ハン・ガンのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
読みながら少したじろぐ。なぜハン•ガンさんは、異郷のゆかりもない僕に対して、抱え込んだ孤独を、疼き続ける痛みを告白するのかと。
僕には、受け止めるだけの度量も、分かち合う優しさもないというのに。
だが、彼女は決して弱音を吐いて、己の傷や悲しみを嘆き訴えているのではなかった。
むしろ、誰からも助けの手が差し伸べられなく、独りで耐えるしかない痛みに押し潰されたときでさえも、消え去ることのない強さが人の内には秘められている、そう静かに告げていたのだ。
人は自らの意志で、身体や生活を律して前へ進んでいるいると思い込んでいるけれど、果たしてそうだろうか。
心がたとえ悲しみを求めていても、
理性が抑えつけようとしても、
思い描いていた理想や夢が損なわれて二度と戻らなく絶望の淵に沈んでいたとしてもー
身体は、心にひそやかに抵抗し、新たな出口を求めて蠢めく。
深くうずめられた種子が、見えるはずのない光へと伸びてゆくように。
硬い岩盤にしみこんだ雨水が、たしかな道筋を辿って湧き出すように。
回復とはかならずしも機能的な復元を意味するわけじゃない。いつだって生命は変化してゆくのだから。
変わり得ることー それは希望と呼んでもいいのではないか、そう思った。
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Posted by ブクログ
ネタバレ肉体に受ける血の流れる傷の他に、罪悪感や後悔や喪失感も紛れもない傷。
この本に収録されている七編の主人公や登場人物たちほどでなくとも、それらの傷は多くの人にあると思う。
もちろん、私にも。
読んでいて、登場人物たちの傷と共に自分の古い傷を改めて意識する。
登場人物たちはたとえば表題となっている「回復する人間」ではタイトルどおり傷から回復するのだろうか?
どうやって?
目が離せなくなる。
だが、彼らは必ずしも回復するわけではない、と私は思う。
ただ、登場人物たちは自らの傷との向き合い方、折り合い方を通して私たちがそれぞれ持つ傷に寄り添う。
傷を抱えたわたしに寄り添う。
それは同じような痛みを感じる者として心強いこと。
読み終えて、傷はあって、ときに傷んでも、きっと前を向いて歩いていける、そう思える。
回復する人間
火とかげ
が好き。
青い石
も好み。 -
Posted by ブクログ
ここ3ヶ月ほどの間に『すべての白いものたち』『菜食主義者』『そっと静かに』の3冊を読みハン・ガンさんに強く惹かれる自分と向き合う充足した時間を過ごしてきました。
『回復する人間』は詩的で静謐な文章が美しい『すべての白いものたちの』と同じ斎藤真理子さんが翻訳された短編集です。
初出年月日の1番古い「火とかげ」が7つの短編のうち最後に掲載されていて2003年初出。韓国でのタイトルにも使われたこの作品が、韓国の文芸評論家シン・ヒョンチョルに「この本の関心事は(中略)〈傷と回復〉だ」と言わしめた7つの物語のいずれの基底ともなっているテーマが2003年の時点で作者にとって重要でその後ほぼ10年に亘り深く掘り下げられてきたことがわかります。
「火とかげ」の主人公の女性は画家。事故で使えなくなった左手のリハビリを懸命になってやり過ぎたため右手も使えなくなる。絵を描くことも、家事をすることもできなくなって2年、洗濯や皿洗いも夫に託すことを余儀なくされた時、2人の穏やかで、情熱的ではないけれど慈しみあった関係性は、健康であることを前提としたものにすぎなかったと知ることとなる主人公。前提条件が変われば関係性も変わり、完全な他人であった2人だという明瞭な事実だけが残ることに。
この経過、この3年ほどの間の私自身の経験と重なります。転倒して打った左肩故に左手が使えなくなり、2日置きに整体に通ってもさほどの好転もしない中、それでも緩やかに回復の兆しが見えてきた頃のこと。何をするにも右手で。ある日鍋底の汚れが苦になって右手で磨きあげていたら右肩が左肩と同じように痛むようになりました。幸いまったく使えないところまではいかなかったのですが不自由なことこの上ない。高いところのものが手を伸ばして取れない、重いものが持てない、という身体になってみて初めて常日頃当たり前に動けていたその当たり前が筋肉や骨が緻密に機能することによって成り立っていたことに気がつきました。そしてほぼ1年前、今度は右足に痺れが出て、脚の付け根のあたりに激痛が走って突然歩けなくなりました。脊椎管狭窄症。痺れとは一生の付き合いになりそうです。
閑話休題。
