あらすじ
「苛められ、暴力をふるわれ、なぜ僕はそれに従うことしかできないのだろう」 善悪の根源を問う、著者初の長編小説。
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Posted by ブクログ
虐められている少年と少女のお話。
なんで、こんなにも酷いいじめの小説が世に出ているのに、いじめは無くならないんだろう。
こんな小説を読んだら、誰もが悲しい気持ちになるはずなのに。
そもそも、いじめをする側の人間は、本など読まない下等な生き物なのだろうか。
本を読むことと、人に共感できることは、残念ながらイコールじゃない。
本を読んでも、人を傷つける人はいる。
逆に、ほとんど本を読まなくても、人の痛みに敏感な人もいる。
いじめって、個人の「性格の悪さ」だけじゃなくて、集団の空気とか、力関係とか、「自分が標的になりたくない」という恐怖とか、そういうものが絡み合って起きるから。
だからこそ、「この小説を読めば、みんな優しくなるはず」では済まない難しさがあるんだと思う。
こんなに酷い話を書いているのに、世の中に伝わっていないとしたら、小説が世の中に果たす役割って、なんなんだろうと思わずにはいられない。
だからといって、小説の役割が無意味になるわけじゃない。むしろこういう本の役割って、「世界を直接変えること」より、「読んだ一人の人間の中に、消えないものを残すこと」なんじゃないかなと思う。
「つらい」「どうしてなくならないんだ」って考える。それだけでも、もうこの物語は読者の中で何かを起こしてる。そして、その読者がまた誰かに優しくする。その誰かが、また別の誰かに……。
すごく小さなことだけど、小説ってそういうふうにしか世界に作用できないのかもしれない。
でも、その小ささを馬鹿にしちゃいけないと思う。
作品は時間を超えて、人の人生に入り続ける。『ヘヴン』も、そういう作品なんだと思う。
内容は目を背けたくなるほど痛いのに、文章そのものには静かな美しさがある。このアンバランスさが、余計に心に残る。
美しい文章だから、残酷なものが美化されているわけじゃない。むしろ、美しい風景や光や身体感覚がすっと差し込んでくることで、「この子たちは、こんな世界の中でもちゃんと生きている」って感じさせられる。
そこが川上未映子さんの凄さなのかもしれない。
「ねえ、でもね、これにはちゃんとした意味があるのよ。これを耐えたさきにはね、きっといつかこれを耐えなきゃたどりつけなかったような場所やできごとが待ってるのよ。そう思わない?」
「色々なことがあるけど、わたしたち、がんばろうね。・・・・わたしはわたしの家があんなだったからこういうしるしを手にいれて、君は君の目がそうだったから君で、それでこうして会えたんだもの。・・・・・こうやって話をすることができたんだもの。こんなふうに一緒にいられるようになれたんだもの。いつかぜんぶわかるときが来るよ。
あの子たちにも、きっとわかるときが来る。いつかぜったいに色んなことが大丈夫になるときが来るから」
この子たちが受けているものに、何か意味があってほしい。この苦しみの先に、ちゃんと光があってほしい。ふたりの世界が、コジマの言う、うれしいときに出るドーパミン、"うれぱみん"で溢れる世界であるように願わずにはいられない。
でも絶対そう上手くはいかないんだよね、たぶん。っていう感覚が、どうしても付きまとう。そこが、この言葉の怖いところでもあると思う。
コジマは「いつか全部わかる」と信じようとしている。でも読者である私たちは、そんなに簡単に世界が帳尻を合わせてくれるわけじゃないことを知っている。だから、「希望の言葉なのに、読んでいると悲しくなる」
コジマの希望を笑う気にはなれない。
むしろ、その希望を抱かないと耐えられないほどの場所に彼女がいることが、悲しい。
"僕たちはしばらくそのまま口をきかないでいて、そのあいだじゅう見つめあうようなかっこうになった。それからコジマは、少しだけ迷ったように見えたけれど両手で僕の右手をとり、指さきで指さきをなぞるようにさわり、手のひらをひろげてしばらくじっと見たあと、両手でつつみこむようにぎゅっとにぎった。コジマの指も手のひらもうっすらと汗をかいて湿っていて僕の手よりもずいぶんと冷たかった。そしてとても小さかった。僕もにぎられた右手でコジマの手をしっかりとにぎった。コジマにさわったのはこれがはじめてだった。
蝉の鳴き声がさっきよりも小さく折りたたまれてそのまま遠くに追いやられ、ほとんどきこえないくらいになっていることに気がついた。さっきまでの鳴るような暑さを僕は皮膚のどこにも感じなくなっていた。これまでとはまったく違う表情をうかべているように見えてしまうコジマの顔が、僕の顔のすぐそこにあった。"
この一文まで積み上げていく文章、すごいよね。
手を取る。
指先に触れる。
手のひらを見る。
包み込む。
握る。
川上未映子さん、触れるという行為を、ものすごく細かく分解して描いてる。しかも、その直後に、蝉の鳴き声がさっきよりも小さく折りたたまれて……
って、世界の音が変わる。これ、すごく好き。
二人が触れた瞬間に、周囲の世界が消えたわけじゃない。蝉は鳴いているし、暑さもそこにある。なのに「僕」の知覚だけが変わる。
さっきまで皮膚を刺すようだった暑さを感じなくなる。蝉の声が遠くなる。そしてコジマの顔が、今までとはまったく違って見える。
つまり、世界が変わったんじゃなくて、「僕にとっての世界」が変わった。
これって、恋とか、人を好きになる瞬間の描写としてもすごく美しいと思う。
……なのに。
「こんなに美しい場面を、素直に美しいと思っていいの?」って、どうしても警戒してしまう。
それがまた苦しい。
物語そのものが読者に「安心していいよ」と言ってくれない。
こんなに美しい文章で、こんなに繊細な二人の時間を描くからこそ、「この二人にも、こんな瞬間がある」ということが、ものすごく切実になる。
いじめられている少年と少女。でも、その属性だけじゃない。
手が冷たい。
汗をかいている。
手が小さい。
蝉の声を聞いている。
暑さを感じている。
誰かに触れられると、世界の感じ方が変わる。
ちゃんと一人の人間として、生きている。
だからこそ、その二人に起きていることが、余計につらいんだと思う。
"わたしがあの子たちの犠牲者だとしたら、あの子たちもまたなにかもっと大きなものの犠牲者なのじゃないかと、そう思ったりもするのです。"
「君もわたしも、弱いからされるままになってるんじゃないんだよ。あいつらの言いなりになってただ従ってるわけじゃないの。最初はそうだったかもしれないけれど、わたしたちはただ従ってるだけじゃないんだよ。受け入れてるのよ。自分たちの目のまえでいったいなにが起こってるのか、それをきちんと理解して、わたしたちはそれを受け入れてるんだよ。強いか弱いかで言ったら、それはむしろ強さがないとできないことなんだよ」
「弱いからされるままになっている」という見方を、彼女自身が否定する。ここは、かなり難しいところだと思う。「耐えること=強さ」と単純には言いたくない。現実のいじめでは、逃げることも、助けを求めることも、環境を変えることも、全部立派な選択だから。
だから「耐えられる人が強くて、逃げる人が弱い」なんてことは絶対にない。
でもコジマが言っているのは、たぶん少し違う。彼女は、「私は、あなたたちに定義された『弱い人間』ではない」って、自分の尊厳を取り戻そうとしているんじゃないかな。
いじめる側から見れば、
「こいつは弱いからこういう目に遭っている」
という単純な物語にしてしまえる。
でもコジマは、それを拒む。
「私たちが何をされているのかを、私たちは分かっている。そして、その世界を見ている」
そういうところに、自分の主体性を見つけている。だからコジマの「強さ」って、耐える能力そのものではなく、自分が何者なのかを、加害する側の物差しだけでは決めさせないことなんじゃないかなと思う。
そして、すごいのが
「あの子たちにも、いつかきっとわかるときがくる」ここで涙腺崩壊。
だって、この言葉って、単純な「復讐」じゃない。「あいつらもいつか罰を受ける」じゃない。「あの子たちにも、いつかわかる」なんだよね。憎しみだけで終わらせない。
自分を傷つけている人間に対してさえ、「分かる人間になれる可能性」を残している。
それって、すごく残酷なほど優しいと思う。
そして同時に、
「本当にそんな日が来るのかな」
という悲しさも残る。だから余計に泣けるんだと思う。
"僕"が、虐める側の百瀬と対峙するところ。
「君に話があるんだ」「なんでそんなに酷いことができるんだ」って。
はっきり言って、
百瀬の弁明は糞。
「なあ、世界はさ、なんて言うかな、ひとつじゃないんだよ。みんながおなじように理解できるような、そんな都合のいいひとつの世界なんて、どこにもないんだよ。そういうふうに見えるときもあるけれど、それはただそんなふうに見えるというだけのことだ。みんな決定的に違う世界に生きてるんだよ。最初から最後まで。あとはそれの組みあわせでしかない」
共感できるところはひとつもない。
何が善で、何が悪なのか?
