熊野純彦のレビュー一覧
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フランスの哲学者エマニュエル・レヴィナスの哲学を存在論の視点から描き出した入門書。フッサールやハイデガーになじみがないとやや難解な部分もあるが、全体としては読みやすい作りになっている。
詳細に立ち入ることはやめておこう。
ここに書き留めておくべきことはひとつ、レヴィナスは極めて繊細な感受性をもった哲学者だった、ということだ。
リトアニアに生まれたユダヤ系のレヴィナスはフランスに留学した後、第二次世界大戦に巻き込まれ、捕虜として収容所に入れられる。本書に「奇妙な戦争」とあるように、しかしその収容所生活は穏やかだったようだ。「夜と霧」を著したヴィクトール・フランクルの過酷な収容所体験に比べると -
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サルトルのいう「想像力=自由」「夢中=非定立的意識」「対自存在=世界に無をもたらす主体」を私なりの表現で書き換えてみる。まさに、たった今経験したことで、書いておきたいと思った。
昼間覚醒している時の妄想。その中での登場人物の振る舞いは自他に自由で自らは脚本家とも神とも呼べる絶対的存在になれる。しかし、そこには現実の質感がない。一方、夢の中では自他に自由がなく、現実の質感があって、一喜一憂する感情まで湧き立つ。怖い夢を見た。
ここに、想像力がつくり出す「非在の世界」と、夢がもたらす「擬似的現前の世界」の対照がある。
サルトルにとってイマージュ(心像)は「ひとつの行為であって、一箇の事物では -
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20世紀のユダヤ人哲学者レヴィナスの入門的解説書。
倫理学者の熊野純彦氏の著書で、初版は1999年である。
カントとハイデガーの訳をきっかけに、熊野氏の著書に興味を持ったが、彼自身が
「レヴィナスの仕事は自分の中で浮いていて、いつまでもレヴィナス屋さん扱いは困る」
と言っていたことが面白く感じ、本著を手に取った。
レヴィナスについての前知識は、ハイデガーに師事したがその後批判に転じた、と言うことだけだった。
非常に繊細で、細い線の上をたどるような議論の連続で難解であったが、さすが論点は分かりやすく解説されていた。
壮大な世界観は古代や近代の先人たちが行っているので、現代に近づくにつれて議論 -
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ある程度哲学史一般に触れたことのある人向けの解説書というレベル。
かく言う私も、古代から中世は勉強不足+神が前提にあったり是非を問うたりとで腹落ちがどうしてもできず半端な理解にとどまってしまった。不甲斐なし。
本書の魅力は、著者もまえがきに述べているように哲学者の原著テキストを積極的に掲載して説明を進めているところ。原著なのでそのまま理解しようとすると難解ではあるが、その直後に解説を加えてくれるし何より哲学者の息遣いが感じられて思考の懐が深まった感覚。
とはいえ、ここの哲学者の主張と連関は掴みきれず。。『哲学史入門』シリーズの古代-中世の部分再読と、ネオ高等遊民の入門書必読だな。精進いたし -
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読書会で取り扱い。他者への従属的関係であるエコノミーの外部で、「〈誰でもない者〉が〈何でもないもの〉を〈誰でもない他者〉に与える」という贈与の形式を満たす至高者のコミュニケーション。そこでは「振る舞い」や「精神状態」といった「主観性」が伝達される。しかし一方で、そうした贈与は「幸福の涙」という現象で説明される奇跡的なものであり、決して企図された行為によっては実現されえない。一方でそうした幸運の到来には、我々は世界や他者を必要とし、聖/俗・可能なもの/不可能なものといった区別は必ずしもなされない。聖なるものは、世界との親密性を取り戻した状態だが、そこでは明晰さが徹底的に突き詰められてもいるのだ。
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ニーチェの『道徳の系譜』を読み解くとともに、彼の道徳批判がもつ超越論的な意義を解き明かそうとする試みがおこなわれています。
