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「苛められ、暴力をふるわれ、なぜ僕はそれに従うことしかできないのだろう」 善悪の根源を問う、著者初の長編小説。
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Posted by ブクログ
作中で 「なぜ傍観するのか?」という切実な問いかけに対して 淡々と そして非情に語られる「無関心の理由 無関心でいることの正当性」は 一見 荒唐無稽で支離滅裂であるように感じられ、不快感を煽られるが、よくよく考えてみれば そこで語られるのは 彼らを取り巻く大人の社会 =私たちの生きる現実社会において...続きを読む 有形無形の暴力がはびこる理由、そして それらの暴力が糾弾されず むしろ容認され続ける理由にも聞こえてくる。そこに おぞましさがある。ハッピーエンドとはならず決して 後味のいい小説と言えないが 心にずっしりと残る、そしてそのずっしりをいつまでも留めておきたいと感じる作品。
物語もさることながら、情景や心象の描写がとても印象的だった。あの年頃だったときの、確かにここにいるが靄に包まれて先が見えない感じを思い起こした。それは恐怖でもあり、未来へ少しずつ向かっている感覚でもあった気がする。自分の過去の心象風景を掘り起こしてくれた大切な作品になった。
くらった。 この世界に長く居てはいけないと心が縮んで一気読み。百瀬との会話シーンは呼吸が止まった。忘れることなんてできなさそう。美しさが残酷
単行本に続いて、文庫本で再読しました。 主人公の「僕」は中学2年生で、ある日、ふで箱の鉛筆と鉛筆のあいだに小さく折りたたまれて入っていた紙に、シャープペンシルで「私たちは仲間です」と書かれたメッセージを受け取ります。 主人公の「僕」は、斜視が原因でクラスの男子生徒たちから、日常的に暴力を伴うイジメ...続きを読むを受けていました。その後も机の中に差出人不明の手紙は届き、そこに書かれた文章も少しずつ長くなって、次第に机の中に手紙があるかどうか確かめるのが「僕」の習慣になっていきました。 ある日、「会いたいです」という手紙が届き、これもイジメのひとつで誰かが待ち構えているのではないかと不安を抱きつつ、待ち合わせの公園に行くと、そこに待っていたのは同じクラスの「コジマ」という女子生徒で、彼女も家が貧乏とか不潔だということでクラスの女子生徒たちからイジメられている生徒でした。 彼女は、「君と色々な話をしたいなあと思って。そういうのが、私にも君にも必要なんじゃないかなって、ずっと思ってた」と語り、「友達になって欲しいの」と僕に言います。 * * * * * * * * * * * * * * * この小説の題材は、『ヘヴン』という小説のタイトルのイメージとはかけ離れた、クラスの集団的な「イジメ」です。 暴力を伴う壮絶なイジメの描写の連続で、読んでいてもつらくなりますが、イジメられる側の「僕」と「コジマ」、イジメる側の「百瀬」のセリフや行動を追いかけながら、あらためて私の感想を書かせていただきたいと思います。(ほぼネタバレですがご容赦ください) さて、公園で会って会話をした日を境に、手紙をやり取りするようになります。ここで斜視についての説明があるのですが、「すぐそこにあるものを触るにも、うまく距離感がつかめず、指先で触っても、ちゃんと触れているのか、正しく触れているのかどうかわからない感触がいつも残った」とあるのですが、手紙のやり取りをしながらも、「コジマ」との関係に、まだ不安を抱いている「僕」の心境を比喩的に描いているように思いました。 それでも、「文章を書くのは難しいですね」とか「1時間以上も机に向かっています」と手紙に書くなど、手紙を楽しんでいる様子が伺われます。