夏目漱石のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
面白い。
最近自分の中で漱石ブームが再来しているので読み返しているが、『坊っちゃん』は漱石作品の中でも群を抜いてユーモアに溢れている。
中学生の頃に読んで、内容はまったく覚えていなかったが、こういう本があったから漱石を読んでいたのだと思う。
主人公の「坊っちゃん」は、非常に素直、健康、ワンパクな青年であり、そして何より「江戸っ子」である。この健やかな精神をもった主人公がまず読者を惹きつける。読者は彼に、俗的で欺瞞まみれの世界をぶち壊す、ジャンプのヒーローのような活躍を期待しながら眺める。この作品のユーモア的な、俗的な世界を描きながらもどこか快活なところは、ひとえにこの主人公の確たる人格あってこそであり、読んでいて非常に面白く、魅力的な人物である。
主人公はひょんなことから愛媛の数学教師に雇われる。そこで出会ったのは、校長の狸、教頭の赤シャツ、相棒の山嵐、生真面目なうらなりくん、ズル賢い野だ、数多引く手あるマドンナ等々。大部分は「坊っちゃん」によってネーミングされたあだ名であり、文字通りの「愉快な仲間たち」である。
こうしたあだ名は、登場人物の人となりを、ユーモア的、風刺的に、そして的確に表す「代名詞」になってる。本書は江戸っ子の「俺」によって語られる一人称小説ではあるが、「俺」自身も題である「坊っちゃん」という代名詞を、例外なく有していると考えられる。
最後に内容について、一見この小説は古き良き「勧善懲悪」的なテーマをもっており、外部からやってきた主人公や山嵐は手を組んで、裏で権力濫用、悪事を働かす赤シャツや野だを打倒する話である。しかし読み終わってみると、この小説が真の意味で「勧善懲悪」であるとは言い難い。最後に主人公たちが赤シャツたちに下した制裁は、社会的なものでもなく、個人的暴力的な、ただの腹いせである。(もっとも、山嵐はともかくとして、こうした腹いせが「俺」には最も似合う制裁であり、逆説的に成り立っているように見えるところも、面白い)
本書末尾の「解説」を読んでみると、この「勧善懲悪」の不完全さについても指摘されていて、それによると、「坊っちゃん」は漱石の持つ前近代(的価値観)を象徴しており、近代のもつ欺瞞に対抗しつつも、最終的には「前近代の敗北」なのであるという。これには読んでいてなるほどと思わされた。また、中学生の頃はここまで考えるはずもなく、再読の醍醐味を改めて感じた。 -
Posted by ブクログ
【作品に感じた色】
青春はどどめ色…
「下・先生と遺書」を読んでいたら、藤井風の『青春病』の歌詞がなぜか頭に浮かんできた。
その曲では、青春のことを「どどめ色(痣のような色)」と表現しているのだが、先生とKの過ごした学生時代がその色に重なってみえた。
【感想】
『こころ』という作品を知ったのは、高校の夏。
現代文の夏休みの課題で、1冊通しで読む必要があったからだ。
そしてこの本は、陰鬱な作品として、私の心に強烈な印象を残した。だが、印象がどんなに強烈であっても、作品を深く理解できたわけではなかった。
当時の私には、裏切り、三角関係、自殺といった衝撃的な出来事、つまり表面的な部分しか理解できなかったのである。
もちろん、先生とKの弱さだったり、苦しみも理解したつもりではあったが、それは国語のテストに回答するための上部だけの理解であったのだ。逆に、先生やKの行動を受け入れられず、嫌悪さえ抱いていたようにも思う。結局のところ、ちっとも理解していなかったのだ。
今になって思えばそれも仕方がないことで、何の苦労もしたことがなかった当時の私には、人間の複雑な心情を理解することは不可能だったのである。
しかし、大人になって読み返すと、10代の頃の感じ方とは全く違っていて驚いた。
以前は、嫌悪さえ抱いた先生とKの気持ち。
今は体に流れてくるように理解でき、彼らの行動を否定することもできなくなっていたのだ。
年齢を重ねて、それなりに経験を積み、たくさんの人間と接し、身にしみて世の中が複雑であると学ばないと理解できなかったことなので、読み返すことができ本当に良かったと思う。
そして、今になってやっと、夏目漱石の心理描写の素晴らしさがわかったのだ。
これほどまでに人間の二面性、善と悪を見事に描いた作品だったとは・・・
