奥泉光のレビュー一覧
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ネタバレ単行本の分厚さと素敵な装丁から既に漂う、物語の重厚感に惹かれ手に取ったものの、予想を遥かに上回るその多層性と荘厳さに面食らったのが第一印象。なにより一文が長いこと長いこと。直前までアガサ・クリスティーを読んでいたので慣れるまでちょっと時間がかかったけど、慣れてしまえばリズム感も良く噛みごたえ抜群な文体。古めかしい言い回しは時代を意識してなのか、作家さんの特徴なのかは分からないけど(まあ多分時代設定の一環)、物語の重厚感と登場人物たちの立体感を表現するのに抜群な効果。寿子の情死事件、政治家の小賢しい謀計、それにのせられる若き陸軍士官たちに愚かな民衆、日本をうっすらと覆う太平洋戦争直前の狂おしいほどの不穏な熱気と、その膜に気付かず粛々と生きる人々との対比、あらゆる層が折り重なって、ミステリーでありながら全く骨太な歴史小説でもある、その存在感たるや。
徹底した客観描写が印象的。語り手の冷徹な視線は、読みながら歴史の勉強をしているような錯覚さえ起こさせるが、だからこそ稀に表れる心理描写が重く痛切で、否応なく物語に巻き込まれる(久慈中尉と黒河の感情は特に痛かった、、、)。加えて、絶妙な塩梅で事実にフィクションを交える手腕は見事。笹宮伯爵なんて、彼の矮小さ人間らしさも踏まえて存在しなかったのが不思議なくらいの立体感。
そしてなによりヒロインが魅力的。重ねて強調される容姿の美しさはさることながら、物語の終盤、なにより残酷な復讐をこの女なら平気な顔でやり遂げるであろうと思わせる人物像を、徹底して創り上げる緻密さと、それほどの悪女であるのに嫌悪感を抱かせない、寧ろ女性でありながらこの時代によくぞこれほどのマイペースを貫けるなと感心させる、その厚顔さが頼もしい。始終シリアスで重々しいのに、惟佐子が食い散らかした男どもがそうとは知らずに一堂に会する場面は本当にめっちゃ面白かった。だからこそ、もう一人のヒロインと言って差し支えないであろう千代子の平凡な愛くるしさと、可愛らしい恋愛模様に癒される。このダブルヒロインのコンビがはちゃめちゃ良かった。千代子がいなかったら惟佐子はただ美しいだけのロボットみたいに冷たい女だもんな。
物語の核でもある、二・二六事件の動機は正直荒唐無稽すぎてどうかなと思ったけど、皇室に対する認識が当時も一枚岩ではなかったのだろうと考えさせられる種にはなった。思えば当たり前だけど、天皇=神であるという狂信的な日本人ばかりではなかったのに、どうしてああいう歴史を辿ってしまったのか、今が平和な時代だと思っている私たちこそ熟慮しなければならない。飛び交う言葉が如何に力を持っていようとも、それが真実とは限らないのだということを、いつでも考え続けなければならないと思う。
「一君万民の理想はおのずと実現する。我々はおのずとなることのために死ななければならない。」という久慈中尉の言葉には芯からの日本人を感じたし、父親そっくりの卑小さに無分別を備えた惟浩の、四面四角で狂信的な士官候補への変貌、教育によるたった半年での人格矯正には恐怖を覚えた。千代子の結婚話で物語は結びを迎えるけれど、その後の日本の歴史を知る身としてはなんとも不穏な雰囲気を拭いきれない。作家の手のひらの上で踊ってる感がすごい。
というか神人の血筋云々は妄念だとして、「アインシュタインは敵に回すべきじゃない」とか、折々垣間見る焼けた大地の幻影とか、明らかに未来予知的な能力を惟佐子は持ってるけど、これは惟佐子のミステリアス設定のためだけの要素だったんだろうか。分からない。レビュー読み漁ろ。この人の現代小説も読みたいな。 -
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1930年代、軍部が不穏な方向へと傾斜していった頃、それでもまだ日常は平穏で、昭和初期の優美で華やかな風俗の中、男女の心中事件から物語は展開していく。
女学生の惟佐子は、友人が心中などするはずがないと、真相を探っていく。
当の惟佐子は器量も良く、囲碁や数学を物するいわゆる天才で、ただ最初は少し変わった清廉な才女との印象だったが、物語が進行していくにつれ、妖艶で、謎多く、簡単には理解できない様相を帯びていく。
