界の音が変わる。これ、すごく好き。
二人が触れた瞬間に、周囲の世界が消えたわけじゃない。蝉は鳴いているし、暑さもそこにある。なのに「僕」の知覚だけが変わる。
さっきまで皮膚を刺すようだった暑さを感じなくなる。蝉の声が遠くなる。そしてコジマの顔が、今までとはまったく違って見える。
つまり、世界が変わったんじゃなくて、「僕にとっての世界」が変わった。
これって、恋とか、人を好きになる瞬間の描写としてもすごく美しいと思う。
……なのに。
「こんなに美しい場面を、素直に美しいと思っていいの?」って、どうしても警戒してしまう。
それがまた苦しい。
物語そのものが読者に「安心していいよ」と言ってくれない。
こんなに美しい文章で、こんなに繊細な二人の時間を描くからこそ、「この二人にも、こんな瞬間がある」ということが、ものすごく切実になる。
いじめられている少年と少女。でも、その属性だけじゃない。
手が冷たい。
汗をかいている。
手が小さい。
蝉の声を聞いている。
暑さを感じている。
誰かに触れられると、世界の感じ方が変わる。
ちゃんと一人の人間として、生きている。
だからこそ、その二人に起きていることが、余計につらいんだと思う。
"わたしがあの子たちの犠牲者だとしたら、あの子たちもまたなにかもっと大きなものの犠牲者なのじゃないかと、そう思ったりもするのです。"
「君もわたしも、弱いからされるままになってるんじゃないんだよ。あいつらの言いなりになってただ従ってるわけじゃないの。最初はそうだったかもしれないけれど、わたしたちはただ従ってるだけじゃないんだよ。受け入れてるのよ。自分たちの目のまえでいったいなにが起こってるのか、それをきちんと理解して、わたしたちはそれを受け入れてるんだよ。強いか弱いかで言ったら、それはむしろ強さがないとできないことなんだよ」
「弱いからされるままになっている」という見方を、彼女自身が否定する。ここは、かなり難しいところだと思う。「耐えること=強さ」と単純には言いたくない。現実のいじめでは、逃げることも、助けを求めることも、環境を変えることも、全部立派な選択だから。
だから「耐えられる人が強くて、逃げる人が弱い」なんてことは絶対にない。
でもコジマが言っているのは、たぶん少し違う。彼女は、「私は、あなたたちに定義された『弱い人間』ではない」って、自分の尊厳を取り戻そうとしているんじゃないかな。
いじめる側から見れば、
「こいつは弱いからこういう目に遭っている」
という単純な物語にしてしまえる。
でもコジマは、それを拒む。
「私たちが何をされているのかを、私たちは分かっている。そして、その世界を見ている」
そういうところに、自分の主体性を見つけている。だからコジマの「強さ」って、耐える能力そのものではなく、自分が何者なのかを、加害する側の物差しだけでは決めさせないことなんじゃないかなと思う。
そして、すごいのが
「あの子たちにも、いつかきっとわかるときがくる」ここで涙腺崩壊。
だって、この言葉って、単純な「復讐」じゃない。「あいつらもいつか罰を受ける」じゃない。「あの子たちにも、いつかわかる」なんだよね。憎しみだけで終わらせない。
自分を傷つけている人間に対してさえ、「分かる人間になれる可能性」を残している。
それって、すごく残酷なほど優しいと思う。
そして同時に、
「本当にそんな日が来るのかな」
という悲しさも残る。だから余計に泣けるんだと思う。
"僕"が、虐める側の百瀬と対峙するところ。
「君に話があるんだ」「なんでそんなに酷いことができるんだ」って。
はっきり言って、
百瀬の弁明は糞。
「なあ、世界はさ、なんて言うかな、ひとつじゃないんだよ。みんながおなじように理解できるような、そんな都合のいいひとつの世界なんて、どこにもないんだよ。そういうふうに見えるときもあるけれど、それはただそんなふうに見えるというだけのことだ。みんな決定的に違う世界に生きてるんだよ。最初から最後まで。あとはそれの組みあわせでしかない」
共感できるところはひとつもない。
何が善で、何が悪なのか?