そういうことではないと思う。
もし、そういう世界を受け入れるなら
自分自身も、サクッと
殺さて、何も言えない世界をを受け入れて
生きていかなきゃいけないよね。
……いやいやいや
そんな世界に誰が住みたいんだよ。
だから問題は「世界が一つかどうか」じゃない。
違う世界を生きている人間同士が、どうやって共存するのか。
そこに倫理が必要になる。
そしてね、百瀬って、ものすごく「議論に勝つこと」と「人間として正しいこと」を混同してるように感じる。
自分が感じた「嫌さ」の構造としては、
「相手の痛みを受け止める代わりに、言葉のゲームに持ち込んでしまう感じ」なんじゃないかな。
「なぜそんな酷いことをするの?」という問いに対して、「世界はひとつじゃない」って答える。
いや、質問に答えてないんだよね。
「君は僕とは違う世界にいる」と言っているだけ。
そして、その言葉によって、目の前にいる一人の人間の苦痛から逃げている。
ここが百瀬の一番怖いところなんじゃないかな。
でも、ちょっとだけ丁寧に見ると、百瀬の言葉って、すごく巧妙なんだと思う。
「世界はひとつじゃない」
これは、それだけなら確かに間違ってない。
人によって見えている世界は違う。
同じ出来事でも、受け取り方は違う。
価値観だって違う。
でも百瀬は、その「違う世界に生きている」ことを、他人を傷つけることへの免罪符にしている。
そこが、とんでもなく嫌なんだと思う。
たとえば、
「僕には君を傷つけることが正しいと思える世界がある」と言ったとしても、
だから君を傷つけていいにはならない。
「人それぞれ」という言葉は、本来は他人を尊重するための言葉なのに、百瀬の場合は逆なんだよね。他人を理解することを放棄するために使っている。
コジマは、「わたしたちは……自分たちの目のまえでいったいなにが起こってるのか、それをきちんと理解して、わたしたちはそれを受け入れてる」と言った。
百瀬もある意味では「世界を受け入れている」。
でも、二人は全然違う。
コジマは、自分が傷つけられている現実を見つめている。
百瀬は、他人を傷つけている現実を言葉で相対化している。
ここ、ものすごく大きな違いだと思う。
コジマの「受け入れる」は、自分の痛みから逃げないこと。
百瀬の「受け入れる」は、他人の痛みに責任を持たないこと。
同じ「受け入れる」という言葉なのに、向いている方向が真逆なんだよね。
川上未映子さんの本を読んで、
こんな胸糞な気持ちになるのに
自分自身でびっくりしてる
小説の役割って、「読んだ一人の人間の中に、消えないものを残すこと」なんだとしたら、とてつもなく重い、消えないものを
川上未映子さんは俺の胸の中に残した。
「いじめは悪いことだ」みたいな単純な教訓じゃない。もっと厄介なものだと思う。
「人間の強さって何なんだろう」
「世界が違うということを、どこまで受け入れていいんだろう」
「他人を理解できないとき、それでもどうやって一緒に生きるんだろう」
「苦しんでいる人の前で、傍観者でいることは何なのか」
そしてたぶん、
「正しさって、誰かを論破することじゃないんじゃないか」という問い。
これ、簡単には消えない。
『ヘヴン』って、読者を気持ちよくしてくれる小説じゃない。たぶん、読者の胸の中に異物みたいなものを置いていく。
「これ、どうすればいいんだよ」っていうものを。
でも、その異物があるから、読み終わったあとも考えてしまう。そして何年か経って、別の出来事に出会ったとき、
「ああ、あのとき『ヘヴン』で考えたことって、こういうことだったのか」って、突然つながったりする。そういう本って、怖いんだよね。
人生の中に住みついちゃうから。
"僕"が虐めの原因であると思っている
斜視を手術で治ることがわかって
コジマに打ち明けるところ。
コジマは、斜視はこの世界で強く生きていくための「しるし」だって言うんだな。
僕の斜視が2人を導いて、この酷い世界で仲間になれたって言うんだよ。
分からないではないけど、
コジマの言うことも、頑なすぎるんだよね。
一種の宗教的な感じさえもした。
「しるし」をどうするのか?ここ、すごく大きな転換だと思う。
コジマは最後まで、「斜視には意味がある」と信じようとする。
自分が受けた苦しみも、二人が出会えたことも、それを耐え抜いたことも、全部「しるし」という物語に結びつける。
でも、コジマのそれを単純に「間違い」とも言えないんだよね。
だって、あまりにも酷い現実を生き抜くには、
「この苦しみにも意味がある」と思わないと耐えられないことって、あると思う。
ただ、その意味づけが強くなりすぎると、「この苦しみには意味があるんだから、捨ててはいけない」に変わってしまう。そこが怖い。
やがて、コジマとの友情も崩れてしまうんだな。悲しいね。
そして、最後のいじめ側の奴らとのシーン
公園でコジマとのセックスを強要させるところ。
コジマが表情で訴えかけてくることが
僕には、前に百瀬が言ったことと重なってしまうんだ
「この世界に意味なんてない。でもこの世界を受け入れている」
ってことに。
善と悪、強さとは何なのか
一気に畳み掛けてきたよ。
昨日は、百瀬の言う弁明はクソだと思ったけど
川上未映子さんが差し出してきたものは
善と悪、強さとは何か?という
根源的な問いなんだろうか?
