開高健のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
それにしてもなぜアゴネシアという架空の国にプロットを設定しなければならなかったのかがどの解説を読んでも不明だ。「ベトナム戦記」については雑誌の連載であり その文字数や内容も制限せざるを得なかったことはわかる。 しかしそれ以上に エピソードにしても 内情 にしても 心情にしてもその体内でグツグツと煮詰まったものが溢れ出てくることを抑えることは困難だっただろう。その思いのままに綴ったのが本作なのではないだろうか。作者はその架空の設定 こそお蔵入りする理由としているが、 むしろ年代的にベトナム戦争が間近であったからこそ隠しておかなければならなかったことや実在の人物への配慮などがその理由だと想像するに足りる。 確かに「輝ける闇」は文学作品としては脅威のまとまり方をしているしドキュメンタリーとしても超一流だ。 しかし 本作の思うままに筆を殴りつけているような激情とも言える文章に圧倒させられざるを得ない。
-
Posted by ブクログ
嗚呼これはすごい。開高好きを自称していながらなぜこの本に巡り合わなかったのだろうか?おそらくタイトルがあまりにも 直裁すぎて 文学少年を気取っていた自分では手を出しづらい状態だったのかと思う。 後悔はこうして 何十年後にやってきた。輝ける闇の前に 本作を読んでおくべきだった。 いろいろなエッセイを楽しむ前に本作を読んでおくべきだった。物語にせよルポルタージュにせよエッセイにせよ 開高健のすべてが 本作に詰まっている。言い過ぎではない。
ほかの小説やエッセイを読んでいる場合ではない。すぐに読み直さなくては。未読のものは実はまだまだあるぞ。 -
Posted by ブクログ
『池澤夏樹=個人編集 日本文学全集』から初めて手に取った1冊。
現代小説のラインナップに目を通し、「日野啓三」に目が留まる。聞いたことも見たこともない作家だ。「開高健」は知っている。私と同じ大阪生まれだから。だが今回はどうしても日野啓三という作家を知りたくて本書を選んだ。
目次を見て驚いた。日野の作品に「世界という音-ブライアン・イーノ」とあるではないか。ロキシーミュージックのメンバーでアバンギャルドなメイク&衣装でキーボードを弾き、ソロになって数々の環境音楽(聴く者に能動的態度を取らせることなく耳に届け、それでいて聴く者の音楽的意識を高ぶらせる音楽)を今も世に出し続けているあのブライアン・イーノだよ。
日野が開高健と同じ巻に集められたのは、池澤が1巻分を「ベトナム戦争」に対する文学に当てたからであり、両者ともベトナム戦争を題材にした作品を中心に収録されている。だがイーノの名を目にした私にとっては、イーノに興味をもった日野啓三という作家の人物像を徹底的に深掘りしたいという読み方へとベクトルの向きを変えた。
そして「世界という音-ブライアン・イーノ」を読み、それに前後する数編の短編も読み進めた。
たとえば「世界という音-~」は、ヘッドフォンの話からイーノの話題に続き、日野がイーノを好きである理由や、好きな楽曲への思いを書き連ねながらも、途中で唐突に中国孔子門下の隠者のやり取りへと記述を変える。そしてさらに記述を数回変化させ、歩き始めたばかりの自分の息子に初めて海や波を見せたときのエピソードで締める。正直に言うが一読目では著者の意図を測りかねた。だが複数回読み、他の短編を読み、さらに池澤の解説や日野の年譜や付録の月報を読んで、やっと混沌(カオス)と思われ手を差し伸べかねていた日野の意図の辺縁部に触れられたような気がする。
「世界という音-~」はその前後に収録された短編と一体的に『Living Zero』と題されて1987年に出版された書籍に収録されている。実はそれらは独立した短編の体裁を見せながら、年譜に書かれてあるとおり「連作エッセイでもあり長篇小説でもある」のだ。
つまり日野はイーノを語りながら、大は宇宙から小はクォークまで、そして過去は宇宙創成のビッグバンにまで遡る広大無辺な思考を行う作家だった。個々の短編と考えてしまうと、ジェットコースターのように急変する記述について行くのがやっとだが、一巻ものの長編小説と考えれば、1つ1つの異なる色の数珠すべてに1本の糸を通すように読み進められ、すべてが日野という総合監督のスケール感による作劇だと腑に落ちる。