そういうことではないと思う。
もし、そういう世界を受け入れるなら
自分自身も、サクッと
殺さて、何も言えない世界をを受け入れて
生きていかなきゃいけないよね。
……いやいやいや
そんな世界に誰が住みたいんだよ。
だから問題は「世界が一つかどうか」じゃない。
違う世界を生きている人間同士が、どうやって共存するのか。
そこに倫理が必要になる。
そしてね、百瀬って、ものすごく「議論に勝つこと」と「人間として正しいこと」を混同してるように感じる。
自分が感じた「嫌さ」の構造としては、
「相手の痛みを受け止める代わりに、言葉のゲームに持ち込んでしまう感じ」なんじゃないかな。
「なぜそんな酷いことをするの?」という問いに対して、「世界はひとつじゃない」って答える。
いや、質問に答えてないんだよね。
「君は僕とは違う世界にいる」と言っているだけ。
そして、その言葉によって、目の前にいる一人の人間の苦痛から逃げている。
ここが百瀬の一番怖いところなんじゃないかな。
でも、ちょっとだけ丁寧に見ると、百瀬の言葉って、すごく巧妙なんだと思う。
「世界はひとつじゃない」
これは、それだけなら確かに間違ってない。
人によって見えている世界は違う。
同じ出来事でも、受け取り方は違う。
価値観だって違う。
でも百瀬は、その「違う世界に生きている」ことを、他人を傷つけることへの免罪符にしている。
そこが、とんでもなく嫌なんだと思う。
たとえば、
「僕には君を傷つけることが正しいと思える世界がある」と言ったとしても、
だから君を傷つけていいにはならない。
「人それぞれ」という言葉は、本来は他人を尊重するための言葉なのに、百瀬の場合は逆なんだよね。他人を理解することを放棄するために使っている。
コジマは、「わたしたちは……自分たちの目のまえでいったいなにが起こってるのか、それをきちんと理解して、わたしたちはそれを受け入れてる」と言った。
百瀬もある意味では「世界を受け入れている」。
でも、二人は全然違う。
コジマは、自分が傷つけられている現実を見つめている。
百瀬は、他人を傷つけている現実を言葉で相対化している。
ここ、ものすごく大きな違いだと思う。
コジマの「受け入れる」は、自分の痛みから逃げないこと。
百瀬の「受け入れる」は、他人の痛みに責任を持たないこと。
同じ「受け入れる」という言葉なのに、向いている方向が真逆なんだよね。
川上未映子さんの本を読んで、
こんな胸糞な気持ちになるのに
自分自身でびっくりしてる
小説の役割って、「読んだ一人の人間の中に、消えないものを残すこと」なんだとしたら、とてつもなく重い、消えないものを
川上未映子さんは俺の胸の中に残した。
「いじめは悪いことだ」みたいな単純な教訓じゃない。もっと厄介なものだと思う。
「人間の強さって何なんだろう」
「世界が違うということを、どこまで受け入れていいんだろう」
「他人を理解できないとき、それでもどうやって一緒に生きるんだろう」
「苦しんでいる人の前で、傍観者でいることは何なのか」
そしてたぶん、
「正しさって、誰かを論破することじゃないんじゃないか」という問い。
これ、簡単には消えない。
『ヘヴン』って、読者を気持ちよくしてくれる小説じゃない。たぶん、読者の胸の中に異物みたいなものを置いていく。
「これ、どうすればいいんだよ」っていうものを。
でも、その異物があるから、読み終わったあとも考えてしまう。そして何年か経って、別の出来事に出会ったとき、
「ああ、あのとき『ヘヴン』で考えたことって、こういうことだったのか」って、突然つながったりする。そういう本って、怖いんだよね。
人生の中に住みついちゃうから。
"僕"が虐めの原因であると思っている
斜視を手術で治ることがわかって
コジマに打ち明けるところ。
コジマは、斜視はこの世界で強く生きていくための「しるし」だって言うんだな。
僕の斜視が2人を導いて、この酷い世界で仲間になれたって言うんだよ。
分からないではないけど、
コジマの言うことも、頑なすぎるんだよね。
一種の宗教的な感じさえもした。
「しるし」をどうするのか?ここ、すごく大きな転換だと思う。
コジマは最後まで、「斜視には意味がある」と信じようとする。
自分が受けた苦しみも、二人が出会えたことも、それを耐え抜いたことも、全部「しるし」という物語に結びつける。
でも、コジマのそれを単純に「間違い」とも言えないんだよね。
だって、あまりにも酷い現実を生き抜くには、
「この苦しみにも意味がある」と思わないと耐えられないことって、あると思う。
ただ、その意味づけが強くなりすぎると、「この苦しみには意味があるんだから、捨ててはいけない」に変わってしまう。そこが怖い。
やがて、コジマとの友情も崩れてしまうんだな。悲しいね。
そして、最後のいじめ側の奴らとのシーン
公園でコジマとのセックスを強要させるところ。
コジマが表情で訴えかけてくることが
僕には、前に百瀬が言ったことと重なってしまうんだ
「この世界に意味なんてない。でもこの世界を受け入れている」
ってことに。
善と悪、強さとは何なのか
一気に畳み掛けてきたよ。
昨日は、百瀬の言う弁明はクソだと思ったけど
川上未映子さんが差し出してきたものは
善と悪、強さとは何か?という
根源的な問いなんだろうか?
