【感想】
本書『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』は、筆者の加藤陽子氏が私立栄光学園の中高生17人に行った5日間の日本史講義を書籍にした一冊だ。講義といっても単なる時系列の勉強ではなく、日清戦争から太平洋戦争の間の政府・軍部のイデオロギー、国民の感情、列強各国の戦略、満州・朝鮮地域の秩序といった要素を包括的に分析した「研究」である。当時の日本の国家体制と世界の中での立ち位置を総体的に把握し、なぜ日本最高の頭脳たちが「戦争やむなし」という結論に至ったのか――こうした考察を繰り返すことで、あたかも戦争への道を追体験してくかのような内容に仕上がっている。
タイトルにもなっている「日本人が戦争を選んだ」その理由についてだが、戦争遂行への道筋は多岐にわたり、これといった明確な要因を類型化することは難しい。そんな中で私が稚拙ながら感じた理由の一つは、当時の国民が困窮しており、生活を向上させるために軍部の掲げる政策に縋るしかなかったことである。
戦中の国民の大部分は農家であったが、1929年の世界大恐慌を受けて農業収入が半分にまで下落した。その時に「農山漁村の救済」をマニュフェストとして打ち出していたのは軍部だった。義務教育費の国庫負担や農作物価格の維持といった、農家の生計の安定を主眼とした項目が掲げられた。実際にはその後日中・太平洋戦争へと突入したためこの政策は反故にされるのだが、ひっ迫する家計を前にして「軍部に縋るな」というのはどだい無理な話だっただろう。
こうした事実を前にすると、後世の人々が言う「何故戦争なんて始めたんだ」という批難はあくまで現代の価値観によるものでしかない、ということが分かる。同時に、戦争の決定には軍部だけでなく国民の意思も介在していた、ということも分かる。当時は教育水準の低い農民だけでなく、エリートからも戦争を望む声が挙がっていた。満州事変2ヶ月前の東京帝国大学(現東京大学)で行われたアンケートでは、「満蒙のための武力行使は正当か」という問に対して「はい」が88%を占めている。日本最高の知能と知識を持つ人々でも戦争やむなしと考えていたのだ。それは満州が数少ない日本の資源生産地であったこと、日清・日露戦争を勝利で終えたものの、当時の列強各国に睨まれて十分な補償を得られていないといった事情もある。もちろん、日本側にも満州を足掛かりに植民地を拡大したいという独善的な思惑(これも現代の価値観だが)があったのも事実だ。要はそうした諸要因は、あくまで当時の地政学的ファクターや国際関係の力学によって揺れ動く不安定なものであって、現代の常識や感性では測り切れない。
日本人の感覚では、太平洋戦争はあくまで軍部に「巻き込まれた」戦いであり、「わたしたち(国民)は犠牲者であった」という思いも残っている。しかし、かつての人々が残した記録を紐解くことで、戦中の空気感が分かり、戦争は「巻き込まれた」ではなく「選んだ」という要素が強かったことを知れるのだ。
――「みなさんは、30年代の教訓とはなにかと聞かれてすぐに答えられますか。一つには、1937年の日中戦争の頃まで、当時の国民は、あくまで政党政治を通じた国内の社会民主主義的な改革を求めていたということです。二つには、民意が正当に反映されることによって政権交代が可能となるような新しい政治システムの創出を当時の国民もまた強く待望していたということです。
しかし戦前の政治システムの下で、国民の生活を豊かにするはずの社会民主主義的な改革への要求が、既成政党、貴族院、枢密院など多くの壁に阻まれて実現できなかったことは、みなさんもよくご存知のはずです。その結果いかなる事態が起こったのか。社会民主主義的な改革要求は既存の政治システム下では無理だということで、擬似的な改革推進者としての軍部への国民の人気が高まっていったのです」
―――――――――――――――――――――――――――
