ニーチェのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
2001年宇宙の旅のラストにこの曲がかかる。曲の意味を自分は、知らず。ニーチェの超人たれ!自己の克服:既存の道徳や常識に縛られることなく、現状の自分を絶えず打ち破っていく。力への意志:自分をより高め、自らの力を発揮しようとする根源的な衝動。運命愛(Amor Fati):苦難や運命を含めた人生のあらゆる出来事を全面的に肯定し、愛すること。ラストにこの曲を流す意味。それを知ると、スタンリーキューブリックとアーサーCクラークの凄さを再認識する結果となる。何て素晴らしい作品だったのだ!翻って自分は、どうか。まだまだ未熟だが、少しは、道半ばかも。向上心を常に持ち続け、何事にも挑戦し続け、愛する事。ニーチェ最高!
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Posted by ブクログ
『悲劇の誕生』というと岩波文庫のものが最も読まれていると思いますが、再読したいと思うぐらいに気に入ったら、絶対こっちを読んだ方が良いと思います。
訳者(浅井真男)あとがき、解説(納富信留)ともに超コンパクトだけど、なかなか良いです。
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ニーチェは若い頃に代表作を訳も分からずひと通り読んだものの、何度も読みたくなるのは、この『悲劇の誕生』だったりします。
最初の著書にはその後の全てが詰め込まれているから…ではなく、まだ、やぶれかぶれじゃない感じのニーチェに会えるので。
超人思想も良いけど、その前段階で格闘する本書のニーチェが僕は特に好きです。
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ダイモンの「最善のことは、⋯⋯生まれなかったこと、存在しないこと、無であることだ。⋯⋯次善のことは早く死ぬことだ。」という言葉は、まるで反出生主義的の起源みたいに聞こえます。
この絶望を克服するのがギリシア悲劇で、その起源を探究するのが『悲劇の誕生』の目的といいます。
かの有名な「アポロ的/ディオニソス的」という構図(二元論ではないです)も、その目的から要請されたもの。
ところで、本書の解説でもそれとなく書かれているように、「起源の探究」はそもそも不可能で、悲劇の「再誕生」(ワーグナー等)への期待に支えられた試みにしかなり得ません。
果たしてニーチェはそれを自覚していたのか、していなかったのか、気になるところです。
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Posted by ブクログ
概要
かつて、強く、勇敢で、富んでいる人々は」、「いい」とみなされていた。しかし、今では人よりも突出していることは、強欲だとして非難の対象になる。反対に清貧で謙虚で利他的な人は、集団で尊敬される傾向にある。このような道徳の変化はいつどのように起こったのだろうか…
そして、この道徳規範は、果たして価値があるのだろうか。
道徳の転換の起源は古代にまで遡る。抑圧されていた弱い人々は、凄まじい鬱憤と復讐の思いに耐えられなくなっていた。ニーチェのいう、ルサンチマンである。彼らは、価値基準の転換を試みることで、主人に対して永遠の復讐をした。それは、攻撃・利己・情欲は「悪」であり、忍耐・利他・禁欲といった行動は「善」であるという「奴隷道徳」を生み出した。この発明によって、強者を善悪で裁き、弱体化させることに成功した。
この一連の行為は、愚かで弱い人民によってなされたものではなく、背後には主導者がいた。それが、司牧者である。彼らは、人民を安楽に導来たいと真剣に考えていたが、実際には統治や支配の形態をとるようになっていた。人々が抑圧され、ルサンチマンを発散できないことで虚無に陥らないように、ルサンチマンの方向性を外部の強者と人々自身に向けせた。「お前が苦しいのは、お前が弱いからだ。お前自身にある。」と。こうして、奴隷道徳は人々の内部にそして外部環境にも浸透し、つにはヨーロッパ世界を覆うまでになった。
ニーチェは数千年の外から押し付けられ道徳規範から脱却し、自分自身の力の意志に従って、力強く生きることを勧める。
感想
昨年入門書を読んだあとに原著に挑戦し、見事に挫折。今年はちゃんと読み通せました。よかった!!私の中でニーチェとウェーバーは絶対リベンジしたい2人だったので、無事に読み通せてよかった。。。そして、わたしはニーチェなんだかんだ好き!!!!!
つい先日にオルテガの「大衆の反逆」を読んだばかりだったので、エリート主義のキャラ被りは否めない。相変わらずニーチェも酷い言いようで笑ってしまう。去年入門書を読んだときより、深い理解と洞察を得られた気がしているので、色々書き散らしていこうと思います!
