ダン・ブラウン「ロバート・ラングドン」シリーズの第1作目。どんでん返しの結末だった。
本作を読む前、ロン・ハワードがメガホンを握った「天使と悪魔(2009)」を観ていた。そのため、大まかな流れは把握してはいたものの、登場人物、展開、セリフ、情景、結末に至るまで、映画と原作はまったくの別物だった。そのため、予め書いておくが、映画版を先に視聴した人は、本作を読むときに「別モノやんけ」と嘆息するかもしれない。
上記の通り、本作「天使と悪魔」は、ダン・ブラウンが手掛ける「ロバート・ラングドン」シリーズの第1作目であり、同シリーズは「ダ・ヴィンチ・コード」、「ロスト・シンボル」、「インフェルノ」、「オリジン」と続いている。
ハーバード大学で象徴学などを中心に教鞭を振るロバート・ラングドンを主軸に物語が動いていく。スイスのジュネーブ郊外のフランスとの国境を跨いで設立した欧州原子核研究機構(CERN(以下「セルン」と表記する))にて、とある研究者が殺害されたことに端を発し、象徴学者であるロバート・ラングドンがセルンの局長に呼び出される。
原子核と象徴学。相反すると言うより、無関係とも取れる者同士がセルンで一堂を介する。その理由は、殺害された者に施された火傷の痕だった。
イルミナティ。
そうアンビグラムによって刻まれた犠牲者の胸を見て、ロバート・ラングドンはイルミナティという組織に思いを馳せる。「消滅したはずの組織がなぜ?」
場所は移り、ヴァチカン。カトリックの聖地とされる場所では、新たな教皇を選別するためのコンクラーベが執り行われていた。コンクラーベの二週間前に、教皇が亡くなったためだ。滞りなく進められるはずだったコンクラーベの雲行きが怪しくなる。次期教皇候補だった4人の枢機卿が行方不明になったのだ。さらに、ヴァチカンの公安部隊であるスイス連邦警察の元にはジャックされたカメラの映像と、そこに不気味な振動を続ける謎の物質と容器があった。
事件の鍵を握るのはイルミナティだと確信したロバート・ラングドンは、局長からの指示で、殺害された科学者の娘と共にヴァチカンへ行くことになった。ロバート・ラングドンと警察の元に、イルミナティの末裔と名乗る暗殺者から脅迫電話がかかる。
「4人の枢機卿とヴァチカンを犠牲にし、イルミナティを復活させる」
警察は人質も見つけ、ヴァチカンも助けると豪語したが、科学者の娘が発した言葉で状況は一転する。
「カメラに映っているのは『反物質』。ヴァチカンは文字通り、消滅する」。
この物語の最大の注目ポイントは、ずばり、
「科学と宗教」
である。
真実を「追求」する科学と、真実を「受諾」する宗教。相反する教えは他方で神を否定し、他方では神を崇めた。科学は宗教を『欺瞞だ』と狼藉し、宗教は科学を『傲慢だ』と愚弄した。
それは、今も昔も変わらない。だからこそ人々は争い、金や権力に従い、手も足も汚れきってしまった。この世に蔓延る「陰謀論」は、考えることに疲れ切った者たちが、安易な思考によって生み出したモキュメンタリーのようなもの。汚れてしまった人々への安息の物語だ。「天使と悪魔」は、物語を通して、それを痛烈に批判していると思う。「陰謀論なんてないよ」というものではなく、「傲慢に膨れ上がった陰謀論は人を殺す」というものだ。
「1999年」というワードを聞いて皆が思い浮かべるものは共通している。
「666」と聞いて皆が思い浮かべるものも共通している。
「ピラミッド」「五芒星」「三本足のカラス」「シュメール人」「縄文」「地球平面論」云々。陰謀論は人々にエンターテイメントを与えたと同時に、スケプチシズム(懐疑論者)を大量に擁護した。その結果、熱烈な狂信者たちは勝手に自壊し、文字戻り勝手に暴力的になった。根拠も何もない、論理のかけらもない噂話が人を動かす。衝動の動機になることへの反駁。この作品から、私はそれを強く感じた。
映画では語られなかったセリフに、
「科学は真実を明らかにするから批判されることはないが、宗教は真実を鵜呑みにするのが仕事だ。だから懐疑的に扱われ、人々の信仰心はどんどん薄れていく」とあった。言い得て妙と思った。科学がつまびらかにできることは、人が疑問に感じたものだけ。それに引き換え宗教は奇跡と感じたものはすべて神の力とすることができる。
つまり、宗教は「神の力」ですべてを解決することができるわけだ。科学はそれを許さないし、人々の多くも納得しない。そう、科学とは人が納得するための道具でしかないのだ。
宗教は教えであり、科学は道具。二つが相反するのは仕方がないのだ、と、この物語を読んで思った。
「ロバート・ラングドン」シリーズは全作読みたいと思った。この作品にはロマンがある。都市伝説や陰謀論が好きな人は、もっと懐疑的になってしまうかもしれない。