町屋良平のレビュー一覧
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芥川賞受賞作ということで、手に取る。プロボクサーが選手兼任のトレーナーと組み、試合に向けて練習を積んでいく物語。
プロボクサーであること以外は、これと言った特徴のない主人公。彼の一人称視点によって、序盤の敗戦、そして復帰戦までの練習の日々が描かれる。
ボクサーが新たなトレーナーと出会って再起を図るサクセスストーリー、となるとボクシングを題材にした作品でありがちな展開。ただ、この作品は、サクセスストーリーでは、決してない。対戦相手を友人と妄想し、日常が全く上手くいっていない主人公は、別に大きな変化は起きない。変わったのはトレーナーによる指導と、本人の技術面の変化。内面的には、女性への急な暴力性や、感情的に素人に手を出す幼さなど、あまり成長は感じられない。
とはいえ、ボクサーとしての生活は続いていき、鬱々とした日々が続く。その内面が繊細に描かれていて、没入できた。 -
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ネタバレ主人公が書道やコーヒーを入れる時間やおしゃれや掃除など日々のくらしや日常を大切にしていたのに、右足の太ももを刺されて瀕死になるという非日常という事件が起きて、必死に自分を保つように日常を送るような気がして、共感した。右足が故障して、逆に身体が不自由になったことで、彼はダンスで身体を解放してあげようとしたんじゃないかなと思い、それに奥深いものを感じた。
彼の物の見方が素敵だし、だけど彼に欠けてるものが彼以外の人を惑わせる。
だけど、生活を続けていくなかで、人は自分と向きあい自分を表現していくんじゃないかと思わされた。
私は精神疾患があり、主人公のような身体の不自由さはないが、どんなときも生命は生きようとするし、生活は続いていく。生活のなかで彼のようなコーヒーを入れる瞬間や書道で自分の気持ちや感覚を見つめる瞬間やハッとするトキメキを大事したいと思ったし、たとえ、一見不幸に見える出来事も日常や生活のなかで彼のように昇華していきたい。自分の生活を大切にしていきたいと改めて思った。 -
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ネタバレ特に印象に残ったのは、衿さんの留学が決まりお別れする場面。なんかしみじみとさせられいつも以上にゆっくり噛みしめ、もう1度さらにゆっくりと読み、その画を思い浮かべ、すぐ横でその場面を見ていたかのような感覚がするぐらいにまで入り込んでいた。
そこからまさか刺されるだなんて…落命しないでくれと心の中で声に出したりとすっかりここでの生活の住人になった気分だったが、まさかそこからCIを初め、失踪し、総合格闘技にまで話は及び『!』と『?』を何度も味わいながら迎える終盤のグルーヴ感とそのピーク感には、これは幸福の最高値を塗り替えたのでは?と思ったほどでした。大満足! -
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21歳のプロのボクサーの一人語り。自分の状況を見つめながら、相手を想定しながら、どう戦うのかを思い巡らしながら、ボクサーの日常の生活やトレーニング、減量の方法などを語る。あくまでも戦う姿勢を堅持している。ぼくはデビュー戦でKO勝ちした後は勝てていない。敗者の言葉が連なる。そして、言語化できるものを言語化して表現する。結構タフな文章の構成の仕方がある。戦いのシミュレーションが構築されていく。しかし、勝てない。勝てないが故に、なぜ負けたかを分析する。負けるにはたくさんの原因がある。戦うのは、自分であり、実に孤独な戦いでもある。メンタルは自分で強固にするしかない。ここまで、緻密に語るには、自分の体験がなければできない。