再びイーノの話に戻ると、日野は人類が電波望遠鏡の発明によって遥か遠い宇宙からの輻射をとらえ、それを音に変換することで宇宙では分子・原子エネルギーの突然の変化によって生じる「サウンド」が響く、ざわめきやささやきの空間であることを発見したと書く。その偶然性からなる必然としてのサウンドを、イーノの音楽に繋げる記述は、そんなことを意識してイーノの音楽を聴いてこなかった私に新鮮な驚きを与えた。つまり日野はイーノの音楽を語りながら宇宙の根源を語っているのであり、そういうことを書けるという点でも、日本文学全集に収録されるに値する作家である。 -
Posted by ブクログ
1977年、70日間のブラジル・フィッシングの旅。文章も、写真についたキャプションも、いきのよい魚のように踊る。もとは「月刊PLAYBOY」連載。読者ウケするツボをこころえた、臨場感あふれるルポルタージュ。
章扉には、いろんな形の多彩なルアー3個4個。その上に章のタイトル。8つの章、順にあげると、神の小さな土地、死はわが職業、八月の光、心は淋しき狩人、河を渡って木立の中へ、水と原生林のはざまで、タイム・マシン、愉しみと日々。それぞれ、コールドウェル、メルル、フォークナー、マッカラーズ、ヘミングウェイ、シュヴァイツァー、ウエルズ、プルーストの作品名。形式は定番だが、しっかり決まるのが開高健のダンディズム。
旅の最後は次のように締めくくられる。「暗くなりかけた木立のなかをゆっくり歩く。土が匂い、葉が匂う、これからさき、前途には、故国があるだけである。知りぬいたものが待っているだけである。」「膨張、展開、奇異、驚愕の、傷もなければ黴もない日々はすでに過ぎ去ってしまった。手錠つきの脱走は終った。羊群声なく牧舎に帰る。」ああ、恐妻の待っている日常へ。別のアマゾネスへ。 -
Posted by ブクログ
開高健、大発見。こんなに面白かったとは…。現在、神奈川近代文学館で行われている企画展「『おまけ』と『ふろく』展 子どもの夢の小宇宙」でグリコのおまけに人生を賭けた男、宮本順三が紹介されていて、そこで開高健の「巨人と玩具」がお菓子のマーケティングを舞台にした小説として触れられていました。これは!と思い探したのが、この新潮文庫でした。もちろん、文豪としてお酒のCMに出たり、週刊誌で若者の人生相談を受け止めたり、アラスカへの釣り旅の写真集とかで大活躍している時代を知っていて、しかも彼は洋酒メーカーのコピーライターであったことも知っていましたが、でも彼の小説、ちゃんと読んだかな?というぐらいの作家でした。「巨人と玩具」の消費社会への眼差し、あるいは「パニック」の官僚制度への距離感、芥川賞受賞作である「裸の王様」の教育の閉塞感…そのどれもがメチャ今っぽいテーマだと思いました。コロナ禍によって小松左京の「復活の日」やカフカの「ペスト」の先見性が注目を集めましたが「パニック」もまさに先駆けるパンデミック文学です。いや、予言性というより人間の本質は変わらないってことなのかもしれません。その普遍性がテーマになっているように思えるのが「流亡記」。でも実は今回の読書、大発見じゃなく再発見なのでした。「裸の王様」、高校時代に読んでいたこと薄っすら思い出しました。あの時、気づけず、今、刺さるってことは、社会や時代に翻弄されないと、感じることの出来ない感情がテーマだからなのかな?この作家がデビュー作で立ち向かったこの巨大なるものはのちに「オーパ!」や「ベトナム戦記」に繋がり「風に訊け」に至るということである日突然メディアの文学スターになった訳じゃなくて、ずっと一貫していたのかもしれません。
-
Posted by ブクログ
釣り、阿片、ワインなど6つの短編それぞれにテーマがあり、それらの持つ魔力を圧倒的な表現力で描いている。
表現や比喩、言葉の豊富さにはまさに圧倒された。それらから描写されるテーマごとの魅力は、『魔力』と呼ぶにふさわしく、読者自身がどうしても手を出してみたくなってしまう。どれも一般人には簡単に手を出せるものではない。だからこそ、渇望を生まれ、魔力を大きくする。
名酒中の名酒ロマネコンティは枯れていた。しかし、その中からも飲むものの奥底にあった記憶を想起させるような魔力は失せていなかった…。その味わいを賛美し、千の言葉で褒め称えるのが当然だと思っていた私には衝撃だった。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ〈裸の王様〉
作者の文壇登場を飾った短編4作の1編。
芥川賞受賞作。
カタカナで記された画材の数々…上流家庭の内情とは裏腹に瀟洒なその家屋の佇まい…それらが作品全体に洒落た雰囲気を醸していました。それが主題の重さを和らげていたと思いました。
主人公の功利主義への反発心が大人社会の歪形を受けた或る幼い少年との出会いからどう進展するのか?
