ニーチェのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
ネタバレツァラトゥストラを分かりやすく書き直したというだけあって曙光よりだいぶ理解できた。と思う。すごくまじめに読んだら面白かった!ニーチェ先生が私たちのレベルまで降りてきてくださっているという感じ。
まず支配者の道徳と奴隷の道徳があって、奴隷=一般人はキリスト教程度で満足していればよいけど、支配者、新しき哲学者は奴隷も何もかも利用して高次の課題にあたり、新たな道徳価値を創造する。そういう人々が必要なんだ、ということ。
精神は自分の周りを同化し、征服し、わがものにすることで成長しようとする、これが生の本能、力への意思。キリスト教的道徳のもので、この本能は悪として否定され、支配者になるべき人を傷つけてきた。無条件に真理に高い価値を認め、認識できるものと断定していた今までの哲学は間違いだった。
新しき哲学者は、下賤な人間に学びながらも、孤独で、独立不羈でなくてはならない。苦悩の中で自由な精神を高め、力への意思を行使する。人間の「どこへ?」と、「何のために?」を定めるために。
これは祖先からこの仕事に取り組み、訓育されていて高貴で強い精神の者のみ許される。
すがすがしいほどの選民思想!あと女性蔑視的発言!真理は女性だから仕方ないのか!私は間違いなく奴隷なのだがここまで徹底してるともう全然嫌な感じしない。感嘆があるのみ。
人間にはランクがあるということは全く間違いではないと思うが、ここまで臆面もなく主張できるのはすごい。
「そこに驢馬が登場した 美しく、いとも逞しき驢馬が」のところと、突然「自殺を考えることは、きわめて優れた慰めの手段である」と言い出してメンヘラになるところは笑った。 -
Posted by ブクログ
何かに対するアンチとして生まれる行動を批判し、ルサンチマン(怨恨の念)というシステムの起動を捉えていたニーチェ。
アンチ、つまり何かへの敵対や恨み及びそこからしか創造できないこと。
アンチから始まる道徳の究極の形態としての発展してきたものがキリスト教であった。
ニーチェ その名前だけならば知っている。
実際、ニーチェは特に日本では非常に有名な哲学者だ。
例えば出版点数で見ると以下のようだ。
「ニーチェの著作の出版点数は、出版国別では本国ドイツに次いで世界第二位、言語別でも、ドイツ語、英語訳、フランス語訳に次いで世界第四位です。日本は、世界一のニーチェ翻訳大国です。ドイツ語圏以外で、ニーチェを自国語で読むことに対する要求がこれほど強い国はありません」(225~226頁『ニーチェ入門』 ちくま学芸文庫、清水真木著)
※ニーチェ入門は非常に丁寧な入門書として最初で最後の本としてとても良い本だった。
本書は第一論文から第三論文まで、ニーチェの著作の中では珍しい論文形式らしい。
『道徳の系譜学』は彼がその晩年に自分の思想を分かりやすく書いた本として、『善悪の彼岸』と並ぶものとのことだ(前掲書より)。
系譜学とは、その物事がどのように成り立ってきたのかを探る事であり、ニーチェは元々古典文献学を専門にしてきた研究者だった。
彼はその手法を元に思想を形成してきた面がある。
特に本書では、いかにして今『良い』とされるものと『悪い』とされるものが成り立ってきたかを考察している。
良い悪い、つまり善悪を考える事は道徳とよばれる。ヨーロッパでは特にキリスト教をその根底に置いている。
ニーチェは古代に遡り、弱者がルサンチマン(怨恨の念)に基づき、弱者こそ『善』、強者こそ『悪』という価値転換を行ってきたことを指摘する。
ルサンチマンを原動力とした統治システム、それがキリスト教だった。
ルサンチンマンは本書で以下のように言い表されている。
「道徳における奴隷の反乱はまず、ルサンチマンそのものが創造する力をもつようになり、価値を生み出すことから始まる。このルサンチマンは、あるものに本当の意味で反応すること、すなわち行動によって反応することができないために、想像だけの復讐によって、その埋め合わせをするような人のルサンチマンである…奴隷の道徳は最初から、『外にあるもの』を、『他なるもの』を、『自己ならざる者』を、否定の言葉、否で否定する。この否定の言葉、否が彼らの創造的な行為なのだ」(本書56~57頁)
怨恨の念が生み出す、価値転換。
そもそも強者が『善』であり、弱者が『悪』であった。
古代ギリシアの貴族は強く、誇り高く、強者であり善であった。
同じく「日本の貴族、ホメロスの英雄、スカンジナヴィアのヴァイキング…」(本書65頁)もそうであった。
その価値観がルサンチマンにより転倒した、それを探っていく。
つまりは、ユダヤ教、キリスト教の系譜=歴史を探るということだ。
特にニーチェの生きる当時の西欧世界にとってのキリスト教的価値観は絶大だった。
