網野善彦のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
メモ:
日本の宴会の無礼講という考え方は、西洋では公的には失われている→キリスト教による社会統制が働いている
また、忘年会というのは一年間で元に戻るという日本人の時間意識を表している行事で、西洋ではそういうものはない→キリスト教は終末論
これらは、西洋で11世紀にキリスト教による意識の大転換が起こったことと無縁ではなく、これまで歴史学のものさしにされがちだった西洋の風習は、実は世界的に見れば特殊なあり方なのかもしれない
メモ2(p221)
"ヨーロッパがなぜ11世紀以降大きな変化を示したかというと、互酬の関係のなかで、お返しは天国でする、つまり死骸の救済というかたちでそれをいったん普遍化したうえで返すという回路をつくったところに非常に大きな変化が生まれた原因があると思う〜中略〜これは、従来の慣行のうえでは、ある意味たいへん困ったことです。しかし、そこで絶対的なものが出され、それを社会が承認していくのがキリスト教の受容だった"
→日本では何かをもらったら何かを返す、互恵の考え方が今でも普通なのであって、それは、日本と西洋における寄付文化の有無などにも表れているように感じた -
Posted by ブクログ
☆☆☆☆
この程度の深さで、日本の成り立ちから平安時代初期までを振り返れたこの一週間は貴重な時間だった。
「日本」という国の成り立ち、大陸(中国)や半島(朝鮮)との関係やその力関係による緊張感に影響される日本のありようは、昔に学んだ学校での歴史とは違った種類の知識を与えてくれた。
また、国の型ができ、その組織が作られ、複雑になっていく過程では、権力闘争が繰り返されていく。穏やかな時代の印象持っていた平城、平安時代においても、どの時代、どの国の歴史同様の血生臭い権力欲をみせられた。
この本が優れているのは「日本社会」の歴史を描いているところで、歴史のメインストリームに主眼が置かれているわけではなく、読んでいると「社会」の動き、そのそれぞれの時代を暮らす人々の姿が想像できるところが良い。(これはゆっくりと時間をかけて読んだために得られたのかもしれない)
でも、次に『日本社会の歴史』(中)・(下)を読むのはいつになるかはわからないなぁ。
網野善彦氏は、この膨大な歴史のなかから、よく社会を見つめるための筋を提供してくれている。
2017/04/22 -
Posted by ブクログ
従来の、天皇と幕府の二重権力と農本主義に貫かれている日本史観を覆したというだけで、網野史観はスリリングだし、それだけで面白い。
その上、それぞれの時代のアウトローな存在たちに光を当てているのだから、学術書でありながらエンターテイメントの要素をはらんでいて、活劇を読むようにわくわくして読み進めた。
それが学術であれ、エンタメであれ、人の魂を揺さぶるものには、いつも無縁の原理が働いているという。
「無縁」というのは、現代的な意味での無縁とはちょっとちがう。
現代では「無縁仏」とか「無縁社会」とか、個人が社会の中で孤立している状態を指すのだが、網野史観による「無縁」の概念とは、「有縁」「有主」の対立物として浮かび上がる。
定住に対して移動。
国家に対して宗教。
…といった具合に。
しかもそれらは対立ばかりしているわけではなく、常に背中合わせで、密着しながら拮抗している。
具体的な無縁の原理というのは、
場としての市場、境界、社寺、山林、自治都市、関渡津泊、橋、河原、中洲などなど。
人々しての、供御人、職人、手工業人、海民、遊女、聖、山伏、巫女、勝負師、芸能民などなど。
それらは異界と異界の境界に発生し、異界と異界を行き来する人々によってもたらされる。
大阪に現れた最大の自治都市「堺」はまぎれもなく「境」だったのだ。
異界と異界の境とは、この世とあの世の境でもあった。
市には必ず死者が現れる。河原も中洲も浜も山野も、それらは神々と関わる聖域であり、交易芸能の広場であり、平和領域であり、葬送の地であり、刑場でもあった。
「無縁」の原理は階級社会に対しての自由・平和・平等の理想への本源的な希求が貫かれている。これはなにも日本に限ったことではない。
寺院に飛び込むと娑婆世界での縁が断ち切られる。
祭では日常社会の階級が解消される。
でも、このような無縁の原理は、国家(有縁の原理)の台頭によって衰弱してしまう。江戸時代の身分政策や寺請制度、明治以降の近代化によって人々はより権力の管理下に置かれ、無縁の原理は有縁の原理に取り込まれる。
