上間陽子のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
2026.39
ぽろぽろ泣きながら、でも一気に読んだ
「海をあげる」とはどういうことなのか
戦争や性犯罪や環境汚染
沖縄に私たちが押しつけているものは何か
ずっと覚えておきたいし
覚えておくべきエッセイ
私には何ができるのか
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P9 娘にごはんのつくり方を教える日が来ることを楽しみに待つ。自分のためにごはんをつくることができるようになれば、どんなに悲しいことがあったときでも、なんとかそれを乗り越えられる。
P44 あそこは、ニライカナイだよ。死んだひとはニライカナイに行くという伝説があるよ。
P51 遊歩道の湧水だけじゃなくて、今度は水道水がアウトだなんて、なんだか本当にまいっている。こんなに爆音があって、これ以上ひどいことはないと思っていたら、スプレイがやってきた。あのときと一緒で、このままここで暮らして大丈夫かな、引っ越さなくていいのかなって思っている
P53 いま、まっただなかで暮らしているひとは、どこに逃げたらいいのかわからない。
P56 女性が逃げたルートを聞いて息をのむ。それは住民を盾にして移動した、日本軍の壊滅のルートだ。その先々で起こったことを、戦争が終わったあとで生まれた私たちは知っている。
P58 弟は、遺体を片付けるために外に出て爆撃を受けて死んだ。妹は、親戚の子どもたちのミルクを取りに行って帰ってこなかった。父親は、一家のお金を女性に託したあとで爆撃を受けて死んだ。親戚のお姉さんは、子どもと自分は何があっても一緒にいるからここに置いていきなさいと言って、そして子どもたちと一緒にいなくなった。
P62 地形が変わるほどの爆弾が撃ち込まれるのが戦争だということを、子どもたちが沢々と亡くなるのが戦争だということを、子どもと自分はいつまでも一緒だと告げて亡くなった母親がいるのが戦争だということを、飢えと恐怖で生理が止まるのが戦争だということを、そして、あのおばあちゃんはそれらのぜんぶを体験したあと、もう一度、あそこで土をたがやして生きてきたのだということを、どのように娘に伝えたらいいのかわからない。恐怖で眼を見ひらく娘に、戦争があったのはほんとうにはるか遠く、これはむかしむかしのお話だと、君はいつか娘に言ってあげられるのだろうか。
P230 でもね。風花。大人たちはみんな知っている。護岸に囲まれたあの海で、魚やサンゴはゆっくり死に絶えていくしかないことを。卵を孕んだウミガメが、擁壁に阻まれて砂浜にたどりつけずに海のなかを漂うようになることを。私たちがなんど祈ってもどこからも王妃や姫君が現れてくれなかったことを。だから私たちはひととおり泣いたら、手にしているものはほんのわずかだと思い知らされるあの海に、何度もひとりで立たなくてはならないことを。そこには同じような思いのひとが今日もいて、もしかしたらそれはやっぱり、地上の王国であるのかもしれないことを。
P240 そして私は目を閉じる。それから、土砂が投入される前の、生き生きと生き物が宿るこっくりとした、あの青の海のことを考える。ここは海だ。青い海だ。珊瑚礁のなかで、色とりどりの魚やカメが行き交う交差点、ひょっとしたらまだどこかに人魚も潜んでいる。私は静かな部屋でこれを読んでいるあなたにあげる。私は電車でこれを読んでいるあなたにあげる。私は川のほとりでこれを読んでいるあなたにあげる。この海をひとりで抱えることはもうできない。だからあなたに、海をあげる。
P251 私もまた、いつか娘に海を渡すのでしょう。その海には絶望が織り込まれていないようにと、私はそう願っています。この本を読んでくださる方に、私は私の絶望を託しました。だからあとに残ったのはただの海、どこまでも広がる青い海です。 -
Posted by ブクログ
ネタバレしばらく前に読み終わって、感想を書きとめるタイミングを逸してそのままになっていた。最近は読見終わると片っ端からどんどん忘れていってしまう。さぁ感想を書こうと思って本を手に取った時に思い出されるのは、胸が苦しくなる気持ちと少しの希望の感覚だ。
