森田真生のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
数学を語るという行為において、もちろんいろんな着眼点はあると思うのだけど。
情的に語ると言うと、語弊があるような気もする。
私たちが生きることとの結び付け方が上手いな、と思う。
何より、これからも読みたいと思わせる力がある。
「連続的な多様体を生み出す概念の例の一つとして彼は、『色彩』を挙げる。『色彩』という概念について考えるとき、私たちは無意識のうちに、心のなかに様々な色を思い浮かべるだろう。それら色彩の全体は、ある空間的な『広がり』とともに、連続的なグラデーションをなす」
幼い頃にやったゲームでは、パラメータの色をRGBでグリグリと変えることが出来た。
「そういうもの」と思って使っていたけれど、何事も「そういう表し方」を思いついた祖がいるわけで、あらためて、ほう、と感じたことだった。
「いつの時代も人は、未知の事物を、手許にある概念に喩えて理解しようとしてきた。かつて人間の心は、蒸気機関の比喩で語られることもあった。現代の人工知能や人工知能の研究者は、『計算』という概念を頼りに、コンピュータのメタファで、知能や生命の謎に迫ろうとしている。だが、本当にこれが正しいメタファなのだろうかと、ブルックスはあらためて問うのだ」
「GPT-3は、ウェブな電子書籍から収集した何千億もの単語の統計的なパターンを学習して文章を作成していて、人間のように言葉を「理解」しながら作文をするわけではない。肝心なのは、意味よりもデータであり、理解よりも結果なのだ。こうした技術が目覚ましく進歩していくなかで、意味や仕組みを問わずとも、計算の結果さえ役に立つなら、それでいいではないかという風潮も広がってきている。
だが、意味や理解を伴うことのないまま、計算が現実に介入するとき、私たちは知らず知らずのうちに他律化していく」
二つの引用をしたが、疑うことも、思考停止に陥ることも、私たちにはどちらも「できる」。
ただし、結果的に人間は無能化してしまう、そんな結末もあるのかなと思う。
何も判断しなくても、生きていける世界。
それを、果たして、幸せと感じるのだろうか。 -
Posted by ブクログ
同じ著者の『数学の贈り物』を読み、すっかりファンになってしまい読んだ一冊。数学というものを、数字や記号を使った「純粋に」論理的な思考と考えるイメージに対して、そうした思考に「身体」の役割を取り戻そうとする本。
数学史についての説明は、ユークリッドに始まる古代のギリシア数学から、チューリング機械まで。数学史に関する本を一度でも読んだことがあれば大体知っているような有名どころが押さえられている。
ただ、面白いのは、古代の数学には、「身体性」があった、というところだ。
ユークリッドの書いた『原論』には、多くの命題がある。しかし、現代数学の命題と明らかに異なっているのが、命題を読んだだけでは、状況がよく分からず、横に付けられた図とセットになっている点だと言う。
著者は、このことについて、古代の数学は、ただ、数式や記号を使って、論理的な思考を書くだけでなく、数学というものが、まさに、自分の「身体」を使って図を書くという行為と、不可分だったのだという。つまり、数学をすることは、頭で考えるのと同時に、体で考えていた。
頭の中で考えることと、実際に体を動かして頭の外で考えること。こうした「考える」ということの捉え方が面白かった。
後半、著者は、自分が最も影響を受けたという岡潔の言った「情緒」の言葉を鍵に、数学を体で、直感で理解することを取り戻すべきだという主張を説明していく。
高校時代に学んだ数学も、難しくなればなるほど、そこに数式として書かれたものは、現実的な感覚から遠ざかっていってしまう。著者の主張の通り、そんな数学に、体でなることができたとき、どんな風な景色が見えるようになるのか、とても心惹かれる。
本の数学に関する本筋からは脱線になるが、この本の中で紹介されている、アルタイの写真の話が一番印象に残った。木に立てかけられた板の前に一人の男が立ち、その周り数十人の子どもたちが座っている。
