単行本は確か見出しが岩波新書ふうに配置されていた。
単行本の真っ赤=火事のイメージ、帯の言葉溢れ出る感じ、に比べると、文庫の表紙はすっきりしすぎているかな。
でも、背表紙の水色+表紙のピンクにちょこなんといる鼠を見て「カワイイー!」とジャケ買いしたほんわか女子が、読後ガツンとやられている光景を想像し
...続きを読むたりして。実際にその頭を「漫画マウス」にやられてしまえばなおよいが……いや、ないか。
読み始めて当初連想したのは三島「豊饒の海」の輪廻転生、中上「百年の愉楽」の反復。
中盤で、違うな、転生でも反復でもなく、鼠の群れのように同時存在する私の語りなのだな、と気づく構成になる。
また特異な視点から歴史の語り直しをするだけでも価値があるのに、さらに東京の地霊が日本の自画像だと浮き彫りになっていく小説でもあるのだ。
無責任の体系そのもの、中心は空っぽ、「なるようにしかならぬ」とは「勢いで成っていく」ことだ、といった批評は大東亜戦争に引き付けてずっと論じられてきたが、
それが戦後にもそのまま続き、高度成長、バブル崩壊を経て311へ。
そう、ひねりにひねった311後文学なのだ。
それにしてもこの地霊、なんとなんと奥泉的な人物?なのだろうか。
饒舌で軽薄で激しやすく冷めやすく責任感なし。ユーモラスでアイロニカル。
蛹の私を孵化させる火事は野次馬根性的に好き。
地霊にとってみれば諸行無常など当然なのだ。
彼の行動原理は唯一、愛着のある東京にいたいということで、それ以外はどうでもいい。無責任一代記。
この私が拡散と凝集を繰り返す。
前半は業が深いゆえの悲劇的な死を迎えるのに対し、
後半、日本が東京化し日本人が鼠化することで視点物の特徴は薄れていく。
このあたり、やはり「豊饒の海」の尻すぼみと似ている。
思い返せば奥泉はいつも暴力を描いてきた。
理不尽に振るわれる暴力と、暴力の内面化。システムとしての暴力。
あっけらかんと陰惨の同居。
その代表として最たる例が、最終章の「凄まじい光景」。
言葉を失ってしまったよ。