網野善彦のレビュー一覧
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時代は平安初期から鎌倉幕府の滅亡まで、中世の記述が随分詳しいが、鎌倉時代には仏教が興隆するなど社会の動きが激しかったのだろう。東西王権という言葉が度々使われているように、今我々が思っているほど天皇家の権威が絶対でなく、揺るがされていたことへの危機感が強かったと感じた。それは持明院統・花園天皇(後醍醐の直前の天皇)が「皇統が一統だから異姓に簒奪されることはないことは誤り、天皇家の土崩瓦解」を警告していたという驚きの言葉に現わされている。鎌倉幕府がなぜ東の王権を保っていたかの理由に、皇族の将軍が歴面と続いていた!そしてそれが思いのほか大きなインパクトであった。これは驚き、学校の日本史では全く教えられなかった史実である。
頼朝が守護・地頭を置いて支配を強めたという常識は、実は平家もそれに相当する官職を置いていたということも驚きであった。
元寇の文永・弘安の役が東の王権と地位を高めたことに繋がったことも常識とは全く異なる説明だった。とにかく驚き続きの1冊だった。 -
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下巻では、建武の新政から江戸時代の初期までがあつかわれています。
中巻で示された、京都を中心とする「西の王権」と鎌倉を中心とする「東の王権」という枠組みは、室町時代に入って地域の分立の傾向が強まるとともに、それらの相互の結びつきも強くなり、多元性をうちに含みつつもしだいに「日本」という国民国家の基礎となっていく経緯がたどられています。同時に、経済社会の活発化がこうした歴史の方向性と軌を一にしていることについてもある程度立ち入った記述がなされており、著者が批判するような単一の色で塗りつぶされた「日本史」とは異なりながらも、多様性を統合するような「日本史」の見かたが示されています。
こうした「日本史」の大きなヴィジョンをえがきだすことができることが一人の著者による通史の魅力だということを再認識しました。 -
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網野史観の入門書として相応しい一冊。
網野さんの歴史観の捉え方は様々だが、一般の読者には日本史への多様な視点を与えてくれることは確かだ。
百姓と呼ばれる人々の実態、室町時代の商業発展などをつぶさに見ていくことで、非農業国家としての日本を描きだす。
また、差別階級と認識されがちな非人は、天皇や寺社に使える聖なる存在であったことなど、マイノリティに新たな視点を提供してくれる。
歴史に多様な視点を持つことは、皇国史観やマルクス史観など画一的カルト的歴史観に陥らないために極めて有益である。
そして、また、多様性が尊ばれる現代にも相応しいだろう。 -
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中世の再発見
二人の中世史の巨人を招いた対談本。ワンピースに例える中カイドウとビッグマムの海賊同盟並みの二人。
贈与や宴会、市場などのテーマに関しての対談から、日本とヨーロッパの精神の基層をなす中世の人々の考え方を浮かび上がらせるとともに、11世紀頃を境に他の諸国と全く別の文化的習慣を持つに至ったヨーロッパの特殊性についても触れる。特に贈与ではマルセル・モースの贈与論を引いた上で、贈与や互酬関係において人々が繋がりを持っていたとされる。貨幣は貨幣を媒介にしてこれまで関わってこなかった人々と新たな関係性を取り成すとともに、中世の人々は貨幣の持つ呪術性についても信じていた。ゆえに、彼らは死者への贈与として貨幣を地中に埋める習慣があったのであるが、キリスト教は死者への贈与を辞めさせ、教会への贈与に切り替えさせた。この転換により、世の中に広がる貨幣の絶対量が増加し、貨幣経済の発展の地盤になったとされる。さらに、貧者に対しての施しと言う観点でも、贈与や互酬の観点から人々にパラダイムシフトを促していた。一般の人々への贈与は反対給付によりその人と関係性が生まれるが、貧者への施しは、反対給付ができないため、関係性は生まれない。しかしながら、キリストは死後の世界にてお返しをすることができるという考え方を広めた。これまでの単なる水平的な互酬の関係性、さらには顔の見える関係性の中で行われていた贈与に対して、死後の世界という垂直的な概念を導入することで、人々の施しや贈与の関係性に広がりを生み出した(普遍化)ことにヨーロッパ史における最大の転換点が生まれたという話は非常に面白かった。