著者の上間陽子さんと近い関係にある岸政彦さんの「生活史の方法」という本で、自分たちは自分に似た境遇の人に囲まれて暮らしていて、全く違う生活をしている人たちとの間には社会の切れ目があり、なかなか出会わない、というようなことが書いてあった。その本を読んでもその社会のバラバラな感じ、飛び越えられない感じが実感できたけれど、この裸足で逃げる、はその見えていなかった社会のある場所の中に深く入っていくことができる。
そうやって入っていくことで、その場でどうしようもなく起きていってしまうこと、若くて不安で巻き込まれたり、投げやりになったり、別の方法を思いつかなかったり、暴力の磁場から出てきづらい女の子や女性の状況を目の当たりにする。
主流メディアや新聞では捉えきれない解像度でこの社会のしんどさや残酷さが伝わってくる。多くの人がこの本を読んで、そのやり切れなさを感じ取って、女の子たちを責めるのではなく、どうやってそんなぬかるみにハマらないように大人が動くか、考えて行動していく人が1人でも多く増えるといいと思う。自分もそうできればいいと思う。
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Posted by ブクログ
少し前に、白血病で亡くなられた打越さんのことを書いた文章を読んだ。
その時に、本屋大賞のインタビューの、独特の間と、語り口を思い出して、この本に出会った。
沖縄の女の子たちの、もがきながら生きている様子が綴られている。
まるでドラマみたいな内容だから、ストーリーを追うように読んでしまって、時々あらわれる上間さんの涙で現実に戻る。
語り手もまた、語りながら、夜を過ごしている。
怪我をしたり、頼れる存在がいない中で、生きている女の子を目の前にしながら。
だから、柔らかい聞き手のようで、割とバシッと強いところのある上間さんが、この本には、いる。
一つ気になったこと。
この本は、様々な女の子のインタビューがまとめられている。
その中で、重なる父親像がある。
娘に何かあった時、そういう、はっきりさせた方がいいというようなことを、父親が言う。
それに対して娘の母は、世間に知られるとこちらも困るから、やめて欲しいと抑える。
このパターンを、何回か見た。
父のいる社会と、母のいる世間が、チグハグで。
そういう、ソトとウチの感覚も、沖縄は独特のものがあるんだろうな。
また、上間さんが本を出したら、読みたい。 -
Posted by ブクログ
p240 この海をひとりで抱えることはもうできない。だからあなたに、海をあげる。
この最後の1行は、「助けて」という叫びだと感じた。
だから、私は沖縄の海をもらわなくてはならない。
旅行でたまに訪れる遠くの観光地としてではなく、自分の故郷のように。
そしてそれは、沖縄だけでなく、
福島であり、ガザであり、ウクライナでもある。
頑張って頑張ってももうこらえきれない、抱えきれない人たちの苦しみを、安全な所にいる私たちは自分事として受け取り、行動を共にしていく義務があると思う。
p224 富士五湖に土砂が入れられると言えば、吐き気をもよおすようなこの気持ちが伝わるのだろうか?湘南の海ならどうだろうか?
p234 沖縄に基地を押し付けているのは誰なのか。3人の米兵に強姦された女の子に詫びなくてはならない加害者のひとりは誰なのか。
沖縄の怒りに癒され、自分の生活圏を見返すことなく言葉を発すること自体が、日本と沖縄の関係を表している -
Posted by ブクログ
1972年(S.47)に沖縄は本土復帰を果たした。
「その後沖縄はどうなったか?」普天間で暮らす著者が現状を綴ったエッセイです。幼い娘を持つ母の思いも伝わってきました。
息が詰まるような書き出しでした。
「食べられなくなるほどの苦しみ」を受けた彼女が書く作品を、最後まで読まなければならないと思いました。
美しい沖縄の海。人は海に住む生きものと暮らし、亡くなればまた海に帰っていく。
シマ(今帰仁村)では、祖父の遺骨をお墓に納めた後、海に入り、海の彼方(ニライカナイ)に皆で声をかける。
旧暦の12月8日には、家族の健康や無病息災を願い、ムーチー(鬼餅)を作る。
沖縄に残る風習は親から子へと受け継がれていく。
「綺麗な海や水を、私たちは残せるのか?」
島の湧水や、子どもが飲んだり遊ぶ水も汚染されていた。
「基地のない平和な沖縄」には遠く「沖縄に基地は残され、飛行機が飛んでいる間、娘は怯えて泣き叫ぶ」
性暴力の被害にあわないよう、性教育を4歳で始める母親の気持ちを思うといたたまれなかった。
今、米軍の新しい基地のため、辺野古の青い海に土砂が投入されている。赤く濁った海で魚や珊瑚はゆっくり死んでいくだろう!