驚くべきは焼け野原から復興日浅くして(12年程経過)これ程“完成した”閉塞感が確立していた事です。それは無数の功利主義の集積による皮肉な成果だったのでしょうか?
それに対して、主人公の絵画の指導を介しての“命の救出”は読前には非常にヒューマニズムに富んだ内容の展開かと思われたのですが読み進むうちに、この社会から受けた鬱屈を晴らす為の復仇の道具立てなのでは?と思われるフシが目立ち始めましたが、又別の方向性も見えました。『泥まみれでも垢だらけでもよいから環境と争えるだけの精神力をもった子供をつくりたいですね、』それは肥大化の一途を辿りつつあった現代機構の圧迫への著者のレジスタンスの立ち上げとも思いました。
総括として主人公は「歪形」からの解放者なのか?「社会順化」への妨害者なのか…サスペンスという言葉の原義に愚直に従うならば読後に果たして、そのどちらかしら?という宙ぶらりんな小さな不安感に襲われました。しかも、その評価はその時々の世相により変転するのではないか?という所に本作の深みを感じました。
戦前、戦中派の人々が漠然とした不安感としてだけしか捉えられなかった社会組織のなかの人間という現象を初めて言語化して文壇に提示したのがこれら4編です。これが世に出た事で著者は“現代作家”としての面目を躍如とさせました。
だが、これは昭和30年代時点での“現代作家”というだけでなく令和の今日でも引き続き「現代」作家であり続けていると思いました。
それは、これらどの寓話も発表当初の「もはや戦後ではない」時代から高度成長期…石油危機以降…ジャパン アズ ナンバーワン…更に21世紀に突入した今でも、これらの読後感は、そのまま、その時代その時代の社会潮流の水面下に投下した浮子の如く世相を推し量る物差しとしての役割も担えるかと思います。
こうした意味で開高健のこの一冊に対しての“現代の小説”という称賛は色褪せないでしょう。
以下に他3作品の感想を順に記します。
〈パニック〉の読後感は場面転換が鮮やかで映画を見た様な印象でした。短編という圧縮されたスタイルがその効果をさらに高めたかと思いました。
イタチの飼育室…ガラス張りの庁舎…晩秋の雑木林…忙中閑の夜の酒場のグラス…その間にも次第に巨大な集団と化してゆく鼠どもの不気味な予兆…このスリリングな展開の中で役所内で繰り広げられる上下左右の人間劇…やがて社会パニックへ…
感覚的な印象が薄らいだ後に更に感じたのは、人々が医療をはじめ様々な文明の恩恵に浴している環境で暮らしている世相と、逆にそれらが脅威に曝されている時とでは読み手の作品構成への着目点に差異が生じるのでは?という事でした。
すなわち前者の場合は作中の人間劇の方が主体となって鼠害の暗い影は後退し、後者の場合はその人間劇が長い暗く重い影で覆われるという具合です。世相、環境の違いで読後感に相違が生じるのではなかろうか?と思いました。
〈巨人と玩具〉は巨大企業とその下の人間群像が作品の柱ですが、ここにもう一つ『たまたまガラス壁のむこうの見物人のなかに』発見されて、たちまち作中のヒロインと化す一人のモデル『京子』の存在が目を引きました。読み始めは『巨人』と『玩具』の二極のイメージだったのが巨大組織とその宣伝課に所属する主人公の『私』らと『京子』の三者並立の構図を印象づけられました。自社商品の販売競争を取り巻く、この三者三様の呻吟が本作品の推進力ですが読後感がやや寂しい印象を受けました。標題と作品冒頭の印象からして結末はもっと、読者の固定観念を覆す様な陽性な読後感が欲しかったのですが、主人公の現実逃避的な印象が残念でした。