「コジマの声と6Bの芯はよく似ている。柔らかいのに濃く、芯があるところが似ている」なんて、なかなか上手いこと書いてます。 一方でコジマも、「何もすることがないと、何かと戦ってるような気持ちになります。じっと戦ってるような、そんな気がします」と、同じ境遇だからこその本音も手紙に記します。 でもそんな2人の関係は手紙の中だけのことで、「手紙の中のコジマは明るく生き生きとして、学校で見かけるコジマとはまるで別人のように見えた」と、クラスのイジメの材料になるのを恐れて、お互いに見て見ぬふりをし合う関係でしかいられなかったのは、悲しいことでした。 それでも手紙で約束した非常階段で再び会うことができた日は、「風とコジマの笑い声がまじった音がしばらく耳の中で響いていた」と表現されていたほど、笑って過ごせる楽しい時間だったのだと思います。 そして、「コジマが僕に向けて書いてくれた言葉は、暗闇の中で僕に向かってぼんやりと温かく光り、そして僕が書いた手紙もコジマがつらい気持ちの時にそれを和らげ、こんな気持ちにさせるものであったらいいのになとそんなことを思った」と考えるほど、手紙のやり取りはお互いの気持ちを支える大切なものだったのだと思います。 期末テストが終わったあと、コジマから「実は君を連れていきたいところがあります。どこかというと、それはヘヴンです」という手紙が届きます。 夏休みの初日、「僕」はヘヴンがどこなのか知らされないまま、コジマと2人電車で街を離れます。 2人がやって来たのは美術館で、コジマは「ヘヴンは絵のことで私がいちばん好きな絵のことなの」と説明します。「その絵はね、恋人たちが部屋でケーキを食べている絵で、その恋人たちはね、とてもつらいことがあったのよ。とても悲しいことがあったけど、それをちゃんと乗り越えることができた2人で、だから今2人は最高の幸せの中に住むことが出来ているっていうわけなの。2人が乗り越えてたどり着いた、なんでもないように見えるあの部屋が実はヘヴンなの。画集でいっつもいっつも見てたのよ」と、コジマは僕に熱く語りました。実はその絵には違う題名がついていて、コジマが名づけ直したものでした。 コジマのイジメに耐えつつも将来に希望を抱く想いが伝わってくる場面です。 夏休みに入ると、学校がないので誰にも会わなくて済むので、「僕に言いようのない安心を与えてくれた。こうしてひとりでいる限りにおいては、誰であっても僕に指一本触れることが出来ないという当たり前のことが、僕にはとても心強く感じられた」と思うほど、イジメから解放されたつかの間の平穏な日々でした。そういう境遇にある彼らにとって、夏休みとは、そういうものなのだと、あらためて知る思いでした。 そんな夏休みも終わりに近づいたある日、2人は再び非常階段で会う約束をします。 そこでコジマは、初めて家庭の事情を話します。昔父親が経営していた工場が借金を抱えて倒産し、両親は離婚、当時小学生だったコジマは母親に引き取られ、今では母親の新しい男と一緒に3人で何不自由ない暮らしている一方で、本当の父親は今1人で新しい靴も買えない貧しい生活をしていると打ち明けます。夏休みにひとりでその父親に会いに行き、相変わらず優しい父親と楽しく過ごしたと言います。 工場を経営していた頃、家族のために必死で働いている父親の姿を覚えているコジマは、父親の苦労が報われていないこと、今も貧しい生活を強いられていることを嘆き、イジメを受けながらもそれに耐えている今の自分と重ね合わせます。 そして、「私がこんなふうに汚くしているのは、お父さんを忘れないようにしてるだけ。お父さんと一緒に暮らしたことのしるしのようなもので、これは私にしか分からない大事なしるしなのだ。私には汚さにもちゃんとした意味がある。でもあの子たちにはそんなことを言っても絶対に分かってもらえない」と言います。 そして、「あの子たちは、本当に何も考えていない。