あらすじ
「苛められ、暴力をふるわれ、なぜ僕はそれに従うことしかできないのだろう」 善悪の根源を問う、著者初の長編小説。
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Posted by ブクログ
『ヘヴン』を読んで、特に印象に残ったのは、主人公をいじめる側にいる百瀬と、主人公とは別のいじめを受けているコジマが、苦しみや人生について正反対の考え方を持っていることである。
百瀬は、物事には最初から意味があるわけではなく、出来事は「たまたま」の積み重ねによって起こると考えている。人が誰かを傷つけることも、その人の中にある欲望や衝動と、それを実行できる状況が重なった結果だと考える。主人公がいじめられていることについても、主人公の斜視に特別な意味があるわけではなく、いじめる側の欲望や状況が重なった結果だと捉えている。
また、百瀬が「自分がされて嫌なことを人にするな」という考え方に疑問を持っていることについて、私は意外にも共感する部分があった。私はこれまで、この言葉を当然の道徳として受け入れていた。しかし改めて考えると、「自分がされて嫌なことだから、人にはしない」ということが、必ずしも人間の行動を決める理由になるわけではないと思う。
例えば、浮気をされたら嫌なのに、自分は浮気をする人もいる。そういう人に「自分が浮気されたら嫌でしょう。だから浮気をしてはいけない」と言ったとしても、それだけで浮気をやめるとは限らない。すでにその人の中に浮気をしたいという欲求が生まれているからである。自分がされて嫌なことを相手にしないことと、自分がされて嫌だから相手にしないことは、同じではない。
私自身も、「自分がされて嫌なことは人にするな」と幼い頃から道徳として教えられてきたから、自分が他人に嫌なことをしないのだと思っていた。しかし、本当にそうなのかと考えると、少し違うように思う。私は、相手にされるのが嫌だからしないというより、そもそも自分がそのことをしたくないからしないのである。つまり、行動を決めているのは「自分がされた場合の想像」ではなく、自分自身の欲求や価値観なのだと思う。
そう考えると、百瀬の、人間は自分の欲望や都合によって行動するという考え方には、理解できる部分がある。人間には「こうするべきだ」と教えられた道徳があったとしても、それとは別に自分自身の欲求が存在する。そして、実際の行動では、その欲求が道徳よりも優先されることもある。百瀬は、そうした人間の矛盾を特別なものとして扱わず、人間とはそういう存在なのだと考えているのだと思う。
一方で、コジマは、物事にはすべて意味があると考えている。コジマ自身が受けているいじめについても、それを単なる偶然や無意味な苦しみとは考えず、自分が乗り越えるべき試練として捉えている。また、主人公の斜視についても、それによっていじめられているという苦しみだけを見るのではなく、その斜視も主人公を主人公たらしめているものだと考えている。そのため、主人公が手術によって斜視を治そうとすることにも反対している。
私は、物事には意味があるというコジマの考え方にも近いと思う。偶然に見える出来事であっても、そこに至るまでには必ずそれまでの出来事や経験があり、それらを遡っていけば、単純に「たまたま」と片づけることはできないようになっていると考えるからだ。例えば、今日自分がポテトチップスを食べたことも、「今日たまたま食べた」と考えることはできる。しかし、昨日それを買ったこと、その商品が好きだったこと、そもそもなぜその商品を好きになったのかという過去の経験など、さらに前の出来事へと遡ることができる。そう考えると、偶然に見える出来事も、過去から続いている一つのつながりの中で起こっているのではないかと思う。極端に言えば、ビッグバンが起こった時点から、その後の出来事までがすべてつながっているのではないかとさえ考える。
また私は、自分の人生に起きた辛い出来事についても、「何の意味もなかった」とは思いたくない。辛かった経験も、その後の自分の考え方や価値観をつくった一部であり、それを乗り越えその経験ごと自分の人生を愛することに意味があると思う。