その価値観を系譜学、つまりその起源に遡ってその価値観の転換を発見したことは非常に衝撃的な出来事だったのだろう。
私はユダヤ教とキリスト教の大きな違いはユダヤ教が特定の『民族』にとっての宗教である事で、一方キリスト教は全人類の『普遍的』な宗教となったことだと思っている。
ユダヤ教はパレスチナ周辺に住んでいた迫害を受けていた人々の宗教として『選民思想』を基にしてその範囲の中で自己正当化を図る、そうせざるを得ない過酷な対外的状況に応じるために生まれてきたと考えている。
しかし、ユダヤ教共同体がうまくいくとその中でも弱者が生まれる。
その弱者を救うのがユダヤ教徒の改革者キリストであり、『隣人愛』という形で救済を唱え全人類にとっての宗教となったと考えている。
だから、ユダヤ教はその当初の民族以上の広がりを持つことはできなかったが、キリスト教はより広く『普遍性』をもった宗教としてうまくいった。
例えば、ローマ帝国の国教となるくらいに。
この発展のメカニズムをルサンチマンに見出し、
ルサンチマンがいかに機能してきたかを第一論文で指摘し、第二論文においてその宗教の中での代表者(司牧者)がそれを点検し、禁欲という理想が掲げられてきたことを指摘している。
さらにその禁欲という理想の名のもとに、近代的な学問もまた同様な構造があると言っており、ニーチェの射程は今の私たちにも間違いなくささる。
ルサンチマンという人間に備わる機能は、歴史的に全人類を覆うくらいに発展し価値観を転倒してきた。
それは宗教だけでなく学問にも同じように働いており、今も新たなルサンチマンという機能が蠢いているように思われる。
『トランプ現象』や『ヘイトデモ』や『反日』のような何かに対するアンチから生まれる、外にあるものを否定の言葉、否で否定するという創造的な行為はニーチェが解明したルサンチマンシステムの延長線上にあるように思われる。
しかし、外から「我々の自由が脅かされている」という恐怖と「無力な自分たちこそが善だと正当化したい」気持ちから発生する様々な現象の中には、個々人のよく生きたいと願う欲望もあると思う。
ニーチェはシステムとして現れるルサンチマンを基にした宗教を批判し、そのシステムの中で生きている人々にはルサンチマンに陥るなと言っていると思う。
ルサンチマンに回収されない個々人の欲望(よりよく生きたいというような)としての祈りが何らかの宗教的な形態を取ることや何らかの現象として現れる可能性はあるのではないかと思う。 -
Posted by ブクログ
そんな時に読んだニーチェは僕を鈍器でぶん殴ったようだった。
ニーチェとのコミュニケーションで僕が学んだことは以下のことだ。
現生に希望をもてるよう向き合うことが人生だ。
虚栄心ではなくよく生きようとする情熱に生かされなさい。
しょうもない歴史が繰り返し、自分もその歴史の一部分だとしても、そのことを真摯に受け止め、そしてそれを超克しようとする人々を超人という。
かなり恣意的な解釈も含まれるが、こんな感じである
ニーチェの言っていることの9割は理解できていない、しかしその1割を理解するだけでも人生に大きな影響を与えるニーチェはやはり偉大なのだろう。 -
Posted by ブクログ
この自叙伝が書かれたのは、ニーチェが44歳のとき。この年が彼の正常な精神活動の最後の一年だったらしい。
彼の精神活動の最後に遺されたこの自伝は、ニーチェの思考と著作の全体について自ら細かく解明していく構成になっている。
シニカルな余裕に満ちた箴言、大上段から一気に振り落とす傲慢な名句に心踊るニーチェ好きには、目次からどストライクかもしれない。
・なぜわたしはこんなに賢明なのか
・なぜわたしはこんなに利発なのか
・なぜわたしはこんなによい本を書くのか
言うまでもなく『この人をみよ』の「この人」とはニーチェさん自身のことである。
とはいえシニカルな余裕というよりは、自己欺瞞にすらも目を背ける、傲慢と自虐の極致を両取りしているかのような弱さも垣間見れるのも事実。
人間一般を観察し分析し記述することに関しては比類なき才をもちながら、とびきり強がりで誠実なニーチェさん。だから、この本はニヤニヤしながら読んでください。
ニーチェは、人生には、人間には、そして世界にはなんの意味もないことを言ってのけた。国家の強大化、文化の繁栄、来世における救済、正義の実現、貧困の解消、幸福の追求。
人生に何らかの意味、価値、目的を認めること、それは大いなる錯覚なのだ、と。
はっきり言ってその思想の前にはすべての人間は生きる価値を剥奪される。だがニーチェ自身はどうだったのか。
弱き者を徹底的に糾弾したのはなぜか。神が死んだと、神にこだわり叫び続けたのはなぜか。それは彼自身が極めて弱く、敬虔なクリスチャンとまでは言わないまでも誰よりもキリスト教的であったと言えなくもないのだ。これもまた外せない一冊。81点。