ただ誰かのあとについて何も考えずにその真似をして、それがいったいどういう意味を持つことなのか、私たちはそんなこと想像もしたことのないような人たちのはけ口になっているだけ」とため息をつきます。 だから僕が斜視を理由にイジメられているのを見て、仲間だと思ったと言います。「斜視のせいで周りから酷い目に遭っているけど、それがいまの君という人をつくっているしるしでることも確かで、だから君の気持ちは誰よりもわかるし、わたしの気持ちを誰よりも分かってくれると思った。人に傷つけられてばかりだったから、人を傷つけることがどんなことなのかが本当に分かる、本当に優しい人だと思った」とコジマは僕に言います。 僕の方をじっと見て、「私は、君の目がとても好き」とゆっくりそう言われて、僕は身体中の力が抜け落ちて、そのままそこに座り込んでしまうという描写があるのですが、純情な中学2年生の男の子がそこに居ました。 別れ際、「いろいろなことがあるけど、私たち、頑張ろうね。いつか全部分かる時が来る。あの子たちにもきっと分かる時が来る。いつか絶対に色々なことが大丈夫になる時が来るから」と、励まし励まされるのでした。 夏休みが終わり学校が始まると、僕は再び身体のところどころに変調をきたすようになりますが、コジマは相変わらず前向きで、届いた手紙には、「私はあの子たちにののしられながら、酷い目に遭わせられながら、あの子たちの笑っている顔を見ていると可哀想に思えてくることがある」と綴られています。 「あの子たちは、これまでに大事なことを考える機会がきっとなかったんだろうな、と思える。私があの子たちの仕打ちから学んだように、あの子たちもいつか自分たちの行為から自力で学び、知る必要があると思う。私に対してしているあらゆることから、あの子たち自身が分からないといけない、理解することのできない種類のことだと思う。そのことだけでも、私たちのこんなふうな毎日は意味があるのではないかと、そんなふうに思っています」と、中学2年生とはとても思えない、でも毎日イジメられている側の切ない「意地」のようなものが感じられます。 「強者」と「弱者」と言いますが、コジマの言葉や手紙に綴られた思いをずっと読んでいると、本当はどっちがどっちなんだろうと思ってしまいます。 ところで、イジメを受けていることをなぜ親に言わないのかと、ずっと思っていましたが、コジマは父親を忘れないためのしるしを大事に守っているので、一緒に暮らしている親には言わなかったんだと分かりましたが、僕についてはこう書かれていました。 「例えば母さんに打ち明けるところを、これまで何度も想像していた。でもそれはすぐに打ち消されるものだった。イジメられていることを母さんには知られたくなかった。そしてそれ以上に父さんにだけは、どんなことがあっても知られたくなかった。それにこの事実を打ち明けたところで、何かが好転することは絶対にないと分かっていた」 でもやっぱり親には打ち明けるべきだったなと私は思います。 ある日、僕はクラスの男子から壮絶なイジメ・集団的暴行を受けます。職員会議のため部活も禁止で全校生徒が早々に下校した放課後の体育館で、両手を腰の後ろで難く縛られて、一部を切り裂いたバレーボールを頭からスッポリと被せられ、そのまま床に倒された僕をボールに見立ててサッカーをして蹴り合うというものでした。校内には他に生徒はおらず、先生たちも職員会議中で、誰の目も届かない閉鎖された体育館でそれは行われたのです。 僕はさすがに逃げようとしましたが、相手は6人、こちらは1人では逃げられるはずもなく、終わったあとは、僕の顔は酷く腫れ上がり、制服は血まみれ、床には大量の血の海が広がっていました。 男子生徒たちのリーダーは、帰り際、このことは絶対に誰にも言わないこと、血の海となっている床は外の水道とそこにあるバケツと雑巾で綺麗にしてから帰るよう、僕に言い放って去っていきました。 