【感想・ネタバレ】数学する身体(新潮文庫)のレビュー

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Posted by ブクログ

著者の数学に〈情緒〉動かされてる体験がひしひしと伝わってくる。学問の探究へと道を進む稀有な人たちって何かしらこういう信念と、出会いがあるんだろうなと胸踊る内容です(本書の本筋ではないので、悪しからず)。

チューリングと岡潔を軸に、数学と身体というテーマを深ぼっていく構成。恥ずかしながら岡潔の存在を知らず、こんなに観念的な数学との付き合い方があるんだと目から鱗状態になりました。

チューリングの数学を道具として利用して人間と心と数学の境界を暴きにいくアプローチ対して、岡潔は心の奥深くは分け入る行為そのものこそが数学であるという立場をとる。どちらも魅力的で勝つ痺れる対比で捉える筆者の洞察力に傑物感が窺い知れます。同世代ということで、すごい人っているんだなーと単純に感動しちゃう。

丁寧に論を進める筆致と、そのテーマの深淵さかつ引き込まれるその面白さを十二分に堪能できます。数学に興味があってもなくても、必読となっておりますよ。

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2023年09月12日

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興味を惹かれる内容がとても多い
数学の表面的な難しさを取っ払って、数学という行為の面白さや美しさそのものの中に飛び込ませてもらえる本

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2023年03月09日

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読むほど、「数学」と捉えていた事柄の輪郭が解けて、液体のようになり、体の中に取り入れられる読書体験。

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2022年03月14日

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これを10代で読んでいたら数学に対して興味や愛情を持てた可能性すらあるな…と、数学が大の苦手だった私でさえ思うほど、数学の新しい捉え方を教えて貰った。面白かった。

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2021年08月31日

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数学と哲学はもともと近い関係にある、とは昔からよく言われることだが、それがつまりどういうことかを読者にそれなりのボリュームでわかりやすく(文系寄りに)提示している本に初めて出会った。あとがきはややナルシスティックな書きぶりだが、本文は難しいことを一般読者に過不足のない言葉で説明しておりすばらしい。

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2020年07月15日

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同じ著者の『数学の贈り物』を読み、すっかりファンになってしまい読んだ一冊。数学というものを、数字や記号を使った「純粋に」論理的な思考と考えるイメージに対して、そうした思考に「身体」の役割を取り戻そうとする本。

数学史についての説明は、ユークリッドに始まる古代のギリシア数学から、チューリング機械まで。数学史に関する本を一度でも読んだことがあれば大体知っているような有名どころが押さえられている。
ただ、面白いのは、古代の数学には、「身体性」があった、というところだ。
ユークリッドの書いた『原論』には、多くの命題がある。しかし、現代数学の命題と明らかに異なっているのが、命題を読んだだけでは、状況がよく分からず、横に付けられた図とセットになっている点だと言う。
著者は、このことについて、古代の数学は、ただ、数式や記号を使って、論理的な思考を書くだけでなく、数学というものが、まさに、自分の「身体」を使って図を書くという行為と、不可分だったのだという。つまり、数学をすることは、頭で考えるのと同時に、体で考えていた。

頭の中で考えることと、実際に体を動かして頭の外で考えること。こうした「考える」ということの捉え方が面白かった。
後半、著者は、自分が最も影響を受けたという岡潔の言った「情緒」の言葉を鍵に、数学を体で、直感で理解することを取り戻すべきだという主張を説明していく。
高校時代に学んだ数学も、難しくなればなるほど、そこに数式として書かれたものは、現実的な感覚から遠ざかっていってしまう。著者の主張の通り、そんな数学に、体でなることができたとき、どんな風な景色が見えるようになるのか、とても心惹かれる。

本の数学に関する本筋からは脱線になるが、この本の中で紹介されている、アルタイの写真の話が一番印象に残った。木に立てかけられた板の前に一人の男が立ち、その周り数十人の子どもたちが座っている。
学校という場所があって、そこで勉強をするのではない。たとえ、そこに学校という建物がなくとも、誰かが誰かに教えるという行為が先にあって、そこに「学校」という空間が生まれる。
自分が今まで身につけてきたことを以て、日々生きること。そのためのヒントに満ちた本だった。

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2023年12月27日

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読んだからと言っても…数学が身近になったとは、言えない。だけど、数学する人と話したいな、話を聞いて、感じたいな。と思いました。

