西永良成のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
ネタバレシュール。皮肉的で滑稽でさえある。でも不思議と、充実感のある満ち足りた小説であるように感じた。それまで一見バラバラに進んでいたいくつかの物語が、山場になってドミノ倒しのように連続して影響を与えているのが面白かった。
クンデラ作品は存在の耐えられない軽さに続いて二冊目だが、もしかして作者は尻の穴がとてつもなく好きなのか...!?と困惑している。‘‘おどけ‘‘で、真面目な雰囲気をぶち壊すために入れられているのはもちろん理解しているのだけど、それにしたって、いや、...。ちょっと捉え方に困る。実はエロとみるかギャグなのか私の心が揺れてるだけなんだ。面白い。
スペクタクル、というテーマは現代的だなと思った。インターネットという不特定多数または身近な見知った顔ぶれに自分を”魅せる”ためのツールがそれを助長させているようにも考えた。非倫理的な言動がここ数年でさえも、厳しく取り締まられるようになったと感じるが、モラルの柔道は一部の自分が正義だと信じて疑わない活動家なんかによくみられる気がする。
ひっかかったのは快楽主義のくだりだ。幸福と快楽の概念が混ざっているように思う。日本語の問題なのか、もとからいっしょくたにされているのか。澁澤龍彦の調教済な私のあたまの問題なのか。それによって「お願いだ、友よ、幸福になってくれ。私にはなんとなく、私たちの唯一の希望が、君の幸福になる能力にかかっているという気がするのだ。」の解釈が変わる。希望はおそらく快楽主義の理想のことだ。けれど冒頭で快楽主義は苦しみを遠ざけることだという。悲惨さのなかになげだされた人間、とあるから快楽は前提として苦しみが必要なのに。
きっと重要なのは一度きり、明日はない、というところなのだろう。ドゥノンの小説のほうも読んでみたい。 -
Posted by ブクログ
小学生の頃、子供向けの「ああ無情」を読んで読書感想文を書きました。ただし途中までしか読まずに。
神父さんがジャン・バルジャンに食器だけでなく燭台まであげる気持ちがわからなかったし、弟が捕まっているのにジャンのお姉さんがなんで知らんぷりなのかも分からなかった。
マドレーヌという美味しそうな名前にクギヅケになった後、「パンを盗んで19年間も牢屋に入れられるなんてかわいそう」「神父さん、すごく優しい人」「ジャンバルジャンは力持ち」という内容を伸ばし伸ばし書いて提出したような気がします。
なので映画の予告編を見た時、アンハサウェイは何の役???と思ったほどのお粗末さでした。
まず、ミリエルは神父さんじゃなくて、司教の間違いですね。司教とは教皇の次に偉い位の人です。ミリエル司教は偉い人なのにつつましく日々を送っている人なのです。
ミリエルは法律に従事する貴族の生まれで、20歳ごろに結婚するものの情事とパーティーに興じていた。しかし、フランス革命によって家族は虐殺・迫害され、イタリアに亡命。やがて妻が肺の病気で亡くなる。何年も過ぎ、司祭(司教の1つ下の位)になってフランスに戻ってきた…という過去(ただし噂)を持つ人です。
自分の司教としての収入のほとんどを宗教関係、教育関係、貧しい人、囚人のために使い、山賊がいる山の中へ巡回へ行って山賊をも改心させてしまうような人です。
貧しい人に分け与えるべきであるという考えが根底にあります。ジャンが盗んだ食器については大叔母からの遺産であり「間違ってしかも長いあいだ、じぶんのものにしていた。あれは貧しい人たちのものだった。」だから貧しいジャンのものであるという考えなのです。カトリックだからというよりも、このミリエル司教の人柄だと思います。
ミリエル司教の外伝ではじまるこの物語。主人公のジャン・バルジャンが登場したのは、なんと108ページ目!