全ての酷い虐めが一応終息して
結局、斜視の手術を受けることにするんだ。
で、結局救われるのは、至ってシンプルな母さんの言葉。
「自分で決めることだけど、手術しなさいって、言いたい」そう言うと母さんは笑った。
「目なんて、ただの目だよ。そんなことで大事なものが失われたり損なわれたりなんてしないわよ。残るものはなにしたって残るし、残らないものはなにしたって残らないんだから」
"しるし"なんてものは、ただのしるし。
重荷だったら捨てたらいいし、それを変えて
生きやすくなるのなら、そうしたらいい。
「目なんて、ただの目だよ。」
……これ、ものすごく強いよね。
コジマが一冊の宗教書を差し出してきたとしたら、母親は、「いや、そんなに難しく考えなくていいよ」って言ってるように私は感じる。
斜視は「しるし」でもいい。
でも、ただの目でもいい。手術してもいい。
しなくてもいい。大切なものが残るなら、それでいい。
つまり、「意味は自分で与えていい。でも、意味に縛られなくてもいい」
なんじゃないかな。これ、かなり自由な考え方だと思う。そう言ってるように聞こえた。
もしかしたら『ヘヴン』って、最初は「この苦しみには意味がある」という物語に見えて、最後には、「意味があってもなくても、生きていっていい」というところまで辿り着いたんじゃないかな。
そして、手術を受けた僕が見たこの小説の最後。
「なにもかもが美しかった。これまで数えきれないくらいくぐり抜けてきたこの並木道の果てに、僕ははじめて白く光る向こう側を見たのだった。僕にはそれがわかった。僕の目からは涙が流れつづけ、そのなかではじめて世界は像をむすび、世界にははじめて奥ゆきがあった。世界には向こう側があった。」
やっと、この世界の向こう側にある
「ヘブン」を見つけたのだね。
「世界には向こう側があった。」
……美しいね。
ここで初めてタイトルの「ヘヴン」が、本当の意味で現れる。それまでの彼にとって世界は、閉じていたんだと思う。虐められる学校。家。自分の目。百瀬。コジマ。逃げられない関係。
どこを向いても、壁しかない。ところが手術を終えた彼の目に、
世界には奥行きがある。
世界には向こう側がある。
と見える。
これって単純に「視力が良くなった」という話じゃないんだよね。
「自分が見ている世界が、世界の全部ではなかった」という発見なんじゃないかな。
百瀬が「世界はひとつじゃない」と言っていた。
その言葉は、人を傷つけることの免罪符みたいに使われていた。でも最後に「世界には向こう側があった」と分かる。
同じ「世界」という言葉なのに、全然違う場所に着地するんだよね。
百瀬は、「世界は違う。だから他人を理解する必要もない」と言う。
最後の「僕」は、「世界にはまだ見えていない向こう側がある」と知る。
私はここに、この小説のものすごく大きな違いがある気がする。
この小説は「これが善です」「これが強さです」という答えをくれない。むしろ、「そんな簡単に決められると思う?」って、読者に突き返してくる。コジマも、僕も、百瀬も、みんなそれぞれ違う方法で世界を説明しようとしている。
でも最後に救いをもたらすのは、壮大な哲学でも宗教でもなく、「目なんて、ただの目だよ」
という母親の言葉だった。
なんだか、すごいよね。
世界を説明しようとする言葉より、世界をそのまま受け入れる、ものすごく普通の言葉。
そこに救いがある。
あぁ、やっと最後に
川上未映子さんらしい、
透き通るような美しい文章に出会えて
ほっとして、嬉しかった。
すごく重たいものを、心に残したけど
すごくおもしろかったよ。
おもしろかったと言っていいのか、わかんないけど。
10年後くらい、または死の間際
自分の人生はなんだったのか、
考える時、また読みたいと思ったよ。
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Posted by ブクログ