学校という場所があって、そこで勉強をするのではない。たとえ、そこに学校という建物がなくとも、誰かが誰かに教えるという行為が先にあって、そこに「学校」という空間が生まれる。
自分が今まで身につけてきたことを以て、日々生きること。そのためのヒントに満ちた本だった。 -
Posted by ブクログ
【感想】
面白かった。数学の歴史と発展、記号化と身体化、アランチューリングと数学、岡潔と数学の話のどれもが興味深い。文書が美しく、優しい。この人生において数学を勉強し直すことがあれば、読み返す気がする本。
【本書を読みながら気になったコト】
・小学校で当たり前にならう筆算が定着するまでは、二桁の掛け算は非常に高度なものされていた
→数学も使用目的によって発展していった。ギリシア数字は計算そのものには使いにくかった。計算に使える数学が生まれたのは、インドに依るところが大きい
>>数学の目的はかつて、数学的道具を用いながら、税金の計算や土地の測量など、生活上の具体的で実践的な問題を解決することが中心であった。このとき、数学者の関心は、あくまで数学の外の、実世界の方を向いている。
>>数学の道具としての著しい性質は、それが容易に内面化されてしまう点である。はじめは紙と鉛筆を使っていた計算も、繰り返しているうちに神経系が訓練され、頭の中では想像上の数字を操作するだけで済んでしまようになる。それは、道具としての数字が次第に五分の一部分になっていく、すなわち「身体化」されていく過程である。
ひとたび「身体化」されると、紙と鉛筆を使って計算をしていたときには明らかに「行為」とみなされたおも、今度は「思考」とみなされるようになる。行為と思考の境界は案外に微妙なのである。
行為はしばしば内面化されて思考となるし、逆に、思考が外在化して行為となることもある。私は時々、人の所作を見ているときに、あるいは自分で身体を動かしているときに、ふと「動くことは考えることに似ている」と思うことがある。身体的な行為が、まるで外にあふれ出した思考のように思えてくるのだ。
・私たちが学校で教わる数学の大部分は、古代の数学でもなければ現代の数学でもないく、近代の西欧数学である
・数学の計算困難性が増すなかで、コンピュータが誕生した
>>チューリングは数学の歴史に、大きな革命をもたらした。
”数”は、それを人が生み出して以来、人間の認知能力を延長し、補完する道具として、使用される一方であった。算盤の時代も、アルジャブルの時代も、微積分額の時代においても、数は人間に従属している。数はどんなときにも、数学をする人間の身体とともにあった。
チューリングはその数を人間の身体から解放したのだ。少なくとも理論的には数は計算されるばかりではなく、計算することができるようになった。「計算するもの(プログラム)」と「計算されるもの(データ)」の区別は解消されて、現代的なコンピューターの理論的礎石が打ち立てられた。
>>身体から切り離された「形式」や「物」も、それと人が親しく交わり、心通わせ合っているうりに、次第にそれ自体の「意味」や「心」を持ち始めてしまう。
物と心、形式と意味は、そう簡単には切り離せないのだ。
・岡潔によれば、数学の中心にあるのは情緒。肝心なのは、五感で触れることのできない数学的対象に、関心を続けてやめないことだという。
>>なぜそんなことができるのか。それは自他を超えて、通い合う情があるからだ。人は理で分かるばかりでなく、情を通い合わせあってわかることができる。他の喜びも、季節の移り変わりも、どれも通い合う情によって「わかる」のだ。
ところが現代社会はことさらに「自我」を前面に押し出して、「理解(理で解る)」ということばかり教える。自他通い合う情を分断し、「私(ego)」に閉じたmindが、さも心のすべてであるかのように信じている。情の融通が断ち切られ、わかるはずのことも分からなくなった。