著者の目線で書かれていて、ストーリーとは関係のない話にそれてしまうことも多々ありますが、時代背景などを感じ取れることもできます。この長い長い外伝のおかげで、司教がジャン・バルジャンに食器だけではなく、燭台まであげてしまえるのかに納得がいくのです。
ジャン・バルジャンは幼い頃に両親に亡くし、姉に育てられます。ジャンが25歳の時姉の夫が亡くなり、義務的にジャンがその7人の子供の父親代わりになります。ジャンの姉はジャンの皿にあるマシなおかずを取って自分の子供にあげるような人。ジャンは人からの愛情を知らずに育ち、パンを盗んで囚人となり心が荒みます。その心を変えるきっかけとなったのがミリエル司教なのです。
ミリエル司教から銀の燭台をももらったジャンは逃げるように街を出た後、草原であれこれと考えごとをします。その最中に少年が落とした銀貨を無意識に踏みます。そして少年が「おいらのお金、返してくれよ」と言うにも関らず、「とっとと消え失せろ」と言って少年を追い払ってしまうのです。
無意識にもまた罪を犯してしまったことに気づいたジャン。小さな額であったとしても罪を認めて後悔し、惨めな気持ちで泣きながら必死で少年を探す場面は涙なしには読めません。
一方読んでいて印象が変わったのがジャヴェール警部。多少嫌な部分はあるものの、ただ実直に法を守り、自分の間違いを素直に認めることができる人。ジャン・バルジャンに対しては、無期懲役に相当する罪(元囚人が銀製品を盗み少年から銀貨を奪ったこと)が許せないだけなのです。
ミリエル司教の正義に感動させられます。ジャン・バルジャンの貫こうとする正義と葛藤に対するジャヴェール警部の正義にドキドキハラハラします。
間違いなく後世に残る名作だと思います。 -
Posted by ブクログ
ミラン・クンデラの初の長編作品である本作。冒頭、故郷の街に降り立ったルドヴィークの目的も過去もまったく見せずに始まるこの物語は、語り手を替え時代を行き来しながら展開し、少しずつ彼と彼に関わる人々の背景や生き様を明らかにしていく。まずこの構成に引き込まれて、一気に読んだ。
1949年、前年の二月事件によりソ連型共産主義政権が樹立したばかりのチェコスロバキアで、党を支持する学生の一人として時流に乗りながらも、ごく普通の若者らしく恋に懊悩していたルドヴィーク。彼が離れた場所で過ごす恋人の楽しそうな様子をやっかんで書き送ったほんの「冗談」のつもりの葉書が、党、そして大学から彼を追放するに至る運命の転換を招く。15年後、辛い炭坑労働を経て研究者として生活を立て直した彼は、この事件の背後にいた恋のライバルへの復讐を胸に故郷へと戻ってきたのだった――。
語り手となるのは、ルドヴィークのほか、彼の現在の恋の相手であるヘレナ、故郷の街に住む幼馴染のヤロスラフ、ルドヴィークと同じく党ににらまれているキリスト教的共産主義者のコストカ。ルドヴィークの復讐に一役演じるヘレナは別として、ヤロスラフとコストカは彼の過去とも関わる人物であり、また、彼ら自身、一人の人間としての弱さ、主観的な正義にとらわれながら懸命に生きている男たちでもある。
「冗談」が冗談として通じない世界、そんな世界の不正義を憎み、自らを陥れた友人とその声に和した仲間たちを憎んだルドヴィークは、復讐計画の思いもよらない展開と、炭坑時代の真剣な恋の相手・ルツィエをめぐる真実を知ったことで、この世界そのものによる「冗談」の中に自分が含まれているのだ、と不意に気づく。世界=歴史には理性や真理などない。人も、行為も、いずれ忘却され、時の中に消えていく。意図や思想による差別化のない忘却、大きな「冗談」としての無意味な世界=歴史の中では、個人のちっぽけな人生も無意味で、過去への憎悪も、復讐も、恋の思い出でさえ、何とも軽く、空しいものでしかない。
モラヴィアの民俗芸能の伝承に心を注いでいるヤロスラフ、自らの熱意の正当性に自負を持ち、一番近しい存在である息子もその熱意を引き継いでくれるものと信じている彼も、準備を重ねた祝典行事の場で、彼の目に見えていた世界とは全く異なる真実を知る。共産主義とキリスト教徒としての信仰の重なりに揺るぎない信念を持つコストカも、独白の果てに信仰を口実として利用している自分自身に気づき、激しく動揺する。