それと共に、物語の進行には、惟佐子の幼時の「お相手さん」であった千代子と、蔵原が据えられていく。
とにかく着物や風景の描写など、当時の言葉、単語が選ばれ、これ以上ないほどに精緻に結ばれている感じが秀逸で、類例のない読書体験だった。
特に惟佐子は魅力的で、その人物像の変化、紅茶に「融解度限界まで」の砂糖を所望する印象的な描かれ方から、次第に物語の周縁に置かれ、その謎と魅力に引き込まれるように展開していった末、最終的には登場すらしなくなる様は、もっと惟佐子の描写を読みたい気持ちを希求され、惹き込まれていったように思う。
普通のミステリーものとは違い、真相解明もわかりやすいものではなく、雪の階での惟佐子の目撃と気付きによってすべてが一気に判明してしまう点は特徴的だったが、その後の惟佐子がどのように生きて行くのか、千代子と蔵原の結婚生活がどうなって行くのか、続編が是非読みたいと思いました。 -
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前回の『モダールな事象』は殺人が絡みオドロオドロしい作品であったが、今作はスカッと爽やかにミステリーが展開していく。
廃校が決まったレータンから辛うじてたらちね国際大学に転任するも、最底辺大学には変わりなく、クワコーはやる気なさ、優柔不断さ全開でスタイリッシュ(?)に突き進む。
最底辺と言いながら、文芸部の学生達は各々個性的で優秀であり、クワコーに降り掛かる難題を解決していく。なかなかに楽しい大学生活を謳歌していらっしゃる。
方やクワコーはどんどん生活が苦しくなる一方。しかしながらこれがなかなかにある意味楽しそう。頑張れ、頑張るなクワコー -
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ネタバレ読みながら感じたり、、読後ネットで調べて知ったりした、参照すべき過去作品は、
武田泰淳の「貴族の階段」、松本清張の時刻表ミステリ「点と線」と「神々の乱心」、まあ夏目漱石「こころ」。
野間宏「暗い絵」、谷崎潤一郎「細雪」、三島由紀夫「春の雪」と「奔馬」。
ヴァージニア・ウルフの「三人称複合多元視点文体」。
単純に2・26事件ということでは、宮部みゆき「蒲生邸事件」、恩田陸「ねじの回転」。あとは北村薫に「鵞と之」という作品があるらしい。
「意図的な梯子はずし」という点で、ウンベルト・エーコ「フーコーの振り子」。
北一輝。大江健三郎。
個人的にはちょうど私的押井守映画祭をしているので、「機動警察パトレイバー2theMovie」も。
何よりもまず文体の芸。これぞ奥泉。
一文の中で、誰がどうしたと見た誰がどう思うだろうと誰は感じたが誰はこうだった、と極端な場合は助詞ごとに視点がころころ入れ替わる。
奥泉だからこそそれを格調高さと感じさせるのが可能なのであって、素人がやると悪文甚だしい。
作者は任意に各個人の視点に憑依し、と思いきや別の人物に移り変わる。
この移り気や飄々ぶり、今までは奥泉的人物(アイロニカルでユーモラス)描写だったが、それが文体にまで及ぶとは。
また場面設定としても、夜の落ち着いた部屋で、昼のあの出来事を思い出す、とか、数日前にあの人に話した内容を、そのとき目の前にいた人に話したことを、いまになって思い出している、とかいう、とにかく迂遠。
それが華族の生活様式を描写するためのものなのか、華族らしい落ち着きぶりを浮き立たせるのか、安楽椅子探偵ってそんなものなのか、まあ独特。
事件! 突入! 闘い! はここにはない、思い出すとか、思い出しつつ語るとか、聞きながら想像するとか、核心に迫ったり離れたり、そりゃ上下巻になるわ。
さらにいえばちょくちょく惟佐子の幻視が差し挟まれる。
これこそが奥泉流ファンタジー(「鳥類学者のファンタジア」とか)に行くんだろうと思いきや、……。
そこもまた迂遠さ、文体の工夫、長さ、それ自体が批評性を持っているということなんだろう。
やっぱり凄い。 -
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夏目漱石読んじゃえば?