>>かぼちゃの種子の生成力が、種子や土、太陽や水の所産であって、人間の手によっては作れないものであるのと同じように、「生きる喜び」も本当は、周囲や自然や環境から与えられるものであって、自力で作り出せるものではない。ところがいまは、何でも「個人」ということが強調されて、その「個」が「全の上の個」であることを忘れている。大自然には通い合う情があり、一つ一つの情緒はその情の一片である、ということが忘れられている。それで日々の生き甲斐までわからなくなった。自他を分断し、周囲から切り離された「私」の中から、生きる喜びが湧き出すはずもない。
・アランチューリングと岡潔の共通点、それは両社とも数学を通じて心の解明を目指したこと
>>『数学する身体』と名付けられた本書は、生命が矛盾を包容するとはどういうことが、そのことがテーマとして貫かれている。数学と身体の間には一見すると矛盾がある。数学は三人称性を纏って形式化と記号化に邁進し、身体はその成り立ちからして一人称的である。これは論理学的な矛盾ではなく、直感的なものである。したがってこの矛盾は、数学そのものによって乗り越えられるものではない。 -
Posted by ブクログ
「数学する身体」魅惑的なタイトルです。
著者は、京都に拠点を構え、独立研究者として活動する数学者だそうです。「数学の演奏会」なるライブ活動で、数学に関する彼の想いを表現しています。そして、本作で最年少で小林秀雄賞受賞されています。(小林秀雄先生の著作を理解できたことが無いのですが)
「はじめに」において、この作品を 数学にとって身体とは何か、ゼロから考え直す旅とします。まず、著者の文章力に驚きます。どなたかが、悟りを開いているようなと形容されていました。明確で簡潔。脳と文章が一致しているような印象です。(あくまで個人の感想です。)
第一章では、数学する身体として、数学は身体を使ってきたことを説明します。視覚で少数の数を認知する。体の部位を使って物を数える。(手の指10本で10進法⁉︎)そして、それらの限界から 数字や計算など道具の発見に繋がります。
第二章では、計算する機械として、数学の道具の進化の歴史が語られます。古代ギリシャの言語による証明から、算用数字の発明、記号•代用数字の利用と長い時間をかけて、世界の各地でそれぞれの数学の道具が発展していきます。そして、計算が追いつかなくなり、概念•理論への進化となります。
第三、四章では、著者が啓蒙する、岡潔氏という日本を代表する数学者への想いと、その実績について解説されます。まず、身体の中の脳へ科学的アプローチしていきます。そして、岡潔氏の情緒に対する考え方を丁重に扱っていきます。身体の心「彩り輝き動き」を喚起する言葉として「情緒」を表現に使います。情緒は個々の身体に宿る、とも。
著者は、この岡潔氏の日本的情緒を身体に備えることを望んでいるのかと思う。
終章で 岡潔氏の言葉を取り上げる。心になり心をわかる 心の世界の奥深くへ分入る。という、西欧的な心作る心を理解するとは違うアプローチに自身も惹き込まれているようです。
ライブ映像がネットにありましたので視聴させていただきました。若くきらめく知性でした。小中学生にも是非ライブしてもらいたい。数学だけでなく、あらゆる学びに共通すると思いますので。
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数学から一番縁遠いと思っている自分が、この本に魅了された。岡潔という巨人に導かれながら、著者はこころに迫ろうとしている。文庫174p
聞くままにまた心なき身にしあらば己なりけり軒の玉水という道元禅師の和歌を岡潔は次のように読み解く。外で雨が降っている。前肢は自分を忘れて、その雨の音に聞き入っている。このとき自分というものがないから、雨は少しも意識に上らない。ところがあるとき、ふと我に返る。その刹那、「さっきまで自分は雨だった」と気づく。これが本当の「わかる」という経験である。
森田は、それを次のようにとらえる。自分がそのものになる。なりきっているときは「無心」である。ところがふと「有心」に還る。その瞬間、さっきまで自分がなりきっていいたそのものが、よくわかる。「有心」のままではわからないが、「無心」のままでもわからない。「無心」から「有心」に還る。その刹那に「わかる」。これが岡が道元や芭蕉から継承し、数学において実践した方法である。
