あらすじ
17人の書き手が自らの「身体」と向き合って記す、生きるためのリレーエッセイ
私の身体はほんとうに私のもの? 私の身体はどんな視線にさらされ、どのように規定され、内面化されているのか。17人の人気小説家・美術作家・コラムニスト・漫画家・発明家が自らの「身体」と向き合い、ときにユーモラスに、ときに激しく、そしてかつてない真摯さで文章をつむぐ。「文學界」人気連載がついに単行本化。
著者は島本理生、村田沙耶香、藤野可織、西加奈子、鈴木涼美、金原ひとみ、千早茜、朝吹真理子、エリイ、能町みね子、李琴峰、山下紘加、鳥飼茜、柴崎友香、宇佐見りん、藤原麻里菜、児玉雨子の17人。
自分と自分の身体の関係を見つめる言葉が、これまで読んだことのない衝撃と共感をもたらす。
【目次】
島本理生「Better late than never」
村田沙耶香「肉体が観た奇跡」
藤野可織「「妊娠」と過ごしてきた」
西加奈子「身体に関する宣言」
鈴木涼美「汚してみたくて仕方なかった」
金原ひとみ「胸を突き刺すピンクのクローン」
千早茜「私は小さくない」
朝吹真理子「てんでばらばら」
エリイ「両乳房を露出したまま過ごす」
能町みね子「敵としての身体」
李琴峰「愛おしき痛み」
山下紘加「肉体の尊厳」
鳥飼茜「ゲームプレーヤー、かく語りき」
柴崎友香「私と私の身体のだいたい五十年」
宇佐見りん「トイレとハムレット」
藤原麻里菜「捨てる部分がない」
児玉雨子「私の三分の一なる軛(くびき)」
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Posted by ブクログ
面白かった…!
身体について言語化することは難しいと思いながら、言語化欲求もあって、そこをストレートに表現してくれている言葉は、ポジティブなのかネガティブなのかは分からないが震動を伝えてくるようで、ちびちび読み進めました。
わかる、わかるよ…となるところもあれば、こんな身体感覚を持つ人もいるんだ〜と知るところもあって、何かしらそれが身体にフィードバックされて、終始不思議。
島本理生「Better late than never」
…直後よりも、むしろ二、三日目から、不安定さを伴った執着心はピークを迎えて、その最中には激しい恋をしているようにも感じていたが、その後、十日間かけて緩やかに下降した。そして最後には大半の恋愛の感情まで消失した。つまりは肉体とはそういう仕組みなのだと私は学んだ。
…私たちは、約束も責任もない他者に気軽に触れることは侵害であるということを、長年知らなかった。
…他人にどう見えるか、庇護を期待できるか、性的に許容できるか。自覚はなくても、私が「若い女」だった頃、目の前の異性に対する判断基準はそれだけだった。私が女でしかなかったとき、私もまた男性を人として見ていなかったのだと、最近になってやっと気づいた。
村田沙耶香「肉体が観た奇跡」
…相手がいない性の記憶は、ほとんど無邪気なものばかりだ。「性」というものに対してどこか暴力的なものを感じている自分と、牧歌的な、懐かしい気持ちに陥る自分と、二人の私がいる感覚後、このころからずっと続いている。
…自慰のなかにはいつも祈りがあった。達する瞬間、愛する人たちが住む世界と私の肉体が接続する。そのことは私を救い、切実な焦がれをあたたかい体温の重なりに変容させた。Aさんの体温は私の命を護り、消えないように繫ぎ止めた。Aさんの体温がなければ私は生きていなかった。
自慰は奇跡だった。信仰だった。儀式だった。そのことは、大人になっても変わらない。私は一生、自慰の中で祈り、大切な肉体の鼓動の先で、そこでしか観ることができない特別な光景を感じ続けるのだろう。自慰という教会で、私は一生、祈りを捧げて生きていく。
鈴木涼美「汚してみたくて仕方なかった」
…自分の身体が粗末に扱われるほど、かつて自分を所有していた者からは自由になる気がしたけれど、かといって男と寝るための自分の身体は、再び所有者不明のようになっていく。
金原ひとみ「胸を突き刺すピンクのクローン」