1 涙ぐましいニーチェの超人人生
「超人」「ルサンチマン」。。。全体的にエリート感漂う言葉で有名なニーチェだが、本人はどんな生涯だったのだろうか。卓越した勇敢な貴族的人生。否、それはエリート貴族とは似ても似つかない極めて壮絶な人生であった。
異例の教授職の抜擢から転落、
友人との三角関係と失恋、
不人気と貧困と発狂______
これが、かの「超人」を掲げた哲学者の人生なのだろうか?
わたしは彼の境遇を思いながら、著作を読むと、胸がキュッとなると同時に、心から勇気づけられる気持ちがする。それは、彼が、自分のルサンチマンと一生涯かけて日々戦い、一つの体系的な思想まで昇華し、その価値を喝破しているからだ。彼こそ、超人の1人なのである。
考えてみてほしい。世間から全く認められない。愛する人が友人に取られる。
ニーチェの中には常に計り知れないほどのルサンチマンがあったはずだ。それを彼は分析視角として活用し、一個の思想体系まで昇華し切った。
そして、読んで貰えばわかると思うが、ニーチェの語りの口調は確信に満ちている。ここに至るまでに彼は人知れず、歯を食いしばって、涙ぐましい努力をしてきたんだろうと思いを馳せる。圧巻である。
しかし、哀しいかな。彼は生前はほとんど認められず、ついには発狂して死んでしまう。ここはゴッホを重ねてしまう。いやあ。。。ニーチェは死ぬ時は幸せだったんだろうか。。。
2 大衆の統治方法としての宗教の有用性と巧妙さ,現代的な応用方法
前回入門書を読んだ時は、ルサンチマンに塗れた大衆が強者に有利な道徳規範を転換することで、勝利を収めるという分析に感心していたのだが、今回はそれを操る司牧者の支配の巧妙さに目が向いた。
この司牧者の話は、現代的に言い換えると、「虚無を乗り越える強さを持たない(持てないの方が正しいかも)大衆のガス抜きをいかに行い、いかに生の肯定に導くか?」という問いに帰着するんじゃないかなと思う。
司牧者の実践はこうだ。
・ルサンチマンが溜まる子羊チャンたちの強者に対する道徳的な勝利でガス抜きさせる。
・子羊ちゃんたちの生活は惨めで苦しいものだったので、そこに原罪意識と救いという考えを刷り込んで、現状の苦しみのとそれを耐え忍ぶ意義づけを行う。
これらを通して、子羊ちゃんたちが虚無らないようにする。これは、、、中々の知恵である。
さて、現代だが、ますます子羊チャンたちにとっては厳しい状況になっている。資本主義が先鋭化する社会では、格差進行は止められず、近代以前の貴族社会の到来も待ったなしである。歴史的には、この辛い惨めな庶民に生きる力を与えてきたのは、司牧者であり、宗教だった。
現代では、誰が司牧者で、どんな方法が庶民を導きうるだろうか?今は政治家が前者のガス抜きだけやっているイメージで、もう少し後者の人々の現状認識の変化の手法が増えてもいいのかなと思う。安全な方法だと瞑想とかになるが、最悪な例だと、メディアのハックとか、デジタルデバイスへの没入促進、麻薬接種促進。若干この辺の傾向はもうありますよね。宗教での支配よりディストピア感ありますが、いかがなんでしょうか。。
3 我々の倫理観の行方、倫理観とはルサンチマンにすぎないのか?という永遠の問い
最後に、ニーチェは我々の倫理観を真っ向から否定する。それは奴隷道徳だ!お前の倫理は所詮ルサンチマンから来るものにすぎない!目を覚ませ!と。
これはかなり根底から価値観を揺るがされることだ。
私は去年どう生きるべきなんだろう?と悩んでいたときに、ニーチェの入門書に出会い、奈落の底に落とされた気分がした。高校の倫理の先生が言っていた「善く生きる」が自分の指針になるんじゃないかなとすら思っていた私(なぜニーチェを読んだのか)は、え?真理とか、善悪がないならじゃあどう生きればいいわけ?と八方塞がりだった。
そして、1年経った今でも、同じ問いは残る。自分の倫理観や規範意識、善く生きたいという思いは、弱さの自己正当化(ルサンチマン)にすぎないのか、自分が「強くなれないから」、強い人を引き摺り下ろすために倫理を使っていないか。自分の「善く生きる」方針は、強くなれないからそうせざるを得ず、ただ正当化して美化しているだけではないか。
ただ、今回ニーチェの一生や哲学史における立ち位置をおさらいしみると、どうもニーチェは「善く生きる」倫理観を全否定しているんじゃないと思うようになった。
ニーチェが強い口調で、倫理や真理を断罪するのは、それらの倫理観や規範意識は、古代から中世、中世から近代に至るまであまりに強大で支配的だったからではないかと思うようになった。一方的に、喝破し、断罪するぐらいでないと、「神は殺せなかったのだ」。それほど神はあまりに強大な存在だった。