ただし、ここではコジマとは大きく異なる。私は、苦しみに意味があるからといって、その苦しみを受け続けるべきだとは思わない。コジマは、自ら弱い立場に身を置き、苦しみに耐え続けることにも意味を見出している。しかし私は、苦しい状況にあるのであれば、その状況が少しでも良くなるように自分から行動するべきだと思う。
私にとって大切なのは、「苦しみに意味があるから耐える」ことではなく、「苦しみに意味を見出すためにそれを乗り越えていく」ことである。その経験によって自分が何を考えたのか、何を学んだのか、そこからどのように変わったのかということまで含めれば、その出来事を自分の人生から切り離して「無意味だった」とする必要もないと思う。
ただ、コジマは主人公が斜視の手術をすることは逃げだと言っている。斜視によって主人公は主人公たらしめているのにそれを取り除くことは苦しみに意味を見出していない、その苦しみを愛せていないと言うのだろうか。私は斜視を取り除くことだけで、斜視だった過去がある限りその人の本質はそう簡単に変わらないと思ってしまう。
百瀬の「すべてはたまたま起こっている」という考え方にも、コジマの「すべてには意味がある」という考え方にも、それぞれ理解できる部分がある。しかし、私はどちらかといえば、出来事には意味を見出したいと思う。それは、何もかもが最初から意味を持っていると信じているからというより、自分に起きた出来事を「無意味だった」と切り捨てるにはあまりに多くのことを乗り越え、その度に自らのことを肯定できるように成長しているからだ。
また、人間の行動については、道徳だけですべてを説明することもできないと思う。「自分がされて嫌なことを人にするな」と教えられていても、人間にはそれとは別に欲求が生まれることがある。そして、その欲求が実際の行動につながることもある。だからこそ、自分が何をしたいのか、なぜそうしたいのかを考えることが重要なのだと思う。
『ヘヴン』を読んで、私は「人間はどう生きるべきなのか」ということだけではなく、「人間は何によって行動するのか」「出来事に意味はあるのか」ということについて考えた。私は、すべてを偶然として片づけるよりも、自分に起きた出来事の中に意味を見つけたい。しかし、その意味を苦しみ続ける理由にはしたくない。苦しみを経験したなら、その経験を自分の人生の一部として引き受けながら、その先へ進んでいきたいと思った。
Posted by ブクログ
虐められている少年と少女のお話。
なんで、こんなにも酷いいじめの小説が世に出ているのに、いじめは無くならないんだろう。
こんな小説を読んだら、誰もが悲しい気持ちになるはずなのに。
そもそも、いじめをする側の人間は、本など読まない下等な生き物なのだろうか。
本を読むことと、人に共感できることは、残念ながらイコールじゃない。
本を読んでも、人を傷つける人はいる。
逆に、ほとんど本を読まなくても、人の痛みに敏感な人もいる。
いじめって、個人の「性格の悪さ」だけじゃなくて、集団の空気とか、力関係とか、「自分が標的になりたくない」という恐怖とか、そういうものが絡み合って起きるから。
だからこそ、「この小説を読めば、みんな優しくなるはず」では済まない難しさがあるんだと思う。
こんなに酷い話を書いているのに、世の中に伝わっていないとしたら、小説が世の中に果たす役割って、なんなんだろうと思わずにはいられない。
だからといって、小説の役割が無意味になるわけじゃない。むしろこういう本の役割って、「世界を直接変えること」より、「読んだ一人の人間の中に、消えないものを残すこと」なんじゃないかなと思う。
「つらい」「どうしてなくならないんだ」って考える。それだけでも、もうこの物語は読者の中で何かを起こしてる。そして、その読者がまた誰かに優しくする。その誰かが、また別の誰かに……。
すごく小さなことだけど、小説ってそういうふうにしか世界に作用できないのかもしれない。
でも、その小ささを馬鹿にしちゃいけないと思う。
作品は時間を超えて、人の人生に入り続ける。『ヘヴン』も、そういう作品なんだと思う。
