辻田真佐憲のレビュー一覧
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「あの戦争」ってどの戦争のこと??と言うところから始まります。「賢者は歴史に学ぶ」といいますが、そのためには先の大戦についてキチンと把握しておく必要があると。わたしなりに詳しくはないもののそれなりに理解できていると思っていただけに、この本を読んでショックなことが多かったです。
特に印象に残ったのは以下の2つ。
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◆独裁者不在でも戦争に突っ走ってしまった。
→ヒトラーやムッソリーニのような独裁者がいた訳でもないのに勝てる見込みの少ない戦争に突き進み原爆を落とされるまで敗戦を選択できなかった。何でだろうと思いますが、この本を読んで目から鱗でした。
◆日本には歴史博物館がない(少ない?)
→それが普通だと思ってましたが他の国は結構あるものなんですね。当時作ろうとしたら周りの国からの風当たりがキツくてまともなものが作れなかっただろうから致し方なかったかもしれませんが。お隣の某国を見てると国内の世論操作するのに反日を活用してるよなーと常々思ってましたが程度の差こそあれ、どこもその気はあるようですね。
日本の歴史教育は明治以降の近代に入ると急に駆け足でウニャウニャ…とごまかし気味のとりあえず年号と事象だけ詰め込んでおけ的なやっつけ感が強いですが、もとを辿るとこの2点目の話に帰結しそうです。 -
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ネタバレ内閣広報予算が72億を希望していると聞いて。先の戦争でのプロパガンダはどんなものだったのかと興味が湧いた。
つまり、プロパガンダは楽しくした方がいいってことを、今の権力者は歴史から学んでしまっているということで、来年はそれを実行するつもりなんだろうかと勘繰ってしまう。
米津玄師や、HANA、ミセスあたりが餌食になって、素敵な歌の中に差別的な要素や戦いへの鼓舞を混ぜたりするようになるんだろうか。
ルフィが、憲法王におれはなる!とか言い出したりするんだろうか。
あり得ない、と、呆れるようなことでも今の内閣ならやりかねないと思ってしまう。
嫌だなぁ。 -
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笑える内容ではないのだけど、帯のキャッチが「よく言ったもんだな」と目を惹いた。
【止められない!止まらない!嘘、誇張、歪曲。敗戦へと突き進む悪夢のカーニバル!】
知ってはいたけど、想像以上(異常)。
嘘の上塗りとはこのこと。大本営発表→「官僚の作文」とは言い得て妙。
敗走を「転進」、全滅を「玉砕」(玉のように美しく砕ける)と言い換える。
太平洋戦争下の大本営発表は、まさにデタラメ以外の何者でもなかった。最大の原因としては「軍部と報道機関の一体化」。
これを今に置き換えると「政治と報道の一体化」。マスコミ批判は、政治との癒着のみに向けられるべきであって、政治との対決に向けられるべきでない。 -
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ネットで本書を知り、読み始めてすぐに、家族にも勧めた。
2023年発行ながら、今の政権のうさんくささにもおおいに立ち向かってくれる一冊。
戦争が近くなってから急に持ち上げられた三人の天皇について、明治以降急に流行った男系男子とやらのありがたくもないありがたさ、教育勅語の尊重できない部分、軍歌や軍神といった一部熱狂にために起きたメディアのあり方など。
ネトウヨの研究ガイドであり、それはつまり安倍晋三の思想に繋がる現政権の正体でもある。
面白かった。
作者の使う「中世キャンセル史観」というワードのセンスにも笑った。
それにしても、日本全国にこんなに〇〇天皇像があったんですね。
八紘一宇なんて、最近も最近の考え方だな。
そっち系の巨大建造物を誇る宮崎と鹿児島は、神話ムードでたくさん商売をしてきたのだな。
教育直勅語には、親孝行など今でも大事にしたい価値観があるから等で定期的に復活させたい勢が登場するが、じゃあ、別に教育勅語じゃなくて親孝行やらの儒教概念だけ喋ってればよくね、と。ですよねー。
わざわざ、コレを復活させたい連中には、他にも心中に狙いがあるってことでしょう。
最終盤の一節より 軍歌について
「言い換えれば、プロパガンダをしたい当局と、時局で儲けたい企業と、戦争の熱狂を楽しみたい消費者という三者にとってウィンウィンウィンな利益共同体が、軍歌という空前の国民的エンターテイメントを生み出したのである。中略。現在でも衝撃的なニュースが飛び込んできたら、便乗的なウェブ記事がたくさん出てくる。消費者もそれを積極的に受容している。そして政府もそれに乗っかって予算や法律を通そうとしたりする。独裁的な司令塔があるわけではなく、ただ空気によってなんとなく流されていく。この波乗りは日本社会でよく見られる現象だ。」