また、前述した通り、ニーチェの人生は絶望に満ちていた。それでも生き抜く(発狂してしまったけれど)には、自分の哲学による自分の人生の強い正当化を切実に必要としていたんじゃないかと思うに至った。明らかにうまくいってない時に、他の人から「これ本当に良かったわけ?」と聞かれると、少し強気に「いやこれでよかったんだ!!!!」と言い返してしまうことはよくあって、ニーチェも近い心象だったのかなと思う。この辺ののっぴきならない事情を考えてみると、意外と全否定しているわけではないと都合のいい解釈ができるようになった。
昨年よりも動じなくなったのは、ニーチェの好敵手であるプラトンやその弟子アリストテレスの著作を読んで、こちらの善や徳重視の価値も信じられるようになったことも関係している。(プラトンは2−3冊読んだが、レビューが間に合っていない。ドストエフスキーやゲーテ、カールシュミット、西郷隆盛も読んだが、それらもレビューが間に合っておらず、内容を忘れてしまい、どうしたものかと思っています。笑)
また、カントも乗り越えるべき相手として出てきたので、いつか読みたいが、純正理性批判?は驚異の8巻で読めるわけなくて、頭を抱えています。
(資本論も読んでいるのですが、難しすぎて放り投げています。)
ということで、私の大好きなニーチェのご紹介でした!本当に力が出るのと、純粋に「「悪口力」」が高くて面白いので、おすすめです。今は善悪の彼岸も読んでいるので、またレビューします!
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Posted by ブクログ
ニーチェの訳本とは思えないくらいに非常にわかりやすい語り口であった。『道徳の系譜学』の違う訳を参考にしたくて、本書を購入したが、一冊目では理解しづらかった部分も、非常に明瞭に理解できるようになった点がよかった。
しかし一冊目から光文社の本のみというのも、哲学を読み解く醍醐味が半ば失われてしまう気もするので、二冊目の参考書としてもっているくらいがとても良いと思う。
また、解説も内容をわかりやすく伝えようとしている訳者の姿勢が伝わってよかった。
以下、第二論文のみ再読した際に、一部メモをとったので、そのメモを自分用に全て載っけておく。
第二論文感想・メモ
第二論文2を読んで思ったこと
「約束を守ることができる人間」と「できない人間」のことについて記されている。
ここの部分は、全体の中での役割としては、ある一つのコミュニティの中で、序列が生じる所以、必然性について書いていると思った。
そのコミュニティの中で約束を守る人間は上位にたつ根拠として、彼の持つ「良心」がある。
そして、このときの「良心」というのは、「約束を守ることができる自意識」であると同時に、「約束を守れない奴に鞭打つ権利を持つ自覚」でもある。
故に、「良心の疾しさ」が内向的な自虐であるとするなら、「良心」は外向的な虐待、というふうに解せる部分があるとおもった。
第二論文5を読んで思ったこと
ここでは、債務者に負債を返済させる、約束を守らせるために、痛み、刑罰によって「忘れさせないように」してきた経緯がかかれている。
これを第二論文2と関連させて読むと、「約束を守ることができる人間」が「守れない人間」に鞭打つ様子を、刑罰という形で、そのまま5で記しているのだと思った。
こう読むと、2→5という流れがあるようにみえる。当たり前なのかもしれないけど
第二論文7を読んで思ったこと
第二論文しか読んでないが、ここで初めてニーチェの真の敵「健常者まで柔弱化、道徳化してしまうこと」が、ペシミストとの対比としてでてきていた。
ペシミストは生の嘔吐、人生への不信をするが、沼地の植物のようなもので、それはまだいい、問題(最悪のしるし)は、柔弱、道徳化なのである、という。それは自分の動物的本能をはじいるものだ。
ここの対比は、一見同じように見えたが、ペシミストは、生存そのもの、自分の存在そのものに対する嫌悪というよりは、生きることやそれに伴う苦悩に対して嫌気があるもので、後者の病人のほうは、自分の存在、動物本能的部分すべてが無理になってしまうのが、ダメってこと?かとおもった。
他にも、人間はやっぱり苦悩そのものよりも苦悩の無意味さがつらいから、いつでも自分の苦悩を神が見てくれるように、神を発明した、とか、
決定論だと神が退屈してしまうから、神が人間への関心をなくさないように、自由意志を発明した、とか、ここら辺の話忘れてて、おもろ、と思った
第二論文11を読んで思ったこと
長かったので覚えてることだけ書く。初読の時は、弱者のルサンチマンを抑えるために、(本当はしたくないけど)強者が法律を定めた、というニュアンスで読んでいたが、それは普通に違いそうだった。