60年代の学生運動などはこうした無縁の原理の希求がその根底に流れているのだろうし、この本が1978年に初出でベストセラーになったというのも興味深い。左翼やリベラルたちの支持を得たのは想像に容易い。
そしてインターネットの登場。
誰もが発信できる双方向のコミュニケーション空間は、それこそ有縁の原理がすみずみまで立ち入ることが困難な、無縁の世界の登場だったのだが、これもまたいつか有縁に取り込まれることになるのだろうか…。
********************
文学・芸能・美術・宗教等々、人々の魂を揺るがす文化は、みな、この「無縁」の場に生まれ、「無縁」に人々によって担われていると言ってもよかろう。
******************** -
Posted by ブクログ
【読んだきっかけ】網野善彦氏の研究に興味があった。古本屋にあったので買ってみた。
【内容】縁切寺、中世の市、遍歴する職人や芸能民など、歴史の表舞台に登場しない場や人々のうちに、所有や支配とは別の関係原理、〈無縁〉の原理の展開と衰微を跡づける、日本の歴史学を一変させた書物。(カバー説明引用一部改)
【感想】網野氏の本はこれまで中世の遊女や非人について書かれたものなどを読んでいた。これまでの日本の歴史と呼ばれるものとは違う部分にフォーカスしており大変興味深かったが、この『無縁・公界くがい・楽』も期待を裏切らない内容だった。著者は大名や家臣の縁に繋がる場や人々ではなく、そこから逃避する者や逃げ込む場所、「有縁」の支配の外にある社会について語る。そこは遍歴する海民、山民、商工業者、科人、勧進聖、非人、芸能民らが存在する「無縁」の場で、そこには独自の関係原理と自由があった。中世の自治都市にもその性格があった。
読み間違いもあるかもしれないがこんな話である。私はこれを読んで、おサムライやお百姓中心の歴史・ドラマがいかに風景の一面だけを切り取ったものであるかを感じた。今で言えば政界や経済界だけを描くようなもの。これでは現代社会を正確に描いたとは言えない。
本書は発表当時異端の書とされ、また批判も多かった。著者はこの批判にも正面から対応し、その分の増補がまた長い。私もようやく一度読んだ程度で理解も浅いが、いろいろと創造力をかきたてられる良書だと思う。 -
Posted by ブクログ
網野善彦さんの本は面白くて好きだが、これはちょっと難しめだった。収められた論文はほとんど専門誌に投稿されたもので、つまり本職の歴史学研究者を対象としており、歴史上の用語はどんどん出てくるし、いちいちそれの解説なんて付いてない。
私はこれまで非人に関する本も、網野さんの本も、中世あたりに関する歴史の本も数冊読んできたので、かろうじてまあまあ理解できた。漢文は読めなかったけれど。もしそれらの本を読んでいなかったら、この書物にはお手上げだったかもしれない。
しかし内容はなかなか面白く、死体処理などを任され、年貢を免除されていた「非人」は中世(鎌倉時代)初期にはその「穢」が、穢を清める装置として機能し、世の「聖」にも結びついていたという。遊女も同様だ。
網野さんによると、非人や遊女が社会的蔑視の対象となり、どんどん迫害されていくのは南北朝の動乱期以降だという。そのへんの経緯については、この本ではあまり追求されていないが、古代型の「王権=聖なるもの」が失墜していく過程で「穢」も「聖」との連携を絶たれてしまったのだろう、と推測できる。
よく考えたら、源頼朝の幕府も奇妙なものではあるが、当時はまだ京都の王朝の聖性は守られていたようだし、南北朝時代を経て戦国時代へと推移するなかで、天皇の「王権」は喪われ、「聖」をわかちあう共同体としての日本社会は解体し、個人の能力、軍事的権勢の競争の中から時の支配者が生まれてくるという時代に至ったのではないだろうか。
国家における統合的なものとしての「聖」の消滅という、共同体社会にとっては重大きわまりないターニングポイントとして、南北朝を捉えるという考え方は、たいへん興味深い。 -
Posted by ブクログ
江戸時代、夫と別れたい妻は縁切り寺に駆け込んだということは高校の日本史でも習う事実である。著者、網野善彦氏はこの縁切り寺のような世俗から断絶したアジール(=聖域)は日本に昔から存在したことを証明していく。そのような場は、タイトルである「無縁」「公界」「楽」などと呼ばれていた。そこでは例えば、世俗の身分から切り離されていた、犯罪者の駆込場となっていた、税金の徴収を免れていたなどの特徴を有していたことが示される。わたしたちは「自由」や「平等」といった西欧的価値観を深く深く内面化している。わたしはそれらヨーロッパ(もっといえばヨーロッパ近代)の価値観がどれほど普遍性を持っているのか、西欧と接触する以前、日本に自由、平等の精神と呼びうるものが存在したのかいなかに興味を持っていた。そのことについて考えるきっかけとなった。網野善彦さんの他の著作にもあたってみたい。