それにしても、著者はまだ40そこそこでこの本を書いているのに、文体が古風なのが印象に残った。 -
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歴史とは解釈であり、見方によって正義は如何様にも存在する。そこを追うのではなく、何かを得るための材料にするのがいいのかな、と思った。
○あの戦争は何だったのか。
それは、日本という国が近代の激流のなかで何を選び、何を失い、何を残したのかを象徴的に映し出す、特別な鏡である。そこには、われわれが歴史を通じて見つめるべき「現在」もまた映り込んでいる。だからこそ、われわれはこれからも、現在とのつながりを意識しつつ、より妥当な落としどころを模索しながら、その意味や位置づけを解釈しつづけなければならない。
・大東亜戦争は、どの場面を切り取ってもなかなか止めるのが難しい。植民地政策をしなければならないのは外国からの圧力に対抗するため燃料が必要だったから、燃料を米英に止められてからはジリ貧を打開するための一手を打つ必要があった。国民側も好戦的な意見が多く、民主主義の大隈内閣はそういった世論をうけて好戦的な方向に舵を取ったため現代に至る。当時は戦争は絶対悪とはみなされてなかった、おそらく被害より恩恵の方が大きかったから。教科書でも栄光の歴史と教えられていた。当時は東條英機すら「弱腰」と批判されることもあった。
・日本は大東亜共栄圏を強くし、米英の支配や差別から逃れることを理念とし、東南アジア各国に会議や訪問を行った。その実、日本を頂点とした支配構造に変わりなくフィリピンなどから批判された。戦争中には占領、弾圧も行っている。
・シンガポールの人口の7割を占める華人コミュニティに対し、占領後に日本は「大検証」という18~50歳の男性を尋問、半日的・共産主義的思想をもつとされるものを次々と処刑した。犠牲者数はシンガポール側が4~5万人、日本側は5000人と発表している。現在は対日感情は良好だが、歴史的に日本は敵という物語が存在している。
・シンガポール、インドネシア、マレーシア、中国(長春)などに日本の植民地支配を非難する展示がある。
・マレーシアのラブアン島では3908名が亡くなった。その中の「サンダカン死の行進」では日本軍が英軍、オーストラリア軍の捕虜2434名を240km離れた収容所へ強制移動させた。飢餓、病気、日本兵による虐待によって、途中で逃げ出した6名を除いて全員が犠牲となった。フィリピン・バターン半島でも米比軍捕虜76000名を100km以上強制的に徒歩で移動させ、17000名以上が命を落とした。
・現在も大東亜戦争の日本に関する見方は定まっておらず、様々な考えをもつ人がいる。国内の展示もぼやかした曖昧なものが多い。事実ベースで起きた要因に触れられる、今後の教訓にできるような展示があるといいと思った。 -
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ネタバレ「右か左か」「愛国か強制か」といった不毛な政治的対立に晒されがちな国歌「君が代」の史実を丁寧に解きほぐし、その知られざる実像を鮮やかに描き出した傑作です。
本書の最大の読みどころは、私たちが「千年前から続く日本の神聖な伝統」と思い込みがちな「君が代」が、実は明治時代に突如として突貫工事で作られたハイブリッドな近代の産物だったという歴史を暴いていく点にあります。
平安時代の和歌をベースにしながらも、発案したのはイギリス人の軍楽隊長フェントンであり、その後、日本の雅楽師とドイツ人音楽家(エッケルト)の手によって和洋折衷のオーケストラ・吹奏楽用にアレンジされました。初期のフェントン版(初代「君が代」)が不評で差し替えられるという迷走劇を経て現在の形に至った経緯や、もともと個人間の祝い歌だった和歌が「天皇統治の永続」を願う歌へと転用されたプロセスを知ると、「不変の聖域」というイメージは鮮やかに覆されます。
さらに辻田氏は、右派と左派の双方が抱く「過剰なイデオロギー」をも冷静に解剖します。右派は太古からの神聖な国歌として神格化しすぎであり、左派は「軍国主義と侵略の象徴」として一律に恐れ排除しようとしていますが、どちらもこの曲に政治的物語を投影しすぎていると指摘します。
世界各国の国歌(血生臭い革命歌や威勢の良い軍歌)に比べて異質なほど静かで短く、意味的にも曖昧だからこそ、時代や立場によってあらゆる政治的意味を書き込めてしまった——これこそが「君が代」をめぐる論争が絶えなかった真相なのです。
本書は、歴史的ファクトを積み重ねることで「君が代」を政治の呪縛から解き放ち、近代史の波にもまれた「不思議で独特なひとつの音楽作品」としてフラットに向き合うための新しい視点を与えてくれます。
