町屋良平のレビュー一覧
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町屋さん、芥川賞受賞のボクシング小説
プロボクシングの試合って、独特だ
何ヶ月も準備して、命を文字通り削って試合をして、それまでの準備の全てが、たった数分の試合で試される
だからこそ、負けの記憶は全ての否定として残る
だからこそ、勝負に上がることはとても怖い
その全てを、曖昧化した主人公の一人称で描き切った筆力
気がついたらのめり飲まされるリズムよい筆致
ウメキチや友達との奇妙な関係の魅力
なにより、「ぼく」自身の弱さと強さ
これはボクシングなんてやったこともない読者を問答無用でリングにあがらせ、己の生き方を問わせる(こういう比喩をすると友達に怒られる!)暴力的な作品
なんと曖昧で鮮やかなんだろう -
Posted by ブクログ
ネタバレ純文学的スポ根小説。ストーリー自体は特に突飛なものではない。初戦をKO勝ちで飾ったはものの、その後は負けがこんで苦悩する主人公。ボクシングをする意味、勝利の意味、敗北の意味、そしてボクサーである自分の存在や生の意味、何もかもの輪郭が曖昧になっていく。しかし新たなトレーナー、ウメキチとの出会いによって、彼は大きく変わっていく。ぼやけた事物の輪郭に目を凝らすことを諦め、単なる逃避か、最後の希望か、彼はウメキチに全てを託すことに決める。そしてラストシーン、1R1分34秒、彼は遂にKO勝ちを収めることになる。
この小説の本質は主人公が勝ち取った勝利にあるわけではない。町屋良平が巧みに描く、情けのない、何処にも辿り着かない内省の反復。その輪廻や無力感から抜け出そうと藻掻く、人間の生々しい喘ぎ。主人公の語りこそ冷徹だが、ウメキチよって引きずり出される彼の裸の叫びは、人間という生物の愚かさ、そして美しさを思い出させてくれる。 -
Posted by ブクログ
ネタバレこれがおまえが「夢」見た「アイドル」だろ。責任とれよ
SF×アイドル小説は、初の読書体験だった!
「夢」は未来では軽犯罪になっている。
そんな未来が、実際に訪れたら、怖いなと思う。
でも、「夢」を見ている時が、1番輝いてるような気もするんだよな。
「夢」を追えなくなったら、何を目標にして生きていくんだろう?
もし、そんな世界を生きることになったら、生きているのがつまらなくなってしまいそうだな。
本作は、ただのアイドルたちの奮闘記ではない。
「自分たちの他にも、未来人がいる!?」
それは、誰なんだろう?というミステリー要素もあった。
(あ、未来人の正体わかった!)
そう思ったものの、想像を超える展開に驚いた!
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ネタバレ好き嫌いと言えば、嫌いではない。
凝った文章で小説が進む訳ではなく、伸びやかに静かに物語は進行していく。「青が破れる」というタイトルから、夜が明け太陽が臨む際の色彩を感じられた。とても静かな朝焼け。そんな印象の一編である。
嫌いなところは、主要人物の死による退場。作者が登場人物の作品からの退場に「死」を多用することで、死の事柄や儀式性が薄っぺらいものにしてしまい、登場人物のキャラクターや異化効果を低減させてしまう。この点がこの作品の難点に思う。
あと、小学生でもわかる漢字をひらがなにて表記している点も気になるところだ。
ストーリーの運びが優れているのに、難もある作品に思えた。
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Posted by ブクログ
考えすぎの、ダメボクサーが溢れんばかりの独白で生きる自体への希求を描いている。行ったり来たりしてる脳内をそのまま写したみたいな文章は迷いとか不安とかを描き切れる。性格も悪くあんまり感情移入できないロクでもない主人公だけど、そのボクサーであること、ボクシングをすること自体が生きる意味になっているって、それは皆うっすら気づいていることで、そこならみんな理解できるんじゃないだろうか。
時々その人生が繋がっている感じがわからなくなったり見えなくなってしまうこともあるけど、やっぱりその行為と結果の、その関係性においてしか衝動って思い出せないんだと思う。
僕らはその間を行き来しながらでしか、人生の意味を見出せないってことだと思う。青くてきれいだ。
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Posted by ブクログ
「私の文体」「私の労働」「私の推敲」「私の批評」「私の大江」と続く連作短篇集。「書かれる私」と「書く私」のズレに意識的な「私」が、各作のタイトルに書き込まれた概念や固有名をめぐって思考を紡いでいく様子が語られる。あえて社会と文学をつなぐ「問題」を脱臼させて/迂回しつつ、それぞれの作品で架空のテクストを仮構して、それと対話するかたちで語りを展開させていくスタイルは「春琴抄」や「盲目物語」で谷崎潤一郎が採用したそれと通じるが、谷崎は他者の謎を書くためにそのスタイルを採ったのに対し、町屋はむしろ「私」を透明化させず、自明なものとはさせないためにその戦略を採用しているように見える。
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Posted by ブクログ
刊行当時、出版社の営業から珍しく営業がかかったことを覚えている。私はウェブマガジンの編集者だった。
町屋良平の過去作と比べることが許されるなら、この作品は、なんというか当人の「湧き上がる文学的な衝動」(という嘘くさくて軽薄な言い方は極めて失礼と承知)とか、だいたいそれに類する、有り体に言えばモチベーションの種類が異なっていてで、外的要因によって企画され、細やかな取材やリサーチによって固めあげられた作品なのかな、という印象をなんとなく、だかしかし強く受けた。なんでこの作品はこんなに固有名詞が多いのだろうか。
『しき』にあった福原鈴音のピアノコンクールの場面や、描かれなかったプロセスを、拡大して、細密に言語化したような作品として私は理解した。がしかし、研ぎ澄まされた身体の感覚、運動神経から思考と言葉を立ち上げる天才が、なぜこの本を書いたのかやっぱりイマイチよくわからないし、あくまで個人の感想としてという留保の範囲で、本作をどう位置付けていいのか謎。
全体としての印象は、他の作品とそれほど変わらないような気がするのだが、細部のあり方がとても気になった(特に中盤まで)。それは前述した作品の成り立ちへの勝手な妄想を根拠づけそうな感じがして、あまり深く考えたくないと思ったりした。
中途半端なところで書き出した感想は、やはりガタガタに歯車が狂っている。私は動揺して、だが安心している。とはいえ読み終えると、やはり町屋良平は天才なのだから、いつものように食らった。名古屋行きからのコンクールへの怒涛の流れが凄まじい。
一音目に混じる不協和音、それを引きずりながらも持ち直しはじめる第二楽章、そして悪魔的舞踏センスによる圧巻の第三楽章という源元の演奏は、そのまままさに本作の構造のアナロジーとなる。書き出しを捨てて、アナロジーを成立させることを選んだ町屋良平の文学者的冒険心に圧倒される。
「青春ぽえむ」という感想を見たが、それは本作を物語としてのみ認識しようとする意思の結果からだろう。これは小説であり、身体と言語と感覚について、いかに描出できるかの実践プロセスそのものだ。だからやはり、人は他人と同じ世界を見ることが基本的には叶わないということを認識させられる。そのことに絶望しつつ、そこにしかない希望というものもあるのだろう。それが文学の追い求めるものなのかもしれないと思ったりする。