全ての酷い虐めが一応終息して
結局、斜視の手術を受けることにするんだ。
で、結局救われるのは、至ってシンプルな母さんの言葉。
「自分で決めることだけど、手術しなさいって、言いたい」そう言うと母さんは笑った。
「目なんて、ただの目だよ。そんなことで大事なものが失われたり損なわれたりなんてしないわよ。残るものはなにしたって残るし、残らないものはなにしたって残らないんだから」
"しるし"なんてものは、ただのしるし。
重荷だったら捨てたらいいし、それを変えて
生きやすくなるのなら、そうしたらいい。
「目なんて、ただの目だよ。」
……これ、ものすごく強いよね。
コジマが一冊の宗教書を差し出してきたとしたら、母親は、「いや、そんなに難しく考えなくていいよ」って言ってるように私は感じる。
斜視は「しるし」でもいい。
でも、ただの目でもいい。手術してもいい。
しなくてもいい。大切なものが残るなら、それでいい。
つまり、「意味は自分で与えていい。でも、意味に縛られなくてもいい」
なんじゃないかな。これ、かなり自由な考え方だと思う。そう言ってるように聞こえた。
もしかしたら『ヘヴン』って、最初は「この苦しみには意味がある」という物語に見えて、最後には、「意味があってもなくても、生きていっていい」というところまで辿り着いたんじゃないかな。
そして、手術を受けた僕が見たこの小説の最後。
「なにもかもが美しかった。これまで数えきれないくらいくぐり抜けてきたこの並木道の果てに、僕ははじめて白く光る向こう側を見たのだった。僕にはそれがわかった。僕の目からは涙が流れつづけ、そのなかではじめて世界は像をむすび、世界にははじめて奥ゆきがあった。世界には向こう側があった。」
やっと、この世界の向こう側にある
「ヘブン」を見つけたのだね。
「世界には向こう側があった。」
……美しいね。
ここで初めてタイトルの「ヘヴン」が、本当の意味で現れる。それまでの彼にとって世界は、閉じていたんだと思う。虐められる学校。家。自分の目。百瀬。コジマ。逃げられない関係。
どこを向いても、壁しかない。ところが手術を終えた彼の目に、
世界には奥行きがある。
世界には向こう側がある。
と見える。
これって単純に「視力が良くなった」という話じゃないんだよね。
「自分が見ている世界が、世界の全部ではなかった」という発見なんじゃないかな。
百瀬が「世界はひとつじゃない」と言っていた。
その言葉は、人を傷つけることの免罪符みたいに使われていた。でも最後に「世界には向こう側があった」と分かる。
同じ「世界」という言葉なのに、全然違う場所に着地するんだよね。
百瀬は、「世界は違う。だから他人を理解する必要もない」と言う。
最後の「僕」は、「世界にはまだ見えていない向こう側がある」と知る。
私はここに、この小説のものすごく大きな違いがある気がする。
この小説は「これが善です」「これが強さです」という答えをくれない。むしろ、「そんな簡単に決められると思う?」って、読者に突き返してくる。コジマも、僕も、百瀬も、みんなそれぞれ違う方法で世界を説明しようとしている。
でも最後に救いをもたらすのは、壮大な哲学でも宗教でもなく、「目なんて、ただの目だよ」
という母親の言葉だった。
なんだか、すごいよね。
世界を説明しようとする言葉より、世界をそのまま受け入れる、ものすごく普通の言葉。
そこに救いがある。
あぁ、やっと最後に
川上未映子さんらしい、
透き通るような美しい文章に出会えて
ほっとして、嬉しかった。
すごく重たいものを、心に残したけど
すごくおもしろかったよ。
おもしろかったと言っていいのか、わかんないけど。
10年後くらい、または死の間際
自分の人生はなんだったのか、
考える時、また読みたいと思ったよ。
Posted by ブクログ
作中で 「なぜ傍観するのか?」という切実な問いかけに対して 淡々と そして非情に語られる「無関心の理由 無関心でいることの正当性」は 一見 荒唐無稽で支離滅裂であるように感じられ、不快感を煽られるが、よくよく考えてみれば そこで語られるのは 彼らを取り巻く大人の社会 =私たちの生きる現実社会において 有形無形の暴力がはびこる理由、そして それらの暴力が糾弾されず むしろ容認され続ける理由にも聞こえてくる。そこに おぞましさがある。ハッピーエンドとはならず決して 後味のいい小説と言えないが 心にずっしりと残る、そしてそのずっしりをいつまでも留めておきたいと感じる作品。
Posted by ブクログ
物語もさることながら、情景や心象の描写がとても印象的だった。あの年頃だったときの、確かにここにいるが靄に包まれて先が見えない感じを思い起こした。それは恐怖でもあり、未来へ少しずつ向かっている感覚でもあった気がする。自分の過去の心象風景を掘り起こしてくれた大切な作品になった。
Posted by ブクログ
単行本に続いて、文庫本で再読しました。
主人公の「僕」は中学2年生で、ある日、ふで箱の鉛筆と鉛筆のあいだに小さく折りたたまれて入っていた紙に、シャープペンシルで「私たちは仲間です」と書かれたメッセージを受け取ります。
主人公の「僕」は、斜視が原因でクラスの男子生徒たちから、日常的に暴力を伴うイジメを受けていました。その後も机の中に差出人不明の手紙は届き、そこに書かれた文章も少しずつ長くなって、次第に机の中に手紙があるかどうか確かめるのが「僕」の習慣になっていきました。
ある日、「会いたいです」という手紙が届き、これもイジメのひとつで誰かが待ち構えているのではないかと不安を抱きつつ、待ち合わせの公園に行くと、そこに待っていたのは同じクラスの「コジマ」という女子生徒で、彼女も家が貧乏とか不潔だということでクラスの女子生徒たちからイジメられている生徒でした。
彼女は、「君と色々な話をしたいなあと思って。そういうのが、私にも君にも必要なんじゃないかなって、ずっと思ってた」と語り、「友達になって欲しいの」と僕に言います。
* * * * * * * * * * * * * * *
この小説の題材は、『ヘヴン』という小説のタイトルのイメージとはかけ離れた、クラスの集団的な「イジメ」です。
暴力を伴う壮絶なイジメの描写の連続で、読んでいてもつらくなりますが、イジメられる側の「僕」と「コジマ」、イジメる側の「百瀬」のセリフや行動を追いかけながら、あらためて私の感想を書かせていただきたいと思います。(ほぼネタバレですがご容赦ください)
さて、公園で会って会話をした日を境に、手紙をやり取りするようになります。ここで斜視についての説明があるのですが、「すぐそこにあるものを触るにも、うまく距離感がつかめず、指先で触っても、ちゃんと触れているのか、正しく触れているのかどうかわからない感触がいつも残った」とあるのですが、手紙のやり取りをしながらも、「コジマ」との関係に、まだ不安を抱いている「僕」の心境を比喩的に描いているように思いました。
