森田真生のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
ネタバレ冬至を過ぎて。
痛み差し込む空気の鋭さは、アウターいらずの春の陽気と交互に訪れ、つるべ落としだった夜の幕開けはゆるりと始まるようになる。
仕事場横の川にはサギや川鵜、カモだけではなく、カモメが訪れ季節を告げている。
何種もの鳥の鳴き声、川のせせらぎ、川沿いを走る風の音、耳を澄ませば多様な音楽が耳を楽しませてくれている。
センス・オブ・ワンダー《驚きと不思議に開かれた感受性》。
美しさの感覚、新しくて未知なものに出会ったときの興奮、共感や哀れみ、称賛や愛情ーこうしたさまざまな感情から、心を動かされたその対象をもっと知りたいと思うようになる。
『知りたい』と思うように導くことの大切さ。
自然を探索することは、身の回りにあるすべてをもっと感じ始めるということ。自分の芽と耳、鼻と指先の使いかたを学びなおしながら、使わなくなっていた感覚の経路を、ふたたび開いていく。
変化し続ける偉大なる自然がもたらす、五感に問いかける美しさや驚異。
日本には四季があり、温度変化があり、生き物の移り変わりがある。
それらを表す日本語の美しき言葉たちの数々。
空色、雲の移り変わり。
雨の形状、匂い。音。ぬくもり。
波の大きさ、形。etc.
レイチェル・カーソンが言うセンス・オブ・ワンダーを体験してみませんか。
●幼年期は、この土壌を豊かにしていくときです。美しさの感覚、新しくて未知なものに出会ったときの興奮、共感や哀れみ、称賛や愛情ーこうしたさまざまな感情がひとたび呼び覚まされた後になってようやく、私たちは心動かされたその対象を、もっと知りたいと思うようになるのです。
●消化の準備すらできていない事実を、次々と与えようとしなくてもいいのです。まずは子どもみずから「知りたい」と思うように、導いてあげることが大切です。
●子どもと一緒に自然を探索することは、身の回りにあるすべてをもっと感じ始めること。自分の芽と耳、鼻と指先の使いかたを学びなおしながら、使わなくなっていた感覚の経路を、ふたたび開いていく。
●日々のなかにどんな悩みや心配があろうと、その思考は、内なる充足と、生きることの新鮮な感動に至る道を、やがて見つけることができるはずです。
●自然がもたらすワンダーに開かれた感受性ーこれをカーソンは、「センス・オブ・ワンダー」と呼んだ。そして、この感受性を子どもが失わないためには、「生きる喜びと興奮、不思議を一緒に再発見していってくれる、少なくとも一人の大人の助けが必要」だと綴った。
●人が生きるという営みが、いかに人間ではないものたちに支えられているかを、子どもたちに学び続ける日々であった。
●変化にあらがうのではなく、変化とともに生きていくこと。季節に応じて、大胆にその姿や生き方を変えていく植物や虫たちは、その生きる姿を通して、見事に体現している。
●いまの僕たちにできることがあるとするなら、それは人間の力を否定し、排除しようとするだけではなく、人間の力をも一つの力として受け入れ、これを生かしていく道を探していくことだと思う。 -
Posted by ブクログ
p59 大人の問題は、大切なことであればあるほど、それを先送りしてしまうことである。大切なものはどこか遠くにある。人生の重要な瞬間は、いつか将来やってくる。どこかでそう思い込んでいるのである。子どもたちはそんな「先送り」や「先延ばし」とは無縁だ。彼らはこの瞬間に、すべてをつかもうとしている。大事なことがあるなら、いまそれを見せてくれと、いつも全身で訴えかけてくる。
今の子どもたちは、皆が皆そうではないと思う。小さい大人のような、予定や目標を頭に置いて、それに向かって努力するみたいな考え方をする「賢い」子どもは増えている。近年は熊などの被害も増え、ますます自然に触れる機会は失われていく。
時間を忘れて「センス・オブ・ワンダー」を子どもが、大人が、取り戻せる時代は来るのだろうか。
せめて家の庭だけでもと、今年始めた畑のニンジンに、この夏キアゲハが集まり、幼虫がたくさん生まれた。果樹なども植えてみたい。 -
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レイチェル・カーソンの遺稿『センス・オブ・ワンダー』の新訳とともに、その続きを書いたというエッセー。
カーソンの部分は全体の5分の1もないくらいの文量。カーソンの息子が自然と触れ合う様子から、時に「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要なことではないと書かれていた。
読書好きとしては文字から得る知識がエネルギーになっていて、いかに体験したように感じる文章か、ということろが一つ評価の基準になると思うけど、たしかに、百聞は一見にしかずで、水を吸ったコケの踏み心地とか、冬の空気の澄み具合とか、昆虫の観察とか、実際に体験・経験することは何にも変え難いものだと思った。