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2023年03月21日

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参考文献が挙げられている本を読んだとき、それらの参考文献のいくつかを読んでみようかなと思うことも、その本自身の面白さを物語る尺度ではないだろうか?数学の魅力を、チューリングと岡潔を取り上げて語る。入りに身体を意識させ、そのごチューリングに至っては、コンピューティングに、最後に身体とつながる心の重要性に向かう。数学読み物としては、なかなか楽しめると思います。間違いなく、(一部は有名な著作も散見されるが)参考文献の何作かは読んでみたいと思いました。

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2022年10月16日

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【感想】
 面白かった。数学の歴史と発展、記号化と身体化、アランチューリングと数学、岡潔と数学の話のどれもが興味深い。文書が美しく、優しい。この人生において数学を勉強し直すことがあれば、読み返す気がする本。

【本書を読みながら気になったコト】
・小学校で当たり前にならう筆算が定着するまでは、二桁の掛け算は非常に高度なものされていた
 →数学も使用目的によって発展していった。ギリシア数字は計算そのものには使いにくかった。計算に使える数学が生まれたのは、インドに依るところが大きい

>>数学の目的はかつて、数学的道具を用いながら、税金の計算や土地の測量など、生活上の具体的で実践的な問題を解決することが中心であった。このとき、数学者の関心は、あくまで数学の外の、実世界の方を向いている。

>>数学の道具としての著しい性質は、それが容易に内面化されてしまう点である。はじめは紙と鉛筆を使っていた計算も、繰り返しているうちに神経系が訓練され、頭の中では想像上の数字を操作するだけで済んでしまようになる。それは、道具としての数字が次第に五分の一部分になっていく、すなわち「身体化」されていく過程である。
 ひとたび「身体化」されると、紙と鉛筆を使って計算をしていたときには明らかに「行為」とみなされたおも、今度は「思考」とみなされるようになる。行為と思考の境界は案外に微妙なのである。
 行為はしばしば内面化されて思考となるし、逆に、思考が外在化して行為となることもある。私は時々、人の所作を見ているときに、あるいは自分で身体を動かしているときに、ふと「動くことは考えることに似ている」と思うことがある。身体的な行為が、まるで外にあふれ出した思考のように思えてくるのだ。
・私たちが学校で教わる数学の大部分は、古代の数学でもなければ現代の数学でもないく、近代の西欧数学である

・数学の計算困難性が増すなかで、コンピュータが誕生した

>>チューリングは数学の歴史に、大きな革命をもたらした。
 ”数”は、それを人が生み出して以来、人間の認知能力を延長し、補完する道具として、使用される一方であった。算盤の時代も、アルジャブルの時代も、微積分額の時代においても、数は人間に従属している。数はどんなときにも、数学をする人間の身体とともにあった。
 チューリングはその数を人間の身体から解放したのだ。少なくとも理論的には数は計算されるばかりではなく、計算することができるようになった。「計算するもの(プログラム)」と「計算されるもの(データ)」の区別は解消されて、現代的なコンピューターの理論的礎石が打ち立てられた。

>>身体から切り離された「形式」や「物」も、それと人が親しく交わり、心通わせ合っているうりに、次第にそれ自体の「意味」や「心」を持ち始めてしまう。
 物と心、形式と意味は、そう簡単には切り離せないのだ。

・岡潔によれば、数学の中心にあるのは情緒。肝心なのは、五感で触れることのできない数学的対象に、関心を続けてやめないことだという。

>>なぜそんなことができるのか。それは自他を超えて、通い合う情があるからだ。人は理で分かるばかりでなく、情を通い合わせあってわかることができる。他の喜びも、季節の移り変わりも、どれも通い合う情によって「わかる」のだ。
 ところが現代社会はことさらに「自我」を前面に押し出して、「理解(理で解る)」ということばかり教える。自他通い合う情を分断し、「私(ego)」に閉じたmindが、さも心のすべてであるかのように信じている。情の融通が断ち切られ、わかるはずのことも分からなくなった。

>>かぼちゃの種子の生成力が、種子や土、太陽や水の所産であって、人間の手によっては作れないものであるのと同じように、「生きる喜び」も本当は、周囲や自然や環境から与えられるものであって、自力で作り出せるものではない。ところがいまは、何でも「個人」ということが強調されて、その「個」が「全の上の個」であることを忘れている。大自然には通い合う情があり、一つ一つの情緒はその情の一片である、ということが忘れられている。それで日々の生き甲斐までわからなくなった。自他を分断し、周囲から切り離された「私」の中から、生きる喜びが湧き出すはずもない。

