浅倉久志のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
あらゆる仕事が機械化された時代が背景の小説。(もはやそんなに遠い未来のことでもなさそうだ。)バーもすべてが機械化されて回転寿し屋のように酒が回ってたりする。オープンしたての頃はその目新しさで話題を呼び、大盛況となったのだが、すぐにつぶれてしまう。その数ブロック先に、生身の人間がカウンター内に立ち、ジュークボックスが置かれているバーがあったのだ。結局はみんなそこへ帰っていった。
そしてここから革命が生まれることになる。この酒場の描写箇所だけはこれがいつの時代だといっても通じる。外へ出れば、未来世紀ブラジルなんですけれど。人間が集まる場は人間を求める。酒場は永遠なんじゃないかと希望を持てた。ただ嬉しかった。 -
Posted by ブクログ
ヴォネガットの作品は皮肉と温情の闇鍋である。ある部分だけをつまみ出せば、それはあまりに口汚い世間への罵りであり、またある部分を切り取れば、まるで宗教の説話のような訓辞になっている。しかし全体として作品を見れば、どうしようもなくひどい世界でも愛してやまない作者の理想主義である。
この『デッドアイ・ディック』でも、ライフル銃で妊婦を撃ち殺してしまった少年の人生を、かばい立てすることなくえがいいている。兵器、銃器というものは、使用者の善意・悪意・無為を問わず、使用すれば人を傷つける他はない。中性子爆弾にしてもそうである。見かけがきれいに残っていれば、それは破壊ではないのか。居抜きで占領者が殺戮後の都市を使用するとする悪魔のような所業を、ライフル銃で人を誤って殺した少年の罪と並べたのではないか。
-
Posted by ブクログ
トラウトとヴォネガットのグランドフィナーレを飾る、ヴォネガットの最後の長編小説。
タイムクエイクとは、過去十年をリプレイする現象だ。
これまで過ごしてきた十年間を、自分の意思とは無関係にやり直さなければならない。
あのときの事故を防ぐことも、あのときの失敗を防ぐことも、あのときの失言を取り消すこともできない。
皆一様に、自らのたどってきた、愚かしくも誇り高き十年をなぞる羽目に陥る。
ところが、リプレイ終了と同時に、自分の意思で行動をしなければならない。
何にも考えずに行動してきたのに、ある瞬間を境に、「自由意志」のスイッチが入る。
そうすると、人はどうなるか。たとえば、動く歩道に乗って移動をして、
歩道が終わると自らの足で一歩を踏み出さなくてはならないが、
あなたが相当ぼーっとしていたとしたら……。
突如、動く歩道が終わり、おそらくあなたは前につんのめって転ぶだろう。
タイムクエイクとは、そういうことである。
十年間のリプレイ。
非常に面白い発想で、 最後の最後にヴォネガットはSF的な要素の小説で
グランドフィナーレを飾ってくれたと思ったものだが、
このリプレイとは、今のわれわれのことなのかもしれないと思うに至った。
自らの意思で考え、気づき、動けとずっと訴えてきたヴォネガットだった。
しかし、もう「坑内カナリア」理論だけでは追いつかない世界情勢に業を煮やし、
読者への最後の贈り物としてこの物語を仕上げたのではないだろうか。
ヴォネガット作品に度々登場した孤独で不遇なSF作家、
キルゴア・トラウトは、リプレイ終了後に
「あんたは病気だったが、もう元気になって、これからやる仕事がある」と、
混乱する人々を励まし続けた。
そして、たくさんの人々から感謝されたトラウトは、一人ぼっちではなくなった。もう孤独じゃない!