ちょっと変わったタイトルの本書は漱石の10作品を取り上げてそれらにあった読み方を提案している。
提案というよりも指示に近いか。
文章の書き方も妙に上からっぽいので何故だろうと思っていたら河出書房の「14歳の世渡り術」というシリーズの中の作品だった。
中学生向けね。
とはいえかなり参考になった。
もう一度視点を変えて漱石さんの作品を読んでみようと思ったし、読書一般に関しても今までと違った読み方が有るなあと思えた。
特に著者の言う「小説の本質は物語ではなく文章にあるのだ」は映像でなく文字で記される小説の存在意味を表しているのだろう。
そして「小説は最後まで読まなくても良い」「好きなところだけ読んでも良い」「難しい文字は調べなくても良い」「そんな文字を絵画のように眺めるだけでも良い」
などは「小説は文章」というところから派生する考えならば納得できる。
中学3年間の英語をしっかりと学べば日常の英会話に苦労しないという一部の発言のように(それが本当かどうかは知らないけれど)、こういった中学生向けの指南書は大人にも役立つ。子供新聞が大人にも有効なように。
面白かった。 -
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坦々と江戸時代から現代までの近代史を追いかけ、歴史の分岐点の裏には常に東京そのものである私がいるという偽史もの。偽史好きなこともあり楽しく読めた。
東京の栄枯盛衰に対応して「私」も隆盛したり盛り下がったりするのがなんだか愛おしい。東京ちゃん、と呼び掛けたくなる。
著者の批評的な視線として、「なるようになる」という適当さを日本の近代から現代に見出しているのが興味深い。適当という補助線を引いてみると、我が国ってほんとに適当だよなと感じる。コロナウイルスの対応についても政権与党の対応が場当たり的に流されていること、数年前に本作を書いた筆者の慧眼といったところ。
また東京という都市の象徴にネズミを置いたのも、なるほどというかんじ。狭い土地に密集しアホみたいに狂乱する愚かな人間のメタファーとしてすごくしっくりくる。 -
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共に作家の奥泉光さんといとうせいこうさんのとても刺激的な対談集。
副題に『文学入門』とついているが、これが『入門』なのか?というような高度な(私にとっては)おはなしがつづく。
でも主に奥泉さんがボケて、いとうさんがつっこむ漫談方式のお陰でクスクス笑いながら読まされてしまう。
奥泉さんのお子さんの保育園の学芸会の話題(爆笑)からフロイトの‘ユーモアについて’の話題に持っていくおふたりの手腕に酔ってしまい、自分には絶対読みこなせない書物も読みたくなる(笑)
たぶん百分の一も理解できていないと思うけど、それでも面白かった。
あと、作家であるいとうさんの口から「誤読してもいい」の言葉が聞けたのもホッとした。
脚注に自身も文学を教えている渡部直己さんのちょっと(?)辛口のつっこみ&プチ講義付き。
いとうさんの文庫化にあたってのまえがきより。
‘そもそも聖典(バイブル)とは人を縛るものではなく、解き放つものであり、出会った者の気が大きくなってくれなければ困る。実際、我々の対話を受け入れたあとで読む小説は自由度を増すだろう。’ -
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数年後に再読するであろう自分に伝えたいのは、これは9曲入ったアルバム(ブートレグ含む)を聞くように読め、ということだ。
初出とは順番がシャッフルされている。
結果、フィクション風→ルポタージュ風→フィクション風→……、と多少なりとも意味や作為を読み取れるようになっている。
また読み進めるほどに、
・化石の宇宙飛来説、宇宙樹、虫の声を代弁
・暴力の予感(「変身」の最初の文「気がかりな夢」)
・音楽、変態性欲、崇高への眼差し、変態=人間からの断絶(宇宙へメッセージを放つために、宇宙樹に文字を掘る→肉体に傷をつける、とパラレル)
とモチーフは過去の奥泉作品と通じていく。
さらに小説の構成として、
・(イモナベと私、の対関係、にはならず、)イモナベ→カフカ→畝木→私、と焦点が強く当たる人物は、揺らいでいく。
・小説家「私」VS小説家畝木、か?(謎の人物……畝木が書いた小説の作中人物が飛び出してきて、作者を傷つけ殺した、そこにおいて渡辺柾一は演奏者に過ぎない?)