ネタバレ高校生くらいまでは、自分が結婚して子どもを産んで…ということに疑いはなかったけど、大学を経て教育関係の仕事に就いてからは、「結婚も子どもも、自分には無理やなあ。」と思うようになった。収入のこと、健康のこと、生活のこと、政治のこと、いろいろひっくるめた世界のことを考えるとそもそもこの世に生命を生み出す責任を負う覚悟はないなと。でも最近、一生一緒に暮らして行けたらいいなと思えるもう5年以上付き合っているパートナーとの結婚の未来が見えた途端、職場や友人の妊娠が心のど真ん中に腰を下ろした。自分の気持ちに書くと、どれだけ子どもが欲しくなっても、引き返せることではないのだから自分のために、子どものために産まない!!という覚悟があっけなく揺らいでいる。それに対してすごく落ち込んでいる。こどもって本当に可愛いもんなあ。一切失うものがなく、全ての安全が保障されるのであれば自分の子どもが欲しいなあ(産みたいなではない)。わたしって、まだ結婚の延長線上に子どもを持つということがあるという考えに囚われているんだなあ。友達が妊娠してもうお腹ぱんぱんやって言ってたけど、妊娠出産って実際どんなのかなあ。…そんな考えが最近ぐるぐる回って、この本がいいってレビューを見たのを思い出して買った。
筆者も、産むのは親のエゴだって、産み落とすのは暴力的だって書いていた。それでも産むぞって考えに至ったかは書いていなかったのでどうしてかわからなかったけど。筆者の、1人のリアルな妊娠出産の生活や感情が読めてよかった。そうそう、私も、「子供産んだらあとは女は何もせんでいいやろ」という思想を持っているので、パートナーに当たり散らす未来は確定。やっぱり子どもを育てるのは辛くて大変ででも素晴らしいことらしい。でも私は妊娠出産自体恐ろしい気持ちが勝つ。つわりが怖い。流産が怖い。出産が怖い。障害が怖い。ホルモンバランスの変化が怖い。あらゆる事故が怖い。「この子のために死ねる」と何の疑いもなく思えることに対しても恐怖を感じる。ものの例えだということは重々承知の上、それほどまでに大切な存在は、一方で大変な重荷であろうと、思う。
筆者は子どもをとてもかわいい、これほどまでに幸せを感じたことはない、と書いていたけど、産まない人間に対する押し付けがましさがなかった。私みたいな人間でも素直にするすると読める文章でありがたかった。
世の中の子どもたちが幸せに暮らせますように -
Posted by ブクログ
作中で 「なぜ傍観するのか?」という切実な問いかけに対して 淡々と そして非情に語られる「無関心の理由 無関心でいることの正当性」は 一見 荒唐無稽で支離滅裂であるように感じられ、不快感を煽られるが、よくよく考えてみれば そこで語られるのは 彼らを取り巻く大人の社会 =私たちの生きる現実社会において 有形無形の暴力がはびこる理由、そして それらの暴力が糾弾されず むしろ容認され続ける理由にも聞こえてくる。そこに おぞましさがある。ハッピーエンドとはならず決して 後味のいい小説と言えないが 心にずっしりと残る、そしてそのずっしりをいつまでも留めておきたいと感じる作品。
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Posted by ブクログ
ネタバレ現在7ヶ月の子どもを育てている私。妊娠中のこと、そして出産後のこと。言葉にするのが難しい、言語化できないその時々の感情をうまく表現してくれたような本で、共感の連続だった。
場面場面ごとの描写に、我が子とのその場面が思い出されて、泣いためっちゃ泣いた。
保育園に入れる時にきっと作者と同じ思いをするだろうから、そのときもう一回読みたいな。
MEMO
p100:もし第二子妊娠したら旦那に読ませたい。もっとお腹の子と私に興味を持てというページ。
p230:疲れた時に読みかえしたい。育児が始まってもこれまで通り家事仕事を頑張らなくてもいい
p301:今何もできない自分に焦った時に読みかえしたい。この時間が幸せで、罪悪感なんて感じなくていいんだよ。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ1人の女性の人生を追体験し、自分の持っていなかった価値観に触れることができた。
自分の人生もなかなかの人生だよな、と思うが、それでも、人生に対して希望を持つことができる自分がいる。それがただ、ありがたいな、と思った。今まで自分にもいろんなことがあったけど、「とは言えど、人生って捨てたもんじゃない」と思う。でも、
本当に、心の底から、人生を、自分を、肯定できない人もいるんだよな、と、頭の中ではわかってはいたけど、なんとなく曖昧にしていた部分がハッキリとなったと言うか、
世の中キレイゴトばかりでは厳しいということもあるという事実を、心の奥でそう思えたというか、「そういう人もいるんだよな」と静かに思った。