内容は目を背けたくなるほど痛いのに、文章そのものには静かな美しさがある。このアンバランスさが、余計に心に残る。
美しい文章だから、残酷なものが美化されているわけじゃない。むしろ、美しい風景や光や身体感覚がすっと差し込んでくることで、「この子たちは、こんな世界の中でもちゃんと生きている」って感じさせられる。
そこが川上未映子さんの凄さなのかもしれない。
「ねえ、でもね、これにはちゃんとした意味があるのよ。これを耐えたさきにはね、きっといつかこれを耐えなきゃたどりつけなかったような場所やできごとが待ってるのよ。そう思わない?」
「色々なことがあるけど、わたしたち、がんばろうね。・・・・わたしはわたしの家があんなだったからこういうしるしを手にいれて、君は君の目がそうだったから君で、それでこうして会えたんだもの。・・・・・こうやって話をすることができたんだもの。こんなふうに一緒にいられるようになれたんだもの。いつかぜんぶわかるときが来るよ。
あの子たちにも、きっとわかるときが来る。いつかぜったいに色んなことが大丈夫になるときが来るから」
この子たちが受けているものに、何か意味があってほしい。この苦しみの先に、ちゃんと光があってほしい。ふたりの世界が、コジマの言う、うれしいときに出るドーパミン、"うれぱみん"で溢れる世界であるように願わずにはいられない。
でも絶対そう上手くはいかないんだよね、たぶん。っていう感覚が、どうしても付きまとう。そこが、この言葉の怖いところでもあると思う。
コジマは「いつか全部わかる」と信じようとしている。でも読者である私たちは、そんなに簡単に世界が帳尻を合わせてくれるわけじゃないことを知っている。だから、「希望の言葉なのに、読んでいると悲しくなる」
コジマの希望を笑う気にはなれない。
むしろ、その希望を抱かないと耐えられないほどの場所に彼女がいることが、悲しい。
"僕たちはしばらくそのまま口をきかないでいて、そのあいだじゅう見つめあうようなかっこうになった。それからコジマは、少しだけ迷ったように見えたけれど両手で僕の右手をとり、指さきで指さきをなぞるようにさわり、手のひらをひろげてしばらくじっと見たあと、両手でつつみこむようにぎゅっとにぎった。コジマの指も手のひらもうっすらと汗をかいて湿っていて僕の手よりもずいぶんと冷たかった。そしてとても小さかった。僕もにぎられた右手でコジマの手をしっかりとにぎった。コジマにさわったのはこれがはじめてだった。
蝉の鳴き声がさっきよりも小さく折りたたまれてそのまま遠くに追いやられ、ほとんどきこえないくらいになっていることに気がついた。さっきまでの鳴るような暑さを僕は皮膚のどこにも感じなくなっていた。これまでとはまったく違う表情をうかべているように見えてしまうコジマの顔が、僕の顔のすぐそこにあった。"
この一文まで積み上げていく文章、すごいよね。
手を取る。
指先に触れる。
手のひらを見る。
包み込む。
握る。
川上未映子さん、触れるという行為を、ものすごく細かく分解して描いてる。しかも、その直後に、蝉の鳴き声がさっきよりも小さく折りたたまれて……
って、世界の音が変わる。これ、すごく好き。
二人が触れた瞬間に、周囲の世界が消えたわけじゃない。蝉は鳴いているし、暑さもそこにある。なのに「僕」の知覚だけが変わる。
さっきまで皮膚を刺すようだった暑さを感じなくなる。蝉の声が遠くなる。そしてコジマの顔が、今までとはまったく違って見える。
つまり、世界が変わったんじゃなくて、「僕にとっての世界」が変わった。
これって、恋とか、人を好きになる瞬間の描写としてもすごく美しいと思う。
……なのに。
「こんなに美しい場面を、素直に美しいと思っていいの?」って、どうしても警戒してしまう。
それがまた苦しい。
物語そのものが読者に「安心していいよ」と言ってくれない。
こんなに美しい文章で、こんなに繊細な二人の時間を描くからこそ、「この二人にも、こんな瞬間がある」ということが、ものすごく切実になる。
いじめられている少年と少女。でも、その属性だけじゃない。
手が冷たい。
汗をかいている。
手が小さい。
蝉の声を聞いている。
暑さを感じている。
