國分功一郎のレビュー一覧
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対談をまとめたもののため、二人の中で共通の知識、言葉選びがあるため理解できていない部分がある。
ところどころ日本語ではなく英語の横文字を調べなくてはならず、少しずつ読むもののやはり何度か読まないとつらい。
(言語を扱え人たちが選んだ言葉だと思うので、選び方にも意味があるということなのか)
これまで読んできたお二人の書かれた著書は、まだ読む対象が一般の人に向けたものだったことがよくわかった。
それでも面白く読めた。
能動的の対義語として存在し、消滅した「中動態」についての話、
個人的に体感のあった、LINEスタンプによる言語の変化。
エビデンス主義、責任回避の話などがあった。
勉強が足りないので、まだ挑むには早かったかな…「現代思想入門」と同じで、触れられている哲学者たちの考え方に興味が湧く…どんどん濃いほうに向かってるのでここからが本番かな… -
Posted by ブクログ
國分さんの著書をもっと読んでみたくて手に取った本。そういう動機で読むのに適切だったかどうかは分からないけど笑
限られた相談文から状況を推測していくのが見事で、探偵とか、はたまた占い師ってこんな感じなのかも〜と思った。自分だったらなんと言うだろう?と考えながら読んでみると、バッサリ切り捨てるようなところと掬い上げるところが國分さんと違うところが結構あった。
そんなこんなで、私は読解能力とか想像力がないなあ…と思ってしまっていたけれど、千葉雅也さんの解説がとてもよかった。自分とは違う人間、それでいいんだ。(私はすぐに他人と比べて自分を誤っていると思ってしまう傾向があることに改めて気付かされた)
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原子力に関する哲学講義録。
1950年代に原子力(原爆ではなく)に対する危険性を指摘していた、唯一の哲学者ハイデガー(本書ではハイデッガー)に焦点を当てる。
彼が著した数少ない単行本のなかで、原子力の問題を指摘しているが、その著作の最終的な答えが「考える」。何とまぁシンプルかつ深い。が、本書は哲学講義録だけあって、読み進めていけば、自分も考えさせられる。
「科学は考えない」(ハイデガー)とはまた刺激的(^^;
第四講(終講)では、フクシマ後、明らかに非合理な原発推進が何故行われるかを、哲学の義務として考え、それは太陽の贈与を受けない自立したエネルギーを欲望するナルシズムだ、と説明。
うーん、分からんでもないけれど、現実は、ムラの掟に逆らえないとか、飯のタネとかもっと単純な理由の気がする。まぁ「考えて」いない、ということかな? -
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「原子力時代」とか言葉としてあったけ?と考えたら、日本ではどうかはわからないけど、英語では、"Atomic Age"というのがあったな〜。
「原子力」(核爆弾を除く)が、科学が開く未来の希望であった時代に、ハイデッガーーは、それに否といっていた。ということで、ハイデッガーの「放下」の読解を中心に「原子力時代」における哲学を探究していく。
ここで問題となっているのは、「考えないこと」。
なるほど、アイヒマン問題以降のアーレントも「考えないこと」を大きなテーマにしていて、アーレントとハイデッガーの間にはいろいろな緊張関係があるものの、昔からの師弟関係はあって、課題設定は近いんだな〜というところで妙に感心した。
あと、ハイデッガーは、ナチ時代の反省もあって、「ニーチェ」という著作では、「意志」に批判的で(ニーチェには、「力への意志」という死後に編纂された著作がある)、「意志」が、「考えないこと」につながっていくとする。そして、この「意志」なるものが、西欧哲学の形而上学的思考の中心にあるのではないかと考える。
なるほど、アーレントの遺著「精神の生活」の第2部「意志」のよくわからなかった議論にアクセスする道がちょっとわかったような。 -
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ギュンター・アンダースとハンナ・アレントが、原子力について、どう述べていたか、を始まりとして、ハイデガーに至る。
キーワードは「放下」と「アンキバシエー」。
原子力という、絶対的、悪魔的な力を人間はどうして手放せないのか。
人が求める全能性と絡めながら、そこを突破する思惟的姿勢として、この「放下」なる言葉と、考えのレッスンとしての対話の在り方を突き詰めてゆく。
色々と思うことはあって。
まず、1950年代の日本(だけでなく世界的にあった)、核兵器には反対だけど、原子力の平和利用に掛けられていたという、肯定的な推進力、または推し進めるムードについて。
この本では日本内のことについて、あまり言及されていないのだけど、朝永振一郎の『プロメテウスの火』という本には、1950年代の日本の科学者の苦悩や予感が描かれていることを付け加えておきたい。
「放下」については、仏教用語として取ると「一切の執着を捨てること」であり、ある意味では「知足」に似ているのかなと思う。
原子力を是非とも使いたい、と思う人ばかりではなく、もちろんそんな力があったって使いたいとは思わない、という人も沢山いる。