善さんみたいに、子供を産むことに対して、そんな見方をしたことがなかったし、それはとても、心が「うっ」となったけど、でも、そういう見方もあるんだということを知れてよかった。
確かに子供を産むことが「賭け」という見方もある。そういう見方もできる。
仮に本当にそうだったとしても、というか、これは子供を産むということ以外でも言えるけど、
「失敗」「間違ってる」とわかっていても、理性ではわかっていても、抑えられないこともあるよな、とも思うのだ。
人間は完璧ではない。エラーも起きる。
だけど、それが人間なんだよ。
でも、きっと、善さんは「みんなそうやって言うよね」と言うだろう。
どちらもが本当で、そもそも、「間違ってる」とかそんなものもなくて、
時と場合によることだってあるし、夏子さんみたいに、本当に全く全てが同じ条件で人生を経験したら、私だって同じような葛藤、絶望、孤独、焦燥感などがあったと思う。
「それでも間違いを選びたい」と思う気がする。
でも、それも本当に経験してないからわからない。だけど、そうだったかもしれない、みんな。
結果的に「逢沢さん」との子供を授かることができたけど、そうじゃない道を選んだとしても、
そして、現実にそれで苦しんでいる人がいても、
これは全部がそれぞれの立場じゃないと、本当にわからないことだよな、と思った。
あーだ、こうだ、と、正論を言うことは簡単なんだけど、
そんな簡単な答えを「正解」とすることはできない。
「答え」は出ないな。私には出せない。それは無責任とかそう言うものではなくて、
その時その時、自分が必死で考えて、答えを出して、行動して、生きて行くしかない。
でも、そうだとしても、色んな人の、本に出てきた人たちの人生を「知っておく」ことはとても意味のあることだと思った。
とてもとても、考えさせられる、素晴らしい本でした。 -
Posted by ブクログ
好きな作家さん。
たまに文章が宝石に見えたり、そんなに思わなくていいよって言いたくなるくらい主人公を考えさせ、悩ませ、壊しちゃう所に川上未映子さんらしさを感じてます!
ちゃんと「黄色い家」にも、スピード感のある常軌を逸したヒステリック発言や、考えすぎて自分自身も何か1つは絶対共感しちゃうネガティブ思考など、この人にしか出せない唯一無二な要素がたくさんありました!(途中ちゃっかり共感してしまい辛すぎました、、)
ちなみに川上未映子さんの作品は、辛い、苦しい、もう読んでられないって途中はなるんですが、最後は忘れたようにふっとその嫌な感情が消えるんですよ。ホントに。綺麗サッパリ。
多分その作品の中で一際目立つ辛さ、苦しさが全部主人公の脳みその中だけで大半起こってて、実際には起きてないが故に、事が過ぎ去るとふわっと消えちゃうのかなぁなんて思ってます。
しかも、その頭の中の最悪のケースがすべて抜けた後、ぼんやりとした柔らかい優しい夢みたいな文章を入れてくるので、毎回読み終わった後、夢が覚めたように、どこで何が起きた!?と焦って読み返してます笑
この人のそういう夢みたいに綺麗な文章もすっごく魅力的で!他の作品「ウィステリアと三人の女たち」、「愛の夢とか」とかで存分に味わってみてください!(オススメ)
すっごく面白かったです!! -
Posted by ブクログ
単行本に続いて、文庫本で再読しました。
主人公の「僕」は中学2年生で、ある日、ふで箱の鉛筆と鉛筆のあいだに小さく折りたたまれて入っていた紙に、シャープペンシルで「私たちは仲間です」と書かれたメッセージを受け取ります。
主人公の「僕」は、斜視が原因でクラスの男子生徒たちから、日常的に暴力を伴うイジメを受けていました。その後も机の中に差出人不明の手紙は届き、そこに書かれた文章も少しずつ長くなって、次第に机の中に手紙があるかどうか確かめるのが「僕」の習慣になっていきました。
ある日、「会いたいです」という手紙が届き、これもイジメのひとつで誰かが待ち構えているのではないかと不安を抱きつつ、待ち合わせの公園に行くと、そこに待っていたのは同じクラスの「コジマ」という女子生徒で、彼女も家が貧乏とか不潔だということでクラスの女子生徒たちからイジメられている生徒でした。
彼女は、「君と色々な話をしたいなあと思って。そういうのが、私にも君にも必要なんじゃないかなって、ずっと思ってた」と語り、「友達になって欲しいの」と僕に言います。
* * * * * * * * * * * * * * *