本書を読んだ感想だが、「歴史ってこんなに面白かったのか」と感嘆しっぱなしだった。中高生相手の講義という形式を取っているおかげでもあるが、説明が明快でかつ読み手にも考えさせるような問題提起がたくさん含まれており、非常に楽しい。また、当時の生きた人々の感覚を掴みながら議論を重ねる、という行為がこんなにも重要であることを知れたのも嬉しかった。
ボリュームはかなり多いが、内容は密であり相当に濃い読書体験ができる。非常におすすめの一冊だ。
―――――――――――――――――――――――――――
【まとめ】
1 戦争遂行のためのイデオロギー
1930年代、当時の日本国民は政府に対して何を所望していたか。1つ目は、1937年の日中戦争の頃まで、当時の国民は、あくまで政党政治を通じた国内の社会民主主義的な改革を求めていたということ。2つ目は、民意が正当に反映されることによって政権交代が可能となるような新しい政治システムの創出を、当時の国民もまた強く待望していたということである。
しかし戦前の政治システムの下で、国民の生活を豊かにするはずの社会民主主義的な改革への要求が、既成政党、貴族院、枢密院など多くの壁に阻まれて実現できなかった。その結果、社会民主主義的な改革要求は既存の政治システム下では無理だとして、擬似的な改革推進者としての軍部への人気が高まっていった。
日本国憲法を考える場合、太平洋戦争における日本側の犠牲者の数の多さ、日本社会が負った傷の深さを考慮に入れることが絶対に必要である。日本国憲法といえば、GHQがつくったものだ、押し付け憲法だとの議論がすぐに出てくるが、そういうことはむしろ本筋ではない。ここで見ておくべき構造は、巨大な数の人が死んだ後には、国家には新たな社会契約、すなわち広い意味での憲法――国家を成り立たせる基本的な秩序や考え方――が必要となるという真理である。
死者がそれほどまでに多い、つまり「総力戦」を戦うためには、新しい社会契約のもとでの国家目標が必要になってくる。なぜなら、成年に達しない青少年を徴兵ではなく志願させるため、教育の分野に国家のリクルート(兵員調達)の仕組みが張りめぐらされるような戦いを国家が遂行するためには、それほどの労苦をしのぶ国民に対して崇高な補償が必要だからだ。国家は、「民主主義の国をつくるため」というように、将来に対する希望や補償をアピールしないことには、国民を動員し続けられない。
一方で、戦争が相手国におよぼす作用はなにか。ルソーはこれについて「戦争は国家と国家の関係において、主権や社会契約に対する攻撃、つまり、敵対する国家の憲法に対する攻撃、というかたちをとる」という答を出している。
アメリカは戦争に勝利することで、最終的には日本の憲法――天皇制を変えた。
2 日清戦争
東アジアを舞台としたロシアの南下を、イギリス帝国全体としての利益にはならないと考えていたイギリスは、日本に対しては、とにかく列国間の対立や紛争に巻き込まれないだけの能力を持つように、すばやく法典編纂を行なってくれ、とのスタンスで臨んだ。事実、大日本帝国憲法は1889(明治22)年に完成する。
一方、社会制度について日本とは全く異なる道を歩む国がいた。それが中国である。中国は華夷秩序(=周辺国との間で朝貢体制を結ぶことで、中国を大家として東アジア諸国中の関係を律する制度)という、列強にとっては大変便利な制度を持った国だった。
1880年代に、ロシア、フランス、日本というような国々が清国の華夷秩序=朝貢体制に挑戦するような紛争を起こしたとき、清国がきちんと一つひとつ対応をとるようになった。また、そうするだけの力をつけてきた。そのため、80年代半ばの時点においては、清国は日本型の発展(法典によって商法や民法といった権利が保証され、列強間の権利を等しく管理できるような独立型国家)の方向性、中国型の発展の方向性、どちらの可能性も十分あった。