しかし本作を読んで驚いたのは、この発表が昭和32年…焼け野原の敗戦から僅か十二支のひと回りです。この前年の経済白書に「もはや戦後ではない」と意欲あふれる言葉が記された、その復興ぶりもさることながらその水面下にこれ程の構造の完成と“成熟”が存在していた事です。
〈流亡記〉は全4編の内の最後に読みました。他3編には我が国内の晴朗な日射し、現代建築の外観や人物の会話などにまだしもの救いがありましたが、ここは正に不毛の異郷に投げ込まれた様な衝撃を受けました。白か黒かの両極しか許されぬ非情さに貫かれ出口のない無間地獄
的な「閉塞」の世界を感じました。閉塞は他編にも感じましたが戦後の「島国」のそれとは異なる茫漠たる大地のそれは本作に圧倒的な迫力を付与しています。
主人公の生まれ故郷の町は『小さくて古』く『地平線上のかすかな土の芽』と喩えうる程、卑小な存在でした。町の外周には緑色の畑の描写が僅かにありますが、それは本作を読み進む中で色彩感覚として霧消しました。結末まで黒い諧謔に満ちた歌詞が連綿と続くカントリー音楽を背景とした黄土色のモノクロ映画を見せられた印象を持ちました。自ら見たのではなく受動的に見せられたと感じました。
舞台は始皇帝統治前後です。改行少なく連綿と続く独白体の文章に残念ながら眠気を催すこともありました…笑。これは他3編には無かった事でした。だが、それが作中の所々でハッと覚醒を強いられたのです。
それは作者の執筆時点での、現代という時代帯の将来を見通した予言めいた真実味に富んだ洞察力、先見性の為です。初出は1959年です。
或る箇所で、対ベトナム戦でその戦略的欠陥を露呈させた(68年以降)米国への風刺か?と思わされたからです。
作中、時は移り秦帝国の統一的統治が始まり治安による安寧の色彩が回復したかと思ったのも束の間、帝国の兵卒らに主人公は町の男達共々、長城構築の為、辺境へ連行されてしまう。その徴集された人員は全地方から膨大でした。
この巨大構築作業は外在する匈奴達をさらに遠く駆逐する為でしたが、彼は次第に帝国の巨大機構に心身を圧迫され、閉塞感もつのり、遂に、こともあろうに敵対する剽悍な匈奴に対し憧憬の心を抱くに至ります。
作中この辺りの描写には70年代中期以降顕在化した流れ作業や分業の欠陥をデフォルメした物か?と思わされ、更に大帝国の微に入る統治機構は今の電脳統治を彷彿とさせます。この古代の徹底した統治の前では現代のデジタル専制も、この古代の叫びに対する新しい谺での
返答にすぎぬのでは?とさえ思えてしまいます。
この独白劇は終幕へ向けて匈奴への憧憬がさらに増し自らも彼らに成りたいとまでに心は傾斜して行きます。彼らは長城の外にいます。彼らの元へ馳せるのは果たして「逃亡」か?新たに開拓地目指す「脱出」か?前者は受動的であり後者は積極的行為です。
著者のあまりの筆力に読後感を「逃げ場無き逃亡」を目指して…などという受動感覚で終息させたいのですが、これですと私にも許されぬ“未来”が待ち受けている気がして落ち着きません。それは私も作者開高健も主人公も『新鮮な上昇力に接し』て『蘇生』しなければ活路が無いからです。
この作品を敢えて「寓話」と呼ぶのであればー私には本作にどうしても不気味な既視感を覚え寓話と呼ぶに憚りが有りますーそこに主人公の心の傾斜の推移を読み取り、それをいかに短調的曲調から長調的かつ積極性に富んだ魂に変調させうるかという知的考察力だけが『蘇生』への「脱出」を助ける唯一の活路への第一歩につながる武器になるだろう…という事、又、そうしなければ救いは無いだろう…という事を結末感想にしたいと思います。
以上により〈流亡記〉は感想というよりは印象を、印象というよりは衝撃を受けた作品となりました。