この小説の題材は、『ヘヴン』という小説のタイトルのイメージとはかけ離れた、クラスの集団的な「イジメ」です。
暴力を伴う壮絶なイジメの描写の連続で、読んでいてもつらくなりますが、イジメられる側の「僕」と「コジマ」、イジメる側の「百瀬」のセリフや行動を追いかけながら、あらためて私の感想を書かせていただきたいと思います。(ほぼネタバレですがご容赦ください)
さて、公園で会って会話をした日を境に、手紙をやり取りするようになります。ここで斜視についての説明があるのですが、「すぐそこにあるものを触るにも、うまく距離感がつかめず、指先で触っても、ちゃんと触れているのか、正しく触れているのかどうかわからない感触がいつも残った」とあるのですが、手紙のやり取りをしながらも、「コジマ」との関係に、まだ不安を抱いている「僕」の心境を比喩的に描いているように思いました。
それでも、「文章を書くのは難しいですね」とか「1時間以上も机に向かっています」と手紙に書くなど、手紙を楽しんでいる様子が伺われます。「コジマの声と6Bの芯はよく似ている。柔らかいのに濃く、芯があるところが似ている」なんて、なかなか上手いこと書いてます。
一方でコジマも、「何もすることがないと、何かと戦ってるような気持ちになります。じっと戦ってるような、そんな気がします」と、同じ境遇だからこその本音も手紙に記します。
でもそんな2人の関係は手紙の中だけのことで、「手紙の中のコジマは明るく生き生きとして、学校で見かけるコジマとはまるで別人のように見えた」と、クラスのイジメの材料になるのを恐れて、お互いに見て見ぬふりをし合う関係でしかいられなかったのは、悲しいことでした。
それでも手紙で約束した非常階段で再び会うことができた日は、「風とコジマの笑い声がまじった音がしばらく耳の中で響いていた」と表現されていたほど、笑って過ごせる楽しい時間だったのだと思います。
そして、「コジマが僕に向けて書いてくれた言葉は、暗闇の中で僕に向かってぼんやりと温かく光り、そして僕が書いた手紙もコジマがつらい気持ちの時にそれを和らげ、こんな気持ちにさせるものであったらいいのになとそんなことを思った」と考えるほど、手紙のやり取りはお互いの気持ちを支える大切なものだったのだと思います。
期末テストが終わったあと、コジマから「実は君を連れていきたいところがあります。どこかというと、それはヘヴンです」という手紙が届きます。
夏休みの初日、「僕」はヘヴンがどこなのか知らされないまま、コジマと2人電車で街を離れます。
2人がやって来たのは美術館で、コジマは「ヘヴンは絵のことで私がいちばん好きな絵のことなの」と説明します。「その絵はね、恋人たちが部屋でケーキを食べている絵で、その恋人たちはね、とてもつらいことがあったのよ。とても悲しいことがあったけど、それをちゃんと乗り越えることができた2人で、だから今2人は最高の幸せの中に住むことが出来ているっていうわけなの。2人が乗り越えてたどり着いた、なんでもないように見えるあの部屋が実はヘヴンなの。画集でいっつもいっつも見てたのよ」と、コジマは僕に熱く語りました。実はその絵には違う題名がついていて、コジマが名づけ直したものでした。
コジマのイジメに耐えつつも将来に希望を抱く想いが伝わってくる場面です。
夏休みに入ると、学校がないので誰にも会わなくて済むので、「僕に言いようのない安心を与えてくれた。こうしてひとりでいる限りにおいては、誰であっても僕に指一本触れることが出来ないという当たり前のことが、僕にはとても心強く感じられた」と思うほど、イジメから解放されたつかの間の平穏な日々でした。そういう境遇にある彼らにとって、夏休みとは、そういうものなのだと、あらためて知る思いでした。
そんな夏休みも終わりに近づいたある日、2人は再び非常階段で会う約束をします。
そこでコジマは、初めて家庭の事情を話します。昔父親が経営していた工場が借金を抱えて倒産し、両親は離婚、当時小学生だったコジマは母親に引き取られ、今では母親の新しい男と一緒に3人で何不自由ない暮らしている一方で、本当の父親は今1人で新しい靴も買えない貧しい生活をしていると打ち明けます。夏休みにひとりでその父親に会いに行き、相変わらず優しい父親と楽しく過ごしたと言います。
工場を経営していた頃、家族のために必死で働いている父親の姿を覚えているコジマは、父親の苦労が報われていないこと、今も貧しい生活を強いられていることを嘆き、イジメを受けながらもそれに耐えている今の自分と重ね合わせます。