当時の日本人は東アジア情勢をどう考えていたか。「脱亜論」を書いた福沢諭吉は、「日本国民の精神は欧化しているが、中国と朝鮮は欧から離れている。中国と朝鮮という列から離れて西欧列強と一緒になるべき」「清国人は古い考え方に囚われている。日本はやむをえず、文明開化のために兵力に訴えるのだ」と述べている。また山県有朋は、中国から朝鮮を引き離し独立させ、日本が朝鮮の中立を補償するべき、という考えを持っていた。
日清戦争が起こったのは、朝鮮が「自主の邦」かそうでないかなどを清国が決める立場にある状態そのものを武力で崩してしまおう、という決断を日本が下したからであった。そして、ここにイギリスが乗っかる。ロシアが南下してくるのを牽制するため、日本に対して「関税自主権や治外法権を改訂するから、日本が清国(とバックに付くロシア)とやりあってくれ」という立場で支持を表明したのだ。
日清戦争後の日本には普通選挙が導入された。これは、戦争に勝ったのに三国干渉で遼東半島を失ってしまったことに対して、国民が「戦争には強くても、外交が弱かったせいだ。政府が弱腰なために、国民が血を流して得たものを勝手に返してしまった。政府がそういう勝手なことをできてしまうのは、国民に選挙権が十分にないからだ」との考えを抱いたからである。
3 日露戦争
日清戦争の勝利で朝鮮国内に日本の圧倒的な優位が確立されたかに見えたのは一瞬で、その後に続いた事態、韓国の近代国家への模索と、日本とロシアが韓国をめぐって均衡している状態だった。
ロシアは満州を横断する中東鉄道の支線の敷設権を中国から獲得し、旅順・大連の25年間の租借権も奪ってしまう。1902年に満州から撤兵すると約束したのにそれもしない。これを重く見たイギリスが日本に同盟を提案し、1902年に日英同盟が調印される。ロシアに対して自制を求める同盟だった。
日露戦争前の交渉では、日本側は韓国における日本の優越権を求めた。その代わり、確かにロシアの満州占領はまずいけれども、満州鉄道の沿線はロシアが勢力圏としてよく、中東鉄道とその南支線などはロシアが「特殊なる利益」を持っていると日本側は認める、との主張を展開した。対してロシア側は、満州にも韓国にも日本の優越権は認めない、ただし、朝鮮海峡をロシアが自由航行する権利を認めるなら、日本の「優越なる権利」を認めてもいい、と突っぱねた。満州の権益をめぐるすれ違いが日露戦争の引き金を引いたのである。
日露戦争も今までの戦争と同じように代理戦争であった。ロシアの援助はドイツ・フランスから、日本の援助は英米から受けたものである。英米は大豆という世界的な輸出品を産する満州をロシアが占領したままであることは気に食わなかったため、「満州地域の門戸開放」というプロパガンダを形成し、戦争を後押しした。
日露戦争の勝利によって、韓国は日本に植民地化されることが規定の路線となり、他の帝国主義国家が平等に満州に入れるようになった。
国内では、戦争のための増税により選挙権者条件が15円→10円に改訂され、選挙権者数が戦前の2倍になる。今まで政治家になれるのは地主などの豊かな農民に限られていたが、商工業者や実業家あがりの政治家が一気に増えていった。政治家の質がガラリと変わったのだ。
日露戦争での日本の戦死者は84,000人、戦傷者は143,000人。これだけの戦死傷者が出たので、日露戦争の前から満州事変にかけて「日本は20億の資材と20万の生霊によって獲得された満州の権益を守れ」という意識が芽生えるようになった。
4 第一次世界大戦
第一次世界大戦後、日本は安全保障上の利益を第一目的として、植民地を獲得した。日本は1914年に南洋諸島(ドイツ領)の島々を占領し、1919年のパリ講和会議で、委任統治して経営しなさい、と南洋諸島を預けられた。同時に中国の青島と膠済鉄道を取り、中国を陸と海から攻められるルートを得た。
しかし、第一次世界大戦によって、帝国主義の時代にはあたりまえだった植民地というものについて批判的な考えが生まれるようになったのも事実である。アメリカ大統領ウィルソンは、連合国の戦争目的をあらためて理想化しなければ世界の人々を幻滅させてしまう、あるいはボリシェビキの理想に負けてしまう、との危機感にとらわれる。その結果が、1918年1月の年頭のアメリカ議会において発表された、戦後世界はこうあるべきだとの理想、いわゆる、ウィルソンの「14カ条」だった。そのなかで最も有名なものが、民族自決主義である。
