熊野純彦のレビュー一覧
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ネタバレ41
対象群は,自分の身体の有する力が増減するのに従ひて秩序着けられる.私の身体を取り巻く対象群は,其れ等の対象に対する私の身体の可能な行動を反射するのである.
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第一の仮説では,精神も亦物質と等しく認識不能な物となる.精神は定義し難い能力に帰されており,其の能力が感覚を何処からともなく呼び起こし,何故だかは解らぬが其れ等の感覚を空間中に投射して,かくて空間の中で諸感覚が物体を形成するに至る,とされるからである.
第二の仮説に於いて,意識の役割は明確に定義される.つまり,意識は可能な行動を意味してゐるのである.其れ故,精神が獲得した様様な形式,意識の本質を我我に対して覆ひ隠す形式は,この第二の原理と云ふ光を当てる事で遠ざけられなければならぬ運びとなるだらう.
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身体は単に外部からの作用を反射するに留まる物にあらず.身体とは闘ふ物であり,かくて其の作用の何程かを吸収する.此処に感受の起源が存在する事になるだらう.かうして比喩的に語るなら,知覚に因りて身体の反射する力が測られるとすれば,感受が測る物は身体が吸収する能力なのである.
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命題
I・過去は二つの異なりし形で残存す.
一,運動機構に於いてであるか,
ニ,独立なスヴニールに於いてである.
II・現在の対象の再認は,其れが対象から生じる場合は,運動に因りて行はれ,主体から発する時には,表象に因りて行はれる.
III・感知されぬ段階を辿りて,時間に沿ひて配列されるスヴニールから運動への移行が行はれ,其の運動は生まれつつある行動,あるいは可能な行動を空間の中に素描す.脳の損傷が此の運動を冒す事になるとは云へ,此のスヴニールを冒す事あらず. -
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デカルトまでのギリシャ・ローマ世界における思想について、通史的にざっと知識を整理しようと購入したが、そのような実用的な用いられ方を拒むような著者の文体にあえなく返り討ちにあい、結局2度3度と読み返すことに。「世界と、世界をめぐる経験のすべてがそこに結晶しているような一語を語りだすためには、幾重にも錯綜したことばのすじみちを辿りなおさねばならない。そのとき哲学的思考が抱え込む困惑は、日常の風景を反転させ、世界の相貌を一変させる一行を探りあぐねる詩人の困惑と、全く同質のものであるはずである(p.30)」。本書で哲学者の思索をなぞる著者のことば自体もまさにこのような詩的な響きを帯びており、どの文章にも安易な読み飛ばしを阻む深みが潜んでいる。
以下覚え書き。
第1章 イオニア学派、ミレトス派
タレス
自然(ピュシス)に目を向け、世界の原理(アルケー、始まり)を問う
アルケー=水
アナクシマンドロス
自然=反復と循環、アルケー=無限なもの(アペイロン)
アネクシメネス
無限なもの=アエール/プネウマ(空気)
第2章
ピタゴラス
輪廻(身体という牢獄からの魂の解放)→身体を超えた秩序(ロゴス)
魂(プシュケー)、知性(ヌース)によるロゴスの知覚 →「数こそが原理」
どれでもなく、どれでもあるもの(e.g.直角三角形)
数が生むハルモニア(調和)
ヘラクレイトス
アルケー=常に消滅しながら生成しているもの(e.g.炎)
「万物は流れる(パンタ・レイ)」
ロゴス=相反・対立するものの両立(=調和)
クセノファネス
神は非物体的な一者、不動でなければならない
第3章 エレア学派
パルメニデス
存在だけがあり、無はあり得ない
では、あるものとは?→それ自体は生成も消滅もしないもの(他のものは「ない」)
エレアのゼノン
「多」と「動」の否定
多・動は有限(現にある数だけある)かつ無限(間に別のものがある)→矛盾(帰謬法)
カントのアンチノミー(無限と不定の混同を批判)への影響
アリストテレスの反論「無限の分割は有限時間内で可能(分割の場合は時間も無限…一対一対応)」X「際限」
メリッソス
空虚はあらぬものだが、運動のためには退去する場所として空虚が必要(古代原子論へ)
第4章 エレア派への回答
「何かが変化したというためには、変化しないものが必要(アルケーは変化しないとすれば多と動も生じない)」
エンペドクレス
元になるものは不変、その結びつき方が変化する
アナクサゴラス
生成は混合であり、消滅は分離である(生成も消滅もなく、常に同一のまま存在し続ける e.g. 種子)
デモクリトス
あらぬものもある(「あらぬもの=空虚におけるあるもの」の運動→現象と感覚における差異を生ずる)
エピクロス
原子は性質を持たない(性質=ノモスは変化するが、原子は変化しない)→では、差異はどのように生ずるか?