そして、「私がこんなふうに汚くしているのは、お父さんを忘れないようにしてるだけ。お父さんと一緒に暮らしたことのしるしのようなもので、これは私にしか分からない大事なしるしなのだ。私には汚さにもちゃんとした意味がある。でもあの子たちにはそんなことを言っても絶対に分かってもらえない」と言います。
そして、「あの子たちは、本当に何も考えていない。ただ誰かのあとについて何も考えずにその真似をして、それがいったいどういう意味を持つことなのか、私たちはそんなこと想像もしたことのないような人たちのはけ口になっているだけ」とため息をつきます。
だから僕が斜視を理由にイジメられているのを見て、仲間だと思ったと言います。「斜視のせいで周りから酷い目に遭っているけど、それがいまの君という人をつくっているしるしでることも確かで、だから君の気持ちは誰よりもわかるし、わたしの気持ちを誰よりも分かってくれると思った。人に傷つけられてばかりだったから、人を傷つけることがどんなことなのかが本当に分かる、本当に優しい人だと思った」とコジマは僕に言います。
僕の方をじっと見て、「私は、君の目がとても好き」とゆっくりそう言われて、僕は身体中の力が抜け落ちて、そのままそこに座り込んでしまうという描写があるのですが、純情な中学2年生の男の子がそこに居ました。
別れ際、「いろいろなことがあるけど、私たち、頑張ろうね。いつか全部分かる時が来る。あの子たちにもきっと分かる時が来る。いつか絶対に色々なことが大丈夫になる時が来るから」と、励まし励まされるのでした。
夏休みが終わり学校が始まると、僕は再び身体のところどころに変調をきたすようになりますが、コジマは相変わらず前向きで、届いた手紙には、「私はあの子たちにののしられながら、酷い目に遭わせられながら、あの子たちの笑っている顔を見ていると可哀想に思えてくることがある」と綴られています。
「あの子たちは、これまでに大事なことを考える機会がきっとなかったんだろうな、と思える。私があの子たちの仕打ちから学んだように、あの子たちもいつか自分たちの行為から自力で学び、知る必要があると思う。私に対してしているあらゆることから、あの子たち自身が分からないといけない、理解することのできない種類のことだと思う。そのことだけでも、私たちのこんなふうな毎日は意味があるのではないかと、そんなふうに思っています」と、中学2年生とはとても思えない、でも毎日イジメられている側の切ない「意地」のようなものが感じられます。
「強者」と「弱者」と言いますが、コジマの言葉や手紙に綴られた思いをずっと読んでいると、本当はどっちがどっちなんだろうと思ってしまいます。
ところで、イジメを受けていることをなぜ親に言わないのかと、ずっと思っていましたが、コジマは父親を忘れないためのしるしを大事に守っているので、一緒に暮らしている親には言わなかったんだと分かりましたが、僕についてはこう書かれていました。
「例えば母さんに打ち明けるところを、これまで何度も想像していた。でもそれはすぐに打ち消されるものだった。イジメられていることを母さんには知られたくなかった。そしてそれ以上に父さんにだけは、どんなことがあっても知られたくなかった。それにこの事実を打ち明けたところで、何かが好転することは絶対にないと分かっていた」
でもやっぱり親には打ち明けるべきだったなと私は思います。
ある日、僕はクラスの男子から壮絶なイジメ・集団的暴行を受けます。職員会議のため部活も禁止で全校生徒が早々に下校した放課後の体育館で、両手を腰の後ろで難く縛られて、一部を切り裂いたバレーボールを頭からスッポリと被せられ、そのまま床に倒された僕をボールに見立ててサッカーをして蹴り合うというものでした。校内には他に生徒はおらず、先生たちも職員会議中で、誰の目も届かない閉鎖された体育館でそれは行われたのです。
僕はさすがに逃げようとしましたが、相手は6人、こちらは1人では逃げられるはずもなく、終わったあとは、僕の顔は酷く腫れ上がり、制服は血まみれ、床には大量の血の海が広がっていました。
男子生徒たちのリーダーは、帰り際、このことは絶対に誰にも言わないこと、血の海となっている床は外の水道とそこにあるバケツと雑巾で綺麗にしてから帰るよう、僕に言い放って去っていきました。