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日本には国立近現代史博物館がない。つまり、戦争をどう描くかについての社会的合意がなく、国としての「語り」が存在しない。
学校の歴史でも戦争について確かに習った。でも受験で考えると、近現代史の比重はどうしても低かった気がする。そもそも受験対策としてしか歴史を捉えていなかった、というのが今になっての反省。
日本で戦争前後の歴史を語ろうとすると、右からも左からも批判が飛んでくる。だから語りにくいのだろう。一方で外国は、自国なりの「語り」がしっかり提示されているように見えて、それも不思議だった。
以下メモ
・歴史は究極的に科学ではない。
さまざまな史料を突き合わせて「事実らしいもの」を導き出すという作業には部分的に科学的な要素が含まれるかもしれない。だが、その「事実らしいもの」にどのような意味を与え、なにを重要とみなすかは解釈の問題となる。そして、その解釈は個人の関心や時代の雰囲気によって大きく影響を受けざるを得ない。
・歴史を振り返る意義は、過去を美化することでも、糾弾することでもない。重要なのはなぜ当時の日本が、そのような選択をしたのかを深く理解し、わがこととして捉えなおし、現在につなげることにある。そのためにも我々は、あの戦争を解釈し続け、適切な物語を模索し続けなければならない。
・明治から昭和になるにつれて、官僚機構はますます大きく複雑になり、各省庁や部局は縦割り構造の中で独自の理論を抱え込むようになった。部門間の利害調整は困難を極め、複雑な感情やメンツが絡み合い、統合的な意思決定はほとんど不可能となった。こうして”司令塔が不在”のまま、日本は妥協と調整の中で動いていくようになった。 -
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平和主義者でハト派である反面三国同盟や日米開戦を先鞭つけた近衛文麿についてその多層性が やはり 一人間なのだなぁと思い始めた頃から 本書の内容については概ね理解していたように思える。あの世界的にも極悪人とされる東条英機の本当の意味でのアジア解放に向けてのパトスを明記してくれたことでもありがたい。 間違いや 愚かなところはもちろんある。 数多くある。 それは認めつつも 自虐史観でもない 被害者史観でもない、歴史としての多層性を常に考えなければいけない。 それと同時に、ある一面のもので自称を判断して ことさらにあげつらったり規定したりしてくる人の言動を注意深く見る癖はついた。 このリテラシーはかなり意識していないとすぐに影響を受けてしまう。くれぐれも気をつけて行きたい。
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Posted by ブクログ
ネタバレとても面白かった。
日本の近現代史は学校で深く勉強しないし、頑張って半藤一利の昭和史、なども読んでみたけれど、たくさんの出来事がありすぎて、うまく消化もできず、理解もできず、そのままになっていた。自分の不勉強を棚に上げて言えば、とにかくいろんなことが絡み合いすぎて、あの時代はわかりづらく感じてしまう。
その意味で、全体をざっくり見渡せたこと、文脈を見出しながら歴史の展開を見れたことはとても良かった。
各国の歴史博物館の展示内容の比較も、「あの戦争」を相対的に長めの射程で見てみる良い契機になった。
東南アジアへの侵攻の状況と、それら諸国での日本の占領期の捉え方も勉強になったが、と同時に、韓国併合が明治期のことで、統治が35年もの間続いていたことを思うと、韓国と東南アジアでの経験は全く違うわけで、受け止めが違うのは当然だなとも思った。
そうしなければ、日本は植民地にされていた、あの時代はそうしなければならない理由があったのだという、一部保守の言い分について、
p272で、主体性をもって世界史に刻まれる行動をとったのであり、主体性があるということは他に影響を及ぼす存在であった、良い面も、否定的な面も引き受けるべき
というのはそうだな、と思った。昔、司馬遼太郎があんな戦争はあれは本当の日本じゃない、あんなのは一部の軍部が引き起こしたもので・・・というようなことを何かで書いていて、そんな無責任が言い草があるものかと憤慨したことがある。司馬遼太郎が人気があるのは、そういった甘えを許す歴史ロマンが楽しめるからなのではないか、とそれを読んだ時には思ったくらいだった。
おわりに、では小林秀雄の言葉を引いて、歴史とは愛惜の念なしには成立しない(一人一人の苦しみ、悲しみやその経験を思うことなしに理解できない)と書いてあり、その通りだと思った。国家のために、国体のために、国防のために、といって一人一人の生活を見ないようでは、歴史に基づいた国の運営などできない。
確かにな、と思うところが多い本だったのだけれど、ただ、この人のこの考えを極端な右派というか、歴史修正主義の人たちに利用されていかないかと少し不安にもなった。