本書の最初の対戦相手は近藤青志。青志を徹底してデータを集め分析する。最初は対戦相手として現れるが、いつの間にやら親友になってしまうようだ。青志くんは「あしたは、がんばろうな。俺のがんばりがお前のがんばりを引き出せて、いい試合ができたら俺はそれでいいんだ」という。勝つことへの執念はないようだ。自分が日本チャンピオンを目指していたのに、いつの間にか下方修正していく。
プロとしての対戦相手との距離感覚。これがきちんと掴めないことが、消耗する。ボディを狙われる。それはスタミナ不足を見抜かれているかだ。恐怖は精神力で克服できない。あるのは圧倒的な技術に対する信心、不信、それに付随する肉体のストレス、そして全身の反射だけだ。気持ちで奮い立たせることができるのは、モチベーションだけだ。実に冷静な分析をする。青志くんはボディがうまいのだ。
「お前は視力を尽くしたのか?」「さいごのさいごまでいっこのボクサーを遂げたのか?」「最後のダウンで、お前は本当に立てなかったのか?」「奇跡の大逆転は本当にあり得なかったのか?」を自問する。負けて、自分いといかける。「視る技術とダッキングウィービングの技術がまだ連動していないかも」とトレーナーから言われる。結局は、足が動かせていないのだ。
そして、トレーナーは、私を見捨てて、去り、先輩のウメキチがトレーナーの代役をする。この梅吉になってから、自分への言葉でなく、ウメキチへの言葉になって、やっと対話がする亩。ウメキチは、よくぼくを見ていた。何が問題かをきちんと分析し、対応する。ウメキチは、「俺をそだてるつもりで付き合ってくれや」という。「なんでお前はボクシングやってんの?」という質問もする。「勝ちたいのか?」そして「考えて。考えるのはお前の欠点じゃない。長所なんだ。」という。
そして、試合の相手が決まる。
友人は、映画を作っていて、ぼくを写し続ける。美術館に連れて行ってくれる。彼氏がいる女が付き合ってくれる。そういう時間を過ごしながら、どう勝つのかを頭の中で考え、ウメキチの練習メニューに従って、信頼のシステムを構築する。
そして、ぼくはきっと勝つ。1ラウンド1分34秒のTKOであっさり勝つのだ。
ボクシングは、ハングリー精神が必要で、ガッツがいるという昭和のボクシングがあったが、明らかに違った視線で、ボクシングに立ち向かっているのが見えてくる。 -
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ネタバレシニカルに空気を読み合う高校生たちの物語と思っていたら(それだけでも十分読みごたえはあった)、映画やテレビ番組の出演経験のある2人の高校生が互いの役割=意識を交換させた経験をきっかけに、後半、立川と砂川の戦争記憶にかかる演劇の準備が始まるところから急にドライブがかかりはじめる。
墜落したB29の搭乗員と市民が集団リンチの末に殺害したという事件をモチーフに作られた演劇が、高校生たちに達成感と一体感、バラバラになった家族を再び結びつける機会になった、という展開ならよくできた(しかしありきたりの)メロドラマになるが、「演じること」の内と外との境界を問い続けた不穏さは、この演劇が、仕掛け人であり座長格でもあった高校生の自己破壊願望、攻撃性を発揮させる舞台に他ならなかったことを露わにしていく。かれは演技/演劇というフィルターを通さなければ、自己自身の欲望をつかまえることさえできなかったわけだ。
語りだけでは登場人物のジェンダーがすぐには読み取れない(むしろ性的な多型性の方が前景化させられている)語りにしても、この演劇がある意味で歴史修正主義的な内容になっていることにとまどう教員の登場にしても、ひじょうによく考えられた上で書き込まれた小説であることは間違いない。 -
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表題作の「青が破れる」に「脱皮ボーイ」「読書」の短編、さらに「青が破れる」のマンガ、尾崎世界観との対談も併録された短編集。
何はともあれ、「青が破れる」である。文庫の紹介文に文藝賞の際の評価なんだろうけど、藤沢周、保坂和志、町田康が絶賛したこともわかる佳作。