誰かに触れられると、世界の感じ方が変わる。
ちゃんと一人の人間として、生きている。
だからこそ、その二人に起きていることが、余計につらいんだと思う。
"わたしがあの子たちの犠牲者だとしたら、あの子たちもまたなにかもっと大きなものの犠牲者なのじゃないかと、そう思ったりもするのです。"
「君もわたしも、弱いからされるままになってるんじゃないんだよ。あいつらの言いなりになってただ従ってるわけじゃないの。最初はそうだったかもしれないけれど、わたしたちはただ従ってるだけじゃないんだよ。受け入れてるのよ。自分たちの目のまえでいったいなにが起こってるのか、それをきちんと理解して、わたしたちはそれを受け入れてるんだよ。強いか弱いかで言ったら、それはむしろ強さがないとできないことなんだよ」
「弱いからされるままになっている」という見方を、彼女自身が否定する。ここは、かなり難しいところだと思う。「耐えること=強さ」と単純には言いたくない。現実のいじめでは、逃げることも、助けを求めることも、環境を変えることも、全部立派な選択だから。
だから「耐えられる人が強くて、逃げる人が弱い」なんてことは絶対にない。
でもコジマが言っているのは、たぶん少し違う。彼女は、「私は、あなたたちに定義された『弱い人間』ではない」って、自分の尊厳を取り戻そうとしているんじゃないかな。
いじめる側から見れば、
「こいつは弱いからこういう目に遭っている」
という単純な物語にしてしまえる。
でもコジマは、それを拒む。
「私たちが何をされているのかを、私たちは分かっている。そして、その世界を見ている」
そういうところに、自分の主体性を見つけている。だからコジマの「強さ」って、耐える能力そのものではなく、自分が何者なのかを、加害する側の物差しだけでは決めさせないことなんじゃないかなと思う。
そして、すごいのが
「あの子たちにも、いつかきっとわかるときがくる」ここで涙腺崩壊。
だって、この言葉って、単純な「復讐」じゃない。「あいつらもいつか罰を受ける」じゃない。「あの子たちにも、いつかわかる」なんだよね。憎しみだけで終わらせない。
自分を傷つけている人間に対してさえ、「分かる人間になれる可能性」を残している。
それって、すごく残酷なほど優しいと思う。
そして同時に、
「本当にそんな日が来るのかな」
という悲しさも残る。だから余計に泣けるんだと思う。
"僕"が、虐める側の百瀬と対峙するところ。
「君に話があるんだ」「なんでそんなに酷いことができるんだ」って。
はっきり言って、
百瀬の弁明は糞。
「なあ、世界はさ、なんて言うかな、ひとつじゃないんだよ。みんながおなじように理解できるような、そんな都合のいいひとつの世界なんて、どこにもないんだよ。そういうふうに見えるときもあるけれど、それはただそんなふうに見えるというだけのことだ。みんな決定的に違う世界に生きてるんだよ。最初から最後まで。あとはそれの組みあわせでしかない」
共感できるところはひとつもない。
何が善で、何が悪なのか?
そういうことではないと思う。
もし、そういう世界を受け入れるなら
自分自身も、サクッと
殺さて、何も言えない世界をを受け入れて
生きていかなきゃいけないよね。
……いやいやいや
そんな世界に誰が住みたいんだよ。
だから問題は「世界が一つかどうか」じゃない。
違う世界を生きている人間同士が、どうやって共存するのか。
そこに倫理が必要になる。
そしてね、百瀬って、ものすごく「議論に勝つこと」と「人間として正しいこと」を混同してるように感じる。
自分が感じた「嫌さ」の構造としては、
「相手の痛みを受け止める代わりに、言葉のゲームに持ち込んでしまう感じ」なんじゃないかな。
「なぜそんな酷いことをするの?」という問いに対して、「世界はひとつじゃない」って答える。
いや、質問に答えてないんだよね。
「君は僕とは違う世界にいる」と言っているだけ。
そして、その言葉によって、目の前にいる一人の人間の苦痛から逃げている。
ここが百瀬の一番怖いところなんじゃないかな。
でも、ちょっとだけ丁寧に見ると、百瀬の言葉って、すごく巧妙なんだと思う。
「世界はひとつじゃない」