・アランチューリングと岡潔の共通点、それは両社とも数学を通じて心の解明を目指したこと

>>『数学する身体』と名付けられた本書は、生命が矛盾を包容するとはどういうことが、そのことがテーマとして貫かれている。数学と身体の間には一見すると矛盾がある。数学は三人称性を纏って形式化と記号化に邁進し、身体はその成り立ちからして一人称的である。これは論理学的な矛盾ではなく、直感的なものである。したがってこの矛盾は、数学そのものによって乗り越えられるものではない。

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2022年05月31日

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「数学する身体」魅惑的なタイトルです。
著者は、京都に拠点を構え、独立研究者として活動する数学者だそうです。「数学の演奏会」なるライブ活動で、数学に関する彼の想いを表現しています。そして、本作で最年少で小林秀雄賞受賞されています。(小林秀雄先生の著作を理解できたことが無いのですが)

「はじめに」において、この作品を 数学にとって身体とは何か、ゼロから考え直す旅とします。まず、著者の文章力に驚きます。どなたかが、悟りを開いているようなと形容されていました。明確で簡潔。脳と文章が一致しているような印象です。(あくまで個人の感想です。)

第一章では、数学する身体として、数学は身体を使ってきたことを説明します。視覚で少数の数を認知する。体の部位を使って物を数える。(手の指10本で10進法⁉︎)そして、それらの限界から 数字や計算など道具の発見に繋がります。

第二章では、計算する機械として、数学の道具の進化の歴史が語られます。古代ギリシャの言語による証明から、算用数字の発明、記号•代用数字の利用と長い時間をかけて、世界の各地でそれぞれの数学の道具が発展していきます。そして、計算が追いつかなくなり、概念•理論への進化となります。

第三、四章では、著者が啓蒙する、岡潔氏という日本を代表する数学者への想いと、その実績について解説されます。まず、身体の中の脳へ科学的アプローチしていきます。そして、岡潔氏の情緒に対する考え方を丁重に扱っていきます。身体の心「彩り輝き動き」を喚起する言葉として「情緒」を表現に使います。情緒は個々の身体に宿る、とも。

著者は、この岡潔氏の日本的情緒を身体に備えることを望んでいるのかと思う。

終章で 岡潔氏の言葉を取り上げる。心になり心をわかる 心の世界の奥深くへ分入る。という、西欧的な心作る心を理解するとは違うアプローチに自身も惹き込まれているようです。

ライブ映像がネットにありましたので視聴させていただきました。若くきらめく知性でした。小中学生にも是非ライブしてもらいたい。数学だけでなく、あらゆる学びに共通すると思いますので。

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2022年05月22日

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わかるは自身が変わる、数字という言葉が脳にある記憶を介して自己の世界に認識される。すると、五感により自然を分けようと数字が無意識に機能する。そこに生活が繋がり合理を求めようとする。居心地の良さは数の整列でもある。時流の一方で "0" と "1" に配列されたデジタルが存在するが、果たしてデジタルで人々は幸せになるのか。所詮デジタルでできることはSNSや情報という言葉である。それよりも自然の中にある数字に興味を抱く。例えば植物で "葉の配列や花びらの形成" を言葉に頼らずに "わかる"。自然は言葉以前の根源にある。だからわかると言葉にするときに人は変わっている。人もまた自然であることの証でもある。

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2021年12月01日

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学生の時に読んだらこの世界にのめり込んだかもしれない、と思うほど、何も知らない人が読んでも引き込まれる一冊。難しい部分は頭が固くなった今では噛み砕くのに時間がかかり過ぎるので流してしまったが、それでも興味深い話が散りばめられていて面白かった。

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2021年08月27日

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ネタバレ

常に身体と共にあった数学が、証明や記号(+,=)を含んで、どんどん抽象的で普遍的な物へと変わっていく。
そして遂に「コンピューター」「AI」という産物を生むに至る。
そのプロセスは「身体」「心」と「物」とを分離していく事であった。
そしてそれを進めたのは、数学者たちの普遍の追求に対する情熱だった。
だから、今日の数学は一見身体から数字が離れて一人歩きしている、空虚な物に見える。
しかし、「コンピューター」「AI」は再び人と人の心を通わせる。
「物」と「心」はそう簡単には分離できない。