ただし、民族自決の念頭にあった地域は第一次世界大戦で中立が侵害された東欧諸国のみであり、英仏などが第一次世界大戦前に獲得した植民地などに対しては、原則を適用しようとは考えていなかった。
第一次世界大戦の結果、日本国内においては多くの「国家改造論」が登場して、「とにかく日本は変わらなければ国が亡びる」という危機感を訴える集団がたくさん生まれた。
5 満州事変と日中戦争
満州事変2ヶ月前の東京帝国大学(現東京大学)で行われたアンケートでは、「満蒙のための武力行使は正当か」という問に対して「はい」が88%を占めた。日本最高の知能と知識を持つ人々でも戦争やむなしと考えていたのだ。
満州事変は当時の日本人には戦争ではなく「革命」と捉えられていた。松岡洋右は「満蒙は日本という国家の生命線である」と述べている。満蒙への投資のうち85%が国絡みであったからだ。軍人たちの主眼は、来るべき対ソ戦争に備える基地として満蒙を中国国民政府の支配下から分離させること、そして、対ソ戦争を遂行中に予想されるアメリカの干渉に対抗するため、対米戦争にも持久できるような資源基地として満蒙を獲得する、というところにあった。国際法や条約に守られているはずの日本の権益を、中国がないがしろにしているかどうかは、本当のところあまり関係がなかった。
そんななか国民に火をつけたのが、1929年10月のニューヨーク株式市場の大暴落に端を発した世界恐慌である。農家の年平均所得は、29年に1326円あったものが、31年にはなんと650円へと半分以下に減ってしまっていた。
関東軍は朝鮮(日本の主権下)から中国の主権下である東三省に朝鮮軍を独断越境させた。これは司令部条例に入っていない行動であり、本来は閣議の了解を取らなければならないが、強引に既成事実を作ってしまった。
これを受けて蒋介石は国際連盟に事件の解決を訴え、リットン調査団が派遣された。リットン調査団の報告書では、日本に有利な点と不利な点が書いてあったが、日本の行動が連盟規約違反である、あるいは不戦条約違反である、などとは書いていなかった。ただ、日本軍の軍事行動は、合法的な自衛の措置とは認められないと書かれていた。
また、「満州国」という国家は民族自決の結果生みだされたものではなく、日本の関東軍の力を背景に生みだされた国家であるとも書かれていた。そして、日本は満州地域における「中国的特性」を容認しなければならないと求めていた。簡単にいえば、日本は満州が中国の主権下にあることを認めなさいということである。
吉野作造は、世界の中での日本の位置あるいは日本国民の考え方が、ひたひたと変化していっていることに気づいていた。吉野は『中央公論』の1932年1月号に「民族と階級と戦争」という題名の論文を寄稿している。そこで吉野は、今の日本の状況が不思議だと書いている。自分はかつて日露戦争を見てきた。政党も大新聞も、戦争開始の前には必ず戦争を進めようとする政府への非難をたくさん書いた。しかし、なぜこれが今起こらないのか、それが不思議でならないと。
吉野は、土地も狭く、資源に恵まれない日本が、「土地及び資源の国際的均分」を主張するのは理屈として正しい、とまず述べる。しかし、土地や資源の過不足の調整は、「強力なる国際組織の統制」によってなされるべきだ、「渇しても盗泉の水は飲むな」と子供の頃から日本人は教えられてきたはずではなかったのか、と嘆いている。
何故政党が戦争反対の声を挙げられなかったか。それは1つに、中国に対する日本の侵略や干渉に最も早くから反対していた共産党員や戦争反対勢力が、治安維持法違反ですべて監獄に入れられてしまっていたからである。