これは、それだけなら確かに間違ってない。
人によって見えている世界は違う。
同じ出来事でも、受け取り方は違う。
価値観だって違う。
でも百瀬は、その「違う世界に生きている」ことを、他人を傷つけることへの免罪符にしている。
そこが、とんでもなく嫌なんだと思う。
たとえば、
「僕には君を傷つけることが正しいと思える世界がある」と言ったとしても、
だから君を傷つけていいにはならない。
「人それぞれ」という言葉は、本来は他人を尊重するための言葉なのに、百瀬の場合は逆なんだよね。他人を理解することを放棄するために使っている。
コジマは、「わたしたちは……自分たちの目のまえでいったいなにが起こってるのか、それをきちんと理解して、わたしたちはそれを受け入れてる」と言った。
百瀬もある意味では「世界を受け入れている」。
でも、二人は全然違う。
コジマは、自分が傷つけられている現実を見つめている。
百瀬は、他人を傷つけている現実を言葉で相対化している。
ここ、ものすごく大きな違いだと思う。
コジマの「受け入れる」は、自分の痛みから逃げないこと。
百瀬の「受け入れる」は、他人の痛みに責任を持たないこと。
同じ「受け入れる」という言葉なのに、向いている方向が真逆なんだよね。
川上未映子さんの本を読んで、
こんな胸糞な気持ちになるのに
自分自身でびっくりしてる
小説の役割って、「読んだ一人の人間の中に、消えないものを残すこと」なんだとしたら、とてつもなく重い、消えないものを
川上未映子さんは俺の胸の中に残した。
「いじめは悪いことだ」みたいな単純な教訓じゃない。もっと厄介なものだと思う。
「人間の強さって何なんだろう」
「世界が違うということを、どこまで受け入れていいんだろう」
「他人を理解できないとき、それでもどうやって一緒に生きるんだろう」
「苦しんでいる人の前で、傍観者でいることは何なのか」
そしてたぶん、
「正しさって、誰かを論破することじゃないんじゃないか」という問い。
これ、簡単には消えない。
『ヘヴン』って、読者を気持ちよくしてくれる小説じゃない。たぶん、読者の胸の中に異物みたいなものを置いていく。
「これ、どうすればいいんだよ」っていうものを。
でも、その異物があるから、読み終わったあとも考えてしまう。そして何年か経って、別の出来事に出会ったとき、
「ああ、あのとき『ヘヴン』で考えたことって、こういうことだったのか」って、突然つながったりする。そういう本って、怖いんだよね。
人生の中に住みついちゃうから。
"僕"が虐めの原因であると思っている
斜視を手術で治ることがわかって
コジマに打ち明けるところ。
コジマは、斜視はこの世界で強く生きていくための「しるし」だって言うんだな。
僕の斜視が2人を導いて、この酷い世界で仲間になれたって言うんだよ。
分からないではないけど、
コジマの言うことも、頑なすぎるんだよね。
一種の宗教的な感じさえもした。
「しるし」をどうするのか?ここ、すごく大きな転換だと思う。
コジマは最後まで、「斜視には意味がある」と信じようとする。
自分が受けた苦しみも、二人が出会えたことも、それを耐え抜いたことも、全部「しるし」という物語に結びつける。
でも、コジマのそれを単純に「間違い」とも言えないんだよね。
だって、あまりにも酷い現実を生き抜くには、
「この苦しみにも意味がある」と思わないと耐えられないことって、あると思う。
ただ、その意味づけが強くなりすぎると、「この苦しみには意味があるんだから、捨ててはいけない」に変わってしまう。そこが怖い。
やがて、コジマとの友情も崩れてしまうんだな。悲しいね。
そして、最後のいじめ側の奴らとのシーン
公園でコジマとのセックスを強要させるところ。
コジマが表情で訴えかけてくることが
僕には、前に百瀬が言ったことと重なってしまうんだ
「この世界に意味なんてない。でもこの世界を受け入れている」
ってことに。
善と悪、強さとは何なのか
一気に畳み掛けてきたよ。
昨日は、百瀬の言う弁明はクソだと思ったけど
川上未映子さんが差し出してきたものは
善と悪、強さとは何か?という
根源的な問いなんだろうか?