アラン・チューリング / 岡潔の2人の巨人は、「数学=物」を追求する事で、「心」とは何かを追求した。

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2021年08月07日

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書店で「計算する生命」という書籍を目にして読んでみようと思ったのだが、著者が過去の著作を先に読もうと思って手に取ったもの。
人類が数学をいかに発展させてきたかという概論を論じたのちに、数学を介した心の追及に焦点が当てられる。
本書の後半は、情緒を重んじた岡潔の業績とその生活について考察されている。コンピュータ科学の父とされるチューリングが心のありかを探るために心を作るアプローチをとったのに対して、岡潔は数学を深く突き詰めることで心になるというアプローチだったと考えられる。
数学に深く向き合うことで自分の心の在り方にまで関係が出てくるという、数学という学問の奥深さに興味を持った。
ギリシア時代の数学は、専ら自然言語で語られるものであり、現在の数学でみられるような記号は用いられなかった。だから幾何学の照明を行うにもいちいちどの頂点がとかどの辺がということを言葉にする必要があった。これが記号化されたことでいちいち語ることの煩わしさをいかに省略し、人が考える上での処理能力を節約できたかということもおもしろい。もともと人間の脳は数のような抽象的な概念を扱うことが得意ではなく、紙などに数などの記号を書くことで脳の外に実態として出すことができる。実態として出された紙の上の記号に対しては、手を動かすことで操作することができる。これが身体を使って計算するということの一つの例であると理解した。
本書では数学について述べられているが、記号という意味ではあらゆる文字も記号である。文字を手で書いていくということは頭の中身を外部に出して、体を動かして考えるということになるだろう。手書きで考えた方が作業がはかどることも多いが、脳の処理を節約し、更に具象化されたものとしてその情報を操作することができるからなのかもしれないと思った。

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2021年05月09日

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 数学史の概観から現代数学に続く二人の巨匠を中心に、「数学する」ということについて思いを巡らせるエッセイ。

 原始、数学は日常の具体的な問題を解決する手段であった。暦を数えたり土地を測量したりするためのより実践的な「道具」として数字を用いる。
 そこから紀元前5世紀頃に入ると、古代ギリシアでは計算することよりも「証明」することに価値が重く置かれるようになる。「なぜ」その理論が正しいのか?ということを証明することが「文化」になった時代である。書く文字数が多くて面倒だから、というしょうもない理由で私が一番好きじゃない単元である。この「証明」文化の代表作はユークリッドの『原論』であり、そこで使用するのは「図」だった。
 そこから17世紀以降の中世ヨーロッパでは「図」ではなく「記号」を使用する一般式が誕生する。著者はそれを組織的、計画的な数学と表現する。ただし数学を一般式で表すことに対して数学者の限界が訪れる。「図」には物理的制約があるが、「記号」には限界がなく、計算が複雑化するためである。一般式として表現はできるがどうにも理解し得ない事象が発生し、数学者を悩ませた。
 そこで20世紀には数学をもっと形式化、公理化させるコンピュータの基礎が生まれる。身体性のない「計算する機械」の誕生である。

 そのコンピュータの基礎をさらに発展させたのがチューリングである。チューリング機械は「計算」そのものを物理的機械にしたもので、まさに現代のコンピュータといった趣だ。プログラミングの世界だと私は認識した。ただチューリングはここで機械自身が「数学する」ことはできるのか?「数学する」うえで思考する心やひらめき、直観という要素を機械自身が内包することはできるのか?という壁にぶち当たり、解決はしないままとなった。その問いは現代のAIへと連綿と続くもので、機械自身の思考の可能性ってどうなんだろう?とても興味がある。
 
 もう一人、現代を代表する数学者として著者が敬愛している様子である、岡潔が取り上げられている。20世紀に台頭した身体性のない「計算する機械」により、数学に厳密性や生産性、客観化が求められるようになった時代において、岡潔はもう一度数学を身体化する、数学と一つになることを志す。人間が「わかる」ようになるとは計算や証明によってだけでなく、自己が変容することによって、という話は興味深かった。確かに自分の中の知識が増えたり、今までにない経験をしたり、はたまたその時の自分のコンディションによって、今まで分からなかったことが急にはっきりと分かるようになったりすることってあるなぁと思う。また情の通い合いにより無心から有心へと変容することで数学への道が拓けるというのは、なんとも神秘的だと思った。その境地へたどり着くには道のりが長いだろうなぁ。