それでも、「文章を書くのは難しいですね」とか「1時間以上も机に向かっています」と手紙に書くなど、手紙を楽しんでいる様子が伺われます。「コジマの声と6Bの芯はよく似ている。柔らかいのに濃く、芯があるところが似ている」なんて、なかなか上手いこと書いてます。
一方でコジマも、「何もすることがないと、何かと戦ってるような気持ちになります。じっと戦ってるような、そんな気がします」と、同じ境遇だからこその本音も手紙に記します。
でもそんな2人の関係は手紙の中だけのことで、「手紙の中のコジマは明るく生き生きとして、学校で見かけるコジマとはまるで別人のように見えた」と、クラスのイジメの材料になるのを恐れて、お互いに見て見ぬふりをし合う関係でしかいられなかったのは、悲しいことでした。
それでも手紙で約束した非常階段で再び会うことができた日は、「風とコジマの笑い声がまじった音がしばらく耳の中で響いていた」と表現されていたほど、笑って過ごせる楽しい時間だったのだと思います。
そして、「コジマが僕に向けて書いてくれた言葉は、暗闇の中で僕に向かってぼんやりと温かく光り、そして僕が書いた手紙もコジマがつらい気持ちの時にそれを和らげ、こんな気持ちにさせるものであったらいいのになとそんなことを思った」と考えるほど、手紙のやり取りはお互いの気持ちを支える大切なものだったのだと思います。
期末テストが終わったあと、コジマから「実は君を連れていきたいところがあります。どこかというと、それはヘヴンです」という手紙が届きます。
夏休みの初日、「僕」はヘヴンがどこなのか知らされないまま、コジマと2人電車で街を離れます。
2人がやって来たのは美術館で、コジマは「ヘヴンは絵のことで私がいちばん好きな絵のことなの」と説明します。「その絵はね、恋人たちが部屋でケーキを食べている絵で、その恋人たちはね、とてもつらいことがあったのよ。とても悲しいことがあったけど、それをちゃんと乗り越えることができた2人で、だから今2人は最高の幸せの中に住むことが出来ているっていうわけなの。2人が乗り越えてたどり着いた、なんでもないように見えるあの部屋が実はヘヴンなの。画集でいっつもいっつも見てたのよ」と、コジマは僕に熱く語りました。実はその絵には違う題名がついていて、コジマが名づけ直したものでした。
コジマのイジメに耐えつつも将来に希望を抱く想いが伝わってくる場面です。
夏休みに入ると、学校がないので誰にも会わなくて済むので、「僕に言いようのない安心を与えてくれた。こうしてひとりでいる限りにおいては、誰であっても僕に指一本触れることが出来ないという当たり前のことが、僕にはとても心強く感じられた」と思うほど、イジメから解放されたつかの間の平穏な日々でした。そういう境遇にある彼らにとって、夏休みとは、そういうものなのだと、あらためて知る思いでした。
そんな夏休みも終わりに近づいたある日、2人は再び非常階段で会う約束をします。
そこでコジマは、初めて家庭の事情を話します。昔父親が経営していた工場が借金を抱えて倒産し、両親は離婚、当時小学生だったコジマは母親に引き取られ、今では母親の新しい男と一緒に3人で何不自由ない暮らしている一方で、本当の父親は今1人で新しい靴も買えない貧しい生活をしていると打ち明けます。夏休みにひとりでその父親に会いに行き、相変わらず優しい父親と楽しく過ごしたと言います。
工場を経営していた頃、家族のために必死で働いている父親の姿を覚えているコジマは、父親の苦労が報われていないこと、今も貧しい生活を強いられていることを嘆き、イジメを受けながらもそれに耐えている今の自分と重ね合わせます。
そして、「私がこんなふうに汚くしているのは、お父さんを忘れないようにしてるだけ。お父さんと一緒に暮らしたことのしるしのようなもので、これは私にしか分からない大事なしるしなのだ。私には汚さにもちゃんとした意味がある。でもあの子たちにはそんなことを言っても絶対に分かってもらえない」と言います。
そして、「あの子たちは、本当に何も考えていない。ただ誰かのあとについて何も考えずにその真似をして、それがいったいどういう意味を持つことなのか、私たちはそんなこと想像もしたことのないような人たちのはけ口になっているだけ」とため息をつきます。
だから僕が斜視を理由にイジメられているのを見て、仲間だと思ったと言います。「斜視のせいで周りから酷い目に遭っているけど、それがいまの君という人をつくっているしるしでることも確かで、だから君の気持ちは誰よりもわかるし、わたしの気持ちを誰よりも分かってくれると思った。人に傷つけられてばかりだったから、人を傷つけることがどんなことなのかが本当に分かる、本当に優しい人だと思った」とコジマは僕に言います。
僕の方をじっと見て、「私は、君の目がとても好き」とゆっくりそう言われて、僕は身体中の力が抜け落ちて、そのままそこに座り込んでしまうという描写があるのですが、純情な中学2年生の男の子がそこに居ました。
別れ際、「いろいろなことがあるけど、私たち、頑張ろうね。いつか全部分かる時が来る。あの子たちにもきっと分かる時が来る。いつか絶対に色々なことが大丈夫になる時が来るから」と、励まし励まされるのでした。
夏休みが終わり学校が始まると、僕は再び身体のところどころに変調をきたすようになりますが、コジマは相変わらず前向きで、届いた手紙には、「私はあの子たちにののしられながら、酷い目に遭わせられながら、あの子たちの笑っている顔を見ていると可哀想に思えてくることがある」と綴られています。
「あの子たちは、これまでに大事なことを考える機会がきっとなかったんだろうな、と思える。私があの子たちの仕打ちから学んだように、あの子たちもいつか自分たちの行為から自力で学び、知る必要があると思う。私に対してしているあらゆることから、あの子たち自身が分からないといけない、理解することのできない種類のことだと思う。そのことだけでも、私たちのこんなふうな毎日は意味があるのではないかと、そんなふうに思っています」と、中学2年生とはとても思えない、でも毎日イジメられている側の切ない「意地」のようなものが感じられます。
「強者」と「弱者」と言いますが、コジマの言葉や手紙に綴られた思いをずっと読んでいると、本当はどっちがどっちなんだろうと思ってしまいます。
ところで、イジメを受けていることをなぜ親に言わないのかと、ずっと思っていましたが、コジマは父親を忘れないためのしるしを大事に守っているので、一緒に暮らしている親には言わなかったんだと分かりましたが、僕についてはこう書かれていました。
「例えば母さんに打ち明けるところを、これまで何度も想像していた。でもそれはすぐに打ち消されるものだった。イジメられていることを母さんには知られたくなかった。そしてそれ以上に父さんにだけは、どんなことがあっても知られたくなかった。それにこの事実を打ち明けたところで、何かが好転することは絶対にないと分かっていた」