体育館に来る直前にたまたま廊下で僕と出会し、連れ去られて行くのを見かけたコジマが、心配して駆けつけて来て、2人で体育館の床の血を綺麗に拭き取ったあと、僕を労るようにコジマはこう言います。
「君も私も、弱いからされるままになっているんじゃない。あいつらの言いなりになってただ従っているわけじゃない。自分たちに起きていることをきちんと理解して、私たちはそれを受け入れているんだ。だから、強いか弱いかで言ったら、むしろそれは強さがないとできないことなんだ」と。
先ほどの手紙といい、この言葉といい、コジマは強い信念でイジメに立ち向かっているようでした。
ただ、僕は次第にコジマの考えにはついていけず、僕にとってはただの闇の世界でしかないように思えてくるのでした。
僕はあまり眠れなくなり、次第に自殺について考えるようになり、日に日に自分が弱くなってきくのを他人事のようにぼんやりと感じるように、なっていました。
そんなある日、先日の暴行で受けた顔の治療のため訪れた総合病院のロビーで、僕をイジメるグループと行動を一緒にし、リーダー格の生徒と仲の良い77百瀬」という人物を見かけます。僕は堂々とその隣に座り、やがて百瀬は僕を避けるように病院の外に向かいますが、僕は百瀬を追いかけて捕まえ、話をします。ここまででもすごく勇気のある行動だったと思いますが、コジマの言葉も僕の心に影響していたのかと思います。
「なんで、君たちはこんなことができるんだ。誰であれ、誰かに対してこんな暴力を振るう権利はない。どこにもない」と、僕は百瀬に迫ります。
一方の百瀬。「権利があるから、人って何かするわけじゃないだろう。したいからするんだよ」と、かわします。
「別に君じゃなくたって全然いいんだよ。誰でもいいの。たまたまそこに君がいて、たまたま僕たちのムードみたいなのがあって、たまたまそれが一致したってだけのことでしかないんだから」と、訳のわからない説明をします。
「みんなただ、したいことをやってるだけで、まず彼らには欲求があって、その欲求を満たすだけの状況がたまたまあって、気ままにそれを遂行しているってだけの話だよ」
これに対して僕は、「欲求にしたがってあるだけだって、君は言ったけど、それが許されないことだってことは、君たちもわかってるんだろう。君たちには、後ろめたい気持ちがあるから、僕には口止めして、教師に隠れて、あんなふうにやるんだろう」と、いっきに百瀬を問い詰めます。
これに対して百瀬。「それが正しいことだからって、するわけじゃないだろう。したいことが正しいことだから、するわけじゃないだろう」
もうここまでくると哲学のような
世界で、私は何回も読み直しました。
「世界はひとつじゃないんだよ。みんな決定的に違う世界に生きてるんよ」と、価値観や倫理観の違いを百瀬は持ち出します。
「じゃあ、人の気持ちはどうなるんだ」と僕が呟くと、百瀬は「知らない」と即答。これには唖然としました。
それに「僕たちの年齢じゃ、なんであれ犯罪にはならないからね。イジメっていうのは曖昧だよね。そういうのってさ、解釈の問題だから」と、百瀬は本音を漏らします。
そして「『自分がされたら嫌なことは、他人にしてはいけません』っていうのはあれ、インチキだよ」と断言します。
またまたま、40代の夫婦と女高生の家族が近くを通りかかって。「例えば、あの娘が風俗の仕事に就くって言えば、あの父親は絶対に反対するだろうけど、あの父親も実は誰かの娘が働いている風俗の店には行ったりしてるんだよ。その誰かの娘の父親の気持ちなんて考えない。それとこれとは別ってね。誰だって自分の都合でものを考えて、自分に都合よく振る舞ってるだけなんだよ」と、雄弁に語ります。
さらに、「弱い奴らは本当のことにはたえられないんだよ。苦しみとか悲しみとか、それこそ人生なんて何の意味もない、そんな当たり前のことに耐えられないんだよ」と、これまでのコジマの考えと正反対の言葉を放ちます。
「全部たまたまのこと。僕たちは今たまたまそれができる。君は今たまたまそれができない。それだけのことだよ」
百瀬はそう言って、2人の会話は終わります。
どちらが正しいのでしょう。
どちらが「強者」でどちらが「弱者」何でしょう。
どちらが「善」でどちらが「悪」なのでしょう。
私たちは「常識」という基準でそれらを判断していましたが、「人としての自由意志」あるいは「本音と建前」という基準を、誰にも気づかれないようにそっと持ってきたとき、どんな判断をするのか、ちょっと怖いきがする問題提起の小説でした。