…私はその、ダメなことはダメ絶対、という彼の性格が気に入っていた。だから私は彼に全てを明け渡そうとは思わない。私は常に私の身体として、彼の身体と交わる。セックスしている時も、異物と交わる喜びを堪能する。あの彼と一緒にいた時、私は彼に全てを明け渡していて、セックスのとき一時的に自分を返してもらっているような気がしていた。それは彼の意思によってのみ与えられる救済の瞬間で、そのうち私はそんなの理不尽だと憤るようになった。…暴力は淘汰されなければならない。でも私はあのレイプによって数年間生き永らえたあの彼との関係の中で、あらゆる不幸と幸福を享受したし、その幸不幸に対して抱くのは、あらゆる人間の営みの中で生まれてくる全ての子供に対して抱く、この生誕にいいも悪いもなく、ただの移りゆく景色でしかない、といった諸行無常感に似たものだった。つまり私はかつて、完膚なきまでに主体性を放棄していたのだろう。あの主体性のなさもまた、当時の時代の産物だったに違いない。
…私がこんなにも彼のクローン・ア・ウィリーが欲しいのは、彼が私と溶け合わないからかもしれない。私たちの身体が、二つの身体としてしか結びつかないからこそ、私は彼の身体を所有したいのかもしれないと不意に思いつく。
李琴峰「愛おしき痛み」
お尻の腫れが二日後には内出血の紫の痕に変わり、どちらも一週間後には綺麗さっぱり消えているであろうことを、私は知っている。それでも今この瞬間、私はこの身体をとても愛おしく思う。
鳥飼茜「ゲームプレーヤー、かく語りき」
…私にとって永く、性的なファンタジーとは、常に「消費」とセットでしかあり得なかった。 消費は気持ちいいのだ。他者の欲望を自分の身体に反映させることは、場合によっては気持ちがいい。性被害の実態を一部見えづらいものとしているのはこのことも無関係でないと感じる。モノとして性的に消費されること。それが身体が主体的に求めるところ、な訳がないが、私たちは意外とそのような欲求を増幅させて生きてないだろうか。
柴崎友香「私と私の身体のだいたい五十年」
…帰り道、私は自分の身体について、五十年生きても「わからない」と言ってもいいんじゃないか、と思った。
藤原麻里菜「捨てる部分がない」
…なぜまだこの世界で女であることに喜びを感じているのだろうか。
身体の記憶や感情は生々しく、良いと思う思い出も、明確に悪い思い出も、そのどちらにも暴力があって、どこかに運動の方向が向かっているわけでもなく、ただ始まって・ただ終わっていく、それはすごく諸行無常の感覚にも近くって、、ととりとめもなく思考は流れ、時間は流れ、身体は変化していく。虫に刺されて掻いて作った傷跡が何週間も残って、噛まれた跡やらなんやらが一週間も経てば消えていくことを心の底から不思議がっていたことなどを、ふと思い出した。
Posted by ブクログ
自分の身体、この女の身体について色々考えたりすることが最近多くてなんかつらくて手に取った。女性たちが自分たちの身体のことや性のことを話すときなぜだか安心する。わたしもそう思っていると、同じように考えている人がいるというのはそういう安心材料になるんだと思う。どの書き手も性被害を受けている人が多くて本当に社会はクソだ…… 碌でもない人ばかりで、そのせいで自分の体を大切にできない女性がいたりするんだと知った。
わたしはもうずっと女しか子どもを産めないことが本当に許せないので、藤野可織さんの妊娠についてのエッセイは本当に本当にめちゃくちゃ凄いな〜と思った。妊娠出産の機能を持つのが女性だけである時点で、この世に人間を産み落とすための“道具”になる瞬間が女には絶対あると思っているから、藤野さんが一回目の妊娠で流産?をしたときに“助かった”と感じたことがあまりに赤裸々で驚き、それと同時にそう思う人もいるんだというこれもまた安心のようなホッとする気持ちになった。
女であること、母親になることを強制させられること、性欲の対象となり加害を受けることが大いにあるようなこの性別をどうしても好きになれないはずなのに、女であることが好きなのは一体何なのか。わからない。でも、わたしは自分が女であることが嬉しいし、女であることがつらく消えたいなと思うその両方を抱えて生きていくしかない。このことが最近ぜんぶしんどいよ。
こういうことを考えていても周りに話せるわけでもなく(心を許している友人がこういう話を好んで?聞いてくれるかは別の問題だと思うので)誰にも話せないなと思ったとき この本を読めてよかった。