熊野純彦のレビュー一覧
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ネタバレ[ 内容 ]
はたして「神は死んだ」のか。
言葉はどこまで「経験」を語りうるか―デカルト以降の西洋哲学は、思考の可能性と限界とをみつめながら、自然科学の発展や世界史的状況と交錯しつつ展開してゆく。
前著『西洋哲学史古代から中世へ』につづき、哲学者が残した原テクストから思考の流れをときほぐしてゆく、新鮮な哲学史入門。
[ 目次 ]
自己の根底へ―無限な神の観念は、有限な「私」を超えている デカルト
近代形而上学―存在するすべてのものは、神のうちに存在する スアレス、マールブランシュ、スピノザ
経験論の形成―経験にこそ、いっさいの知の基礎がある ロック
モナド論の夢―すべての述語は、主語のうちにすでにふくまれている ライプニッツ
知識への反逆―存在するとは知覚されていることである バークリー
経験論の臨界―人間とはたんなる知覚の束であるにすぎない ヒューム
言語論の展開―原初、ことばは詩であり音楽であった コンディヤック、ルソー、ヘルダー
理性の深淵へ―ひとはその思考を拒むことも耐えることもできない カント
自我のゆくえ―私はただ私に対して存在し、しかも私に対して必然的に存在する マイモン、フィヒテ、シェリング
同一性と差異―生命とは結合と非結合との結合である ヘーゲル
批判知の起源―かれらは、それを知らないが、それをおこなっている ヘーゲル左派、マルクス、ニーチェ
理念的な次元―事物は存在し、できごとは生起して、命題は妥当する ロッツェ、新カント学派、フレーゲ
生命論の成立―生は夢と行動のあいだにある ベルクソン
現象の地平へ―世界を還元することで獲得されるものは、世界それ自体である フッサール
語りえぬもの―その書は、他のいっさいの書物を焼きつくすことだろう ハイデガー、ウィトゲンシュタイン、レヴィナス
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☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
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ネタバレ[ 内容 ]
明治初年にフィロソフィーという考え方が移入されて以降、日本哲学にはいくつものドラマが生まれた。
例えば漱石や鴎外のように、文学と混淆していた黎明期、西田幾多郎が『善の研究』で日本中の青年を魅了し、田邊元や和辻哲郎が西洋の哲学者と切り結びつつ独自に思想を花ひらかせた頃、西田とはまったく異なる文体で大森荘蔵や廣松渉が哲学を語り始めた戦後…。
本書によってはじめて、近代日本哲学の沃野が一望される。
[ 目次 ]
第1部 近代日本哲学の展望―「京都学派」を中心にして(前史―西田幾多郎まで;学派―下村寅太郎まで;転回―マルクスの衝撃;終焉―田中美知太郎へ)
第2部 近代日本哲学の名著―五つの問題群を中心にして(ことばへの視線;身体性と共同性;具体性の思考へ;社会性の構造へ;哲学史への視点)
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[ 内容 ]
フッサールとハイデガーに学びながらも、ユダヤの伝統を継承し、独特な他者論を展開した哲学者エマニュエル・レヴィナス。
自己の収容所体験を通して、ハイデガーのいう「寛大で措しみない存在」などは、こうしたおそるべき現実の前では無化されてしまう、と批判した。
人間は本当はどれだけわずかなものによって生きていけるのか、死や苦しみにまつわる切なさ、やりきれなさへの感受性が、じつは世界と生を結びつけているのではないか、といった現代における精神的課題を、レヴィナスに寄り添いながら考えていく、初の入門書。
[ 目次 ]
個人的な経験から―ばくぜんと感じた悲しみ
第1部 原型じぶん自身を振りほどくことができない―『存在することから存在するものへ』を中心に(思考の背景―ブランショ・ベルクソン・フッサール・ハイデガー;存在と不眠―私が起きているのではなく夜じしんが目覚めている;主体と倦怠―存在することに耐えがたく疲れてしまう)
第2部 展開「他者」を迎え入れることはできるのか―第一の主著『全体性と無限』をよむ(享受と身体―ひとは苦痛において存在へと追い詰められる;他者の到来―他者は私にとって「無限」である;世界と他者―他者との関係それ自身が「倫理」である)
第3部 転回:他者にたいして無関心であることができない―第二の主著『存在するとはべつのしかたで』ヘ(問題の転回―自己とは「私」の同一性の破損である;他者の痕跡― 気づいたときにはすでに私は他者に呼びかけられている)
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『西洋哲学史』(熊野純彦、2006年、岩波新書)
本書は、自然哲学の祖とされるタレスの時代の哲学者から、トマス・アクィナスからデカルトの時代の神学論争までをその範囲とし、15章にわたり各章20ページ弱でそれぞれ解説している。
古代から中世までとは言え、新書ですべての範囲を理解できるかといわれたら、それは難解なのではないか。まして、たとえばソクラテスの思想を本書一冊でカバーできるはずがない。
しかし、本書は西洋哲学の歴史を辿ることが目的。古代の哲学者がどのように人生、真理、世界、神について考え、発展させてきたのかという思想の流れを追うには良書と言えるのではないか。
(2010年5月22日 大学院生) -
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新書であるため、持ち運びが可能という点で気に入った。
有名哲学者達の思想をざっと知る分にはいいのではないか。
アウグスティヌスに関する11章の3つの部分が非常に興味深かった。
P167L6〜L10