「タイムクエイク」は、ヴォネガットのラストの小説であり、
これまでのヴォネガットの小説を継続して読んできた読者への特別なプレゼントでもある。
そのため、他の本を読んでない人にとっては、おそらく意味不明な描写も多いはずである。
が、個人的には、いろんな思い入れのある作品だ。 -
Posted by ブクログ
副題は「または、もう孤独じゃない!」。ヴォネガット1976年の作品。
ここでのテーマは拡大家族。そう、ヴォネガットが生涯テーマにした「拡大家族計画」だ。
「スラップスティック」は、設定も展開も登場人物も、なにもかもがハチャメチャで奇想天外。
特に、主役のスウェイン医師と姉のイライザとの「お祭り騒ぎ」のくだりは爽快そのものだ。
この爽快感がヴォネガットらしさなんだなぁ。
テーマ的としては、「猫のゆりかご」でヴォネガットが提唱したボコノン教をうんと推し進め、
現実的にしたもののように感じた。
人びとをカラースで分類した代わりに、「スラップスティック」ではミドルネームを政府が発行し、
無数のいとこ兄弟姉妹を提案した。
アイス・ナインで人類が瀕死のふちに立たされる代わりに、重力の激しい変動を用意した。
SF的な要素が濃いながらも、「タイタンの妖女」のようなやりきれなさは感じなかったし、
「猫のゆりかご」のように突き放した絶望感も感じなかった。
ただ訪れるものを受け入れつつ、人々が変容していくことにも動じず、
淡々と生きてゆく数少ない登場人物のありようは、ヴォネガット文学を貫く普遍的なテーマに則っている。
この作品は、設定の奇想天外さにおいても、
根底に流れるテーマの普遍性においても、ヴォネガットらしさがバランスよく含まれている。秀作。
なお、訳者あとがきでは、拡大家族のヒント、星座占いがなぜこうまでも受け入れられているかについて
ヴォネガットが語ったコトバが引用されていたが、
この作品を理解するうえでとても大きな助けとなった。うーん、さすがだ。 -
Posted by ブクログ
後期ヴォネガットの代表作のひとつといっていい。
ヴォネガットらしさに満ちて、構成もうまい。
「ローズウォーターさん」同様に、ここでのテーマは「金」。
ヴォネガットは、金や富をファンタジーとして扱う。
金持ちは、金を用いて富を分配することで世の中をよくしたり、
人々を救うことができると真剣に考えている。
違うのは、エリオット・ローズウォーターは幸せだったが、
「ジェイルバード」のメアリー・キャスリーンはそうとは言い切れなかった、
といった差だけ。彼らは資本主義社会のファンタジーであり、魔法使いなんだな。
「ジェイルバード」では、本人の意向や思惑を大きくそれて、誤解の上に待ち受ける、
思いがけない展開に流されてしまう人々の物語とも取れる。
人生は、勘違いと思い込みで彩られているのかもしれない。
読後感の後味は、わたしは「ローズウォーターさん」よりも
「ジェイルバード」のほうが好きだ。
限りなく、ヴォネガットらしい。 -
Posted by ブクログ
ヴォネガット初の長編小説。1952年。
500ページ近くあり、かなり長いが、やはりヴォネガットは長編がいい。
最初の長編ということもあり、いつものノリとはちょっと違う。
まず、なんと言っても時系列順に物語が進んでいる。これはヴォネガット的に珍しい。
それから、トラルファマドール星人もキルゴア・トラウトもいない。
あんまりイカレた人は出てこない。しかしながら、「イリアム」という地名が登場する。
この先何度も出てくるこの地名、わたしは実在の都市だとばかり思っていたら、
架空なんだそうな。うーん、やられた。
そんなオーソドックスな手法で書かれたこの作品だが、
中盤くらいからだんだん箍が外れてくるの感じた。
序盤は、短編集にあるSFっぽいノリなのだが、主人公のポールが郊外に家を買うあたりから、
なんというかいつものヴォネガットだなぁと思った。
途中途中でさしはさまれる「ブラトブールの国王(シャー)」のエピソードは、
その後の作品に(形を変えてではあるけれど)引き継がれているように感じる。
わたしが感じる「ヴォネガットらしさ」とは、運命に逆らえずにどんどん流されていく視点にあると思う。
その変化を見つめる視点はいたって冷静で、どう抗ったところで引き戻されるものでもない。
その状況がそんなに「しっちゃかめっちゃか」なものであっても。
ヴォネガット文学の面白さは、彼が誘ってくれるその「しっちゃかめっちゃか」に乗ることにあると思う。
確かに皮肉もあるし、教訓もあろう。政治批判、文明批判、大いに結構。
ニヒリストとしてのヴォネガットは超一流。
しかし、そのニヒリズムは「しっちゃかめっちゃか」があってこそ映える。
彼は批判の対象について、是正を求めるような聖人ではない。
求められた是正が実行されたところで、絶対もとの鞘に納まることはない。
きれいに解決するわけはない。
そこまで描いてくれるから、わたしはヴォネガットを信じるし、
「あーでももうしょうがないじゃん」という人や事項が
あっちこっちに存在することは、認めなくちゃいけないんだ。 -
Posted by ブクログ
「デッドアイ・ディック」の主役は銃であり、ドラッグであり、中性子爆弾であり、人々の偏見だ。
これらがたくみに物語の中で影響を及ぼしてくる。その主役たちの周りで、