連盟脱退の前にも、国内では「連盟脱退を叫んではダメだ」「妥協案を探れ」という声が上がっていた。それをぶち壊したのが陸軍であった。陸軍は、満州国の南部分、中国の熱河省に治安維持の名目で軍隊を進行させた。これは陸軍の独断ではなく、天皇自身が承認を与えた作戦だったが、これが国際連盟規約第16条「連盟が解決に努めているとき、新たな戦争に訴えた国は、すべての連盟国の敵とみなされる」に該当してしまった。国際連盟は満州国を認めていないため、連盟から見れば中国の土地への侵略に見えたからだ。
斎藤首相は慌てて天皇のところにかけこみ承認を取り消してほしいと頼むも、天皇が一度出した許可を撤回したとなれば、天皇の権威が決定的に失われる。また、陸軍などの勢力は天皇に対して公然と反抗し始める恐れがある。そうした可能性から撤回は却下され、やむなく、連盟から勧告を受けた際には自ら脱退する、という方策を選択することとなった。
当時の大衆は陸軍のスローガンに魅せられていた。1930年は国民の半分が農民だったが、その農民が望んでいた政策は普通選挙を通じてもなかなか実現されなかった。加えて29年から始まった世界恐慌の影響を最も過酷に受けたのは農民であった。そんな中、「農山漁村の疲弊の救済は最も重要な政策」と断言してくれる集団が軍部だったのだ。義務教育費の国庫負担、肥料販売の国営、農作物価格の維持、耕作権などの借地権保護を目指すといった項目が掲げられ、それに期待する国民の目線があった。
6 太平洋戦争
開戦当時、アメリカと日本の国力差は国民も自覚していた。ただ、戦力差を痛感しながらも、太平洋戦争は強い英米を相手にしているのだから、弱いものいじめの日中戦争と違って明るい戦争なのだ、という雰囲気もあった。
日本はヨーロッパの戦争にずっと不介入でいればよかったのだが、ドイツ軍の快進撃を前に日本側に欲が出てくる。東南アジアにはヨーロッパの植民地がごろごろしており、植民地の母国がドイツに降伏した以上、日本の東南アジアへの進出はドイツに了解してもらえる。また、ドイツ流の、一国一党のナチス党による全体主義的な国家支配に対する憧れが日本にも生まれてくる。衆議院では相変わらず政友会や民政党などの既成政党が多数を占め、貴族院では生まれた家柄がよいだけの無能な貴族が多数を占めている、これではダメだというロジックである。こうした国内の気運を背景に、日中戦争勃発時の首相であった近衛文麿が新体制運動に着手し、40年7月22日、再び首相の座につく。この2カ月後、ドイツ、イタリアとの三国軍事同盟が締結された。
日本軍が中国への侵攻を開始してから、アメリカは日本に対して航空機とその部品の対日輸出を禁止し、日米通商航海条約の廃棄を通告する。イギリスも中国に借款を行い、中国援助を増やしていく。特に蒋介石はアメリカに対し「共産党勢力が中国に広がるぞ」と脅しをかけ、1億ドルの借款およびアメリカ製の飛行機100機とパイロットを貰っている。
着々と太平洋戦争への道が舗装されていく裏では、米国との交渉による回避策も検討されていたが、41年7月2日の御前会議で南部仏印進駐が決定され、交渉は行き詰まりを見せる。
何故南部仏印進駐に反対意見が出なかったのか。もともと、6月22日に独ソ戦が開戦していたが、この年の4月13日、日本はソ連と中立条約を結んでいた。日独伊ソのいわば四国同盟に近いものができて、これで英米などの資本主義国と対抗できると考えていた。しかしこのプランは独ソ戦の勃発で崩れてしまい、日本もソ連の背後からドイツと一緒になって攻撃する、と方針を転換した。
外務省と参謀本部が北進論を提唱、それに対して日米交渉を模索する陸軍省と海軍が北方戦争論を牽制するように動き、結果「南部仏印に進駐」という案にまとまる。このとき陸軍省と海軍の考えでは、南部仏印進駐をしたからといってアメリカが強い報復措置には出ないだろう、とたかを括っていたが、アメリカはすぐさま石油の全面禁輸に踏み切った。