でもやっぱり親には打ち明けるべきだったなと私は思います。
ある日、僕はクラスの男子から壮絶なイジメ・集団的暴行を受けます。職員会議のため部活も禁止で全校生徒が早々に下校した放課後の体育館で、両手を腰の後ろで難く縛られて、一部を切り裂いたバレーボールを頭からスッポリと被せられ、そのまま床に倒された僕をボールに見立ててサッカーをして蹴り合うというものでした。校内には他に生徒はおらず、先生たちも職員会議中で、誰の目も届かない閉鎖された体育館でそれは行われたのです。
僕はさすがに逃げようとしましたが、相手は6人、こちらは1人では逃げられるはずもなく、終わったあとは、僕の顔は酷く腫れ上がり、制服は血まみれ、床には大量の血の海が広がっていました。
男子生徒たちのリーダーは、帰り際、このことは絶対に誰にも言わないこと、血の海となっている床は外の水道とそこにあるバケツと雑巾で綺麗にしてから帰るよう、僕に言い放って去っていきました。
体育館に来る直前にたまたま廊下で僕と出会し、連れ去られて行くのを見かけたコジマが、心配して駆けつけて来て、2人で体育館の床の血を綺麗に拭き取ったあと、僕を労るようにコジマはこう言います。
「君も私も、弱いからされるままになっているんじゃない。あいつらの言いなりになってただ従っているわけじゃない。自分たちに起きていることをきちんと理解して、私たちはそれを受け入れているんだ。だから、強いか弱いかで言ったら、むしろそれは強さがないとできないことなんだ」と。
先ほどの手紙といい、この言葉といい、コジマは強い信念でイジメに立ち向かっているようでした。
ただ、僕は次第にコジマの考えにはついていけず、僕にとってはただの闇の世界でしかないように思えてくるのでした。
僕はあまり眠れなくなり、次第に自殺について考えるようになり、日に日に自分が弱くなってきくのを他人事のようにぼんやりと感じるように、なっていました。
そんなある日、先日の暴行で受けた顔の治療のため訪れた総合病院のロビーで、僕をイジメるグループと行動を一緒にし、リーダー格の生徒と仲の良い77百瀬」という人物を見かけます。僕は堂々とその隣に座り、やがて百瀬は僕を避けるように病院の外に向かいますが、僕は百瀬を追いかけて捕まえ、話をします。ここまででもすごく勇気のある行動だったと思いますが、コジマの言葉も僕の心に影響していたのかと思います。
「なんで、君たちはこんなことができるんだ。誰であれ、誰かに対してこんな暴力を振るう権利はない。どこにもない」と、僕は百瀬に迫ります。
一方の百瀬。「権利があるから、人って何かするわけじゃないだろう。したいからするんだよ」と、かわします。
「別に君じゃなくたって全然いいんだよ。誰でもいいの。たまたまそこに君がいて、たまたま僕たちのムードみたいなのがあって、たまたまそれが一致したってだけのことでしかないんだから」と、訳のわからない説明をします。
「みんなただ、したいことをやってるだけで、まず彼らには欲求があって、その欲求を満たすだけの状況がたまたまあって、気ままにそれを遂行しているってだけの話だよ」
これに対して僕は、「欲求にしたがってあるだけだって、君は言ったけど、それが許されないことだってことは、君たちもわかってるんだろう。君たちには、後ろめたい気持ちがあるから、僕には口止めして、教師に隠れて、あんなふうにやるんだろう」と、いっきに百瀬を問い詰めます。
これに対して百瀬。「それが正しいことだからって、するわけじゃないだろう。したいことが正しいことだから、するわけじゃないだろう」
もうここまでくると哲学のような
世界で、私は何回も読み直しました。
「世界はひとつじゃないんだよ。みんな決定的に違う世界に生きてるんよ」と、価値観や倫理観の違いを百瀬は持ち出します。
「じゃあ、人の気持ちはどうなるんだ」と僕が呟くと、百瀬は「知らない」と即答。これには唖然としました。
それに「僕たちの年齢じゃ、なんであれ犯罪にはならないからね。イジメっていうのは曖昧だよね。そういうのってさ、解釈の問題だから」と、百瀬は本音を漏らします。
そして「『自分がされたら嫌なことは、他人にしてはいけません』っていうのはあれ、インチキだよ」と断言します。
またまたま、40代の夫婦と女高生の家族が近くを通りかかって。「例えば、あの娘が風俗の仕事に就くって言えば、あの父親は絶対に反対するだろうけど、あの父親も実は誰かの娘が働いている風俗の店には行ったりしてるんだよ。その誰かの娘の父親の気持ちなんて考えない。それとこれとは別ってね。誰だって自分の都合でものを考えて、自分に都合よく振る舞ってるだけなんだよ」と、雄弁に語ります。
さらに、「弱い奴らは本当のことにはたえられないんだよ。苦しみとか悲しみとか、それこそ人生なんて何の意味もない、そんな当たり前のことに耐えられないんだよ」と、これまでのコジマの考えと正反対の言葉を放ちます。
「全部たまたまのこと。僕たちは今たまたまそれができる。君は今たまたまそれができない。それだけのことだよ」
百瀬はそう言って、2人の会話は終わります。
どちらが正しいのでしょう。
どちらが「強者」でどちらが「弱者」何でしょう。
どちらが「善」でどちらが「悪」なのでしょう。
私たちは「常識」という基準でそれらを判断していましたが、「人としての自由意志」あるいは「本音と建前」という基準を、誰にも気づかれないようにそっと持ってきたとき、どんな判断をするのか、ちょっと怖いきがする問題提起の小説でした。
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まだ読み終えた直後であまり感想がまとまってないけど、とにかく綺麗な物語だった。
肉体に刻まれた象徴は物語でありアイデンティティであること、それはひとつの美的であるが、そこに囚われる必要もない。肉体のひとつが変わろうが変わるまいが、長い人生において些細なことで、そんなことで人の大切な部分は変わらない。
新たな世界に飛び込めるならば、その行動は正しいのだから。
二ノ宮を中心とした奥行きのない空虚な彼らは何も変わらず、美しい世界を見ることはないだろう。それは自身のニヒルな感情に酔いしれる百瀬も同様に。一瞬のカタルシスに作品を委ねず書き上げた作家さん、ほんと偉いと思う。。。僕なら暴力に屈します。
コジマの、これは意味がある苦しみである、という考えは、断固拒否していきたい。
そのキリスト的思考は世界の都合でしかなくて、個人の都合じゃないと思ってる。
彼女は最後に完全にキリストになる。確かに彼女はあの場を納めた救いの神であり、発言に頷けるところは多くあるけれど、耐え忍び続け朽ち果てる世界がヘヴンであるはずないから。
肉体は改造してなんぼじゃい!ふざけんな!