 「数学」という一見理論だっていて正確で寸分の狂いもなさそうな学問が、チューリングにしても岡潔にしても最終的に「心」へとその矢先が向かうのは面白いと思った。その「心」とはひらめきだったり無心から有心へと変わることだったりするのだけど、その「心」に裏打ちされるのはやはり「知識」なのではないかと思うと、興味の赴くままに色んなものを読んだり聞いたりして間口を広く知識を吸収していくことが大事なのではないかと思った。

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2021年02月13日

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数学から一番縁遠いと思っている自分が、この本に魅了された。岡潔という巨人に導かれながら、著者はこころに迫ろうとしている。文庫174p
聞くままにまた心なき身にしあらば己なりけり軒の玉水という道元禅師の和歌を岡潔は次のように読み解く。外で雨が降っている。前肢は自分を忘れて、その雨の音に聞き入っている。このとき自分というものがないから、雨は少しも意識に上らない。ところがあるとき、ふと我に返る。その刹那、「さっきまで自分は雨だった」と気づく。これが本当の「わかる」という経験である。
森田は、それを次のようにとらえる。自分がそのものになる。なりきっているときは「無心」である。ところがふと「有心」に還る。その瞬間、さっきまで自分がなりきっていいたそのものが、よくわかる。「有心」のままではわからないが、「無心」のままでもわからない。「無心」から「有心」に還る。その刹那に「わかる」。これが岡が道元や芭蕉から継承し、数学において実践した方法である。
なぜそんなことができるのか。それは自他を超えて、通い合う情があるからだ。人は理によってわかるばかりではなく、情を通わせ合ってわかることができる。他(ひと)の喜びも、季節の移り変わりも、どれも通い合う情によって「わかる」のだ。
ここで展開される「わかる」とは、日々自分が行っている訪れる人の話をひたすらに聞く、そのことで話す人と私との間で、言葉を超えて動かされる情が共有されたときにお互いに「わかる」「わかられた」と感じられる営みにつながっていると思った。

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2021年01月10日

Posted by ブクログ

アラン・チューリングと岡潔について詳しく書かれている

数学の歴史を俯瞰できるとともに
人間のカンカクについて考えさせられる

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2020年12月29日

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(2018年4月のブログ内容を2020年11月に転記したものです)

某大学の生協にたまたま立ち寄ったときに平積みになっていた本です。

数学は身体のどこで行われているのか、これが森田氏の問いかけです。森田氏は数学史や脳科学の知見を紹介しながら次のようにまとめていきます。

○ 数学の客体化と岡潔 

まず、人間は周囲の環境にあわせて、今使える道具を最大限に利用して(指だったり紙とペンだったり)数学しています。古代ギリシアでは『原論』に見られるように図形や道具と「数学する自分」は分かちがたく結び付いていました。二十世紀になって、ヨーロッパ数学は私たちの身体から次々と数学の要素を切り出していきます。例えば、公理的な方法によって「数学するという行為」が、チューリングのコンピューターによって「計算するという行為」がそれぞれ客体化(研究対象になるということ)されました。

一方で、同時代の日本の数学家、岡潔は「情緒」によって数学した人だと紹介されます。「情緒による数学」とは、「客体になりきる」、つまり「数学になる」ことによって数学するということだと、森田氏はいいます。森田氏は岡潔のよく引用した芭蕉の句を取り上げます。

聞くままにまた心なき身にしあらば己なりけり軒の玉水

外で雨が降っている。禅師は自分を忘れて、その雨水の音に聞き入っている。このとき自分というものがないから、雨は少しも意識にのぼらない。ところがあるとき。ふと我に返る。「さっきまで自分は雨だった」と気づく。これが「わかる」という経験である。岡は好んでこの歌を引きながら、そのように解説をする。

この部分は、岡潔の数学観をよく反映した部分であり、筆者が共感し、文系の身から数学科に転身したことの本質にもなっていると思います。

○ 2通りの「わかり方」を使って考える

私たちは研究対象を客体化して「神の視点」でとらえようとしがちです。もちろん、論理的に組み立てる際にはその行為が不可欠ですが、人生を生きていく上では、車の両輪として「主体として没入する」ことも同様に大事なのだと、改めて感じさせられました。感覚に没入してふと我に帰ったとき、その全体像が「わかる」という経験は大なり小なり、何かに没入した経験があれば、みなさん感じたことがあるのだと思います。

これまでこのブログで紹介してきた、近藤麻理恵氏の「ときめき」、あるとき「自己本位」に気づいた夏目漱石はまさにそのような没入による「わかり方」の結実したものなのでしょう。