プラトン
虚偽や誤謬は「ある」の反義であり、これらがあるならば「あらぬ」もある →「あらぬ」=「ではない(差異を生成)」cf. サルトル「無化」
第5章 ソフィストたち
神話的思考への啓蒙
プロタゴラス
人間の感覚への「あらわれ」が全てのものの尺度 → では存在とは異なる「あらわれ」とは何か?
ゴルギアス
存在は人間に捉えられず、捉えられたとしてもそれを表現することはできない
ソクラテス
「アポリア(行き止まり)」→無知の知(無知ゆえに知を愛し求める=フィロ・ソフォス→philosophy)
対話術「エレンコス」においても答えを与えない(知らないから)
シノぺのディオゲネス
小ソクラテス学派(キュニコス学派(犬儒派))
プラトニズムへの反感
第6章
プラトン
イデア…当のものごとが、「それ」によってまさにそのものごとである、そのもののこと
目に見えないイデア=エイドス(すがた、形相)への希求…愛知者
「探求のアポリア」知らないものをなぜ探究できるのか
→「想起説(アナムネーシス)」…潜在的には全てを知っている、学ぶ=想起する
「等しさ」と「等しいもの」は違うものなのに、「等しいもの」から「等しさ」を直感するのはなぜか?→「等しさ」が「等しいもの」のうちに「現前」→イデアのみが真に、永遠に存在する
諸事物とイデアの共通項は?(アリストテレス「第三人間」)
「一」と「多」変化する事物を超えて真なる存在であるイデアを思考
第7章
アリストテレス
プラトンのイデア…自然=神の技術、イデアを参照し想像する → 秩序(ロゴス)は世界の外部に存在
→ 自然それ自体のうちにロゴスが求められるべきでは?
自然的存在…自らの運動と停止の原理を持つ
技術が自然を模倣する
自然=生長するものの生長、運動の原理、存在者の存在の始源
四原因説
質料のみでは実体は得られず、形相(何であるか、エイドス=ロゴス)が必要
質量が形相を可能性として含む=可能態、質料が形相を伴う=現実態
製作行為=質料に潜在する形相を顕在化する技術、自然の比(ロゴス)に従う
1. 自然がロゴスを内在=目的論的な自然像
2. 徳(エートス)…働きそれ自体が目的となるような人間の素質
「形而上学」…自然学を超える(メタ)学=存在論、実体とは何か
第一の実体:個物
第二の実体:種(エイドス=形相)…実体の本質
現実態にある形相…可能態にある形相にとっての「目的」
全ての存在者にとっての目的=「純粋形相」=「神」
運動は永続的でなくてはならない(永続的でないなら運動開始前と終局後に何らかの変化があることになる)
→「第一の動者」はそれ自体永続的であり、かつ運動してはならない
動かされず動かす「不動の動者」…愛されるものが愛するものを動かすように動かす
神的なものの「観想」→最高の至福
第8章 ストア派の論理学
タブラ・ラサ…経験論へ
真実:表象と対象との一致(しかし、対象との対応により真理を定義するのは循環論では?→真アカデメイア派の古代懐疑論へ)
意味と指示の区別(明けの明星と宵の明星の指示対象は同一だが意味は異なる)
質料と形相の区別(アリストテレス)の受容
「神」=全ての質料に浸透するロゴス、理性それ自身
ストアの決定論…因果関係による順序と連鎖(ロゴス=宿命=神)
自然と調和して生きる→国家を超えた「世界市民(コスモポリテース)」
アパティア(無感動)…感情に流されてはならない、全ては自然に従う
→現在こそが永遠、現在が最後の瞬間であるかのように生きる
第9章 古代懐疑論(ピュロン主義)
セクストス・エンペイリコス
感覚的なものへの疑い(エレア派に起源…パルメニデス「思いなし」、古代原子論者「ノモス」)
判断中止(エポケー)により、独断論者の「体系」を批判
メガラのエウクレイデス
パルメニデスの「一つの同じもの」とソクラテスの善の結合
ディオドロス
活動こそが能力を表す、現実的なもののみが可能的である(cf. アリストテレス「現実/可能態)
パイドン(エリス派)
アルケシラオス(新アカデメイア学派)
ストア派の循環論(真の表象と偽の表象を隔てる基準があるとする)を批判
ピュロン主義者たち
表象と思考を対置し、判断中止へ至る方策=「トロポス(いい回し)」
「トロポイ(感覚の仕方)」は相対的→一旦判断を停止(アポリア)する必要
批判的合理主義(演繹的体系の無根拠性を指摘)の原型
第10章 新プラトン主義
フィロン
二段階創造説…「思考される世界」「感覚される世界」
神は「エイコーン(神の似姿、一性)」を範型として人間を創造
プロティノス
存在=一性(一つでなければ存在できない、多による一の分有)
