(2018年2月のブログ内容を2020年11月に転記したものです)
夏目漱石は英文学を専攻し、学校は出たものの、文学とは何かということをつかめず、悶々とする日々を送っていました。幸いにも教師の職にはありつきましたが
“「その日その日はまあ無事に済んでいましたが、腹の中は常に空虚でした。空虚ならい
...続きを読むっそ思い切りが好かったかも知れませんが、何だか不愉快な煑え切らない漠然たるものが、至る所に潜んでいるようで堪らないのです。」。”
そして、ついにはロンドンに留学したが、分からない。しかし、そうしているうちについに分かったのです。「文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自分で作り上げるより外(ほか)に」途(みち)はない。当時は文学といえば、外国の評論家が別な外国人の文筆家を批評していったことをそのままコピーして吹聴してまわってありがたがるということが多かったのです。
逆に、漱石は、ついに、自分の文学は自分で作るという境地「自己本位」に行きついたのです。自己本位、自分が右だといえば、他人が左だといえども曲げる必要はない。といことです。ある評論家がある文学についてこうだといったからといって、自分が反対の意見を持ったとしてもよいし、むしろ、自分だけが持てる意見を大事にしなければいけないということに気が付いたのです。
こういうと、「自分勝手」と誤解されてはいけないのですが、その点についても夏目漱石は論考しています。他の人が同じように自由に考えることを阻害してはならないという形でなされなければならない。
“「我々は他が自己の幸福のために、己れの個性を勝手に発展するのを、相当の理由なくして妨害してはならないのであります。」”
現代の私たちにとってはとても当たり前のことのように思えますが、実践できている人となると、どれくらいいるでしょうか。漱石は「妨害」してしまう要因として「お金」と「権力」を挙げています。そして、自分がこれを持つ立場になったときには気をつけよと論じています。人は生活するうえで、権力やお金をもつ立場に立ってしまうのは仕方ないものですが、そうした場合、知らず知らずのうちに、他人の「自己本位」を妨害してしまいかねない。これに気を付けてさえいれば、自分を自分の考えで満たすことに全力で取り組むべきであると、若者に向けて語っています。
漱石はその後帰国した後、自分の思うように職が得られない時も、神経衰弱になった時も、この「自己本位」という言葉(概念)が胸にあったため、不思議と気に病むことなく、生活を送ることが出来たといいます。
自分が何者なのか、見つけられるきっかけは突然訪れます。それを個人の経験に照らしながら、醸成していくのが、人生ということでないでしょうか。性自認に限ってみても、体と反対の性であるとか、性の境界であるといった場合の自分の位置づけは、なかなか定まるものではないでしょう。
各々が作り上げて発信していく、その一端を担う仕事ができたら、それがわたしに直結する自己本位ということなのだろうと、思っています。