なぜそんなことができるのか。それは自他を超えて、通い合う情があるからだ。人は理によってわかるばかりではなく、情を通わせ合ってわかることができる。他(ひと)の喜びも、季節の移り変わりも、どれも通い合う情によって「わかる」のだ。
ここで展開される「わかる」とは、日々自分が行っている訪れる人の話をひたすらに聞く、そのことで話す人と私との間で、言葉を超えて動かされる情が共有されたときにお互いに「わかる」「わかられた」と感じられる営みにつながっていると思った。 -
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センスオブワンダー
驚きと不思議に開かれた感受性
著者が甥と一緒に見た、感じた世界や自然についてのエッセイ的な?本編自体は20ページほどと短いお話だった。
その後に、訳者の解説+α的なお話があった。
自然の豊かさ、美しさ。
うん、分かる、分かるよ。
でも今の私にはそんな心の余裕はないんだよね、と思いながら読んでいた。
でも、植物の成長の話のところでふと、子どもの育てているトウモロコシを思い出し、少しこの本の世界に入れたような気がした。
いつか、満天の星空を見に行ってみたいと思ったり。
以下メモ
子どもがセンスオブワンダーを失わないためには、「生きる喜びと興奮、不思議を一緒に再発見していってくれる、少なくとも一人の大人の助けが必要だ」と著者は言う。
同時に僕(訳者)は、この逆もまた真だと感じている。
すでに大人になった人間が、忘れかけているセンスオブワンダーを思い出すことができるとするならば、そのためには「生きる喜びと興奮、不思議を一緒に再発見していってくれる、少なくとも一人の子どもの助けが必要」になる。 -
Posted by ブクログ
リップスライムの歌詞でセンスオブワンダーってのがあったはず。まさか、レイチェル・カーソンが出典だったとは。植物や昆虫が緻密に生を営んでいる様は本当に興味深くて、NHK特集とかめっちゃ見入る。特に植物の生命力はすごい。たから人間が好き放題して勝手に滅びたあとの地球は植物の天下なんだろうと思う。彼らには何よりそれを気長に待てる胆力がある。環境問題は深刻なのに一向に改めない人間どもよ。ナフサがないとかの問題じゃないんだよ!株価7万円超えとかなんだよ!データセンターって何だよ!月すら開発しようとするなんて。足元見ろよ。一旦落ち着いて。花の中を観察してセンスオブワンダー感じろよ
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Posted by ブクログ
森田真生さんの『数学する身体』を読みました。
その不思議なタイトルから、未知の世界を開いてくれそうな期待を感じます。
“数学”という言葉に、私はどこか身構えてしまいます。
“数学”とは難しい公式を覚えて、正解を求めるもの。
その自由のなさを、ひたすら暗記した私の身体は覚えています。
数の概念の進化から、哲学の変遷を辿ってみよう。
数字の美学を、俳句の五七五調とともに考えてみよう。
そんな授業があったら、私たちの身体に宿る“数学”が躍り出しそうな予感がします。
「きっと森田さんの授業を受けてたら、もっと数学を好きになってただろうな。」
20まで数えられるようになった娘の顔を見ながら、
私はそんなことをしみじみ考えてしまいました。 -
Posted by ブクログ
センスオブワンダーとは、驚きと不思議に開かれた感受性。
親子の教育、子供目線、自然を説く本書。
読んでいると、子への向き合い方が素晴らしいな、と。
同時に自分の子供時代や親は自分にどう接していたのかを回想する訳ですが。
皆さんは、子供の頃、今日1日終わる事が惜しいと感じたり、明日が待ち遠しいなんて思いはしませんでしたか?
大人も子供の時代があったのに、上手く汲み取って上げられず、後々反省、なんてありませんか?
きっと見方や接し方、感じ方に何かしら変化や気付きを与えてくれるでしょう。!^_^!
そして、宇宙に地球、そしてそこに存在する様々な生命について、そのサイクルについても考える事になります。
それは大袈裟なものではなく、全ては繋がっているのだと。