体育館に来る直前にたまたま廊下で僕と出会し、連れ去られて行くのを見かけたコジマが、心配して駆けつけて来て、2人で体育館の床の血を綺麗に拭き取ったあと、僕を労るようにコジマはこう言います。 「君も私も、弱いからされるままになっているんじゃない。あいつらの言いなりになってただ従っているわけじゃない。自分たちに起きていることをきちんと理解して、私たちはそれを受け入れているんだ。だから、強いか弱いかで言ったら、むしろそれは強さがないとできないことなんだ」と。 先ほどの手紙といい、この言葉といい、コジマは強い信念でイジメに立ち向かっているようでした。 ただ、僕は次第にコジマの考えにはついていけず、僕にとってはただの闇の世界でしかないように思えてくるのでした。 僕はあまり眠れなくなり、次第に自殺について考えるようになり、日に日に自分が弱くなってきくのを他人事のようにぼんやりと感じるように、なっていました。 そんなある日、先日の暴行で受けた顔の治療のため訪れた総合病院のロビーで、僕をイジメるグループと行動を一緒にし、リーダー格の生徒と仲の良い77百瀬」という人物を見かけます。僕は堂々とその隣に座り、やがて百瀬は僕を避けるように病院の外に向かいますが、僕は百瀬を追いかけて捕まえ、話をします。ここまででもすごく勇気のある行動だったと思いますが、コジマの言葉も僕の心に影響していたのかと思います。 「なんで、君たちはこんなことができるんだ。誰であれ、誰かに対してこんな暴力を振るう権利はない。どこにもない」と、僕は百瀬に迫ります。 一方の百瀬。「権利があるから、人って何かするわけじゃないだろう。したいからするんだよ」と、かわします。 「別に君じゃなくたって全然いいんだよ。誰でもいいの。たまたまそこに君がいて、たまたま僕たちのムードみたいなのがあって、たまたまそれが一致したってだけのことでしかないんだから」と、訳のわからない説明をします。 「みんなただ、したいことをやってるだけで、まず彼らには欲求があって、その欲求を満たすだけの状況がたまたまあって、気ままにそれを遂行しているってだけの話だよ」 これに対して僕は、「欲求にしたがってあるだけだって、君は言ったけど、それが許されないことだってことは、君たちもわかってるんだろう。君たちには、後ろめたい気持ちがあるから、僕には口止めして、教師に隠れて、あんなふうにやるんだろう」と、いっきに百瀬を問い詰めます。 これに対して百瀬。「それが正しいことだからって、するわけじゃないだろう。したいことが正しいことだから、するわけじゃないだろう」 もうここまでくると哲学のような 世界で、私は何回も読み直しました。 「世界はひとつじゃないんだよ。みんな決定的に違う世界に生きてるんよ」と、価値観や倫理観の違いを百瀬は持ち出します。 「じゃあ、人の気持ちはどうなるんだ」と僕が呟くと、百瀬は「知らない」と即答。これには唖然としました。 それに「僕たちの年齢じゃ、なんであれ犯罪にはならないからね。イジメっていうのは曖昧だよね。そういうのってさ、解釈の問題だから」と、百瀬は本音を漏らします。 そして「『自分がされたら嫌なことは、他人にしてはいけません』っていうのはあれ、インチキだよ」と断言します。 またまたま、40代の夫婦と女高生の家族が近くを通りかかって。「例えば、あの娘が風俗の仕事に就くって言えば、あの父親は絶対に反対するだろうけど、あの父親も実は誰かの娘が働いている風俗の店には行ったりしてるんだよ。その誰かの娘の父親の気持ちなんて考えない。それとこれとは別ってね。誰だって自分の都合でものを考えて、自分に都合よく振る舞ってるだけなんだよ」と、雄弁に語ります。 さらに、「弱い奴らは本当のことにはたえられないんだよ。