多を形作る一を、一としているもの→三つの原理(「一者」「たましい」「知性」)
たましいが身体を一つのものにし、知性はたましいの活動を規制する
プロクロス
一者は存在に先立ち、他のものの存在の源となる「第一の原因」であり「善」
第11章
アウグスティヌス
感覚への懐疑論(新アカデメイア派)への反論…真なるものの認識は如何にして可能か
「感覚する私(=欺かれる私)」は確実に存在している(デカルト方法的懐疑との類似)
自ら存在し、自らの存在を知り、自らを愛することは感覚による表象(=欺き)を介しない
確実・真なるものは人間の内面に存在、理性による判断が真理(一性)を捉える
内面における「神」という絶対的外部性があるからこそ、完全・真なるものが認識できる
時間の経過で散り散りになる「私」を統合しているのは「神=永遠の現在」である
第12章
ボエティウス
「三位一体論」…たましいと身体が「一つ」cf. プロティノス
普遍論争の原点
「存在=単に在ること(存在の文有、偶有性)」と「存在者=本質的に在ること(実体)」の差異
アリストテレスの「善」…分有ではなく、実体により「善」なるもの=「神」
単純なもの、一なるもの、善なるものでは「存在」=「存在者」
「存在そのもの」である「神」から流出する「善」により、存在者は「善」となる
「永遠」=無限の生命の、全体的で同時的な完全なる所有
第13章
偽ディオニュソス
「神」=闇に隠れるもの 無知により到達可能(神秘主義)
エリウゲナ
「神」=「創造し創造されないもの」かつ「創造せず創造されないもの」=存在を超えた「無」
スピノザの先駆?
アンセルムス
スコラ哲学
さまざまな善を可能にする「共通な或るもの」=「最高の存在者」
神の存在証明:それより大なるものを考えることができないものでも考えることができる!=実在しているはず(カントの反論:完全であっても存在するとは限らない、「存在する」はものに関わる述語ではない)
第14章
トマス・アクィナス
アリストテレスをラテン世界に逆輸入したラテン・アヴェロイスト「二重真理」批判
- 「可能知性(全ての人間が持つ単一の知性。アリストテレス「能動知性(身体の形相であるたましいに作用)」に対置される)」批判…全ての人が同一であるのは自由意志の否定であり不合理
- 「世界の永遠性(アリストテレスも主張)」批判
スコラ哲学的な存在証明の非自明さを指摘
「五つの道」による神の存在証明①第一動者②始動因③必然性④秩序⑤目的因
第三の道…偶然的世界が存する以上、必然的な神もまた存在せねばならない
a世界の存在、b世界の本質(=偶然性)、c神の存在、d神の本質(=必然性)のとき、
a:b=c:d(存在の類比)という比によって、経験的地平から神が証明される
世界は神を出発点とした被造物=世界は神の存在を「分有」する
神だけが「自存する存在そのもの」であり、他の一切の存在者は神から流出(=創造)される
第15章 神の絶対性へ
スコトゥス
「存在」の一義性…同一主語について同時に肯定と否定がされ得ない述語
「存在」はカテゴリーに先立って有限/無限の両者に適用される「超越概念」
神に適用されれば無限、被造物に適用されれば有限→神と被造物を介在
オッカム
「神の予定」予定に反することができなければ全能ではなく、予定に反するとき全知でない
神は未来の事柄について確定した知を有する=神にとっては全てが現前する、一切が現在
永遠とは全体の現前、神の予定=未来の未確定な事柄についての確定された知
偏在する神
デカルト
無から一切を創造する神
人間が法則を必然と感じるのは神が絶対性を人間に植え付けたから -
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ネタバレ哲学者熊野純彦さんによる資本論入門。本書の趣旨はご本人が終章で述べているように、「価値形態論を形而上学批判として読みなおすところからはじめて、資本の運動を時間と空間の再編過程ととらえるこころみを経て、科学批判としての資本論体系をきわだたせながら、利子生み資本と信用制度のうちに時間のフェティシズムを見さだめる」ことです。本論についてコメントするには自分は力不足ですので、興味深かったことを二点挙げたいと思います。