キリスト教会が彼岸を設定した新たな贈与慣行を形成することで、教会には多くの貨幣が集まることになるが、その時代には支配者は教会に近づくことでしか自らの地盤を形成することができなかった。しかしながら、このような贈与慣行に対して、ルターが免罪符批判によって彼岸を媒介とした教会への寄進を一部看破したことで、教会に多くの貨幣が集約する贈与慣行を衰退させ、世俗の支配者が聖なる世界の支配者に対抗する土壌を作ったという点で、世界史的な意味を持つ。ルターの免罪符批判により聖俗のパワーバランスが崩れるが、キリスト教が生み出した垂直的な概念-時間の組織化-は人々に根付いており、こうした概念が「公」の概念へ繋がっていく。「公」とは垂直的な概念を導入することによって、人々の横のつながりを拡大させ、これまでの地縁血縁のみの関係性からの広がりを生み出した。今回の対談の最大のポイントは、阿部謹也氏がこの「公」の概念から網野氏の代名詞である「無縁」の概念に近似した形を見出すとことにあった。 -
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「ちくまプリマ―ブックス」から刊行された二冊の本をまとめて収録したもので、若い読者に向けて日本の歴史の新しい見かたをわかりやすく解説しています。いわゆる「網野史学」の入門書として読むことのできる本です。
著者は、「非人」と呼ばれて蔑視されてきた人びとについて、神の「奴婢」という見かたがあったことを掘り起こし、彼らが社会のなかで果たしてきた役割について考察をおこなっています。また、「百姓」を農民とみなす理解が、これまでの歴史研究のなかで抜きがたく存在していたことを批判し、彼らのなかに非農耕民が多く含まれていたことに注目しながら、農村を中心に置いて日本社会を均質的なものとしてとらえる常識的な見かたをくつがえす試みがなされています。
非農耕民、賤民、女性といった、従来の歴史研究のなかでアウトサイダーに位置づけられてきた人びとの視点から、日本の社会の新しい見かたを示しており、おもしろく読みました。 -
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封建制度の中では自由がなかったように語られるが、中世には移動の自由や年貢等の交渉の自由があったそうだ。また、本来、「自由」の語義は「専恣横暴な振舞」でマイナスな意味であったが、戦国時代から「他に拘束されない」というプラスの意味が含まれるようになったということを知った。また、中世の庶民は年貢が苦しく貧乏で苦しい生活だったイメージを持っていたが、中層でも資産を持っているという。漁村でも、今では想像しにくいが、海洋交通で遠くの場所と直接つながっており、貿易・貨幣経済が広範囲に広がっていたことが面白い。村の成り立ちを考える際には、西国の横のつながり、東国の縦のつながりという対比は興味深い。確かに、西国は同じ規模の家々が多くつながりが深いように思う。例えば、戦国時代の一基を考えると、中部地方から西国が多かったのではないか(山城、長島、加賀等)。一方、東国では、武士による支配層と庶民の関係、鎌倉時代に成立した御恩と奉公の関係が領地支配にも影響したのではないかと思った。
中世を様々な角度から述べたこの本は、一冊で多様な見方を知ることができて面白かった。 -
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網野善彦氏(1928~2004年)は、日本中世史を専門とする歴史学者。文献史学を基礎として展開した独自の歴史観は「網野史観」とも呼ばれ、学術的には賛否両論があるものの、日本中世史研究に多大な影響を与えた。
本書は、1991年刊行の『日本の歴史をよみなおす』と1996年刊行の『続・日本の歴史をよみなおす』を併せて、2005年に文庫化されたもの。
網野中世史のポイントのひとつは「非人」である。日本の古代においては、奴隷と良民の区別と、ケガレに関わる人びととそれ以外の人びとの区別があった。「ケガレ」とは、人間と自然の均衡が崩れたときに、それによって人間社会の内部に起こる畏れや不安と結びついたもので、具体的には人の死や誕生などの際に発生するといい、京都の貴族たちの間にケガレに対する畏怖が広がってきた11世紀頃に、「非人」と呼ばれる集団がクローズアップされるようになってきたという。そうした非人たちは、ケガレをキヨメる特異な力を持っていると見られ、神仏の「奴婢」として、その中の少なくとも主だった人びとは、神人・寄人、神仏の直属民という地位を、社会の中で明確に与えられていたのである。その後時代が下るにしたがい、人びとのケガレに対する畏れの意識が消えて、これを忌避・嫌悪する意識が強まり、ケガレを清める仕事に携わる人びとに対する忌避・差別観・賤視の方向が表に現れてくるようになったのではないかという。