苦しみとか悲しみとか、それこそ人生なんて何の意味もない、そんな当たり前のことに耐えられないんだよ」と、これまでのコジマの考えと正反対の言葉を放ちます。 「全部たまたまのこと。僕たちは今たまたまそれができる。君は今たまたまそれができない。それだけのことだよ」 百瀬はそう言って、2人の会話は終わります。 どちらが正しいのでしょう。 どちらが「強者」でどちらが「弱者」何でしょう。 どちらが「善」でどちらが「悪」なのでしょう。 私たちは「常識」という基準でそれらを判断していましたが、「人としての自由意志」あるいは「本音と建前」という基準を、誰にも気づかれないようにそっと持ってきたとき、どんな判断をするのか、ちょっと怖いきがする問題提起の小説でした。
まだ読み終えた直後であまり感想がまとまってないけど、とにかく綺麗な物語だった。 肉体に刻まれた象徴は物語でありアイデンティティであること、それはひとつの美的であるが、そこに囚われる必要もない。肉体のひとつが変わろうが変わるまいが、長い人生において些細なことで、そんなことで人の大切な部分は変わらない...続きを読む。 新たな世界に飛び込めるならば、その行動は正しいのだから。 二ノ宮を中心とした奥行きのない空虚な彼らは何も変わらず、美しい世界を見ることはないだろう。それは自身のニヒルな感情に酔いしれる百瀬も同様に。一瞬のカタルシスに作品を委ねず書き上げた作家さん、ほんと偉いと思う。。。僕なら暴力に屈します。 コジマの、これは意味がある苦しみである、という考えは、断固拒否していきたい。 そのキリスト的思考は世界の都合でしかなくて、個人の都合じゃないと思ってる。 彼女は最後に完全にキリストになる。確かに彼女はあの場を納めた救いの神であり、発言に頷けるところは多くあるけれど、耐え忍び続け朽ち果てる世界がヘヴンであるはずないから。 肉体は改造してなんぼじゃい!ふざけんな! めちゃめちゃ宗教モノでした、大好きです。
いじめを題材にした作品だが、読後に残ったのは暴力そのものではなく、人が何を正しいと信じて生きるかという問いだった。 二ノ宮や百瀬の考え方は一見もっともらしく聞こえる部分もある。しかし結局のところ、あいつらはまだ子供だったのだと思う。 一方で主人公とコジマは苦しみながらも、自分なりの正しさを見失わ...続きを読むない。途中で何度も考えさせられたが、自分がなりたいのはお母さんや鼻のお医者さんのような大人だと感じた。 いじめられる側に原因はない。今も昔もそこは変わらない。 ラストからのコジマのこれからだけは少し気になったが、それも含めて忘れられない読書になった。
虐めに耐える男子と女子、中学生の希望と絶望の話。日常と暴力の対比、特に前半と後半の温度差、強さと弱さ、善と悪の対比、斜視と両眼視などあらゆる白黒とキラキラ輝く美しさの対比が印象的な物語でした。 日常から暴力描写の温度差が刺さる作品でもあり、強さとは弱さと何か、美しさと醜さとあらゆる対比表現が素晴らし...続きを読むかった。
百瀬が語る、ありとあらゆることに意味などなく、自分の行動や意味を決定づけるのは自分自身であるという主張と、コジマの言う「斜視こそが君を君とたらしめるものだ」という言葉を「僕」はどう捉えていくのか。 人は皆、この世界に劇的な意味を見出そうとしがちだがそんなものはない。良くも悪くも存在する理由や意味な...続きを読むんて、自分で決めれば良い。実存主義的な考えを多方面から感じた物語だった。