-
Posted by ブクログ
最初に「えんがちょ」とか「すいらいほうらい」という自分が育った藤枝でやっていた、子供の時の遊びから始まったので、簡単なエッセイかと思ったら、全然違う。
駆け込み寺のような公の権力の及ばない、世界、無縁・公界・楽などの視点から、日本の中世史を分析している。
(1)堺などの自由都市というのも、むしろ公の権力の及ばないところ、無縁の世界と考えることもできるらしい。
(2)市場、網野さんは市庭というのも、無縁性があった区域らしい。
(3)河原の中州、山林、寺院、墓所など、一種のけがれの空間から無縁の世界、人々が始まったという考え方は、おもしろい。
白川静先生が、孔子伝で、孔子は葬祭をあつかった下層の祭司という指摘をしていたが、そのような現世からの境目を扱うということに、なんらかの神秘性、宗教性を感じるというのは、世界共通かもしれない。
そこに、現世とは別の中間領域がうまれ、そこに駆け込む人がでてくるという発想、おもしろいな。 -
Posted by ブクログ
もののけ姫のタネ本と聞いて手に取った。内容は、日本中世(鎌倉〜室町)において、「無縁」「公界(くがい)」「楽」と呼ばれるアジール(世俗権力や権利義務関係から絶縁している場所)が存在し、そこでは有縁の関係から離れた無縁の人々が活発に生きていた、という事を資料に基づき説いていくというもの(読み込めてないので正しくないかも)。
自分は日本史にまったく明るくないので読むのには苦労したが、興味深い内容も多かったので楽しめた。
本書は著者が学生から発せられた「天皇はなぜ滅びなかったのか?」「なぜ平安末・鎌倉時代にのみ優れた宗教家が輩出したのか?」という問いに対するひとつの試論として書かれている(pp.5〜6)。
後者ついて、それまでの論理から多少飛躍した部分があるものの、その回答はとても面白い内容だった(「二十三 人類と「無縁」の原理」)。
それをかいつまんでまとめると以下の通りである。
西欧の自由や平和・平等という概念はキリスト教のアジールから出発し、宗教改革や市民革命などによる権力との格闘の末に獲得されていった。それに対し日本におけるアジールは、仏陀の教えとして捉えられる形で鎌倉仏教に組み込まれ深化し、室町〜戦国時代にかけて無縁・公界・楽として意識化されたものの、以降はそれを発展することができなかった。江戸時代を経て幕末明治に西欧の自由・平等の思想が流入し、ついには日本的な無縁の自覚化、つまり日本にとっての自由・平等の思想がが起こらずに来た、というのが著者の見立てである。
これは夏目漱石が説いた「外発/内発」の話とも通じる話であり、とても面白い。著者は「その過程が段階を画するためには、『有主』の世界から、『原無縁』を最初に組織し、その後も『無縁』の世界の期待を体現しつづけた王権ー天皇との酷烈な対決を経なくてはならなかったが、その課題に、ほとんど手をつけることなしに、日本の『近代』は始まる。」(p.247)と述べている。この言葉の意味を明確には理解していないが、とても重いテーマのように感じる。
ちなみにもののけ姫の関連としては、おそらくタタラ場の扱いがそうだろう。戦国大名(の走りだろう)アサノ公方と対抗し、また病人などの有縁から外れた人たちが住む無縁の場として、タタラ場がある。自治共同体としての無縁の原理も、この著書に惹かれる部分のひとつである。 -
Posted by ブクログ
[ 内容 ]
現代の日本人・日本国は、いかなる経緯をへて形成されたのか―。
周辺諸地域との海を通じた切り離しがたい関係のなかで、列島に展開した地域性豊かな社会と「国家」とのせめぎあいの歴史を、社会の側からとらえなおす。
十数年にわたる学問的営為の結実した本格的通史。
上巻は列島の形成から九世紀(平安時代初期)まで。
[ 目次 ]
第1章 原始の列島と人類社会
第2章 首長たちの時代
第3章 国家形成への道
第4章 「日本国」の成立と列島社会
第5章 古代小帝国日本国の矛盾と発展
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]