100年以上前の作品なのに、時代が変わっても人間の本質は変わらないという事実を突きつけてくる。
先生やKが感じていた孤独や不安は、現代の私達も抱えている普遍的なものなんだと実感させられる。
恐ろしいほどリアルな内容であったことに気づいた。リアルすぎて、目を逸らしたくなるような人間の「こころ」が見えてくる作品であった。
読んでいて決して晴れやかな気持ちになる作品ではないのだが、数年後にまた読み返して、自分のこころにどんな感情が生まれるか試してみたい。
【心に残った言葉】
「人間を愛し得る人、愛せずにはいられない人、それでいて自分の懐に入ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事のできない人、これが先生であった。」(p.19)
「自由と独立と己れとに充ちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう。」(p.42) -
ネタバレ
漱石の作品とは
猫みたいな例外はありますが三角関係である。その一つの完成された形です。
三四郎、これはごく習作の域ですが、それから、門、ときて本作。
ハムレットのオフェーリアばりのシーンから、
あんなバカ女と一緒にされたら藤尾さんに失礼か、
炸裂する漱石節。なんか学校の先生の説教ぽくも聞こえますが。
これよこれが読めるのですから、未読の方は幸せ者です。
お好みで
-
Posted by ブクログ
中学生以来、およそ十年ぶりの再読。
なぜか強烈に覚えていた「雲」のシーンに再会できて、懐かしく嬉しい気持ちになった。
それ以外に関して言えば、忘れていたところの方が多かったし、当時の最低限の時代背景などもとくに知らなかったので、中学生の自分は、まったくこの作品を理解していなかったのではないかとすら思う。(それでも読み切った記憶はあるので、よく読んでいたものだとも思う)
それでも読んでいたのは、『三四郎』の中に広がる、現代とは異なる当時の独特な世界に惹きつけられたからだと思う。自分は今でも明治や大正、昭和など近代小説が生まれた古めかしい世界が好きだし、そうしたルーツを形成した近代小説の一冊として、『三四郎』は思い出深い。
内容について
主人公の三四郎を、今自分がほとんど同い年になって眺めると、なんともかわいいやつだなと思う。三四郎は熊本のど田舎出身で、かなりゆったりと、おおらかに育った人間だ。だからこそ何も知らない。東京帝大に入れたので勉強はできる。しかも本科である。でもそれ以外は何も知らない。都会も、教養も、人間も、女も、なにも知らない三四郎が、そうしたもの全ての洗礼を受けたり、もみくちゃにされたりする話だ。同級生にいたらいいやつなんだろうと思う。それは与次郎も同じである。三四郎の相棒としては、こいつ以外に考えられない。三四郎が動かない分、動きすぎるほどよく動く。しかしこいつはこいつで面白いやつで、何をしでかすかわからない。しかし頭はいいようである。美禰子も美禰子である。広田先生が途中で論じるように、こいつはなかなかの悪女だとも思うが、ある意味美禰子も、三四郎とどっこいどっこいの「子ども」だったのだ。美禰子という世界が三四郎の世界に奥行きを与える。ウブな三四郎を一層浮き彫りにするのは、美禰子を筆頭とする女性陣である。美禰子は悪女だが、どこかその存在に惹かれてしまう。
何はともあれ、ずっと再読したかった一冊をもう一度読めて、かなり満足。他の漱石のやつも、読み返してみたいやつがあるので、今度読んでみよう、読んでないやつも読んでみようとおもう。 -
Posted by ブクログ
解説を読むと、第3章だけでひとつの作品だったようだ。
この章だけで、作者の言いたいことは完結していると感じられるが、1章、2章が加わることによって、小説然とした作品に昇華されている。
張り巡らされた伏線回収というものではないが、1章での先生との会話での疑問が解けていく心地良さが感じられる。しかし文章自体はたいへん居心地が悪い。
この複雑な感情は、最近読んでいた小説では感じられない新鮮さだった。
今回、この作品は音読した。
現代では使わない言い回しや単語があるのは想定していたが、送りがながかなり独特で、何度も読み直した。
これは時代のものなのか、漱石独自のものなのか、本を読んできていない私には分からない。