裏切者への憎悪。真剣な恋。伝えていくべき民族の文化。仕事や愛より優先すべき神の声。すべては「冗談」のごとき幻影であり、止まることのない流れに運び去さられ、忘れ去られるだけのものだとしても。そんな感情、熱意、信仰を抱き、あるいは放擲し、そしてまた愚かしく立ち戻る、無意味で空しい人間一人一人の人生は、無意味さ・空しさと共にあってなお、たくましく、まばゆく、愛おしい。
個人的にとても好きな、クンデラの、シニカルなようでいて根底に人生や生命に対する愛を感じる眼差し。そんな彼らしい個性が、初長編作品のこの作品でも存分に発揮されていた。後の作品に繋がるテーマも随所で顔を覗かせていて、その点も興味深かった。
-
Posted by ブクログ
・ミラン・クンデラ「冗談」(岩波 文庫)は 「作家自らが全面的に手直しした決定版を定本とした新訳。」であるといふ。これは販売用のコピーなのだらうが、ごく素直に読めば、クンデラのチェコ語原典版からの翻訳と解せる。ところがさうではないのである。訳者解説中にかうある、「〈プラハの春〉も〈ビロード革命〉ももはや遠い過去になった二一世紀の現在、もっぱら一個の古典的文学作品として読まれることを願う岩波文庫のこの新訳は、原著者の強い要望に沿って、八五年のフランス語決定訳を収めた二〇一一 年刊行、フランソワ・リカール監修のプレイヤード版を定本としている。」(525頁)だから決定版で旧訳とは違ふのだといふわけである。では、なぜクンデラはチェコ語版を差し置いてこんなフランス語版を作つたのか。大きな誤解があつたことにクンデラが気づいたからである。西欧では「冗談」が「ソ連を中心と する社会主義諸国の社会の実態を暴露し、糾弾する政治・イデオロギー的文書として読まれ」てをり、その文脈で訳もなされてゐた。つまり、それまでの訳は誤 解と誤読の上に成り立つた訳文であつた。これを知つて「衝撃を受けたクンデラは」(524頁)決定訳を求めたのであつた。
・わざわざこんなことを書くのは、さう読んだ方が安直で手つ取り早くて分かり易いと私も思ふからである。「冗談」の初版刊行は'67年であ る。この翌年はプラハの春であり、それがソ連の戦車で蹂躙された年である。東西冷戦の真つ只中である。従つて、このやうな内容の作品が出てくれば、西側の 人間は「政治・イデオロギー的文書として読」みたくならうといふものである。現在でも事情はさう変はらないやうな気がする。ソ連邦は消滅しても中共の支配する中国はあるし、その隣には北朝鮮もある。かういふ国を横目に見てこの「冗談」を読む時、初めのあたりの党に関する記述が妙に生々しく感じられる。私自身は共産党と関係したことは一切ないが、かつて読んだ学生運動等に関する小説に描かれた内容とも重なつて感じられるのである。誤解かもしれないし、私の偏見かもしれない。クンデラにはきつと忌み嫌はれるであらう。しかし、さう読んでしまつた方がどれほど分かり易いことか。またある意味、安心できることか。 時の西欧の人々も同じであつたのかもしをれない。ところがさうではないらしい。当時のチェコでは「人間の実存の小説」(523頁)などと「すこぶる真っ当な文学的受容がなされ」(同前)てゐたといふ。さうか、実存なんだと思ふ。大江健三郎などはそれを正しく理解してゐた(524頁)らしいが、これは類は友 を呼ぶといふことであらう。その点、私はそこに入らないわけで、今に至つてもまだ先の誤読をしたがつてゐる。3日間か4日間の出来事の間に、主人公が己が人生と女性を思ふ……それは確かに「実存」といふことであるのかもしれない。サルトルの「戦後史の実存的経験、ヨーロッパ左翼の神話の崩壊という主題」 (526頁)といふ言ひ方はまだ分かり易い。「存在の耐えられない軽さ」などはこの例であらう。つまり、やはりこれは「政治・イデオロギー的文書として 読」むしかないのではないかと私は思ふ。ルドヴィークの人生は党なくしてありえない。党員になつてしまつたからには、たとへ反党活動で除名されようとも、 党から逃れることはできない。それが共産主義国家といふものであり、そこに生きる主人公ルドヴィークの人生なのである。そんな人生に重きを置いて読んで理解するかどうか、これが分かれ目なのであらう。それなりにおもしろい作品なのだが、私には岩波書店の望む読み方はできないのであつた。