網野善彦のレビュー一覧
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従来の、天皇と幕府の二重権力と農本主義に貫かれている日本史観を覆したというだけで、網野史観はスリリングだし、それだけで面白い。
その上、それぞれの時代のアウトローな存在たちに光を当てているのだから、学術書でありながらエンターテイメントの要素をはらんでいて、活劇を読むようにわくわくして読み進めた。
それが学術であれ、エンタメであれ、人の魂を揺さぶるものには、いつも無縁の原理が働いているという。
「無縁」というのは、現代的な意味での無縁とはちょっとちがう。
現代では「無縁仏」とか「無縁社会」とか、個人が社会の中で孤立している状態を指すのだが、網野史観による「無縁」の概念とは、「有縁」「有主 -
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【読んだきっかけ】網野善彦氏の研究に興味があった。古本屋にあったので買ってみた。
【内容】縁切寺、中世の市、遍歴する職人や芸能民など、歴史の表舞台に登場しない場や人々のうちに、所有や支配とは別の関係原理、〈無縁〉の原理の展開と衰微を跡づける、日本の歴史学を一変させた書物。(カバー説明引用一部改)
【感想】網野氏の本はこれまで中世の遊女や非人について書かれたものなどを読んでいた。これまでの日本の歴史と呼ばれるものとは違う部分にフォーカスしており大変興味深かったが、この『無縁・公界くがい・楽』も期待を裏切らない内容だった。著者は大名や家臣の縁に繋がる場や人々ではなく、そこから逃避する者や逃げ込む -
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網野善彦さんの本は面白くて好きだが、これはちょっと難しめだった。収められた論文はほとんど専門誌に投稿されたもので、つまり本職の歴史学研究者を対象としており、歴史上の用語はどんどん出てくるし、いちいちそれの解説なんて付いてない。
私はこれまで非人に関する本も、網野さんの本も、中世あたりに関する歴史の本も数冊読んできたので、かろうじてまあまあ理解できた。漢文は読めなかったけれど。もしそれらの本を読んでいなかったら、この書物にはお手上げだったかもしれない。
しかし内容はなかなか面白く、死体処理などを任され、年貢を免除されていた「非人」は中世(鎌倉時代)初期にはその「穢」が、穢を清める装置として機能し -
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江戸時代、夫と別れたい妻は縁切り寺に駆け込んだということは高校の日本史でも習う事実である。著者、網野善彦氏はこの縁切り寺のような世俗から断絶したアジール(=聖域)は日本に昔から存在したことを証明していく。そのような場は、タイトルである「無縁」「公界」「楽」などと呼ばれていた。そこでは例えば、世俗の身分から切り離されていた、犯罪者の駆込場となっていた、税金の徴収を免れていたなどの特徴を有していたことが示される。わたしたちは「自由」や「平等」といった西欧的価値観を深く深く内面化している。わたしはそれらヨーロッパ(もっといえばヨーロッパ近代)の価値観がどれほど普遍性を持っているのか、西欧と接触する以
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最初に「えんがちょ」とか「すいらいほうらい」という自分が育った藤枝でやっていた、子供の時の遊びから始まったので、簡単なエッセイかと思ったら、全然違う。
駆け込み寺のような公の権力の及ばない、世界、無縁・公界・楽などの視点から、日本の中世史を分析している。
(1)堺などの自由都市というのも、むしろ公の権力の及ばないところ、無縁の世界と考えることもできるらしい。
(2)市場、網野さんは市庭というのも、無縁性があった区域らしい。
(3)河原の中州、山林、寺院、墓所など、一種のけがれの空間から無縁の世界、人々が始まったという考え方は、おもしろい。
白川静先生が、孔子伝で、孔子は葬祭をあ -
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もののけ姫のタネ本と聞いて手に取った。内容は、日本中世(鎌倉〜室町)において、「無縁」「公界(くがい)」「楽」と呼ばれるアジール(世俗権力や権利義務関係から絶縁している場所)が存在し、そこでは有縁の関係から離れた無縁の人々が活発に生きていた、という事を資料に基づき説いていくというもの(読み込めてないので正しくないかも)。
自分は日本史にまったく明るくないので読むのには苦労したが、興味深い内容も多かったので楽しめた。
本書は著者が学生から発せられた「天皇はなぜ滅びなかったのか?」「なぜ平安末・鎌倉時代にのみ優れた宗教家が輩出したのか?」という問いに対するひとつの試論として書かれている(pp. -
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こんにち子どもたちのあいだに残っている「エンガチョ」、江戸時代に妻が尼となり強制的に離婚するために駆け込んだ「縁切寺」、罪人がそこに逃げ込めば基本的に罪科を逃れられるという「駈込寺」などと列挙していき、主に戦国時代の「無縁所」という、世間との縁をいったん断ち切って内部での平和を保証する一種の聖域=アジールを浮かび上がらせる。
そしてこの無縁所は「公界」ともつながって、その場所の平和を土台として「市」=「楽市」が成立する。
タイトルだけだとなんだかよくわからないこの本は、知的興奮をよびさます名著である。
さらに「アジール」=「無縁性」は、どの文明・未開社会においても、普遍的に見られるものであると -
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海にまつわる膨大な資料に現れる”海人”、”網人”・・・という表記を見ていると、11世紀前後に南西諸島以南を”鬼界ヶ島”と認識しているのに、同時期の「小右記」に現れる”奄美島”(p96/p212)を現在の奄美と認識するのに大きな疑問がわいてきます。
また、”十四世紀までの西日本の社会に広くみられる女性の公的な地位への「進出」”を”卑弥呼のような女性の首長を積極的に認める社会的な背景、伝統が生きていた、と推測”する部分も、奄美のウナリ神信仰に繋がるような気がしました。
急ぎ足で読みましたが、「日本論の視座」(同著)も一緒にもう一度読み直す必要があるようです。 -
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冒頭で筆者は、子供時代のエンガチョの遊びや、江戸時代の縁切寺などの「縁切り」の例を挙げ、縁切り=自由、縁切り寺=アジール(避難所)という捉え方を提示する。そしてそのような「自由」の原理が以前にはもっと生き生きと活動していたのではないか、という問題意識の下で、中世、古代、さらには未開社会における「自由」のあり方を探っていく。
その結果明らかにされるのが、本書の表題でもある無縁・公界・楽と呼ばれる原理である。それは無主・無所有の思想が貫徹されているという意味でアジール、さらには一種の理想郷であり、未開・文明を問わず、世界の諸民族に共通して見られる。そのようなアジールの形態には3段階の変遷がある