古川日出男ってノンフィクションも書くんだ。
そう思ったのだが、これが初めてということ。
そして、東日本大震災によって変化を余儀なくされた、福島の出身者だというのだ。
日本中を震撼させた大災害ではあったが、いや、大災害だったからこそ、テレビやニュースは刺激的でドラマティックなものを優先的に放送した。
だから私は、関東にも影響があったというのを知ったのは、それから6年後の関東に転勤になったからだ。
当時夫が関東にいて、「俺は無事だよ」と連絡をくれたのを、ずっと「ふざけるな!」と怒っていたのだ。
だって、テレビはずっと東北ばかりを映していたから。
私は仙台にいる長男のことしか心配しなかった。
私のことはさておく。
古川日出男の書く小説は、結構咀嚼力を必要とする、骨太なものだ。
そしてこの、福島縦断記と言える『ゼロエフ』は、あえてなのだろうけれど、行きつ戻りつする彼の思考を丁寧にトレースし、それはかなりの遠回りをしながら収縮していく者だ。
誠実な人なのだろう。
だが、読みにくい。
行間を過剰に読み取って誤解を与えないよう、慎重に、しつこいくらいに念を押しながら書かれる文章を、読むのはとても時間がかかる。
何度も何度も本を読む手を止めて、つまりは何を言いたいのか?と考えてしまう。
福島の中通り(国道4号線)を北上し、浜通り(国道6号線)を南下する。
真夏に、徒歩で。
その後にも、隙間を埋めるようにルートをたどる。
川沿いに、鉄道沿いに。
何を見たのか。聞いたのか。感じたか。
何を見なかったのか。聞くことができなかったか。感じることなく素通りしたのか。
しつこいくらいくどく、書き連ねていく。
思考は行きつ戻りつ。
人が、建物やインフラが、動物や自然が、大勢失われた。
生と死を分けたもの。そのはざまに何があるのか。あったのか。
生と死、東北、から著者は『銀河鉄道の夜』を想起し、死者の無念、死者が生者に伝えたいことに思いを馳せる。
生き残った人たちの悔いの核として残るのは、死者の本意ではないだろうと。
個人としての生と死から、国家が抱えるべき生と死についても。
初めて国の象徴としての朝廷と分離した都(国家)を作ったのは、平清盛ではないかと考える。
国は、我々が責任を問うべき存在だが、国家の中には我々も含まれる。
しかし、平家一族は海の中に沈んで終わるのだ。
東日本大震災で多くの人々が海に流されたように。
さて、東日本大震災というレッテルを貼られてしまうと、それは津波に襲われる映像が反射的に浮かんでしまうが、実は災害はこれだけではなかった。
ダムの決壊や、川の氾濫で沈んだ、海沿いではない地方もあったのだ。
また、絶対に安全だったはずの原発が存在したのが福島だったため、放射能漏れの対象とされ、風評被害を現在も被っている福島と、境界線一本の差で補償対象外とされた宮城県南部。
放射能は、人間が引いた境界線の中に留まるものではない。
が、目に見えないので、今どこに、どのくらいあるのかを実感することができない。
国は、企業は、いつしかそれが風化していくのを願っているのだろう。
著者は、国は死者の味方ではない、と言う。
なぜならば、死者は納税者ではないからだ
だったら、そうではない立場から、誰かが、私たちが、ずっと覚えていて、次の世代に伝え、きちんと死と向かい合わなければだめだ、と。
うしろ(死)を見ないで、まえ(未来)だけを考えてはだめだ、と。
「復興オリンピック」と位置付けられた東京オリンピック。
東京オリンピックというのなら、東京でやればいい。
復興オリンピックというのなら、被災地でやればいい。
と、最初著者は思っていたそうだ。
私もそう思っていた。災害まで飯のタネにするのか!と。
でも、利用されるだけではなく、被災地が国を利用してやってもいいではないか、と考える人にも出会う。
思考も感情も柔軟でありたいと思った。