「友人や恋人、一般に愛する者の存在には、「関係」という一語には尽きないなにかがあるのではないだろうか。愛する者は「もうひとりの」「他の」私というよりも、私の存在の一部である。私の存在は、愛する者と切りはなすことができない。だれかを愛するとき私は、じぶんの存在を、むしろ、自身の外部に有している。すくなくともじぶんが存在することの意味を、自己の外部にもっているように思われる。」
P169L9〜L14
「アウグスティヌスはまだ愛することを知らなかったけれども、「愛することを愛して、愛の対象をもとめていた」。「愛し、愛されることが、私には甘美であり、愛する者の身体を享受することは、なおさらに、甘美であった」のである。アウグスティヌスはやがてひとりの女性と同棲し、十八歳のときに一児の父となる。「情欲でむすばれた場合、子は親の意に反して生まれるのではあるけれども、生まれた以上は愛さずにはいられない」。」
P170L4〜L5
「肉欲に囚われていたアウグスティヌスはべつの女性とも関係をもち、「痛みはやわらいだようでもあったが、よりいっそう絶望的なものともなった」。」
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p.53
「いま現に「私がそれであるだろうものである」(je suis celui que je serai)」のは「それではないという仕方において」(sur le mode de ne l’être pas)のことである。つまり、私はいつでもそれでないものでありうる。「それでないという仕方でじぶん自身の未来であるという意識」(la conscience d’être son propre avenir sur le mode du n’être-pas)こそ、私たちが不安と名づけるものにほかならない。」
→前回の大森荘蔵『流れとよどみ』でも取り上げた「それでない道を選ぶことができたという事実により生じる責任・後悔」という主張がここでは不安概念に適用されている。文筆家かつ哲学者であるサルトルの文章はやはり一級品で、「それでないという仕方でじぶん自身の未来である」という表現が非常に美しい。
p.183
「私は自由である。しかし、自由であるのを止めることにかんしては、自由ではない。(…)人間はときに自由であり、ときに自由ではないことができない。「人間は、全面的につねに自由であるか、あるいは存在していないか、のどちらかである」(…)。対自である「私」の自由は、かくてその存在そのものであり、存在と同義であるような呪縛となる。その意味ではたしかに、私は自由であるべく呪われている。私は存在するかぎり、自由なものとして存在するほかはないからだ。」
→とすると、「それでない道を選ぶことができる」という点で自由が呪いとして存在している限り、不安・後悔・責任も呪いであるということか。また呪いとしての自由が奪われている人々はどうすれば呪われることができるのか?呪いであると同時に祝福でもあると主張することは可能か? -
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【デカルト】
私は考えるコギト 私が存在するスム
スムの不可疑性と神の絶対性→デカルト形而上学
スピノザ「心身の結合と精神自身の原因を探しあてることができず、神へと退却した」と避難(エチカ5部序言)
→ゲーリンクス「機会原因論」スピノザ「並行論」ライプニッツ「予定調和説」
【近代形而上学】
【スアレス】
現実に存在するものは単独的・個体的
共通的本性+否定(=トマス、スコトゥス、後にライプニッツ)
機会とした神の介入
ヴォルフ以降うしなわれるが、バウムガルテンを介してカントへ流れ込むことになる
【マールブランシュ】
デカルト的懐疑→「私たちはいっさいを神のうちに見る」
神 多様性からなる単純性
【スピノザ】
「存在するために、他のなにも必要としない」
実体=神(存在と本質が一致するがゆえに存在する)
【経験論 ロック】
トマス 可能態から現実態の移行というフレームの知性
⇔ロックは可能態をみとめない
エネルゲイアに向かう潜性と傾向のみみとめる
【モナド論 ライプニッツ】
「不可識別者同一の原理」
モナド 複合的なものをつくっている、単一な実体
【バークリー】
【ヒューム】
【言語論 コンディヤック ルソー ヘルダー】
【カント】
【自我 マイモン、フィヒテ、シェリング】
シェリング
「美的直観とはまさしく、客観的となった知的直観である」『超越論的観念論の体系』
【ヘーゲル】
「私たちは、国家を超えていかなければならない」
国家の終焉『初期神学論集』
「生の多数性」
「傷を受けた生は、私に対して運命として対立する」『神学論集』
愛=相互承認
【ヘーゲル左派、マルクス、ニーチェ】
マルクス
商品とは、「感性的に非感性的なもの」
=神秘的な性格
【ロッツェ、新カント学派、フレーゲ】
【ベルクソン】
【フッサール】
【ハイデガ、ウィトゲンシュタイン、レヴィナス】
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マルクスの『資本論』における議論を、著者自身の解釈もまじえながら解説している本です。
単なる『資本論』の概説書ではなく、たとえば価値形態論に差異と反復をめぐる形而上学批判というテーマが伏在していることに注目したり、資本の運動の諸相を時間と空間の再編過程としてとらえるなど、著者自身の関心が積極的に押し出されています。また、労働価値説と生産価格論のあいだに齟齬があることを指摘したベーム=バヴェルクの批判を念頭に置きつつ、平均利潤がどのようにして実現されるのかという問題にある程度立ち入った考察をくわえ、このことが価値から価格への転形問題へとつながっていることを示唆するなど、『資本論』についてすでに学んだことのある読者にとってもおもしろく読める内容になっていると思います。
ただ、とくに時間の編成をめぐる著者の哲学的な考察が、上述の問題に対してどのような新しい視点を提出しているのか、あまり明瞭に理解することができませんでした。大著『マルクスー資本論の思考』(せりか書房)を読んだときにも同様に感じていたのですが、よりやさしく書かれている本書を読んでも、やはりこの点についてすっきりした見通しを得ることができませんでした。