問題なのは、筆者の言う「考えを放棄する態度」であって、考えてないけどとりあえず使いましょうということではないような気がする。
そうして、私たちに何も考えさせないことが得だと思っている人こそ、全能性に駆られた一握りのナルキッソスなのではないか。
とか偉そうに言っているけど、本を出す、というアクションをしていること、そのものが考えることから一歩踏み出した、凄いことだというのも、分かっているのでした。 -
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「僕はこの事故に大変なショックを受けました。(中略)自分が原発のことを真剣に考えてこなかったことを悔やみ、そして反省しました。」
「僕の率直な気持ちとしては、一方で、原子力発電がコスト高であり経済的に割に合わないということさえわかれば、原発に関する議論はもう答えが出たも同然ではないかという気持ちがあります。原発は割が合わない。原発が持つ潜在的な危険性の話をしなくても、もう利用し続ける意味がないことは明白なのです。これを最初に確認しておきたい。
ただ他方で、そのことを確認した上で、やはりもう一歩議論を進めなければならないのではないかという気持ちもあります。というのも、これだけだと、コストが安く済むならば原子力発電をしていいのかという話にもなりかねないからです。それは違うだろうと僕は思っています。」
「原発は膨大なコストがかかり、核廃棄物という人間の手に負えないものをもたらす。だからこれらだけでも脱原発の理由としてはほとんどよい。こうした理由で脱原発が実現されるならそれは望ましいことです。」
「ショック」「率直な気持ち」。
そういう、感覚論が先にあり、哲学、論理はそれを補強するために使われている。
「論理は、好悪の奴隷でしかない」という言葉を乗り越えるなにかを期待して、最後まで読み進めたが、新しい気づきは得られなかった。
この本に書かれた「原子力発電(技術)」を「火力発電(技術)」「火を使う生活(技術)」「農業技術」等に置き換えても、同種の著作、論述は多分可能ではないかと思う。
人類が新しく得た技術は、メリットもデメリットももたらす。これまで、さまざまな技術を手に入れ、メリットを最大化させ、デメリットを最小化させるよう取り組んできたというのが、人類の歴史の流れだろう。
であったとして、得た技術は、どのようなものでも必ず使う、というのが正しいのか。という問が、この本であるのかもしれない。
もしなんらかの理由で既に手に入れた技術を放棄できたとしよう。この際、問題となるのは、技術のおかげで、人々の暮らしが既に豊かになってしまっており、技術なしで維持してきた生活、人口に戻すために、誰を犠牲にするのか、誰を殺すのか、どういう方法で、昔の生活に戻るのか、という社会的合意を得ることなのではなかろうか。
先進国で既に豊かな生活を享受し、仮に豊かさが損なわれてもなお、真っ先にそのデメリットを自らの生活、生命に受けることない安全な場所からの、呑気な顔の評論に見えてしまう。
私自身は、原子力に関わる事業で生計を立てており、全く中立にこの議論に関わることができる人間ではないのかもしれない。
しかし、技術一般のもたらす得失や、それをこれまでどうやって社会として飲み込んでいったのか、ということを整理し、その上で原子力技術がこれまでの技術とどう違いどう同じなのか、をもう一段深堀してもらいたかった。
あとがきに「本書の内容に関する逡巡が筆者の中から完全に消え去ったわけではない。」と記されている。
正直に言って、「脱原発を目指す」という目的から、問を発している著者のアプローチは、哲学者としてはなんだか、感情的、感覚的、衝動的だと、感覚的に思うが、もう一歩、二歩三歩、踏み込んで考えて、なにか新しいものを示してもらいたいとは思う。
その結論が脱原発なら、それはそれでしっかり考えてみたいと思う。 -
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日本の保育園とイギリスの保育園を比較しながら、日本の保育の問題を対談形式で掘り下げていく本。
保育園の理念とニーズがずれてしまっているという点について警笛を鳴らしている。
子供の人格が形成される大切な時期に、いかに生活環境を整えて接するかが重要であるが、待機児童問題の対策として、基準の緩和、子供一人当たりの面積の縮小、保育士の見る児童の数の増加が解消策になってしまっている。
政治家たちがきちんと保育の理念と現実を理解できていない。イギリスには国で統一された保育へのチェック制度があるが、日本はそれぞれの基準で運営できてしまう。という問題点を明確に指摘する。
自分の体験からも、保育園と一言にいっても、色々な保育園があり、保育士たちが疲れ切ってギスギスしている保育園もあり、ビジネスとして考え割り切っている保育園には非常に危機感を覚えたことがあるので、この本に書かれていることは実感として得られるところがある。
ただ、一方で、なんとか保育園に預けて仕事を継続することを重視する自分もいて、良い保育園に当たったからよかったものの、芯の部分では、保育とは育児とは何が大切なのかということをしっかり考えて対応しなければいけないのだなと感じた。
イギリスの理念は良いと思うが、階級社会の中で富裕層がより良い保育園を選べるという現状があり、色々な総が一つの保育園に通っている日本の状況も悪くはないのではないかと感じた。