また、網野史観のキーワードのひとつに「無縁」がある。古代において、モノは必ず人間と結びついていたが、中世に入り、河原、川の中州、(海と陸の境である)浜、(山と平地の境である)坂などに市場が立ち、モノの交換が行われるようになる。それは、そうした場所を、神の世界と人間の世界、聖なる世界と俗界の世界の境として、そこに入ると、モノも人も世俗の縁から切れた無縁の状態になり、モノとモノとを、モノそのものとして交換することが可能になったからだという。
更に、日本の社会が、少なくとも江戸時代までは農業社会だったという常識が、広く日本人にゆきわたっているのは、「百姓」=「農民」という思い込みの結果に過ぎず、「百姓」とは、文字通りたくさんの姓を持った一般の人びとという意味以上でも以下でもなく、農業以外の生業を主として営む人びとを含んだ言葉であり、そうしてみると、江戸時代以前の日本社会のまったく違った実態が浮かび上がってくるという。
そのほか、文字、貨幣、女性たち、天皇と「日本」の国号、日本列島、荘園・公領、海賊・悪党などにテーマは及び、極めて示唆に富む内容である。
出版元の編集者を相手にした話をまとめたもので大変わかりやすく、かつ、「網野史観」のエッセンスが網羅された良書と思う。
(2019年12月了) -
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網野善彦 「 異形の王権 」 日本の中世史の本。中世史が こんなに人間的で 魅力的とは 思わなかった。
後醍醐天皇の異質性、後醍醐天皇が目指して国家、後醍醐天皇の衰退と非人など差別の関係など 面白かった
後醍醐天皇と 飛礫(つぶて) が印象に残った
渋沢敬三 「 絵巻物による日本常民生活絵引 」
*絵巻物を 歴史学、民俗学等の資料として読む〜画の意味
*絵巻物から個々の場面を抽出し模写する→身辺雑事に見える問題を歴史の対象とする→歴史学を命あるものにする
なぜ 蓑笠が非人、乞食の服装となったか
*蓑笠=一つの変相服装→神、まれびとの衣裳→蓑笠姿のまれびとは 妖怪となり〜乞食となった
*蓑笠は 異類異形の衣裳〜かっての神の姿、聖なる衣裳が、南北朝を境に 忌む存在となる
*蓑笠=失うものは何もない 抑圧された非人、乞食の衣裳の象徴→蓑笠を身につけることにより 不退転の決意で 一揆をした
飛礫を打つ(つぶて。石を投げる)
*飛礫打が 異類異形の人々、山伏、鬼、天狗と結びつき、伝統的な悪党的兵法とつながっている
*南北朝を境に 飛礫は 非人的な武力となる
*非人の姿をして 飛礫をもって 一揆する→蓑笠同様、人の意志を超えて力を 自ら感じとり 権力に向かった
異形の王権=南北朝の後醍醐天皇の政治の特異さ
*異形の人々を集めて 新しい力を呼び覚ました〜後醍醐は、異類異形と言われた 悪党、非人を軍事力として利用した
*後醍醐が自ら法服をつけて 真言密教の祈祷を行った
南北朝動乱=異形の王権の倒壊
*天皇の聖なる存在は失われた→天皇と結びついた神仏の権威も低落=聖性の没落
*聖性の没落→聖性に依存する 芸能民、非人など 聖なる異人が差別される
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網野と鶴見という今は亡き二人の1993年の対談である。鶴見に引き出されて、網野の天皇制への主張の核がはっきりと示されている。内なる天皇制などとは言わず、生活の各層に潜む天皇制の在りようをつかまねばならないとする意志が明確である。平成が終わる今、以下の発言を記しておきたい。
「王は自分に独自の力があるから王なのではなくて、まわりが王と思うから王になれるのだ、といわれますけど、全くそうだと思うんです」「権力は社会の合意があって初めて維持し得るので、その合意が崩れるような事態が起こり、それを多数の人民が意志として表現したらあっという間に消し飛ぶと思うんです。人間は断じて力だけで押さえつけられているものではないという見方を、もっと徹底してわれわれ自身のものにしていかないと、古代から近代に至る日本史のとらえ方は、ホンモノにならないのではないかと私は考えています」