むしろ強者は積極的に法律を定める立場にあるのだろう。
そう読めば、多分後に出てくる、ルサンチマンが方向転換し、内向的な自虐、良心の疾しさに至る、という文脈も、これは弱者側はそうならじるをえないことだから、スムーズにつながる。
また、「正義」という起源についてもちらほら出てきていたが、(「正義」の起源は、約束を守れる人が自分と同程度のものと和解し合うことであり、自分より弱い約束を守れない下劣な奴らには、ルールを強制し、和解させること、であった)正義の起源の、「和解させる」の部分が法を設けて「和解させる」につながるなと思った。
つまり、強者は、ルサンチマンを抑えたい!という動機というよりかは、彼らの正義の観念に従って、うるさいやつらを和解させる!という感じの動機になるのかとおもった。
第二論文14を読んで思ったこと
刑罰を受けた犯罪者が、「まずいことになった感じ」だけがあって、反省・更生などしないのだ、という段落。
その理由として挙げられているのが、刑罰だって、見かけ上はただの「暴力」であって、あいつらだって自分と同じことやってるじゃないか、という感覚にしかならないのだという。
ここを再び読んで、確かに、と思った。学校教育とかで、最初にちょっかい出したやつよりも、やり返して暴力を振るった側が、「でも手を出したのはお前だ」と怒られる風景がある。しかし、大人が、暴力に対してあえて怒るのであれば、そもそも刑罰がなぜ暴力的であるかを考えるべきだと思った。
また、犯罪者を裁く側の人間に、「罪のある者」を相手にしている感覚はまったくなく、単に損害をもたらしたやつ、不運なやつ、という印象しかない、という記述も興味深い。
つまり、「刑罰」という概念と「罪」という概念の連関、あるいは、「負い目」という概念と「罪」という概念の連関は、まだここでは整備されていない。まだその連関が見出されていない時の刑罰の話なのだ。
だから、犯罪者も、裁判官ですらも、お互いに、なんで罰する(罰される)のだ?とキョトンとしているのである。
コントかよ、と思った。
第二論文19を読んで思ったこと
神々の起源についてまた述べてるところがあった。祖先の存在が次第に大きくなり、神となる。つまり恐怖感情こそが起源だということだ。
おそらくこっちの方がニーチェの語り口調は強かったので、前回見た、「人間の苦しみを見落とさせないために発明した」というのは、特性の一つとして発明した、という感じだろう。
高貴な人々ですらも、利子として神々に高貴さを返済してしまった、という部分は、わかるような、まだわからないような気がしている。
第二論文21を読んで思ったこと
この段落では、無神論と神(祖先)に対する負債のなさは比例するのではないか、という反論に対して、神が愛ゆえにすでに返済してしまったから、贖罪は不可能になってしまった、という主旨が語られる。
しかしこれはどうも屁理屈に聞こえてしまう。つまり、この段落は、キリスト教から逃れたくてももう逃れられない、だって神が贖罪してるから、という理屈だと思うが、そもそも無神論に向かえば、キリスト教から逃れられないとか、神が贖罪してる、とかそういうものに対しても無関心でいられるのではないか、と現代的な価値観から思う。なぜ無神論の人を想定するのに、キリスト教に囚われてる前提でいるのか、謎である。
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Posted by ブクログ
ドイツの思想家・古典文献学者ニーチェの思想のエッセンスが詰め込まれた本。
名前だけ借用したゾロアスター教の開祖ツァラトゥストラの口を通して、ニーチェの思想が語られる。キリスト教聖書のパロディでもあり、物語でもあり、詩でもある。
人生は無意味だ。でも、だからこそ、無意味から始めてみなくちゃあならない。あの世に意味を見出して、この世の生を弱めても、生の無意味を克服することはできない。生きていることにうんざりしているときにこの本を読めば、きっと新しい無意味を見つけられる。
ニーチェは、「神は死んだ」というフレーズが特に独り歩きして有名だけれど、「人間だったんだよ、神なんて。」(57)という表現のほうが僕は好きだ。神の過ちではなくて、人間の過ちを認められそうな気がするから。
「神を試みてはならない」とすれば、神こそ人間の試みであったからなのかもしれない。だから、ツァラトゥストラは、ツァラトゥストラなりの試みを始めようとしているんだ。人間の無意味を克服するために。
「ツァラトゥストラ」は面白い本だ。読み継がれるだけのエネルギーと危険がある。