わたしが絵画を見るとき、絵画の中に入ってしまったかのような錯覚に陥るときがあります。悲しいようなあたたかいような気持ちになってふっと気づくとまた現実にいる。そのような「わかり方」を人生において充実させ、一方では、数学を1から組み立てるようなわかり方も大事にしていきたい。

行為と行為する身体が「互いに互いを編みながら、新たな風景を、生み出し続ける」、そんな体験のなかにわたしも身をおきたいと思いました。


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2020年11月23日

Posted by ブクログ

アランチューリングと岡潔を題材に数学における身体性を語る本。実践者の言葉という印象を受けた。その領域まで到達するには、やはり実戦しかないんだろうな。

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2020年10月31日

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恥ずかしながら、学も少なく活字にあまり強くないので、概要を明確に説明し、筆者の伝えたかった事を述べる事はできません。
特に心に残っている話は、脳のうち「数値」を感じるのは「距離」などを感じる部分で代用しているという話です。それ故、数直線や座標といった「位置」と「数値」を結びつけるなどの面白い考え方ができるのかもしれないというのには合点がいきました。こういう面白い話、数学と身体の関係、身体にとって数学とは何か、数学にとって数学とは何か、なんていう話がちらほらあり、よく分からないけどなんだか「あ、数学やろうかな」と思える書籍でした。

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2020年08月29日

Posted by ブクログ

これは深いわ。久しぶりにこういう本を読んだ。
ある意味で哲学書。だけど語り口は優しくて、スッと心に入り込んでくる。
我々は数学を誤解している。
著者はその誤解を少しずつひも解いていくのだ。
一瞬「計算すること」=「数学」と思ってしまうが「そうではない」と言い切る。
歴史的には(計算ではなく)「数えること」から始まった。
これはまだ分かる。次へのステップが面白い。
実は「数学とは【論理】に発展した」というのだ。
これも時系列に沿って考えてみれば明白なのに、なぜかそこに気が付かなかった。
古代より「数えること」は、生活する上で必要なことであった。
そして紀元前3世紀に、ユークリッド「原論」が数学を体系化する。
しかしその中身は、数えることが主眼ではなく、あくまでも公理公準を示しながら論理展開していくものだった。
もちろん「計算」は主眼ではない。
公理公準を読んでいると、一種の哲学のように感じてしまう。
「同じものに等しいものは、互いに等しい」なんて、もはや哲学じゃないか。
江戸時代に「原論」が日本に輸入された際は、そのあまりにも当たり前の論理展開に「レベルが低い」と言って一蹴されたらしい。
しかし、決してレベルが低いという話ではない。当たり前のことを、改めて「前提」とすることで、「では、この場合はどう解釈するのか」を論理で積み上げていく。
この辺は独特な文化の違いも影響しているだろう。
日本では「論理」よりは「感じること」の方が重きを置かれている気がする。
だから当たり前の情報を共有するよりも、情緒を共有する方が、気持ちとして心地いいのだろう。
こうしてみると、数学を通じて、人間の内面を覗いていくのは理解できる。
本書では、後半チューリングと岡潔を取り上げている。
数学者でありながら、二人とも最終的に「人間の心とは何か?」について追い求めているのは、何か不思議な気がするのだ。
特にチューリングは、「どんな数式も、01の数式で置き換えられる」という画期的な理論を見つけ出し、コンピューターの基礎をつくった。
よく考えるとこれも不思議だ。
無理数も虚数も、すべて「01」で表現が出来ている。
宇宙に飛び出すロケットの軌道も、「01」で計算出来ている。
ちなみに本書で「計算」の発展については、16世紀頃と記してある。
これも遅いと思うが、歴史をひも解くと納得。
アラビア数字と「ゼロ」、およびその「ゼロを位取りする」方法が生まれて初めて「計算」が誰でも身近になったのだ。
それまでは、おそらく特殊な才能の持ち主しか、計算は出来なかったのだろう。
アラビア数字とゼロのお陰で、計算が民主化されたのだ。
そう思うと、非常に面白い。
つまり「原論」以降、2000年間くらい、「数学とは論理」だったのだ。
それが「計算」となり、更に今これからは「心」に発展していくのかもしれない。
チューリングも岡潔も目指したのは、人の心だ。
それを数学で再現する。(「解明する」と言った方が分かりやすいかもしれない)
本書のタイトルは「数学する身体」だ。これも深い意味がある。
心こそ、身体があるから存在すると、チューリングも岡潔も認めている。
身体はセンサーの役割で、外界からの情報をインプットしていく。
それを「心」に変換していくのであるが、そこには大きく数学が寄与するだろうことを示しているのだ。
数学が身体を拡張していく。(コンピューターは明らかに人間の能力を拡張している)
その時に「心」はどう変化していくのだろうか?
世界が大きく変わる中で「根源的な何か」を追い求めている本書。
すごく価値がある一冊だ。
(2019/12/30)