という勘繰りも。
これも多様な文章で読者の理解を揺すってていく、という奥泉作品の手法だ。
私自身の存在を根底から揺らがせる、ミステリの形式を借りた実存疑惑。
ここにおいてはカフカよりも、メタフィクションを先取りしていたボルヘス。
以上の奥泉的作風が、本作においては幸せなマリアージュをしている。すなわち青春期の回顧あるいは挽歌だ。
往々にして自身をフィクション化する癖のある作者(余談だが大江も)が、自らの青春期を書くときに、大長編大河もの涙ぐしゅぐしゅがっぷり四つ思い入れたっぷり、に書くわけがない。
あくまでも軽やかに、即興的(アドリブ、インプロヴィゼーション)に、断片的(フラグメント)に。
これが結果としてアルバムのようになるのだ。
作者の挽歌的思いは、たったひとこと「あえて笑いたい。それがはなむけだから」に結実する、ここが感動的なところだと個人的に思う。
ヒッピームーブメント、ニューエイジ思想、アングラな舞台芸術、これらはいわば内面変容や肉体変容を信じていた当時の「生真面目な」感覚があったからこそ。
だから、大勢の客の存在を前提としたコンサートではなく、客は少数あるいはゼロでも、パフォーマンスを行うことに意味がある、という感覚が、80年代末まで保ち続けられていた、という事実に、ぐっとくる。
ポストモダンの狂騒と軽薄さに突入する以前の「あれら」への挽歌でもあるのだろう。
笑おう、笑ってやろう。(カフカは「変身」の朗読会で笑いを抑えられなかったとか。)
笑ってやることでしか整理できない青春、という感覚は、著者より若手の私にもあるし、今でもそうなのでは。
補足。筒井康隆。山下洋輔。高野悦子。森田童子。寺山修司。天井桟敷。初期澁澤。などなど連想した。思えば三島は結局1970年で自らケリをつけたのだ。
あの「湿った」「情念的な」時代の文化の感じは、80年代生まれ90年代育ちにとっても、なぜだか懐かしい。
不協和音に安らげる感覚、とも。 -
Posted by ブクログ
「グランドミステリー」は、僕がはじめて読んだ奥泉作品だ。相当前に読んだもので、ストーリー云々はまるで記憶になかったが、時間を迷宮的に超越した、軍艦とベニスと加多瀬と志津子の物語、というふうに記憶していた。
実に何年振りか(何十年ぶり?)かの再読だったが、記憶していた以上に辛辣な日本、日本人への批評的文学だったように思えた。ただしそこは奥泉さんなので、あくまでもエンターテイメント要素が前面に押し出され、むしろそちら方面に傾きすぎて重心が散らばってしまっているところが本作の弱点でもあるように感じた。夕鶴事件の真相、と銘打たれてスタートした物語だが、結局のところその真相などはたいした真相ではなく、手紙の紛失事件もその真相はたいした真相ではなく、川崎整備兵の失踪もまたたいした真相ではなかった。重心の散逸は、もしかしたらわざとなのかもしれないが、奥泉さんの小説を常に蝕んでいる。どた馬、豆だいふく、貧乏神などのエピソードに見られる悪ふざけも気に入らない。
でも、それでもなおかつ魅了されてしまうのが奥泉さんの凄いところだ。なにを置いても絶賛されるべきは圧倒的なその表現力、描写力、文章力だ。ほぼすべての文に感嘆してしまう。連続ドラマの終わり方のような、章の締めくくりの一文も素敵だ。そして毎度の迷宮感。僕が奥泉さんの小説を読むのは、この迷宮感を味わいたいからに他ならない。グランドミステリーは、その名の通り、ミステリーチックな迷宮感を味わうには最適な作品です。
今回文庫版を読んだのですが、ラストシーンが記憶と違っていました。単行本と変えてますか??それともただの記憶違いかな。 -
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奥泉光『東京自叙伝』は東京での事件外観である。
江戸末期から、現代に至るまで、東京で発生する怪しげな事件はすべて私が起こしたあるいは私が関与したのである。
私とは、どこからが私かそれはわからないが、ある時から自分が「私」であると認識するのだ。つまり、ある時からは自分は「私」ではなくなり、別の人物が「私」になる。
ある時は柿崎幸衛門の養子、柿崎幸緒であり、ある時は陸軍参謀になる榊春彦、そしてある時は放火犯の戸部みどりなのである。それぞれの人物はそれぞれ当人としての人生を全うしているが、その一部期間が「わたしなのである。」。しかもその人物が「私」になるきっかけはいつも二つある。一つは大量に発生する鼠が現れること、もう一つは大地震とそれに類する大火災だ。これらをきっかけに、人物を渡り歩き、場合によっては、当人同士が同時に「私」でありながら、対峙するというもう訳が分からない状況が。
もう一つ特徴がある。それは東京に絡むということである。東京にいる場合はよくも悪くも大活躍するが、東京を離れると急に肝が冷え急にやる気が薄れるのである。
私にかかるとあらゆる事件やイベントが私が絡んでいる。そう、すなわち「私」とは実は東京そのものであり、東京で発生する事態にいずれも絡むのは当然なのだ。
東京がもつパワーを、複数の私が共有しながら歴史が形作られていく、そんな荒唐無稽な物語でありながら、奥泉光の筆致力でひとつの物語にまとめられていくのは流石だ。