でも、ツァラトゥストラを大事にするなら、ツァラトゥストラを大事にしてはいけない。乗り越えていかなくちゃいけないんだ。それがツァラトゥストラの忘れられるべき教えなんだと思う。
「ツァラトゥストラはこう言った、しかし…」 -
Posted by ブクログ
この本は聖書のパロディーだと訳者あとがきに書いてあったけど、聖書を知らなすぎて元ネタが全くわからなかった。でも、パロディーなんだとしたら当時のキリスト教世界の人々にとって衝撃的な問題作であったことは容易に想像できる。私なら、お釈迦様とかのエピソードを色々出してきてそんでもって「釈迦は死んだ」とか言われたら、はぁ?ってなるかもしれない。いや、まぁ、釈迦は死んでるんだけど。というか、私は仏教徒ではないけど…
ニーチェの無神論は、なんとなく禅宗などの考え方とニアミスな部分がある気がする。
坂口安吾ともなんとなく通じるような。
ハッとする言葉がたくさんあった。
下巻が楽しみです。 -
Posted by ブクログ
「人生は何事もなさぬにはあまりにも長いが、 何事かをなすにはあまりにも短い」と中島敦は言っていますが、苦しみを何度味わっても自分の生を肯定的にとらえ上昇を希求すれば、何度繰り返しても足りない。学ぶことは永遠にある。って言ってる気がしました。
最後は、全てのものごとは繋がっている、喜びは苦しみが深いほど素晴らしくなる、しんどいから人生は深くなる、すべてを味わえと、どこか宇宙的な極致に到っている感じがあります。
ニーチェは苦しみの多い生だったのではないかとこの本を一冊読んだだけでも伝わってきますが、そんな中でも、今を頑張れ、過去を肯定しろ、大丈夫だ、笑うんだ、軽々とダンスをしながら、誰かの基準ではなく自らの基準の高みを目指せと言ってる。
社会の定められたレールに上手く乗れない自分のようなポンコツにはとても励まされたし。胸が熱くなりました。
晩年、ニーチェは発狂して生涯をとじますが、ある意味、この人は本当に人を超えたのかもしれないな、と思います。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ
大きなあこがれについて
おお,俺の魂よ,俺はお前に全てを与へた.俺の手は,お前に触れて空つぽになつてしまつた.ところが,いま!いまお前は俺に微笑みながら,実に憂鬱さうに云ふ.「私と貴方では,何方が感謝すべきなんでせうね?与へる側が,受け取つてもらつた事を感謝すべきなんぢやないかな?プレゼントする事は,必要に迫られてるからぢやないかな?受け取るのは,憐んでゐるからぢやないかな?」おお,俺の魂よ,俺には,お前の憂鬱が微笑んでゐるのがわかる.お前は豊かすぎるので,憧れの手を差し出してゐるのだ!
FriedrichWilhelmNietzsche
AlsosprachZarathustra -
Posted by ブクログ
永劫回帰、超人、ルサンチマンなどの概念を生み出したことでも知られるニーチェだが、
なぜニーチェが、どうゆう理由で、それらの概念、価値を創り出したのか? それを良しとしたのか?
この本ではそれらのワードはまだ出てきてはいないが、その結論に至るまでの思考の変遷をニーチェと共に追体験することが可能な本だ。
結論が正しいかどうかの議論とは別に、
その結論に至るまでの道筋に対峙していくことができる。時代を超えて。
それが古典の醍醐味である。
善悪の彼岸というタイトルのこの著書は、
過去から作り上げられてきた良し悪しという価値基準をぶち壊しにかかるニーチェの精神の奮闘を共に味わうだけでなく、参加することができる。
それほどに読者に何かを叩きつけてくる激しさをもった書。
まったくもって新しい。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ人は欲望を満たすために社会を形成したが、その社会によって人は欲望を抑制されることとなった。社会における善は、自己肯定から辛抱強さへとその価値観を奴隷により逆転された。良心は自分の自由な本能を外ではなく内に向けざるを得なくなり、疚しい良心、として成長した。その良心は、禁欲的な生に高い価値があると解釈し体現する司牧者によって点検される。学問もまた価値を生み出す権力を必要とし、自らは価値を創造することが出来ないため、禁欲的な理想を求めるものである。禁欲的な理想の果実たる、真理の価値を問い直そう、というのがニーチェの主張だ。
神に罪を被せたギリシアと神に罰を背負わせたキリスト教との対比が興味深かった。また、純粋な理性、への批判。見るとは能動的な力が無ければ出来ないという指摘。統計など科学的なデータの裏にも意図があることを忘れてはならない。