めちゃめちゃ宗教モノでした、大好きです。
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いじめを題材にした作品だが、読後に残ったのは暴力そのものではなく、人が何を正しいと信じて生きるかという問いだった。
二ノ宮や百瀬の考え方は一見もっともらしく聞こえる部分もある。しかし結局のところ、あいつらはまだ子供だったのだと思う。
一方で主人公とコジマは苦しみながらも、自分なりの正しさを見失わない。途中で何度も考えさせられたが、自分がなりたいのはお母さんや鼻のお医者さんのような大人だと感じた。
いじめられる側に原因はない。今も昔もそこは変わらない。
ラストからのコジマのこれからだけは少し気になったが、それも含めて忘れられない読書になった。
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虐めに耐える男子と女子、中学生の希望と絶望の話。日常と暴力の対比、特に前半と後半の温度差、強さと弱さ、善と悪の対比、斜視と両眼視などあらゆる白黒とキラキラ輝く美しさの対比が印象的な物語でした。
日常から暴力描写の温度差が刺さる作品でもあり、強さとは弱さと何か、美しさと醜さとあらゆる対比表現が素晴らしかった。
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胸を深く抉られる物語だった。いじめの描写が非常にリアルかつ残酷で、読むのが苦しかった。特に、百瀬が僕をいじめる理由について、理路整然と語るシーンには絶望感があった。学校の教師や周りの大人が、いじめに気付く気配が全くない所も不気味だった。手術後の「僕」の目からは、これまでにないほど世界が美しく見えるが、それを伝えたいコジマはもういないという結末に、胸が締め付けられた。
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百瀬が語る、ありとあらゆることに意味などなく、自分の行動や意味を決定づけるのは自分自身であるという主張と、コジマの言う「斜視こそが君を君とたらしめるものだ」という言葉を「僕」はどう捉えていくのか。
人は皆、この世界に劇的な意味を見出そうとしがちだがそんなものはない。良くも悪くも存在する理由や意味なんて、自分で決めれば良い。実存主義的な考えを多方面から感じた物語だった。
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『ヘヴン』に響く、痛みの哲学
第一章:出会いと「しるし」
学校という閉ざされた地獄の中で、理由のない「いじめ」を受け続ける「僕」と「コジマ」。二人の出会いは、必然だったのかもしれません。
コジマは、自分が受ける苦痛を、他者とは違う特別な「しるし」なのだと言いました。痛みをただ恐れるのではなく、傷つくことでしか手に入らない「優しさ」がある。それを気高く「受け入れる」彼女の姿には、圧倒的な「強さ」が宿っていました。
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第二章:初めての外出、そしてハサミ
二人だけの初めての外出。現実の苦痛から逃れたあの美術館で、僕たちは確かに「ヘヴン」を見ていました。
僕は、彼女の拠り所、切るという行為をサポートします。
僕は、コジマに髪の毛を差し出したのでした。
少しずつ、2人の距離は近くなりました。
しかし、現実は容赦なく押し寄せます。クラスメイトの手によって、いじめはエスカレートするばかりです。
僕は、鼻が曲がるほどの重症を負うのでした。
僕は、いじめの取り巻きである、二宮に質問します。
なぜ、いじめるのか?
二宮の答えは、「そこに意味なんてない」という冷徹なものでした。
嫌ならば、逃げろ、怖いならば、声をあげろ!
僕の中で、何が壊れ、再構築がされ始めます。
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第三章:別れを乗り越えて、見えてくること
やがて訪れる、コジマとの決定的な別れです。
「僕」は斜視の手術を受け、コジマと共有していた外見的な「しるし」を失います。
コジマも去り、二人だけの季節は終わりを告げました。
ラスト。
包帯を解いた「僕」の目に飛び込んできたのは、まばゆいばかりに輝く緑の並木道でした。
過酷な日々を「乗り越えてわかる」、新しく見えてくること。
それは、世界は残酷であると同時に、息をのむほど「美しい」という事実です。
たとえ傷が癒え、すべてが過去になっても、コジマの想いは胸に込み上げ、彼らの意味は永遠に変わりません。
そう、読者のひとりとして、信じてやみません。
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この作品における「いじめ」は、テーマというより一つのモチーフとして扱われているように感じた。いじめが許されないのは当然だが、作者が描こうとしたのは、卑劣で非情な環境に置かれた人間がどのように生き延びようとするのかという、もっと根源的な部分だったのではないかと思う。とはいえ、凄惨ないじめの描写はあまりに辛く、一語一句丁寧に追うことはできなかった。
コジマが父との繋がりを絶やすまいとして風呂に入らず、服も洗わない行為が周りに理解されることはない。しかし中学生の少女にとってそれは、理屈を超えた、自分らしく生きようとする精一杯の自己主張なのではないだろうか。
また、百瀬の無慈悲で過度に冷笑的な世界観には強い嫌悪を覚えた。それでも、彼の言葉にはどこか説得力があり、世に対する希望が揺らいで暗い気持ちになった。
いじめが発覚して物語は終わるが、コジマは進んでいじめを受け入れ続けたことで本当に救われたのだろうか。最後に彼女が裸でいたのは、「汚れ」を媒介にしないでも自分自身に価値を見出せたということだったのだろうか。
多くのことを考えさせられたが、辛い思いをした人間だからこそ他者に優しくできることもあると思う。百瀬の言うように善悪は所詮、社会の秩序を保つための絵空事にすぎないとしても、人の心を蔑ろにする者は、他人を救うことは決してできないのだと思いたい。
読み応えがあって素晴らしい作品だった。
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百瀬の言ういじめ論なかで説明される「欺瞞と嘘で塗り固めた暴力性」に違和感があった。たしかに、彼の主張には誤りが多く含まれる。それを一つ一つ反論し説き伏せることもできる。しかし、それを乗り越えても、納得させられそうな気持ち悪さを拭うことはできない。なぜか。
川上未映子曰く、
"創作の動機として、常に倫理全般への欲望があります。信仰や善悪や生命倫理……その中でも生殖は発端という感触があります。妊娠して出産をするというのは、いったい何が何をしていることなのか。それはいいことなのか、そうでないのか、あるいはそういった評価と関係ないことなのか。書くことで理解したいとかではなく、自分が問題だと思うことを、その時できる技術の限りをもってやっておきたい"
ここを出発点にしていろいろ考えたい。生殖はいいことでもわるいことでもない、ただそうしたいからという欲望の帰結であるけど、その帰結のつながりや組み合わせが信仰とか善悪を生む。生殖そのものが中立だとしても、「他者を産み落とした瞬間、苦痛と暴力に参与させる」のだとしたら、生殖は中立でいられるのだろうか。生殖がウロボロスの出発点となり、因果を循環させる。なら、生殖は無関係とはいえず、無垢で尊い営みではない。それはあまりにも残酷な他者への仕打ちとさえいえる。
百瀬のいう「欺瞞と嘘で塗り固めた暴力性」とはまさにそこを突いている。善人の振りをしているけど、ヒトは自分の欲望のために、大なり小なり他者へ苦痛と暴力を与える。あなたは振るわないかもしれない。それは運がいいだけか、自分の暴力に鈍感なだけだ。誰しも暴力からは逃れられない。だから、そこを突かれると気持ち悪さを拭いきれない。