全ての酷い虐めが一応終息して
結局、斜視の手術を受けることにするんだ。
で、結局救われるのは、至ってシンプルな母さんの言葉。
「自分で決めることだけど、手術しなさいって、言いたい」そう言うと母さんは笑った。
「目なんて、ただの目だよ。そんなことで大事なものが失われたり損なわれたりなんてしないわよ。残るものはなにしたって残るし、残らないものはなにしたって残らないんだから」
"しるし"なんてものは、ただのしるし。
重荷だったら捨てたらいいし、それを変えて
生きやすくなるのなら、そうしたらいい。
「目なんて、ただの目だよ。」
……これ、ものすごく強いよね。
コジマが一冊の宗教書を差し出してきたとしたら、母親は、「いや、そんなに難しく考えなくていいよ」って言ってるように私は感じる。
斜視は「しるし」でもいい。
でも、ただの目でもいい。手術してもいい。
しなくてもいい。大切なものが残るなら、それでいい。
つまり、「意味は自分で与えていい。でも、意味に縛られなくてもいい」
なんじゃないかな。これ、かなり自由な考え方だと思う。そう言ってるように聞こえた。
もしかしたら『ヘヴン』って、最初は「この苦しみには意味がある」という物語に見えて、最後には、「意味があってもなくても、生きていっていい」というところまで辿り着いたんじゃないかな。
そして、手術を受けた僕が見たこの小説の最後。
「なにもかもが美しかった。これまで数えきれないくらいくぐり抜けてきたこの並木道の果てに、僕ははじめて白く光る向こう側を見たのだった。僕にはそれがわかった。僕の目からは涙が流れつづけ、そのなかではじめて世界は像をむすび、世界にははじめて奥ゆきがあった。世界には向こう側があった。」
やっと、この世界の向こう側にある
「ヘブン」を見つけたのだね。
「世界には向こう側があった。」
……美しいね。
ここで初めてタイトルの「ヘヴン」が、本当の意味で現れる。それまでの彼にとって世界は、閉じていたんだと思う。虐められる学校。家。自分の目。百瀬。コジマ。逃げられない関係。
どこを向いても、壁しかない。ところが手術を終えた彼の目に、
世界には奥行きがある。
世界には向こう側がある。
と見える。
これって単純に「視力が良くなった」という話じゃないんだよね。
「自分が見ている世界が、世界の全部ではなかった」という発見なんじゃないかな。
百瀬が「世界はひとつじゃない」と言っていた。
その言葉は、人を傷つけることの免罪符みたいに使われていた。でも最後に「世界には向こう側があった」と分かる。
同じ「世界」という言葉なのに、全然違う場所に着地するんだよね。
百瀬は、「世界は違う。だから他人を理解する必要もない」と言う。
最後の「僕」は、「世界にはまだ見えていない向こう側がある」と知る。
私はここに、この小説のものすごく大きな違いがある気がする。
この小説は「これが善です」「これが強さです」という答えをくれない。むしろ、「そんな簡単に決められると思う?」って、読者に突き返してくる。コジマも、僕も、百瀬も、みんなそれぞれ違う方法で世界を説明しようとしている。
でも最後に救いをもたらすのは、壮大な哲学でも宗教でもなく、「目なんて、ただの目だよ」
という母親の言葉だった。
なんだか、すごいよね。
世界を説明しようとする言葉より、世界をそのまま受け入れる、ものすごく普通の言葉。
そこに救いがある。
あぁ、やっと最後に
川上未映子さんらしい、
透き通るような美しい文章に出会えて
ほっとして、嬉しかった。
すごく重たいものを、心に残したけど
すごくおもしろかったよ。
おもしろかったと言っていいのか、わかんないけど。
10年後くらい、または死の間際
自分の人生はなんだったのか、
考える時、また読みたいと思ったよ。
Posted by ブクログ
結構好きだった。
不気味で救いようのない雰囲気に引き込まれた。
コジマは 辛いことを受け入れて乗り越えることを美徳としていたが、それを主人公に押し付けて勝手に期待をし、考えが違うとわかると泣いて なにもわかっていないと言い放つ姿に重さを感じた。
理不尽な苦しみに耐える必要はないと思ったし、私はコジマの考えには共感できなかった。
主人公は百瀬と向き合おうとしたり、現状をどうにかしたいと思う気持ちがあったと思うが、コジマは 黙って受け入れることがアイツらに抵抗する唯一の手段だと考えていた。
読んでいる時、二人が報われて欲しいと思ったが、二人の考えはかなり違った。