文章の長短、リズムの変化、淡々とした描写など、作者が小説を使って新たな表現というか体験を描こうと模索していることがよくわかる。それは例えば次のような文章に表れていると思う。
「ハルオの彼女は、「ボクシングやってるの?」とはいわなかった。/「はー、空がたっかー」/といった。」
「夏澄さんに/・・・・・・ きて/とまたいわれ、夏澄さんちにいく。午前十時。/着いた瞬間に、「よかった。はやくきてくれて、ありがとう。留守番お願い」といわれた。鍵を摑んだまま、玄関の前に立ち塞がるように待っていた。/夏澄さんに「ありがとう」なんていわれるのは、初めてのようなきがした。」
ひとつ目は表紙にも引用されているので印象的だけど、二つ目は適当にページを開いて目についたものの引用だ。まあ、全体的にこんな感じで終始文章を味わいながら読ませてもらった。
短編「脱皮ボーイ」「読書」は「青が破れる」とはまた少し文章のテイストが異なる。「読書」は古井由吉や松浦寿輝を思い出させた。
芥川賞受賞作も読んでみたいと思った。 -
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読書開始日:2022年4月7日
読書終了日:2022年4月8日
所感
憧れと嫉妬って紙一重だけど、
その一重部分を表現するのが本当に上手いなと思う。
ただただ憧れてなにかを諦めるわけではなく、かといって嫉妬をガソリンにして、粘るわけでもなく、憧れに対して爽やかに近づく姿勢。
自分は各作品の主人公に憧れる。
本作も好きな作品だった。
楽譜や音楽の新たな一面も見れた。
筆者からは芸術の色んな面を見せてもらっている。さまざまなものに興味を持つ。
一番好きなシーンは、ショパコン当日の名古屋の喫茶店で、潮里と源元の完璧なカップル感に、きちんとぜつぼうできたこと。
なにかの天才が宿った瞬間だった。
天才の考え方もとても好きだった。
他にも好きな文章がたくさん。
嗜虐性と悪感情は関係無い。嗜虐性が猫と女を寄せることすら、というか
女の子に冷たくし、女の子にキラキラとすかれる
女の子は優しい放任より、誠実な奔放の方が紙一重で好き
好意も愛情も無いからこその絆
死者との交信=楽譜、楽譜は絶対
すきな相手にすきと告げる鮮明な言語化
文学=自分から離れた自分=それが真の自分
印象的な光景
みんな目に映るものを信じるけど、みんな目に写ってるのは同じじゃ無い。同じも同じじゃ無いも証明できない
うまく絶望できていいなあ、絶望も才能のうち
艱難
そういうジンクスを完成させている途中
視聴覚は遅れてやってくる。みんな未来を見ながら遅れた現実を生きる。過去を見つめる音楽が、一本の線でつなげてくれる?
訥々
現代社会にコミットする最適解は、過去を尊重、未来へ活かすため、今の言語を目一杯犠牲にする。スクラップアンドビルド
ショパンの200年前を現在に繋げる運動
天才は現象であり、人間では無い
才能の言外、語られない才能周辺を書きたい
食パン=白うさぎのようなしょっかん
鬱は鬱を脱却する動悸が無いから鬱。深い底で居心地の良い絶望にさらされ、そこには能動も消極も無い。客観的にはそこから抜け出すコツなんて知ってる
蹲る
呻吟
寺田くんの誠実なルーティンワークの背中に、かれの心痛をぼくはみる
いくらぼくが純粋だときても、それを証明する運動を一泊要する時点で純粋とは程遠い
破綻した文法にあらわれる客観思考
完璧なカップル感を前に、絶望
天才を呼んで宿す、宿すことを慣らす
才能のないぼくは、愛のないぼくは、まだ孤独を知らない
ゾンビになろう
懊悩
音と音を繋げる、音楽を志向する。記憶も同じ -
Posted by ブクログ
読書開始日:2022年3月2日
読書終了日:2022年3月3日
所感
とても好きな作品。
装画通りの読後感。
インドが一瞬でも舞台になる作品はなぜか自分の中で外れがない気がする。
岳文がかなり拗らせてる。
でも自分と重なる部分は沢山ある。