そうだとして、すべてのものが弱肉強食で支配されることに肯定するのか。欲望に従うことを肯定するのか。そうではない。欺瞞と嘘であるかもしれない善がなぜ社会や個人に存在してしまうのか。そしてそれに従うとはどういうことなのか。なぜ従えるときとそうでないときがあるのか。これら問題に答えを出せて初めて欲望をただ肯定するべきなのかに答えを出せる。これを無視することは、川上未映子のいうまさに『おめでたい人』なのだ。
役立たないけれど、役立つこと達
私たちが社会に役に立つものを求めるとき、
私たちも役に立つものであることを求められる。
これはきわめて当然だけれど、
私たちは役に立つものばかりから
できているわけではない。
私は私自身の役に立たない部分を
かえって私のアイデンティティを
表すものとして、「最後まで」
愛することができるだろうか。
また、私は、私だけで私であるわけではない。
私を生み出してくれた者たちも
私の一部である。
私は、私の一部が不完全であっても
かえってそれを愛せるだろうか。
〇〇は、後ろめたくて
自分に大きな穴ができたように感じる行為
かもしれないが、意外と戦略的で
原罪とも呼ばれるものの暴発を回避して
守るべきものを守る強い力になりうるもの
かもしれない。
〇〇が怪我をして血を流すのを読んだとき、
読者としての私は、主人公に復讐や逆襲を
そそのかしたい気持ちを冷まされた。
突発的な凶事も、ないに越したことはないが、
もっと大きな取り返しのつかないことから
自分たちを守ってくれるものとなってくれる
こともあるようだ。
〇〇の凶事や、〇〇に芽生えた強さが、
勇気を持ち始めた主人公のその勇気の、さらに
先にある何かを示しているようだ。
私たちは交流する間に、たとえ
強く幸せに結びつくことができなくても
ばらばらでいるのに、それぞれが成長して
違っているのに、それぞれの成長を
なんとなく感じて安心できることが
あるように感じる。
役に立たなさそうでいて、
役に立つこともあるようですね。
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結構好きだった。
不気味で救いようのない雰囲気に引き込まれた。
コジマは 辛いことを受け入れて乗り越えることを美徳としていたが、それを主人公に押し付けて勝手に期待をし、考えが違うとわかると泣いて なにもわかっていないと言い放つ姿に重さを感じた。
理不尽な苦しみに耐える必要はないと思ったし、私はコジマの考えには共感できなかった。
主人公は百瀬と向き合おうとしたり、現状をどうにかしたいと思う気持ちがあったと思うが、コジマは 黙って受け入れることがアイツらに抵抗する唯一の手段だと考えていた。
読んでいる時、二人が報われて欲しいと思ったが、二人の考えはかなり違った。
主人公は、コジマに共感していなかったように思える。
斜視なことや、身体的特徴などが直接いじめに関係しているのではなく、全部たまたま タイミングで何もかも起こっているという、百瀬の考えに最も共感した。
コジマがいるけど斜視のままロンパリとバカにされひどいいじめがある世界。
コジマがいなくなるけれど何もかもから解放される世界。
どっちがヘヴンなのだろうか
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文章が綺麗で本当に好きな感じだったんだけども、終始しんどい。逃げればいいと思ったし、酷すぎる虐めに耐える行為に意味あることだと思えない。でもコジマにとってはそれが意味あることでそれを乗り越えてこそ、という考え方で…。
もうコジマの思想は恐ろしい程に確立していて、心は壊れてしまったのだと。2人が普通の友達になれればどれだけ良かったことか……。
今後コジマが大人になって、今までの習慣や考え方は意味なかったんだって思う時は来るのかな……それともずっと縛られて生きていくのだろうか。
主人公は、たくさん苦しんだ分、新しい目で色んなもの見て友達つくって恋人つくって普通に幸せに過ごしてほしいよ。コジマといても幸せになれないと思うよ。もう狂ってしまったからね。
そして、百瀬の透かした感じのニヒリズム、死ぬほど腹たったけどまあ気持ちもわかる。結局この非情な世の中、やられっぱなしになる理由もないしね。その状況に置かれてるのも自分の責任、そんな世の中ですからね。まぁ、仕方ねーーーーー
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個性や生い立ちを自分らしさと考えたり、いじめの理由と考えたり、若さゆえの葛藤が丁寧に描かれていてよかった。
人生には数々の選択肢があって、自分には考えつかない提案をしてくれる周囲の人もいる。
主人公はいじめっ子に反撃する選択は取れなかったが、斜視の手術を受ける決断はできた。
ただそれだけなのだろう。
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川上さんが伝えたかったことはとても難しいことだと思った。
主人公や、コジマが壮絶ないじめにあっていても何事も無かったように学校に通い続ける姿に、誰かに相談したらいいのにと思ってしまったけれど、中学生の視野じゃ様々な可能性ややり方があることも分からないし、目の前の孤独な世界で耐えることを選んでしまうのかもしれないなとも思った。
主人公がどんどん追い込まれていく描写が辛かった。
コジマは初めは良かったけど、段々と自分の状況と大好きなコジマの思想との間で揺れ動く主人公の様子を見ていて苦しかったし、自分の思想で勝手に仲間だと思ったり、勝手に裏切られたと思ったりというコジマの危うさを感じて怖かった。それがやっぱり、最後の事件に繋がっていたと思う。虐められ、傷つけられることにも意味があると信じて受け入れるのは、最善の策とはどうしても思えなかった。
もう一つ百瀬との印象的な場面。私は百瀬の言っていることには1ミリも共感できなかった。それがその人の今やりたいことだからといって、人を傷つけていいわけない。虐められてる方がなにか行動を起こすべきだなんてそんなのは間違っていると思う。
正論を言っているようで支離滅裂なことを言っていたと思うけど、本人の世界ではそれが正しくて、自分が強者側だと信じてやまないからあんなに強気に出て、自分は正しいと胸を張って持論を披露できるんだね。
ろくな大人にならないなと思うし、最後の事件の後色々な大人からこっぴどく叱られていてほしい。
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心を抉られながらも一気読み。
いじめというものが取り沙汰されるたびに「逃げたっていい」「学校が全てではない」という言葉が自然と飛び交う。大人である我々の経験則から言えば間違いなく正しいのだが、実際にそこで生きている当事者にとっては虚しく現実味のない言葉なのだと思う。スマホが普及してネットへのアクセスが当たり前の世の中にあっても、やはり子どもにとっての世界は狭い。そんな中でコジマが拠り所として見つけ出した「強さ」が、「すべてを受け入れること」なのが虚しくてやるせない。それはコジマにとっての呪いになってしまっているからだ。
どこか他のクラスメイトとは違う百瀬を最終的には実はいい奴、といった描き方をしない作者の徹底した冷徹さも本当に素晴らしい。
『黄色い家』を読んで2冊目にこの作品を読んだが、「僕」の母のような少し肩の力の抜けたような登場人物がすごくいい。
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コジマが、いじめの状況は変わらないのに
どんどん強い印象に変わっていくのが不気味だった。
自分の解釈で世界を捉えて、現実の苦しさになんとか
耐えるためか?目を逸らすには、より強く世界に
没入しないといけなかったのかもしれない。
だから自分に言い聞かせるように、
汚れをお父さんを忘れないための「しるし」とか、
いじめに対抗しないのは「美しい弱さ」と何度も
訴えていたのかもしれない。その様子を主人公が
なんだか受け入れられないのは、
置いて行かれるという焦り?か、
自分もコジマの世界観に取り込まれてしまうという怖さ?