「もし、富士五湖に土砂が入れられると言えば、湘南の海にならどうだろうか?」と著者は問うている。
実際に現地に足を運ぶことができないもどかしさを感じるものの、沖縄に住む人々の痛みや怒りを知ることは私にもできると思う。
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Posted by ブクログ
ご飯が好きな沖縄で暮らす母と娘の話かな〜くらいに読み始めたら全然違った。心にガツンと来る内容だった。
沖縄と聞けば、旅行、青い海、リゾート、バカンスといったイメージばかり。SNSでもそういう明るい沖縄の姿しか見かけない。でもこの本を読んで、中学の修学旅行で初めて訪れた沖縄のことを思い出した。初めての沖縄の記憶は、戦争、白百合学徒隊、防空壕、、、そんな重い思い出ばかり。大人になってリゾートとして沖縄に行くいくようになってからは、その部分をすっかりと置き去りにしていた。
どうしても身近にない出来事は、日常の中でリアルには感じにくい。でも、この本をきっかけに、あの暗い防空壕の中で感じたことを思い出した。あの記憶は一生忘れてはいけない。これからはSNSでキラキラ沖縄を見る度に、修学旅行での経験と、この本のことを思い出したい。
いつか、子供にも読んでもらいたい一冊。 -
Posted by ブクログ
勝手にラブ&リスペクトしている岸政彦さんの『調査する人生』で岸さんと上間陽子さんとの対談を読んで、上間さんのことも同じくらい全力でラブ&リスペクトしていこうと決めた。
社会学者として第一線で活躍されていながら、自分のやり方は本当にこれで正しいのかと悩んだり、ずっと悔やんでいる過去の「失敗」があることを明かしたり、同僚への圧倒的な尊敬の念を吐露したり、なんて真摯で謙虚で素晴らしい学者の方だろうと思った。
沖縄出身の上間さんは、東京の大学へ行くも現在は沖縄に戻り、主に現地の少女たちに聞き取り調査をしている。
彼女たちの多くが、十代半ばで子どもを産み、その後シングルマザーとなり、キャバクラなどの風俗店で働きながら生きている。
家族、恋人、あるいは赤の他人から突発的に振るわれる暴力によってボロボロになった自尊心を、限界間際のところでなんとか保ち、子どものため、大切な友達のため、自分の未来のため、生きている。
「自分と直接関わりのない他者」の存在は、現在ではSNSを開けば簡単に垣間見ることができる。
アフリカで飢餓に苦しむ子ども、トランプ政権復活に絶望する市民、パレスチナの戦場で逃げ惑う人々、ここ数十年で何度も廃墟にされたキーウの街並み。
短い動画を見るだけで、そのあまりの惨状に目を奪われ、一瞬にして頽落から引き戻され、何かしなくてはという気持ちにさせられることも少なくない。
『裸足で逃げる』に書かれた少女たちの苦しみは、しかし、SNSのような手法で手短に伝えることは絶対にできないだろうと思う。
「苦しみ」と書いたけれど、『裸足で逃げる』を読んでいて感じたことは、もしかしたら彼女たちの中に、自分がいま苦しい状況にあるのだという自覚自体がそこまでないのではないかということだった。
暴力も、性被害も、未成年での出産も、風俗店で働くことも、自分の身の回りにずっと普通にあったから。
親も、そのまた親も、この環境で生きてきたから。
しんどいな、体きついな、とその都度ふと思うことはあっても、この現状を今すぐなんとしてでも打破しなくては、辛くない方へ向けなくては、というような感情を持ちづらい環境であるように思えた。
もし、そうであったら。
確かに存在はしているものの、本人たちもうっすらとしか気付けていない苦しみや辛さは、手っ取り早いSNSや短い映像では、到底捉えきれない。
上間さんのように、研究をする社会学者として、また一人の人間として、彼女たちの生活に入っていき、少しずつ信頼を得て、その言葉を聞いて、頷き、認め、時には迷いながら介入し、解説や分析を加えすぎることなく文字にする、という、途方もなく地道な作業を、続けていくしかないように思った。
『裸足で逃げる』は、以前からずっと気になっていたのだけれど、以前、上間さんの『海をあげる』を読んだとき、あまりにも苦しくて、読むに至れなかった。
今回、岸さんの本に背中を押され、ついに読んでみて本当に良かった。
上間さんは現在、沖縄の若年シングルマザーを支援するシェルター「一般社会法人おにわ」の代表を務めている。
「おにわ」を応援したい気持ちが強くなって、でも今すぐ沖縄に飛んで行くわけにいかないし、行ったところでわたしには何もできないし、ということでまずは微額ながら毎月寄付の登録をした。
いつか上間さんにお会いできる機会があれば、すごく嬉しい。 -
Posted by ブクログ
真藤順丈さんの『宝島』と並行しながら読んでいたのですが、両作品から、己の無知さや無関心さをひしひしと痛感させられました。
無意識に基地を押し付けている。これを差別と言わずに何と言うんだ?