さも自分しか考えつかないような思想を神秘に感じ、ひけらかしてしまう感じなんか特に。
冬実の岳文への一言は完全に自分へもぶっ刺さった。「女のこの言外のかしこさを、舐めたらだめだよ。あなた程度の神秘なんて、みんなすぐにわかる、でもことばにしないだけ」
惚れた女のこにたびたび水に落とされる部分もわかる。本当は落とされていないんだろうけど、岳文の記憶の脚色。
ずぶずぶに落ちていく気持ちよさもわかる。
破壊衝動。
されたい衝動。
駆られる。
純粋は犯罪であり、暴力というのもとても共感できる。なんか不思議だ、純粋は良さだというが、純粋はすぎると上記の通り。
この世に純粋なんてものは実はないんだ。
ちょうどいいところを純粋と言って、それがわからないから岳文なんだ。
なんか通ったことのある道を少しだけ違う人格で見てるような気持ちになった。
これまでを思い出せるいい作品。
日記がモチーフになってるからかな。
良作。
手のひらと手のひらが繋がる経験は、他の何にも代替の効かない、まったき閃光
こういうときに、季節が役
いわせてもらえた、と言う感謝の気持ちが湧き上がる
体温と拒絶の温度との落差に耐え切れず、ぼくはしずかにからだを離した
現世的幸福と幻想的幸福を区別すべきでない。
あまり現実に拘泥すると、現実の範囲が狭まる
日記を誰かに見せると、都合の良い物語になる。岳文は記憶の脚色を自覚している
女のこの言外のかしこさを、舐めたらだめだよ。あなた程度の神秘なんて、みんなすぐにわかる、でもことばにしないだけ
ぼくと冬実の会えない時間は、こんなにも違った
垂れる滴の圧倒的おもさが、じぶんのからだの外枠を象る
言語よりは非言語、意識よりは無意識で会話していると信じているぼくらの、拭いがたいノスタルジー
慇懃無礼
合理的にことを進めるだけの謝意
官能的な検索
長考を、待っててくれた
わたしは男らしいよりやさしいを優先する。そりゃときどきは、男らしい本能が欲しい時、女の本能が燃える時もある。だけどわたしの個性は人間としての優しさを優先する
耳朶をはむ、魔除け
ことばの介在しない曼荼羅
からだのすみずみにまでリズムを充填させ、なんでもない道でも楽しそうに歩く人間が、いつだってモテる
他人のことが怖いから、他人に自分をみつけて、委ねようとする。
自分を、他人に預ける。
好きな女の子の心の中に住みたかった
恋をしているときは心身をまるごと相手に預けたかった。それでもあまる個の核が残る。それが厭わしい。
7/10くらいが共感できるようなことを、情熱と自分の文体を保ち続けながら書き、言うこと
純粋こそが暴力、犯罪
岳文の純粋は壊す。ゆえに小さくなりたい。
変な衝動は、純粋なんだ
能動でも意思でもないなにかが、たびたび岳文を水に落とす、どこかへいけと
日記、まちがっていたのは実感とことばの関係ではない、流れ
キャッチの距離 -
Posted by ブクログ
他人と自分は絶対的に違い、思考は共有できないということ。
さらには、自分の思考さえ人は言語化できないということ。
それでも、ひとは「バラバラのまま重なり合える」ということ。その美しさ。涙が出るほどの、美しさ。
この小説のやっていることは、星野源が「うちで踊ろう」で提示した世界の美しさと同じだと思う。
それぞれの登場人物の思考が、明確な区別なく、入り乱れる構造をとる本作。それぞれの思考は言語化されているようでありながら完全には言語化されえず、その人物自身にもその正体は把握できないし、まして他人にそれは絶対に伝わらない。
しかし、明確に違う人たちが同じ世界に同じ時間を生きて、四季が過ぎていくということ。その美しさに勝るものなどない、ということがはっきりと伝わってくる。
そして彼らの教室への馴染めなさ。それはかつての自分のそれで、その熱量のない馴染めなさ=それが決して切実な問題ではないということがとても気持ち良い。
類型的な学生生活の描き方を明確に拒絶することによって達成される、解像度の高い描写。
町屋良平は、やはり天才である。