一つ目は、マルクスと環境問題についてです。熊野さんは、「資本制と自然とのあいだに、マルクスは最終的には両立不可能性を見てとっていた可能性」があると述べ、特に「自然そのものの内部に自然的に存在しない物質をつくり出す産業が存在し、不可視の未来へ負債のみを送りとどけるのを止めようとしない」ことを批判しています。これは前段の文章から3.11のフクシマの事故の後でも、稼働し続けている原子力発電を指しています。「わが亡きあとに洪水はきたれ!」はマルクスの喩えた景気循環の問題だけではなく、地球温暖化といった環境問題にも当てはまるということではないでしょうか。今や洪水はこの日本において比喩ではなくなっています。
二つ目は、交換と贈与に関してです。資本論には資本制に代わる生の形式をどのように構想するのかは描かれていません。資本論は「経済学批判」という副題が示すとおり、そのことを目指してはいません。熊野さんはマルクスが最晩年に書いた「ゴータ綱領批判」に注目しています。「各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて!」という標語が出てきますが、これを掲げるための条件として、熊野さんは言います。「権利という発想そのものを乗り越えられなければなりません。なぜでしょうか。権利とは必ず排除を含む、力に対抗する力にほかならないからです。」「このより高次の局面では権利ではなく、必要もしくは欠落が原則となります。」最早ここでは原理となるのは交換ではなく、贈与が前提となるというのです。「私たちの生そのものが贈与に支えられて可能となっている以上、贈与の事実そのものについては、その存在を疑う余地がありません。贈与の原理はたほうまたその困難のゆえに、現在の思考の課題となっているところです。」
物質的な大量生産、大量消費を続けていくことは不可能であることがわかっている今、新たな仕組みを模索するにあたって、この言葉は重いと思いました。 -
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フランスの哲学者エマニュエル・レヴィナスの哲学を存在論の視点から描き出した入門書。フッサールやハイデガーになじみがないとやや難解な部分もあるが、全体としては読みやすい作りになっている。
詳細に立ち入ることはやめておこう。
ここに書き留めておくべきことはひとつ、レヴィナスは極めて繊細な感受性をもった哲学者だった、ということだ。
リトアニアに生まれたユダヤ系のレヴィナスはフランスに留学した後、第二次世界大戦に巻き込まれ、捕虜として収容所に入れられる。本書に「奇妙な戦争」とあるように、しかしその収容所生活は穏やかだったようだ。「夜と霧」を著したヴィクトール・フランクルの過酷な収容所体験に比べると非常に恵まれた境遇だったようだ。けれども収容所から解放され、戦火に巻き込まれて何もかもなくなった故郷を見た後、レヴィナスの「存在」や「私」、「他者」の思考が展開していく。
レヴィナスの繊細な感受性はそれを受けてこう記す。
“たったいま死んだものによって残される空所が、志願者の呟きによって充たされる。存在の否定がのこした空虚を、あるが埋めてしまうのだ”
哲学書を読む醍醐味は、こうした繊細な感性に捉えられた事象とそれを解きほぐしていく力強い思考をたどることにあると思っている。哲学者が語るのは真理ではない。彼ら彼女らが語るのは自らの感受性なのだ。その意味で言えば、哲学は芸術でありうる。 -
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20世紀のユダヤ人哲学者レヴィナスの入門的解説書。
倫理学者の熊野純彦氏の著書で、初版は1999年である。
カントとハイデガーの訳をきっかけに、熊野氏の著書に興味を持ったが、彼自身が
「レヴィナスの仕事は自分の中で浮いていて、いつまでもレヴィナス屋さん扱いは困る」
と言っていたことが面白く感じ、本著を手に取った。
レヴィナスについての前知識は、ハイデガーに師事したがその後批判に転じた、と言うことだけだった。
非常に繊細で、細い線の上をたどるような議論の連続で難解であったが、さすが論点は分かりやすく解説されていた。
壮大な世界観は古代や近代の先人たちが行っているので、現代に近づくにつれて議論が詳細に分かれるのは必然なのだと思う。
また、フッサール(ユダヤ人)→ハイデガー(ドイツ人)→レヴィナス(ユダヤ人)という師弟関係が、20世紀前半のドイツを背景に連鎖しているのは劇的であると感じた。
人間周囲のものの捉え方として、
ハイデガーが、人間視点で人間の「ために」ある道具という世界観で見ているのに対し、
レヴィナスは、飢え渇望する人間が世界を「享受」すると捉える。
ハイデガーをナチスドイツに結びつけるのは後付けが過ぎるように感じることもあるが、このように対比すると、レヴィナスの「享受」と言うありの方が世界に馴染んでいるように感じられ、分かりやすいと感じた。