41年と45年、つまり戦争を始めた年と終わった年の日米飛行機の生産機数の変化を見てみよう。日本の41年当時の生産機数を100とすれば、最初の年、アメリカはせいぜい107ほどにしかならない。差は小さい。しかし、45年7月には、日本を100としたとき、アメリカの力は1509にもなった。この「潜在力」がアメリカを最強足らしめた能力であり、だからこそ日本は「速戦即決の勝利」に賭けた。
国土と植民地と人的物的資源が豊かなソ連、アメリカ、イギリスと異なり、日本もドイツも持久戦をやってられない。水野廣徳は日本を指して、「国家の重要物資の8割を外国に依存している国なのだから、生命は通商関係の維持にあり、日本は戦争をする資格がない」と述べている。
7 敗戦の結果
太平洋戦争が、なぜ日本で受身のかたちで語られることが多いのか。「被害者」という言い方を国民が選択してきたのはどうしてなのか。
その1つは、戦争に動員された人を「奪われた」と感じることが多かったからだ。44年から敗戦までの1年半の間に全体の9割の戦死者を出して、その戦死者は遠い戦場で亡くなっていた。日本という国は、こうして死んでいった兵士の家族に、彼がどこでいつ死んだのか教えることができなかった国だった。日本軍は戦死者の情報を国民に伏せており、国民全体が敗戦を悟らないように、戦死者の情報全体を合計することはできないようになっていた。当時の日本人はラジオで情報を得ていたが、これも正確な情報を流さなかった。
太平洋戦争が「被害」として国民に語られる背景の2つ目には、満州にからむ国民的記憶を挙げる必要がある。
45年8月8日、それまで日本とソ連は中立条約を締結していたが、ドイツが降伏してから3カ月後に対日参戦するとの約束どおりに、日本に参戦、侵攻を開始する。アメリカは8月6日、広島へ原爆を投下していたので、日本の敗戦は時間の問題ではあった。そこにソ連からの侵攻があり、満州に開拓団移民として多数入植していた人々が、ソ連軍の侵攻の矢面に立たされたこともあり、ソ連に対する憎しみの感情は戦後の日本で長く生きていた。
満州と呼ばれた地域には、敗戦時、150万人の民間人がいた。それに加えて50万人の関東軍兵士がいた。侵攻してきたソ連軍によって、ソ連のシベリア地域やモンゴルなどの地域に抑留された日本人は約63万人(1990年発表のロシア側史料による)。約3割が連れ去られたのだ。もちろんソ連の側にも事情はあった。ドイツとの間に続いてきた熾烈な戦争によって、ソ連国内では労働力が不足していた。そこで、鉄道建設や林業などに日本人捕虜を勤労させた。抑留された人々約63万人のうち、苛酷な環境により死亡した人は6万6400人に及ぶ。200万人のうち、ソ連侵攻後に亡くなった人の総数は24万5400人と言われている。
一方で、日本軍の捕虜の扱いはひどかった。あるアメリカの団体が、捕虜となったアメリカ兵の名簿から、捕虜となり死亡したアメリカ兵の割合を地域別に算出した。ドイツ軍の捕虜となったアメリカ兵の死亡率は1.2%にすぎなかったが、日本軍の捕虜となったアメリカ兵の死亡率は37.3%にのぼった。
日本軍の捕虜の扱いのひどさは突出していた。もちろん、捕虜になる文化がなかった日本兵自身の気持ちが、投降してくる敵国軍人を人間と認めない気持ちを生じさせた側面もあっただろう。しかしそれだけではない。自国の軍人さえ大切にしない日本軍の性格が、どうしても、そのまま捕虜への虐待につながっている。
このような日本軍の体質は、国民の生活にも通底していた。戦時中の日本は国民の食糧を最も軽視した国の1つである。敗戦間近の頃の国民の摂取カロリーは、1933年時点の6割に落ちていた。40年段階で農民が41%もいた日本で、なぜこのようなことが起きたのだろうか。日本の農業は労働集約型である。そのような国なのに、農民には徴集猶予がほとんどなかった。工場の熟練労働者などには猶予があったのだが、肥料の使い方や害虫の防ぎ方など農業生産を支えるノウハウを持つ農学校出の人たちをも、国は全部兵隊にしてしまった。すると、技術も知識もない人たちによって農業が担われるので、44、45年と農業生産は急落してしまった。