黙読よりも、おそらく倍の時間はかかったが、時代の空気を感じられた気がするので、古い作品を読む時は今後も続けよう。 -
Posted by ブクログ
▼角川つばさ文庫版の、「坊ちゃん」。娘(11)に読み聞かせました。原文のママではない。難しい単語は簡易にしてある。それなりに割愛編集もしてある。まあでも大体は元の文調、口調。
▼つばさ文庫の努力の証左なのか、漱石の才なのか、子供はけっこう楽しんだ。寝る前に、10分、15分・・・と。10夜くらいかかったか。最後の20ページくらいは、子供が勝手に読んだ。勝手に読み終え、泣いているから驚いた。聞くと「清が死んじゃった。可哀そう」。成程。
▼「だから清の墓は小日向の養源寺にある。」
末尾の文。完璧です。簡潔、潔さ。ファクト。
でも物凄く詰まっています。
▼結局は、坊ちゃんの清への愛の物語である。あらゆる人々の、「清、的なるもの」への慕情と惜別の涙の物語であろう。強烈に感傷的で、恥ずかしいことです。それを、ギュッと固ゆでにして表現した一文。
末尾がここまで心に刻まれる小説は他に無い。
▼以下、どうでも良さそうなことなのだけれど。
「養源寺」の三文字は、本文中に2回出てくる。一度目は、中盤あたり。坊ちゃんが「山嵐」について語るくだりで、
<父の葬式のときに、養源寺にかかっていた掛け軸に描かれていた韋駄天に似ている>
というような文がある。
さりげなく?父の墓は養源寺にあると分かる。坊ちゃんの、家代々の墓がそこにあるのだろう。
▼そんなことは大抵の読み手は、末尾に至る頃には忘れている。最後まで読んで、
「ああ、途中でたしか養源寺って言ってたもんね」
と、思いつく人がいたらスゴい(そうでもないかも知れませんが)。自分は何度も何度も読んでいるが気が付かなかった。
だから末文の「養源寺」は、唐突と言えば唐突。だが素敵なことに相違はない。
(自分の読み方が雑なだけかも知れませんが)
▼いつだったか、数年前。初めて電子書籍で「坊っちゃん」を読んだ。電子書籍なのでふと「養源寺」で、本文全体を検索してみた。2か所出てきた。それで初めて気が付いた。検索しなければ一生気が付かなかったろう。
(自分の読み方が雑なだけかも知れませんが)
▼だけれども。
「つばさ文庫版」だと、1度目の「養源寺」の下りがざっぱりカットされていた。あらら。読み終えてから調べてみて気が付いた。
だからどうこうではありません。
それに、そういうささやかな?省略やカットのおかげで娘も楽しむことができた。......のかも知れない。それで最後に涙できたのかも知れぬ。とすれば、養源寺が末尾だけになったとて、漱石だってきっと文句は無い。.....無いんぢゃないかなあ。
-
Posted by ブクログ
「文豪」という言葉から連想される人物は誰だろう。様々な作家の名前が浮かぶが、夏目漱石の名前を挙げる人は少なくないと思う。「坊っちゃん」「吾輩は猫である」などを読んだことがある人も多いはずだ。そんな漱石の作品の中で、唯一センター試験で用いられたのが、この『彼岸過迄』である。◆大病による約一年半の休養の後、新聞紙上で連載が開始されたこの作品は、数本の短編が集まって、一つの長編小説が構成されるという形をとっている。作品全体の主人公は、田川啓太郎という青年であるが、短編ごとに主役が異なり、田川はストーリーテラー的な役割のみを果たすことも多い。短編の一つ「停留所」では、田川がある男の行動を調べて報告するという仕事に就くのだが、ミステリー的なこの物語の種明かしが、次の短編「報告」で行われるなど、短編の集合体ならではのギミックも用意されている。◆2008年のセンター試験で問題として用いられたのは、「須永の話」という短編の一部であり、物語の中心は、田川の友人である須永市蔵という青年で、彼が自らの恋愛について田川に語る形で進行していく。「凝結した形にならない嫉妬」「存在の権利を失った嫉妬」といった言葉で表される須永の鬱屈した感情についての出題があったが、漱石の用いるこのような表現をあまり見慣れていないであろう受験生にとっては、頭を悩ませるものであったかもしれない。◆現代から見ると文語的な言い回しが多く、読みにくさを感じることがあるかもしれないが、そのような表現に慣れておくのも今後の糧になることだろう。〈T〉
紫雲国語塾通信〈紫のゆかり〉2015年12月号掲載