中盤以降繰り返される「エロス」「愛撫」の議論は、どうしても馴染みづらいところがあった一方、
レヴィナスと同様かそれ以上に繊細と思われる熊野氏の世界観を堪能することもできた。
身体的、特に顔についての老いやその後にある死についても、執拗に論じられ、何故そこまでという気もした。
「いま現前しているということは、《中略》すでに現前していない時の痕跡である」(p197)というレヴィナスの文章は美しかったので、顔の皺はともかく、人間として過去の蓄積としての現在の自分、と考えればもっとポジティブに捉えられたのでは?と感じた。
まだレヴィナスの思想の入口しか捉えられていないと思うので、他の著書も読んでみたくなった。
また、本著の導入部のとして書かれていた熊野氏の幼少期のエピソードも興味深く、氏の著者もさらに読みたいと思う。
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ある程度哲学史一般に触れたことのある人向けの解説書というレベル。
かく言う私も、古代から中世は勉強不足+神が前提にあったり是非を問うたりとで腹落ちがどうしてもできず半端な理解にとどまってしまった。不甲斐なし。
本書の魅力は、著者もまえがきに述べているように哲学者の原著テキストを積極的に掲載して説明を進めているところ。原著なのでそのまま理解しようとすると難解ではあるが、その直後に解説を加えてくれるし何より哲学者の息遣いが感じられて思考の懐が深まった感覚。
とはいえ、ここの哲学者の主張と連関は掴みきれず。。『哲学史入門』シリーズの古代-中世の部分再読と、ネオ高等遊民の入門書必読だな。精進いたします。 -
Posted by ブクログ
読書会で取り扱い。他者への従属的関係であるエコノミーの外部で、「〈誰でもない者〉が〈何でもないもの〉を〈誰でもない他者〉に与える」という贈与の形式を満たす至高者のコミュニケーション。そこでは「振る舞い」や「精神状態」といった「主観性」が伝達される。しかし一方で、そうした贈与は「幸福の涙」という現象で説明される奇跡的なものであり、決して企図された行為によっては実現されえない。一方でそうした幸運の到来には、我々は世界や他者を必要とし、聖/俗・可能なもの/不可能なものといった区別は必ずしもなされない。聖なるものは、世界との親密性を取り戻した状態だが、そこでは明晰さが徹底的に突き詰められてもいるのだ。こうした矛盾を孕みながら、絶えず表現へと向かっていくバタイユの魅力が存分に伝わる良書だったと思う。バタイユとレヴィナスの対比が個人的には分かりやすかった。
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ニーチェの『道徳の系譜』を読み解くとともに、彼の道徳批判がもつ超越論的な意義を解き明かそうとする試みがおこなわれています。
ニーチェの道徳批判といえば、われわれの道徳的な心性の背後にルサンチマンが控えていることを指摘したものとして広く知られています。しかし著者は、ニーチェの道徳批判を、いわゆるモラリストたちのそれから区別しなければならないと主張します。モラリストたちは、表面上は道徳的にふるまっている人びとの心の奥底に、非道徳的な動機が存在していることを鋭く見抜きました。しかしそうした批判は、いまだ道徳そのものに対する問いなおしではありません。
著者は、「ニーチェがカントの批判哲学の超越論的な問題設定を継承したこと」を承認するという立場から、彼の道徳批判を理解しようとします。ニーチェの思想における超越論的な立場からの考察は、「系譜学」という歴史的な方法として具体化されましたが、それは「発生論の誤謬」を犯すものであってはなりません。このアポリアを切り抜けるために著者は、『道徳の系譜』の議論を読み解き、ルサンチマンにもとづく自己欺瞞に対するたえまない自己検閲をおこなうことで、道徳的な意識が成立したことを明らかにしています。
一方で、こうしたニーチェの超越論的な系譜学の立場にもとづく議論は、道徳批判をおこなうための価値基準をみずからのうちにもつことになります。このような問題に対して、ニーチェは、あたらしい価値をみずから創造する「超人」の思想を提出することでこたえようとしたのだと著者は論じています。
「あとがき」で著者は、「ニーチェの方法論的核心にはカント的な超越論哲学の伝統があるはずだ」という確信のもとで本書を執筆したと述べています。ニーチェの思想の解釈としてたいへん意欲的な試みだといってよいと思います。