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2020年03月08日

Posted by ブクログ

岡潔とアラン・チューリング。
難しくてわからないところも多かったけど、難しくてわからないことがあるということを意識することが大切。

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2024年04月13日

Posted by ブクログ

数学の生い立ち、数学に人生を捧げる人達と数学との向き合い方・考え方など、『数学と人間』をテーマに書かれているような感じです。数学をよく理解していない私にとって、聞いたことのない数学理論の話しが登場しますが、逆に興味が湧いてくるのは、著者の描き方たる所以だと思う。

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2023年07月12日

Posted by ブクログ

前半は数学の刺激的な歴史のはなし。

subitizationスービタイゼーション:
人間は少数のものは一瞬で判断できるが、およそ3個を超えるとこの能力は消える。それで、指折り数えるような方法は世界には様々発展した。漢字やローマ数字のみならず、マヤ文明でも古代インドでも、数を表す文字は1から3までは棒の本数、しかし4から異なる。

紀元前5世紀ギリシャ:
古代文明の時代から、数は測量や暦など、日常の具体的な問題の解決のために発展してきた。ところがこの頃「いかに」正しい答えを導くかよりも「なぜ」正しいかを重く見る動きが現れる。→ユークリッドの『原論』:素数が無限にある証明で有名。

定理theoremの語源は、「よく見る」というギリシャ語theorein、
数学mathematicsの語源は「学ばれるべきもの」というギリシャ語μάθημαマテーマタ
(ハイデッガー「学びとは、はじめから自分の手元にあるものを掴み取ることである」)

アルジャブル:
古代ギリシャ文明衰退後、数学的遺産の後継者は、アッバース朝(750-1258)のイスラム社会。理論先行のギリシャと、計算重視のインドの数学が合流。初期アラビア数学者アル=フワーリズミー著『ジャブルとムカバラの書』『イルム・アル・ジャブル・ワル・ムカバラ("Ilm al-jabr wa'l-muqabalah")(約分と消約との学=The science of reduction and cancellation)』 →代数を表すラテン語algebraアルゲブラの語源→アルジャブルの目指す、未知数を含む式を解きやすい形に持ち込むための機械的手続き(即ちアルゴリズム)を考案し、その正当性を幾何学的手段で証明すること。

記号化する代数
この時代の計算には記号がなく、自然言語だけで表現されていた。16世紀に活版印刷の普及も手伝って記号法の統一が進み、+-×÷や√が出揃ってくる。
フランスのヴィエトは記号操作による「一般式」を確立。未知数に母音、既知数に子音を使っていたが、デカルトは未知数にxyz、既知数にabcなど、記号代数の表記をほぼ現代の形に整理した。
図形の問題も、古代ギリシャ以来の「作図された問題を解く」のではなく、記号化によって(図形を一般式に置き換えて解く)代数の問題に書き換わった。

その後、ニュートンとライプニッツがそれぞれ、微分と積分を発明。個々の図形に接線を引くのではなく、一般的な方程式に対してその接線や面積を求めるアルゴリズムを確立。
この流れにより、数学は物理的制約から自由になり、「無限」や「虚数」などの概念を獲得していく。つまり、図形に描けないような「あり得ない」ことでも、数式上「あり得る」ならば、数学で扱えるようになった。


作品の後半は、2人の天才の人生にフォーカス。
数学は、天才の頭脳の中で発展したのではなく、むしろ身体性に裏打ちされた行動の中で発展したのだというような話。詩や俳句からのインスピレーションが数学の進展に寄与したりもする、そんな話を読んで、理系とか文系とかいう区分には何の意味もなく、技術者でありながら読書趣味の自分を肯定してみたりする。

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2023年04月22日

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『人は何かを知ろうとするとき、必ず知ろうとすることに先立って、すでに何かを知ってしまっている。一切の知識も、なんらの思い込みもなしに、人は世界と向き合うことはできない。そこで、何かを知ろうとするときに、まず「自分はすでに何を知ってしまっているだろうか」と自問すること。知らなかったことを知ろうとするのではなく、はじめから知ってしまっていることについて知ろうとすること。』