そう訴えかけられているようで、どちらも読んでいて終始苦しかった。
本島に生まれ、基地のない場所で暮らす自分こそ、沖縄のことに関心を持ち、彼らの抱える問題や歴史について知ろうと能動的にならなくてはいけないと感じました。住まう人々の苦しみを全てわかることが出来なくても、それでも海の向こうにある遠い出来事と思わず、これは自分たちにも繋がっている問題なのだと、そうやって無関心や無知という加害性を自覚することが、その土地への差別から抜け出す一歩だと思う。
まだまだ知識のない状態ですが、これから知って感情移入して、考え続けていきたいです…。 -
Posted by ブクログ
カウンセラーの信田さよ子さんと、沖縄の社会学者の上間陽子さんの対談集。とても読み応えがあった。信田さんは、カウンセラーのこれまでの歴史、精神科医との向き合い方の違い、そして性加害者、依存症への対処の遅れの指摘があった。昭和の男性は自らの性を語るとみな渡辺淳一になるという言葉には爆笑!カウンセラーとして、安易な共感はせず、抽象語にまとめてしまうことを許さず、体験を具体的に語らせる、語った言葉から構築できた事のみに対峙するという姿勢がかっこよい。上間さんは、家庭的に恵まれず虐待や性加害のあった少女・少年たちが、安心して被害を語れる場・機会に恵まれていないこと、加害者の卑怯さへの怒りが語られる。DV加害者への公的プログラムが、刑務所にないのは日本と北朝鮮だけ!というのが驚き。まだまだ、被害にあうほうが悪いとか、懲らしめれば反省するという思考、何か根本的に遅れている。プリズンサークルのような実践も始まっているし、これからいい方向に行ってほしいぞ。
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Posted by ブクログ
読みながら思い出したのが、海街ダイアリーの作者の吉田秋生の「ラヴァーズキス」と「河よりも長くゆるやかに」という作品でした。どちらにも、性被害を受けた後、性非行に走っていた少女が出てきます。
知識として、性被害を受けた人が、その後に性行動を活発化させやすいというということは、「裸足で逃げる」を読む前から知っていました。
ただ、それはあくまで独立した知識として知っていただけで、具体的な像としては結んでいなかった。だから、そうした「知識」と、それ以前に読んでいた吉田作品のキャラクター造形は結びついていなかった。
もちろん吉田作品のキャラクターはあくまでもフィクションなのだけれど、作者の性被害というものへの解像度の高さが反映されていたことに、今回、「裸足で逃げる」を読んだことの反映として気付いた。
そもそも代表作のバナナフィッシュ含め、性被害と、そこからの(そう呼ぶべきではないかもしれないけど)回復は、吉田作品の主要テーマの一つなわけで、今更ながらの気づきではあるのだけど。
吉田作品の感想になっちゃってますが…なんかこう自分の中にある、レイプ神話みたいなものに改めて気付かされるようなところがありました。
それともう一つ、読みながら思っていたのはDVや母娘関係を巡る臨床(カウンセラー)の立場から発信を続けている信田さよ子さんの指摘(上間さんとの対談本も素晴らしいです)。
彼女は、戦時下でのトラウマ的な暴力の経験が、戦後の夫から妻ないし子への家庭内力につながっていた、という事例も少なからずあったのではないか、という。
沖縄という場で、少女や少女であったひとたちが振るわれてきた暴力は、その恋人や夫や父や兄や、あるいは客や男たちからの直接的なそれとしてだけ理解すべきものではなく、明らかに重層的なもので、しかもその層の中には、彼女たちの本当の名前すらしらない、私の無意識なそれも含まれているのだと考えざるを得ない。