アトリエの賃貸契約を夫に一方的な打ち切られる、という状況下、友人が見かけたという写真館に飾られた主人公の写真が23歳だった頃の山登りの記憶を呼び覚まします。条件の悪い山登りの最中に出会った物静かで理知的な男性との邂逅の記憶。足をくじき背負われ下山。彼に好意を持たれ自分も彼に惹かれたと自覚したものの、名前も年齢も、職業も知らないまま過ぎた10年の歳月。この山行の描写が抜きん出て美しい。
そしてこの短編集のどの作品にも抜き書きしたくなるような心に染み入る一節があるのです。
再読、再再読必至の短編集です。
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Posted by ブクログ
特に「火とかげ」が印象に残った。私も去年は茶碗を持つのもきついくらい両手が痛くて使えなかったから投影して読んでしまった(ハンガンさんもこれを執筆していたころ手が痛くてタイピングが出来なかったらしい)。画家の主人公は、事故で手に痛みが残り絵も描けなくなるし夫との関係もうまくいかなくなる。そんな彼女を支えてくれるものは、昔登山をした時偶然あった男性との記憶とQという画家の絵。記憶だけで残る男性と友人ソジンが繋がって、ソジンの子供が飼ってる前足を切断したトカゲからまた足が再生されていく描写で主人公に細い光が差し込みだすのがわかる。
トカゲの手が再生するように、最後、主人公は以前と違う手法で絵を描いてみる。闇の中でもがき続けている時間も無駄ではない。それが新しい生を支えている。回復するということは新しい生を生きなおすことであると改めて感じた。
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今回のように、詩のような文章はほとんど読んだことがないんだけど、なんというか、美術館で展示された一枚一枚の絵を鑑賞してるような感覚だった。
美術館の絵って、絵画に造詣が深い人なら経験から楽しみを感じることができるだろうけど、自分みたいな素人にとってはただ不思議な感覚を抱きながら目の前の絵を見ることになる。今回読んだ本はまさにそんな感じ。
ただ、絵と本で違うのは、それが描かれたものか、書かれたものかということ。描かれたものはパッケージされた情報が一気に目に入り、その中から読み取れる情報を拾うけど、書かれたものは徐々に情報が出現し、最終的に読み取れたものが自ら得たものとなる。どちらもどれだけ読み取れるかが重要である点で同じだけど、読み取った情報からイメージされるものが違うのは圧倒的に後者じゃないかと思う。なぜなら、絵はすでに描かれているものであり、イメージはそれにほぼ当てはまるから。書かれたものは各自がイメージを形成し、それは各個人により異なるものとなるだろう。
おそらく今回のような作品の楽しみ方は、そこにあるのかもしれない。もちろん、読み方の違いにより生まれる読みの多様性を味わうのも楽しみ方の一つだと思う。 -
Posted by ブクログ
夢のような、現実のような。
生きているような、死んでいるような。
そんな相反する2つの世界の間をたゆたっているような感覚になりました。
訳者あとがきの中で、
「物語の後半、生と死のどちらともつかない場所でキョンハとインソン、アマとアミは一緒にいる。人も鳥も幻想の中で対話し、思いをかわすが、これについてハン・ガンは『愛するとは自分の生だけでなく、愛する人の生を同時に生きることだと思います。特に愛する人のために祈るとき、自分はここにいるが同時にそこにもいるという状態になるでしょう。切なる心でそれを希求するとき、その状態はおのずと超自然性を帯びてきますよね』と語っていた。」
と書かれているのを読んで、この感覚を感じた理由が腑に落ちたように思えました。
内容を言葉で理解するというより、自分もその世界へ没入して言葉が映像のように頭の中に広がっていく感覚が、新しい読書体験でした。
歴史についても改めて深く学び、また再読したいと思います。 -
Posted by ブクログ
ハン・ガンさんの作品は、
息をするように静かで物悲しい。
問題を抱えていても何も解決しないまま生き続ける、そんな人たちの人生が描かれている。
斎藤真理子さんの解説も良い。
短編ごとに解説が書かれていて、解説を踏まえてもう一度読み返すことで、物語が違った見え方になる。
【赤い花の中で】という作品では主人公の少女が「彼」という一人称で語られる。読んでいて違和感があったけど、解説で「朝鮮語は日本語に比べて男女の役割語が薄く、また評論や報道記事などでは女性に「彼」を用いることが珍しくない」と書かれていて、驚いた。小説ではあまり用いられないらしいが、あえて「彼」を使うことで出家をする主人公の強さが表現されていると思った。