本にも書いてあったが単純に日本とイギリスを比較できないので、社会背景も含めて良いところを取り入れるべきだと感じた。 -
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保育園が教育産業であることを英国の保育事業にも詳しい方を招いての座談会。改めて保育園が重要な役割を担っており、それがここ10数年の趨勢であることを痛感する。日本では単なる就労支援の手段!と考えていることにその遅れの原因があるように思われる。したがってこの問題を考えるとき、預ける母親の視点に立った検討が多いが、子どもの立場、視点を考えるという観点が抜けているとの指摘は全く同感。幼児であっても一人の人格として尊敬するという姿勢が大切である。小規模保育所(市町村認可)が2015年からスタートしたことも知らなかった。日本はあらゆることがギリギリで進められ、保育の世界も例外でないことが、ブレイディ氏の言葉から痛感する。戦後まもなくできた基準が今でも残っていることに、日本のこの分野での遅れ、理解のなさによるものであると良く分かった。ブレイディ氏は「自分の考えを伝えることができる」教育プログラムの必要性を主張しており、また引用しているノルウェー幼稚園法の文言は教えられるところが大きい。「子どもは、彼ら自身の権利において主体的国民あるいは代理人とみなされ、表現方法はさまざまであっても、尊敬されるべき存在である。」「大人は、子どもたちが幼稚園での研究に完全に参加できるように、また、民主的社会における活動に参加できるような子どもを育てることができるようにしていかなければならない。」
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おなじみの社会学者・古市憲寿と、若手の左寄り哲学者・國分功一郎の共著、対談集。國分もlifeで知って、とても面白いしっかりした人だなという印象を持っていた。哲学者って名乗るのは結構大変だと思う。哲学の仕事って真理の探究でしょ。思想とは違う、っていうのはイメージで線引きはわからないけど、でも逆にそう名乗っているのが新鮮。
本の内容としては、現状、日本の社会制度や流行りなんかをバシバシと批判する感じ。古市はノルウェーに、國分はフランスに、共に学生時代留学していた経験があるので、そこと日本との違いをいいところ悪いところを上げながらやり合うのは、結構面白かった。相変わらず古市は自由で現代の権化。でもこの本では多少だけど、育った家庭のスタイルとか食事の好み、運動に関してとか、古市個人のことが書かれていて関心が行った。現代の権化、というのは決めつけだけれど(個人的には好きだけど)、それにも因果と言っていいのかわからないけれど、理由はあるのだなと感じた。こういう考え方はちょっと宗教くさいでしょうか。その点國分の考えは、ちょっと自分とは違うところはあるけど、いたって理解しやすく、コンテクストとテクストが素直に結びつく。
古市がいろいろと聞いて、國分がべらべらと考えていることをしゃべる。たぶんこの考え方、古市は納得してないよな、とかいろいろと想像もはかどる。面白かった。國分の消費と不満足あたりの着想はかなり関心がある。「暇と余暇の倫理学」今度読んでみよう。
17.6.20 -
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この本は、副題の<「原子力の平和利用」がなぜ世界に核兵器を拡散させたか>を、計量的手法を用いて明らかにしようというものである。したがって、いわゆる環境の本という枠からは少し外れているのだろうが、「平和的利用」の中には当然「原発」も含まれるわけで、その意味からすれば、目を通してみるのも、あながち無駄なことではないと思う。平和的利用という名のもとに原子力“支援”を行う理由は、自国の経済的事情であったり、軍事的必要性であったり、要は都合の良いへ理屈にすぎないことは、誰もがわかりきっていながら、結果的に核兵器の取得を醸成することにつながっていることがよくわかる。IAEAなどを含めた国際的な諸機構も、これを発見したり阻止したりする機能は極めて脆弱であり、核の軍事利用を志向する国では、そのことも十分承知であるという、どうしようもない多くの実例も掲載されている。400ページに及ぶ大作ではあるが、最期の、人間にとって制御できない原子力というシロモノを、はたして平和的利用などという口当たりの良い表現で使用してよいものかと問い直すべきではなかろうか、という内容が書かれている「解説」だけは必読だ。
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Posted by ブクログ
読みやすいけど、これを出発点に考えを深める可能性がありそうな一冊。ショッピングモール、保育園、など題材は身近。だからなんだ、といいたくなるような個人の感想的な部分もあるけど、それすら裏付け部分に厚みがあるために興味ひかれた。
興味深かったのは、社会的な運動をする際、それ自体を楽しむのか、変革を目的として啓蒙をするのかという二つのタイプについての話。前者は波及力は少ない代わりに永続的、後者は無理が生じて破綻しやすい。。など。
確かに、周りをかえよう!という運動ってどこかしんどい。多分本人も、まわりも。割合の問題と思うけど、自分はこれが楽しい!という割合が高いほど長続きしやすいだろな。