へんてこなダンスを踊らされているのがルディ・ウォールツであり、
ルディの父であり、母であり、兄であり、ドウェイン・フーヴァーとその妻だ。
途中途中にさし挟まれるレシピ、これがまたいい。
そして、人生は演劇だ、ときどき台本までもが登場する。
「デッドアイ・ディック」は「ジェイルバード」のあと、1982年に書かれた小説で、
名前から「ジュニア」が取れた『近年の作品』の範疇に入るのではないかと思うが、
「デッドアイ・ディック」のヴォネガットはとにかく調子がいい。
油が乗っている。職人芸だ。上手い。翻訳もすこぶる調子がいい。
コトバが血肉になっている印象すらある。
あとがきを読めば、どのくらい調子がいいかがさらに伺える。いいタイミングで訳されたと思う。
どの世界にも原理主義者って言うひとたちがいて、
Genesisならピーガブが脱退する前までしか認めないとか、そんな類の主義なんだけど、
ヴォネガットもご多分に漏れず、「猫のゆりかご」や「タイタンの妖女」の評価がめっぽう高い。
しかし、わたしは職人の熟練した腕で生み出された作品がものすごく好きだ。
わたしにとっての最初のヴォネガットは「スローターハウス5」で、何度も読んだ本だし、
おそらく一番好きな本は?と問われれば、これを指すだろう。
けれど、ほんとうにそうだろうか、とふと思う。
ヴォネガットのよさは、熟練の妙味だ。
これがなければ、すべてのヴォネガットを読み続けることなんてなかった。
その妙味のある作品といえば、70年代後期〜80年代に生まれた作品群にあたるのではなかろうか。
それにしても、「チャンピオンたちの朝食」は、もしかしたら「猫のゆりかご」以上にヴォネガットにとって
重要な1冊なのではないかと思った。「チャンピオン」と「青ひげ」、「デッドアイ・ディック」は
三兄弟のような作品だ。こんな本が読めて嬉しい。
もっと読まれていい一冊だと改めて思う。 -
Posted by ブクログ
エッセイ?小説?よく分からない作品。
本の中心になるストーリーは、時間が突然10年前に逆戻りし、人々はまったく同じ10年間をデジャブの中でリプレイする。それが突然終わった時の混乱で、おなじみのキルゴア・トラウトが活躍する、というものなのだが……。
冒頭で作者は、「老人と海」を引き合いに出してこう説明する。「老人と海」で釣り上げたカジキはヘミングウェイが書いた長編小説のことで、それが鮫に喰われてしまうのは、批評家たちにボロクソにけなされたことの象徴なのだと。
釣り上げた魚は食われる前にバラしてしまえばよかったのだ。
今回、作者は自分の作品が気に入らないので、自分でバラバラにして、いろいろぶち込んでシチューを作ったのだという。
出来上がったのは、なんとも不思議だが味わいのある作品だ。作者の、シニカルだが暖かい人間愛はけっして衰えていない。
これで、最後の作品だと、作者は宣言しているけれど、まだまだこれからもすばらしい作品を作り続けてほしい。 -
Posted by ブクログ
創元SF文庫から山形浩生さんの訳、「暗闇のスキャナー」の邦題で出ていた"The Scanner Darkly"を、浅倉久志さんが新訳したのがこのスキャナー・ダークリー。
内容に関しては、ディック後期の傑作ということもあり、色々なところに書かれているので、僕は翻訳の違いに関して感じた事を。
ハヤカワやサンリオの浅倉久志訳でディックの作品に親しんでいた僕は、山形訳の暗闇のスキャナーの翻訳は言葉が少しシャープ過ぎる感じもしていたけれど、今回浅倉訳が出て、改めて読み比べてみると、登場人物のボブ・アークターが壊れてしまった後なんかは、山形さんの訳の方がしっくり来て、アークターが人とは違う何かになってしまった感じがよく伝わってくるように思う。細かな感情表現など、僕らがリアルに感じる言葉で訳している分、感情移入も誘われる。この山形さんの訳に対しては好き嫌いがはっきりでそうな気がするけど、若い子は多分こちらに惹かれると思う。
一方、浅倉訳の方は、文の調子に慣れているせいもあってか、文章が読みやすく、文の繋がり、運びが上手くよどみない感じがした。あまりにもすぐなくなるような現代的で過激な表現は使われてないし、それだけ文が柔らかいので、ディックをはじめて読む人とかには、浅倉さんの訳がお勧めだと思う。
読み比べても楽しめるので、ディック好きなかたは、躊躇せず、両方、出来れば原書も買いましょう。
何度読んでも、アークターが分裂して行くところの描写や、最後の農場での独白は心に迫るものがある。 -
Posted by ブクログ
以前からタイトルだけは知っていたが、人に薦められて改めて興味を持ったので読んでみた。結果、世界観に引き込まれ、1日で読み切ってしまった。
「人間」と「アンドロイド」の境界が、世界の中で曖昧になり、1人の男の中でも曖昧になっていく。この世界では、信じられるものが限られている。これまでの固定概念が崩れた時、人間は、アンドロイドは、そして私は、正気でいられるだろうか。そして、その時に、支えになるのは真実か、愛か、信仰か……?
そう遠くない未来で、人間とアンドロイドは区別が付かなくなるかもしれない。自分は何者だと胸を張れるだろうか。自分の生き方を誇れるだろうか。
そんなことを考えさせられた。