忙しない毎日だけど、少しでも自然に触れてセンス・オブ・ワンダーを磨きたい。 -
Posted by ブクログ
優しい…自分の子育ての一瞬一瞬をこんなに優しく、温かい言葉で切り取れてすごいと思った。挿絵も良く、本として素晴らしい。理系の研究者ならではの、斬新な視点というか、私の知識としてないものが多いので、切り口としてすごく新しい。研究者だけど、科学や数学の切り口を絶対とするでなく、そこからはみ出るものを切り取っているのが特によい。例えば、
柔軟な分数があっても良い、という話。ピザ8枚を4人で分けると、もいちいち厳密に計測するでなく楽しく喜びを分かち合う方が大事ということ。
時間や数の概念をもたないこどもの、時間の流れの感覚の違いを優しく大切にしている姿。
同じように数量感覚をもたないこどもの、味見とはちょっとだけって一体なんなのか、その境界とはと考える優しい姿。身近にこういう大人がいたら面白いだろうな。また読みたい。 -
Posted by ブクログ
海が好きなレイチェルカーソンさんと、森林が好きな森田真生さんのコラボした本なので、読まずにはいられませんでした。
前半は69年前のセンス・オブ・ワンダーの原文を森田さんが訳したところからはじまります。
以前に読んだ新潮社の上遠恵子さんの訳はエッセイのようなカーソン目線の美しさや怖さやドキドキ感を表現していたように感じましたが、森田さんの訳は絵本の物語のような可愛らしさがあり、驚きやワクワク感があり、こども目線のようでした。同じ原文でも変わるものですね。
カーソンさんは大甥のロジャーくんと海辺の自然で戯れ、森田さんは自分のお子さんと京都の自然と戯れるシーンが重なります。
そんな中、視覚として動きが見えにくい、地球と月の関係性。
人間の体内に存在している何百兆のバクテリア活動。
時間として考えるとき、動きが見えにくい木や花、苔などの成長。
ほとんど意識的に人間は捉えることができない生き物の方が、地球にとって大事な存在ではないかと。
「単独で存在しているものなどなにひとつない」と沈黙の春でカーソンさんの記実を引用して、人間中心に単独で行動することはとても危険であると提唱していました。
少し前に手塚治虫さんの火の鳥で「宇宙というひとつの生物の中に地球がいて人間がいる」という言葉と共通していると感じました。
こどもといる時間は本当にあっという間のワンダーだと思います。森田真生さんのあとがきは短いのにグッとくるものがありました。
人間の活動によって広がっていくのは環境汚染だけで済まされず、自然の美しさまで奪ってしまう。そんな60年以上前にカーソンさんは「自分ではないものたち」と共存していく素晴らしさ、そのワンダーは動植物と人間も含めての願いだったのかもしれませんね。 -
Posted by ブクログ
庭でこの本を読んだら、風の音や鳥の声が聞こえてきて、心が静かになれた。
人間は緑色を見ると安心するようにできていたりするし、現代人はもう少し自然を見て落ち着く時間を持つのもいいのかも。
自然の中で生きることこそ正義!とまでは思わないけど……
スマホを見ている人間がずらっと並んでいると気持ち悪さを覚えるし。
人工的なものに耽溺するのは心の余裕を無くしていくことだなと感じている。
自然を愛していれば孤独を感じないという話も、たしかにあるかもしれないなと思った。
自然の「存在」を感じていれば、独りになることはないのかも。
それと、
親や教員のような立場でも、教えるだけじゃなくて時には一緒に楽しんでもいいんじゃないかと思えた。
それも子どもにとってプラスになる。
そう思えて、なんだか許された感じがした。
大切な時間や笑い合った経験は、子どもの支えになることができる。きっと。
教える側だって人間で、同じように人生の時間を消費して分かち合っているのだから、一緒に豊かになっていくのもひとつの人間関係として素敵だよね。
上に立たないで横に並ぶという形でも、教え、支えることができるのなら、それは私にとってとても嬉しいことだ。 -
Posted by ブクログ
本書は数学書ではなく、「数学する」ことについて思索した哲学書だ。
著者の森田真生氏は「独立研究者」というちょっと変わった肩書きで、スマートニュース会長の鈴木健氏からの影響で文系から東大数学科に転向したという経歴の持ち主。
読み進めるごとにセンスオブワンダーが溢れてくるのだが、本書を30歳の若さで書き上げたというのだから驚き。
前半では数学史を辿りながら、数学と身体との結びつきについてその起源から洞察がなされる。
数式はほとんど出てこないので、数学が苦手な読者でもスイスイ読み進められる。
後半では著者が影響を受けたアラン・チューリングと岡潔の魅力が語られ、心の問題にまで踏み込んだ少し抽象度の高い論説が展開される。