主人公は、コジマに共感していなかったように思える。
斜視なことや、身体的特徴などが直接いじめに関係しているのではなく、全部たまたま タイミングで何もかも起こっているという、百瀬の考えに最も共感した。
コジマがいるけど斜視のままロンパリとバカにされひどいいじめがある世界。
コジマがいなくなるけれど何もかもから解放される世界。
どっちがヘヴンなのだろうか
Posted by ブクログ
文章が綺麗で本当に好きな感じだったんだけども、終始しんどい。逃げればいいと思ったし、酷すぎる虐めに耐える行為に意味あることだと思えない。でもコジマにとってはそれが意味あることでそれを乗り越えてこそ、という考え方で…。
もうコジマの思想は恐ろしい程に確立していて、心は壊れてしまったのだと。2人が普通の友達になれればどれだけ良かったことか……。
今後コジマが大人になって、今までの習慣や考え方は意味なかったんだって思う時は来るのかな……それともずっと縛られて生きていくのだろうか。
主人公は、たくさん苦しんだ分、新しい目で色んなもの見て友達つくって恋人つくって普通に幸せに過ごしてほしいよ。コジマといても幸せになれないと思うよ。もう狂ってしまったからね。
そして、百瀬の透かした感じのニヒリズム、死ぬほど腹たったけどまあ気持ちもわかる。結局この非情な世の中、やられっぱなしになる理由もないしね。その状況に置かれてるのも自分の責任、そんな世の中ですからね。まぁ、仕方ねーーーーー
Posted by ブクログ
川上さんが伝えたかったことはとても難しいことだと思った。
主人公や、コジマが壮絶ないじめにあっていても何事も無かったように学校に通い続ける姿に、誰かに相談したらいいのにと思ってしまったけれど、中学生の視野じゃ様々な可能性ややり方があることも分からないし、目の前の孤独な世界で耐えることを選んでしまうのかもしれないなとも思った。
主人公がどんどん追い込まれていく描写が辛かった。
コジマは初めは良かったけど、段々と自分の状況と大好きなコジマの思想との間で揺れ動く主人公の様子を見ていて苦しかったし、自分の思想で勝手に仲間だと思ったり、勝手に裏切られたと思ったりというコジマの危うさを感じて怖かった。それがやっぱり、最後の事件に繋がっていたと思う。虐められ、傷つけられることにも意味があると信じて受け入れるのは、最善の策とはどうしても思えなかった。
もう一つ百瀬との印象的な場面。私は百瀬の言っていることには1ミリも共感できなかった。それがその人の今やりたいことだからといって、人を傷つけていいわけない。虐められてる方がなにか行動を起こすべきだなんてそんなのは間違っていると思う。
正論を言っているようで支離滅裂なことを言っていたと思うけど、本人の世界ではそれが正しくて、自分が強者側だと信じてやまないからあんなに強気に出て、自分は正しいと胸を張って持論を披露できるんだね。
ろくな大人にならないなと思うし、最後の事件の後色々な大人からこっぴどく叱られていてほしい。
Posted by ブクログ
心を抉られながらも一気読み。
いじめというものが取り沙汰されるたびに「逃げたっていい」「学校が全てではない」という言葉が自然と飛び交う。大人である我々の経験則から言えば間違いなく正しいのだが、実際にそこで生きている当事者にとっては虚しく現実味のない言葉なのだと思う。スマホが普及してネットへのアクセスが当たり前の世の中にあっても、やはり子どもにとっての世界は狭い。そんな中でコジマが拠り所として見つけ出した「強さ」が、「すべてを受け入れること」なのが虚しくてやるせない。それはコジマにとっての呪いになってしまっているからだ。
どこか他のクラスメイトとは違う百瀬を最終的には実はいい奴、といった描き方をしない作者の徹底した冷徹さも本当に素晴らしい。
『黄色い家』を読んで2冊目にこの作品を読んだが、「僕」の母のような少し肩の力の抜けたような登場人物がすごくいい。
Posted by ブクログ
読んだあとなんかめちゃくちゃ辛かった。。私は多分、ここまでしんどい描写を読んだらその分最後に、しんどさと対になるような救いがあると期待してよんでたんだなあと自覚した。それとも、怖いものみたさみたいな感覚だったんだろうか。どちらにしても、一気読みをしてしまう吸引力だった。
心身共に余裕があるときでないと受け止めきれない気のする本で、私は今その余裕がなかったけど、考える題材をたくさん与えてくれる本な気がした。