とかかなと思った。
百瀬は最初の描写から、後で主人公側になるか、
と思ったけど、違った。不思議な人だったけど、
私は百瀬の考え方が一番しっくりきた。
「それぞれの都合で世界を見ているに過ぎない、
全てたまたまであって、できることはできるし、
できないことはできないというだけ。」
これはシンプルでブレが無くて好きだと思った。
最後、コジマが百瀬の頬に触ろうとしたところで
終わってしまったけど、そのまま触られていたら
どんな反応をしたのか気になった。
斜視を治す手術をした彼が新しく迎えた世界が、
今までは地獄へ続いていたはずの並木道を、
美しく感じられるようになったことに、
ひとまず安心して本を閉じた。
人間サッカーからの鬱っぽくなる辺りが
一番辛かった、、。
匿名
胸が痛い。体も心も傷つけられて、それでも我慢しなくちゃいけないなんて事はない!虐めを通じて強く結びついた2人。お互いが心の支えになれた時もあっただろうけれど。虐めを耐えてる自分達がとてつもなく強くて優しい人だなんて、そんな考え方は寂し過ぎる。何もかも放り出していいんだよ。と、彼と彼女に何度も語りかけるました。容姿が良くても頭が良くても、人の痛みが分からずに残酷な人間はいる。その行為が醜いとも考えない頭が空っぽの奴ら。そんな奴らの相手になる事なんてない!
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いじめはダメだやっぱり。百瀬の理論は、理論的には正しいし同意。たまたまなんだ全部。ただ、規模を大きくしただけでそこまで機械的に動けない人間の要素を除外してるし、それぞれの解釈を集合させないといけない時に倫理観が試されると思う。つまり、机上の空論で都合が良すぎる。もっと人と人、人と集合はままならない世界観に放り込まれていると感じた。コジマの耐えるべきが正しいはどこか「夜と霧」を思い出した。2人が手紙を交わし合いながらお互いが関係性を深めていく過程で、痛みの象徴を共有し合い、残すことに、痛みに価値を据えている有様は自分にもよくわかる。ラストシーンのコジマの自己を削った狂ったような美しさ、主人公の斜視を直したことによる世界の美しさに気づくシーンは、痛みを駆動力にして生まれる美しさか、痛みを取り除いて生まれる美しさの対比が描かれていた。個人的には、主人公の美しさの気づくシーンは過剰でそこにトラウマやしがらみの解放も見て取れたけど、どちらかというとそう思い込もうとして、感動することで痛みを必死に遠ざけてるように見えた。コジマが、いじめの原因だと思っていた要素が取り除かれた世界でどう生きていくのか、想像させられる終わり方だった。
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いじめの描写が過酷だけれど、現在もきっとどこかでいじめは起こっているから、目を背けてはいけない事実であると思った。たまたまいじめたいという欲求があって、たまたま標的がいた、そんな理不尽な理由で人の精神をえぐるようなことは、絶対にあってはならないと思う。
いじめ被害者のコジマと僕が、加害者もきっと弱い部分がある、彼らもきっと自分のしていることの意味がいつかわかるときがある、と言い聞かせ、なんとか強く過ごそうとしている姿は、見ていてやるせなかった。彼らが幸せにいきてほしい。
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評価が難しい小説でした。
いじめの描写にリアリティがあり過ぎて気持ち悪くなりました。どういう展開になるのか期待しましたが、何かモヤモヤとした結末でした。
これが川上さんの作風ですね。
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2026/6/16
苛めを受ける中学生男子の物語。
似た境遇にいるコジマ、苛める側の百瀬、医師、母親との会話からそもそも存在しない問いに存在しない答えを探し続ける主人公が印象的だった。
確かに色々な対比が散りばめられていて、文章的にとても読みやすい。
後半で主人公が誰の考え方・生き方を真似るでもなく下した決断に、本文には描かれない主人公の未来の明るさを感じた。
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感想がすごく難しい。刺さる人には刺さるのかしら。
すべてのものごとには意味があるのだから受け入れるとするコジマと、すべてのものごとは偶然が重なっただけなので嫌なら自分で変えるしかないとする百瀬の考え方、どちらにも納得できる。
むしろ私は、「嫌なら自分で変えるしかないけど、それでもどうしようもならなかったことはきっと何か意味があること」と思うようにしている。
但しコジマの思想はあまり理解できない。
いじめを受け入れるも拒絶するも勝手だが、いくら汚れたままでいることが本人に特別な意味があるからといっても、風呂に入らないことかで周囲に迷惑も不快感も与えているのは事実。それでいて、いじめてくる人間たちのことを「大切なことに気づけていない、あの子たちも被害者」などと憐れみを向けているのが鼻につく。もちろん、百瀬の考えで言えば、コジマが汚いことなんていじめの原因ではなく、偶然いじめの対象になった後付けの理由ということにすぎないのだが、原因を作っている側が自己満足するなよと思ってしまった。
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川上さん作品2作目。
やっぱり読みやすく、面白くてやめられなくて、1日で読んだ。
切なくて苦しい描写の中に、ホッとするような、キラキラと光る素敵な空気が出てきて。
シャガールの絵が作中に出て来たのも、良かった。
分かりやすいハッピーエンドじゃない感じがリアルだった。
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重かった………………読むのにとても時間が掛かった。。
ずっと辛いし、希死念慮が膨らんで鬱状態が加速していく描写は本当に生々しくて、新卒期の摩耗しきった己と重なる部分もあって、わかるなあ、と思いながら読んでた。
元々ショッキングな描写には耐性があるつもりでいたけど、それも年々ダメになってて、主人公が二ノ宮たちに人間サッカーとかいう惨たらしい暴力に晒されるところで貧血になって一時中断した。。
生々しい活字に体調崩すのは、中山七里『連続殺人鬼カエル男』と平山夢明『独白するユニバーサル横メルカトル』以来かもしれない。
ノストラダムスの予言、とかいう、自分が生まれるずっと前に流行ったらしいワードから、この物語が90年代初期?とわかるけど、この位の年代の小説が好きかもしれない。
推しとかスマホとかインスタとかいいねとか、そういう露骨に近代的なモチーフを面白おかしく風刺したような物語より、もっと奥底の人間心理とか、人と人とが作用しあって生きることの難しさとかを、スマホが生まれるの前の時代感で読みたいと思う。最近。
醜さの扱いが難しいところ
醜い子を、醜く書く、というアプローチが、個人的には嫌いだし、違和感を持ったし、疑問を感じた。
主人公のお友達がみんなの前で裸になる時とかね。
容姿が劣っている女の子が、ある瞬間にだけたまらなく美しく主人公には見える、という方が、僕は心を動かされます。
ありません? 容姿の作りが悪くても美しい女性のある瞬間。
そういう瞬間は世間的常識を超えてくると思うんだけどなあ。
女性作家が同性を描く時、そうなってしまうのかな。
性差がすごく嫌いな作家さんだし。