『ヘヴン』に響く、痛みの哲学 第一章:出会いと「しるし」 学校という閉ざされた地獄の中で、理由のない「いじめ」を受け続ける「僕」と「コジマ」。二人の出会いは、必然だったのかもしれません。 コジマは、自分が受ける苦痛を、他者とは違う特別な「しるし」なのだと言いました。痛みをただ恐れるのではなく、傷...続きを読むつくことでしか手に入らない「優しさ」がある。それを気高く「受け入れる」彼女の姿には、圧倒的な「強さ」が宿っていました。 ------------ 第二章:初めての外出、そしてハサミ 二人だけの初めての外出。現実の苦痛から逃れたあの美術館で、僕たちは確かに「ヘヴン」を見ていました。 僕は、彼女の拠り所、切るという行為をサポートします。 僕は、コジマに髪の毛を差し出したのでした。 少しずつ、2人の距離は近くなりました。 しかし、現実は容赦なく押し寄せます。クラスメイトの手によって、いじめはエスカレートするばかりです。 僕は、鼻が曲がるほどの重症を負うのでした。 僕は、いじめの取り巻きである、二宮に質問します。 なぜ、いじめるのか? 二宮の答えは、「そこに意味なんてない」という冷徹なものでした。 嫌ならば、逃げろ、怖いならば、声をあげろ! 僕の中で、何が壊れ、再構築がされ始めます。 ------------ 第三章:別れを乗り越えて、見えてくること やがて訪れる、コジマとの決定的な別れです。 「僕」は斜視の手術を受け、コジマと共有していた外見的な「しるし」を失います。 コジマも去り、二人だけの季節は終わりを告げました。 ラスト。 包帯を解いた「僕」の目に飛び込んできたのは、まばゆいばかりに輝く緑の並木道でした。 過酷な日々を「乗り越えてわかる」、新しく見えてくること。 それは、世界は残酷であると同時に、息をのむほど「美しい」という事実です。 たとえ傷が癒え、すべてが過去になっても、コジマの想いは胸に込み上げ、彼らの意味は永遠に変わりません。 そう、読者のひとりとして、信じてやみません。
百瀬の言ういじめ論なかで説明される「欺瞞と嘘で塗り固めた暴力性」に違和感があった。たしかに、彼の主張には誤りが多く含まれる。それを一つ一つ反論し説き伏せることもできる。しかし、それを乗り越えても、納得させられそうな気持ち悪さを拭うことはできない。なぜか。 川上未映子曰く、 "創作の動機...続きを読むとして、常に倫理全般への欲望があります。信仰や善悪や生命倫理……その中でも生殖は発端という感触があります。妊娠して出産をするというのは、いったい何が何をしていることなのか。それはいいことなのか、そうでないのか、あるいはそういった評価と関係ないことなのか。書くことで理解したいとかではなく、自分が問題だと思うことを、その時できる技術の限りをもってやっておきたい" ここを出発点にしていろいろ考えたい。生殖はいいことでもわるいことでもない、ただそうしたいからという欲望の帰結であるけど、その帰結のつながりや組み合わせが信仰とか善悪を生む。生殖そのものが中立だとしても、「他者を産み落とした瞬間、苦痛と暴力に参与させる」のだとしたら、生殖は中立でいられるのだろうか。生殖がウロボロスの出発点となり、因果を循環させる。なら、生殖は無関係とはいえず、無垢で尊い営みではない。それはあまりにも残酷な他者への仕打ちとさえいえる。 百瀬のいう「欺瞞と嘘で塗り固めた暴力性」とはまさにそこを突いている。善人の振りをしているけど、ヒトは自分の欲望のために、大なり小なり他者へ苦痛と暴力を与える。あなたは振るわないかもしれない。それは運がいいだけか、自分の暴力に鈍感なだけだ。誰しも暴力からは逃れられない。だから、そこを突かれると気持ち悪さを拭いきれない。 そうだとして、すべてのものが弱肉強食で支配されることに肯定するのか。欲望に従うことを肯定するのか。そうではない。欺瞞と嘘であるかもしれない善がなぜ社会や個人に存在してしまうのか。そしてそれに従うとはどういうことなのか。なぜ従えるときとそうでないときがあるのか。これら問題に答えを出せて初めて欲望をただ肯定するべきなのかに答えを出せる。これを無視することは、川上未映子のいうまさに『おめでたい人』なのだ。
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