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2022年02月22日

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数学についての一つの見方を示唆してくれる。読んでくにつれ、脳科学か心理学についての本ではないか。ラマチャンドランの獲得性過共感なんか随分おもしろいではないか、と思った。また、著者は随分岡潔に心酔していて、彼の思想の解説をして、岡潔に興味を持って、ここはひとつ彼の著書を読んでみようかという気になった。2021.6.6

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2021年06月06日

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数学者が書いたエッセイ。岡潔が書いた芭蕉の感覚を、機械のアルゴリズムに対する自然や人間の瞬時の計算として説明されてるのが新鮮だった。

人類は、座標と数式を道具として使い改良して概念を広げながら世界を捉え続けているけど、数と記号がたまたま人類にとって使いやすかったのであって、もしかしたらその道具では拓けない領域もあるのかもしれないし、また改良していくのかもしれない。どっかで映画『メッセージ』みたいに、地球外生命体に概念を授かることもあるのかもしれない。

普段、うまくコンピュータに仕事させられなくてもどかしさを感じるけど、諦めちゃいけないな(感想)

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2020年12月24日

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ネタバレ

数学とは人間の営みである。

数学を非人間的なものと考える傾向のある人はいないだろうか。現実世界から離れすぎて、抽象化しすぎて、何を言っているのかわからないと、高校の授業で思った。この本は、数学と人間の歴史をたどり、抽象化する道を丁寧に説明している。アラン・チューリングと岡潔、2人の数学に対する向き合い方を知り、少しだけ数学を手に取って扱えるもののように感じられたかもしれない。

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2020年10月19日

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おもしろい。
「わかる」という感覚。対象に没入しきって、「体得」するしかない。
この「わかる」という言葉について繰り返されるところから、「わかる」ことの難しさを感じた。
数学の勉強に、と思って読んだ。
数学の勉強にはならなかったが、「わかる」という感覚については自分自身常々考えていたこととマッチしていた。

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2020年08月19日

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一風変わった数学への手引き書である。どこか哲学書のような雰囲気も漂う。数学史のような記述もあれば、数学に関するエッセイのようでもある。
だが各々の断章は確実に1つの命題に結び付けられる。
すなわち、タイトルの「数学する身体」に。

数学は不思議な学問である。1から始まり、推論を重ね、数学世界を構築していく。数論、確率、幾何、さまざまな分野が、それぞれの用語で論理を組み立て、視野を広げていく。それらは世界を普遍的に捉えることを目する。
けれどもそれを作り上げている人間は、有限の存在である。自分が何者かわからずに生まれ、最終的には死んでいくのが人間である。ある意味、あやふやな存在が、原点から出発して、周囲を少しずつ認識し、仮定から推論を重ね、確固たる世界を築き上げようとしていく。
数学は身体から生まれる。
身体が数学をする。
数学的真理は普遍的と見なされるけれども、それを生み出すのははかない身体である。
数学は身体を超える力を持ちつつも、身体なくては生まれず、また発展しえないものでもある。
本書では、こうした数学と身体の関わりについて、考察を重ねていく。

特に大きく扱われているのが、コンピュータの父と呼ばれるアラン・チューリングと、在野の数学者・岡潔である。
チューリングは、ドイツ軍の暗号エニグマを解いたことでも有名であり、人間を演じ切る機械を作ることは可能かと問う「イミテーション(模倣)ゲーム」の命題でも知られる。チューリングは分析の人だった。人の心をタマネギの皮をむくように1つ1つ解き明かしていく。むいてむいて、最後には何が残るだろうか。そうした形で発展していったのがチューリングの研究の仕方である。
対して、岡は数学を生きた人である。というよりは、彼にとっては生きること自体が命題であり、その1つの発露が数学であったにすぎないのかもしれない。岡は「情緒」という言葉を好んで使った。
数学を身体から切り離し、客観化された対象を分析的に「理解」しようとするのではなく、数学と心通わせ合って、それと一つになって「わかろう」とした

著者もまた、チューリングの姿勢よりは、岡の「生き方」に魅かれているようにも見える。

著者は武術家の甲野善紀とも親交があり、そういう点からも、「身体」へのまなざしが感じ取れる。
そうして生み出される著者自身の数学がどのようなものなのか、本書からはうかがい知れないのが若干残念なのだが、それは読み手である自分自身の力不足なのかもしれない。

不思議な広がりを持つ1冊である。

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2020年07月30日

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