ニーチェの道徳批判といえば、われわれの道徳的な心性の背後にルサンチマンが控えていることを指摘したものとして広く知られています。しかし著者は、ニーチェの道徳批判を、いわゆるモラリストたちのそれから区別しなければならないと主張します。モラリストたちは、表面上は道徳的にふるまっている人びとの心の奥底に、非道徳的な動機が存在していることを鋭く見抜きました。しかしそうした批判は、いまだ道徳そのものに対する問いなおしではありません。
著者は、「ニーチェがカントの批判哲学の超越論的 -
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後半は〈精神〉章から。普遍性と個別性の統一的表現である〈ことがらそのもの〉に到達した自己意識が、立法的/査法的理性を持って恣意的にこれを認識しようとしたのに対し、社会制度を本質的なものとみなしこれを自らの行為で作り上げようとするのが〈精神〉。「精神」という名前とは裏腹に、それは万人の行為の根拠であり、自己の本質を内在化した人々の自覚的行為で作り上げられるような社会的な実体を指しているようだ。
個人と社会が美しく調和した〈人倫の世界(ギリシャ)〉では、精神は普遍的実体としての〈人間の掟〉と個別的意識としての〈神々の掟〉の二態で構成されるが、そこでは自ら考え行動する自由な主体が存在せず、個人は -
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ハイデガーの『存在と時間』の解説書です。
『存在と時間』はかつて、既刊部分のみをもとに実存哲学の代表的な著作とみなされていましたが、その後「存在の問い」というより大きな問題設定のなかで『存在と時間』の位置づけを見なおすことの必要性が主張されるようになり、日本でも木田元が多くの著作を通じて、そうしたハイデガー解釈を啓蒙してきました。
もちろん、そのような理解が広く受け入れられたあとも、仲正昌樹の『ハイデガー哲学入門─『存在と時間』を読む』(2015年、講談社現代新書)や北川東子のハイデガー 存在の謎について考える』(2002年、NHK出版)など、あえて『存在と時間』の議論を実存哲学として紹介 -
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ネタバレ-2007.03.12
「近代から現代へ」
1-自己の根底へ
「無能な神の観念は、有限な<私>を超えている」-デカルト
2-近代形而上学
「存在するすべてのものは、神のうちに存在する」-スアレス、マールブランショ、スピノザ
3-経験論の形成
「経験にこそ、いっさいの知の基礎がある」-ロック
4-モナド論の夢
「すべての述語は、主語のうちにすでにふくまれている」-ライプニッツ
5-知識への反逆
「存在するとは知覚されていることである」-バークリー
6-経験論の臨界
「人間とはたんなる知覚の束であるにすぎない」-ヒューム
7-言語論の展開
「原初、ことばは詩であり音楽であった」-コンデ -
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ネタバレ-2007.03.12
良書である。著者独特の語り口がいい。
-やわらかな叙述のなかに哲学者たちの魅力的な原テクストを多数散りばめつつ、「思考する」ことそのものへと読者を誘う新鮮な哲学史入門-と、扉にうたわれるように、採り上げられた先哲者たちの思考を、著者一流の受容を通して、静謐な佇まいながらしっかりと伝わってくる。
岩波新書の上下巻、「古代から中世へ」、「近代から現代へ」とそれぞれ副題された哲学史は、著者自らがいうように「確実に哲学そのもの」となりえていると思われる。折にふれ再読を誘われる書。その章立ての構成を記しておこう。
「古代から中世へ」
1-哲学の資源へ
「いっさいのも -
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一通り目を通した。
読み終わったというにはほど遠い理解度かもしれない。
レヴィナスといえば、他者論。
前半を中心に扱われるフッサールやハイデガーとの接点は、自分の中で少しクリアになった気がする。
一方、6章以降、レヴィナス自身の他者論が中心となる部分になると、とたんに難しくなるのはなぜだろう?
文章も独特な感じ。
使われている言葉は、術語もあるけれど、全体としてはやさしい言葉が使われている。
何か、詩のような感じさえ受ける。
ところが、言っている内容は、なかなか頭に入ってこない。
こちらのセンスとレディネスの問題だろうけど。
なんだろう、この見かけの平明さとのギャップ。