岡潔のレビュー一覧
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シブい(随筆)
かかった時間 不明
数学者(かなりすごいらしい)岡潔の随筆。新聞に連載されたもの? プラスアルファ?
内容の半分くらいは、非常に前時代的で、頭の固いおじいさんの説教。曰く、日本から情緖が失われている、だとか、女性の顔がキツくなっている、だとか、今の教育は間違っている、だとか。
残りの半分くらいには、数学者(かなりすごいらしい)としての自分を作っているのは何か、数学とはどのような学問か、自分の場合に学問的ひらめきはどのように訪れたか、が綴られており、個人的にはこの部分がめちゃくちゃおもしろい。特にこの人の場合? 他の人も? 数学的インスピレーションが文学や芸術に支えられてい -
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数学者岡潔が毎日新聞紙上で連載し人気を博していたエッセイ集。「私は数学なんかをして人類にどういう利益があるのだと問う人に対しては、スミレはただスミレのように咲けばよいのであって、そのことが春の野にどのような影響があろうとなかろうと、スミレのあずかり知らないことだと答えて来た。」全然次元は違うが勝手に勇気をもらっている。「すべて成熟は早すぎるより遅すぎる方がよい。」糸井さんも同じような趣旨のことを言ってた、じっくりと農業のように対象に取り組め。「緻密さが欠けるのは一切のものが欠けることにほかならない。」神は細部に宿ると同じ意味か?「本だって読むことより読みたいと思うことのほうが大切」合間合間の時
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往来堂書店「D坂文庫 2013夏」からピックアップした一冊。先達の言葉に耳を傾け、背筋をピシッと伸ばしてもらおうと思って手にした。
数学者が書いた本だが、のっけから「人の中心は情緒である」と来る。この情緒を豊かなものにしないことには数学も何もない、という思いから、幼児教育や義務教育などについてひと言もふた言も申している。「何よりいけないことは、欠点を探して否定することをもって批判と呼び、見る自分と見られる自分がまだ一つになっていない子供たちにこの批判をさせることである。」1963年に刊行された本だが、今の時代にもそのまま突き刺さる言葉が耳に痛い。
ところで、なぜ数学者には数学以外の教育のことを -
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岡潔 「 一葉舟 」 著者の宗教観を論じた本。
「その人は その人の心である」
*大脳前頭葉という口から 心の糧を取り入れる
*大脳前頭葉で エキス化して 心の中に貯える
*心の糧が 心になっていく→その人の過去が増えていく
エキス化とは
*知は存在化(印象化)される=浮いたものはとれる
*情は本質化される=例えば 顔からおしろいがとれる
*感覚は浄化される=自他弁別本能がなくなる
*意志は霊化される=盲目的な部分がなくなる
無差別智とは
*人の知情意、感覚に働く力〜この力が働いていることを その人自身 意識しない
*無差別智は 真我に働く→小我は それを妨げる
*無差別智の道は 捨〜 -
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以下全て、この本よりの抜粋。
●近頃は集団として考え、また行動するようしつけているらしい。だが、人の基本的なアビリティーである、「他人の感情がわかる」ということ、物を判断する、ということ。これは個人が持っているアビリティーであって、決して集団に与えられたアビリティーではない。
●集団について教え、集団的に行動する習慣をつけさせれば、数人寄ってディスカッションしないと、物を考えられなくなる。しかしそれでは少なくとも深いことは何一つわからないのだ。
●集団的に怒りの気持ちを持って行動するのは疑問だ。人というものが怒っているときに正常な判断を下せるかどうか、だれにでもわかるはずだ。
●集団を -
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表題作の春宵十話には、数学者・岡潔の人生が語られている。そこには一般的なイメージでしか数学を知らない私には驚くようなことがたくさん書いてあった。
なによりもまず、人の中心には情緒がある、数学を成立させているのもこの情緒である、というのが岡さんの主張である。「芸術の目標は美の中における調和、数学の目標は真の中における調和」といった表現もあった。私個人の言い方になってしまうが、数学というのが人間の生の営みからすればごく限定された自意識の中でやるものと思っていたけれど、この本を読むと、それは人間の知られざる領域までを駆使した肉体的・総合的な営みであり、どこか自然の中に投げ出されているようですらあっ -
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数学者、岡潔氏のエッセイ。
情緒の大切さ、教育の大切さが話の中心となっている。
その気持ちの裏側には、「近ごろのこのくにのありさまがひどく心配になって、とうてい話しかけずにはいられなくなったから」という危機感があった。とくに戦後教育により加速度的に「動物性」が入り込み、人々の情緒が失われているという。
『数学と芸術』において筆者は、「両者はふつう考えられている以上によく似ている」といい、それは、両者が求めているものは「調和」であり、数学においては「真の中における調和」であって、芸術においては「美の中における調和」であるからだ。
「調和」を感じるためには情緒を働かせなければできない。ゆえに情緒