アラン・チューリングといえば「コンピュータの父」「人工知能の基礎を作った天才」であり、昨今のAIブームにつながる話にも触れられているので、興味のある方はぜひ。
うむうむむ。難しい。のにおもしろい。
ーーーーーーー一以下、抜書きーーーーーーーー
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起源にまで遡ってみれば、数学は端から身体を超えていこうとする行為であった。数えることも測ることも、計算することも論証することも、すべては生身の身体にはない正確で、確実な知を求める欲求の産物である。曖昧で頼りない身体を乗り越える意志のないところに、数学はない。一方で、数学はただ単に身体と対立するのでもない。数学は身体の能力を補完し、延長する営みであり、それゆえ、身体のないところに数学はない。古代においてはもちろん、現代に至ってもなお、数学はいつでも「数学する身体」とともにある。
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〝数〟は、人間の認知能力を補完し、延長するために生み出された道具である。「自然数(naturalnumber)」という言葉があるが、それは決してあらかじめどこかに「自然に」存在しているわけではない。「自然」と呼ばれるのは、もはや道具であることを意識させないほどに、それが高度に身体化されているからである。
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例えばオーストラリアのヨーク岬とパプアニューギニアの間にあるトレス海峡諸島の原住民は、両手だけでなく、肘や肩、胸や足首、膝、腰など、全身を使って33まで数える方法を持っている。中世ヨーロッパにおいては、両手の指を使って9999まで数える方法があった。しかし、身体の部位には限りがあるから、いずれにしても限界がある。
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ところが紀元前五世紀頃のギリシアを舞台に、それまでとは異質な数学文化が花開く。計算によって問題を解決することよりも、「証明」によって結果の正当性を保証するプロセスに重きを置く姿勢が生まれたのだ。ギリシアの数学者たちは、「いかに」答えを導き出すかという技術以上に、「なぜ」その答えが正しいかという理論に拘った。とりわけ象徴的なのが、ユークリッドの『原論』である。
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私たちが学校で教わる数学の大部分は、古代の数学でもなければ現代の数学でもなく、近代の西欧数学なのである。数学は初めからいまの形であったわけではなく、時代や場所ごとにその姿を変えながら、徐々にいまの形に変容してきたのだ。
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チューリングは数学の歴史に、大きな革命をもたらした。〝数〟は、それを人間が生み出して以来、人間の認知能力を延長し、補完する道具として、使用される一方であった。算盤の時代も、アルジャブルの時代も、微積分学の時代においても、数は人間に従属している。数はどんなときにも、数学をする人間の身体とともにあった。チューリングはその数を人間の身体から解放したのだ。少なくとも理論的には数は計算されるばかりではなく、計算することができるようになった。「計算するもの(プログラム)」と「計算されるもの(データ)」の区別は解消されて、現代的なコンピュータの理論的礎石が打ち立てられた。
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岡潔によれば、数学の中心にあるのは「情緒」だという。計算や論理は数学の本体ではなくて、肝心なことは、五感で触れることのできない数学的対象に、関心を集め続けてやめないことだという。自他の別も、時空の枠すらをも超えて、大きな心で数学に没頭しているうちに、「内外二重の窓がともに開け放たれることになって、『清冷の外気』が室内にはいる」のだと、彼は独特の表現で、数学の喜びを描写する。
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チューリングが、心を作ることによって心を理解しようとしたとすれば、岡の方は心になることによって心をわかろうとした。チューリングが数学を道具として心の探究に向かったとすれば、岡にとって数学は、心の世界の奥深くへと分け入る行為そのものであった。道元にとって禅がそうであったように、また芭蕉にとって俳諧がそうであったように、彼にとって数学は、それ自体が一つの道だったのだ。