浅倉久志のレビュー一覧
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どれも非常に読みごたえがある、文章密度の高いSF短編集だ。中には設定が難解すぎて脳内でイメージするのにひと苦労するものもあり、いくら短編集とはいえ一冊に詰め込みすぎている感もある。なので一気読みはお勧めしない。連作集ではないので、自分にとっては毎日一編ずつ読み進めていくくらいがちょうど良かった。
SFということで物理や数学が関わってくる作品が多いが、これらをストーリーを進めるための単なるツールとしてではなく、「ゼロで割る」あたりが顕著だが、原理や定理にまつわる思想そのものを作品のテーマに昇華させている点が面白かった。
一番印象に残ったのは「地獄とは神の不在なり」。以前本作にインスパイアされた国内作家の作品を読んだことを思い出したが、その時はミステリの中途半端さとキャラクター設定のチープさに辛い評価を付けたのだけど、本作は(短編ということもあるけど)シンプルな設定で問題なく楽しめた。まあ神様を扱っている時点で「そういうお話」ということを前提として受け入れる必要はあるんだけど、もちろんそこにケチをつけるつもりは全く無い。キリスト教の影響が強いアメリカで、神様を災いの元として描くというのは結構勇気のいることだったのでは、といった点も興味深いところ。 -
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ネタバレ初テッドチャン。ごりごりのSF作家だと思い込んでいたのですが、結構神話の世界を物理で語りきる作品もあって、なんだかちょっとファンタジーな雰囲気もあり新鮮な感じ。スターウォーズのように、観たり読んだりしている最中よりも、考察を余儀なくされる感想文を書くこの時間が一番楽しくなる作品。
考察すればするほど、そもそも欧米と日本の価値観の違いが浮き彫りになる。
日本語に ままならない という言葉があるように、人間や人生というものはどうしようもない側面があるものだという前提を含んでいるのに対し、
欧米は 人間=この世の支配者 説明がつけばコントロールできるものである というスタンスがあるように思う。
この欧米の前提を、テッドチャンは 本当にそうだろうか? という考えを、科学ネタを織りまぜながら読者に問いていると思った。
なので、読む際は是非、自分は欧米人である!!(なったことないけど!!)と思いこんで読んでほしい。
そうすると、人間に対する愛しさと嫌悪感が同時に湧いてくる奇妙な作品となるし、実際、自分の価値観が欧米化されてる部分があるという発見もできます。
純ジャパメンタルで読むと、こいつらごちゃごちゃ小難しいことして意味不明って思って終わる笑
<バビロンの塔>=努力は必ず報われる→報われることも無いが、罰もない。(信仰を手放す幸せ)
バビロンの塔という神話と聖書の宇宙観を元ネタにしながら、あえて拍子抜けなオチにもっていく。
キリスト教に親しみのある人たちと日本人とで、この物語の感じ方は違うのかな?
さとりは「ひらくもの」っていう文化圏で生きてると、偉業を成し遂げることで超越的存在からの啓示に期待する行動ってあんまりピンと来ないんだよな。神頼みに似てるけど、バビロンの塔のような物質的な成果や偉業を成し遂げるというより、現状の苦しみについて受身的に解釈を深める感じだし。
<理解>理論の完璧さは幸福をもたらす→必ずしももたらさない(理解を手放す幸せ)
コンピューターのような演算マシーンが搭載された、まさに脳にインテル入ちゃった人の話。とっつきにくさをだいぶ感じた。
天才科学者の生きてる世界ってこういう体感することあるのかな?理論では見えるのに、現実世界は追いついてない感じ。
最初の方は新しい言語形態構造の取得し、それが(理屈は分らんが)宇宙の理解に結び付く。それを楽しむ主人公。
後半は、同じような身体機能をもつ他人と対峙することで、武器を使わずに死に至らしめる理論を考え付く。
相手の毛細血管をコントロールして死に至らしめるって、なんじゃそりゃって思った笑
「理解」が進んだ人間の早すぎる処理能力を逆手にとって、相手のストレスを最大出力できるような何かを行使するとか?
それに似たことは、現実の世界でも派閥・権力争いという形式でやってるような気がする。
演算に拘りすぎた結果が短絡思考って皮肉だな。
<ゼロで割る>=数学は神のように完璧である→完璧ではない(信仰を手放す幸せ)
「理解」に似ている感じの作品。数学という宗教に捕らわれた人間の物語。こういう人を極端なプラトニストって言うらしい。
多分、「理解」もこのプラトニストに捕らわれた人間のシミュレーションなんだと思った。
ゼロで割ると無限大っていう話題、初めて知りました。私、理系なのにそんなこと考えたことなかった・・・。
アインシュタイン、いいですね。最近映画オッペンハイマーでも彼を見たんだけど、彼の科学に対する眼差しや姿勢が自然で親しみが沸く。
<あなたの人生の物語>=人生は自由だ→自由意志は存在しない(理解を手放す幸せ)
やっと本命にたどり着いた。読む前に映画で見たけど、内容割とそのままだったかも。
元々youtubeの積読チャンネルで知って気になってた作品。
未来は同時に存在する、人間に自由意志は存在しないという残酷な事実の中で生きる人の作品。
積読チャンネルの紹介によると、この作品は読む時期によって感じ方がだいぶ違うとのこと。
私は元ネタの相対性理論が何なのかっていう考え方の構造の方が気になったけど、人生そのものが無性に愛おしくなる感覚になったりするらしい。
昔、東大生だった知人が「いつか、人が何年も時間をかけて感じることを、一瞬で感じられるような方法を考えたい」って言ってたのを思い出した。
<七十二文字>=繁殖は愛情深い営みである→生存戦略として最適解の中に愛情行動自体がプログラムされている(理解を手放す幸せ)
ファンタジー。錬金術っぽくもある。
人の人工的繁殖について、人工的な発明でありながら、最後は意外なとある方法にたどり着く。
作中様々な繁殖方法が検討されますが、例えば女性だけで出産可能とする仕組みは今の常識で考えれば驚き且つ混乱を覚える機能だけど、ミジンコとかシュモクザメなど、単独で子孫を残す生物が既に存在しているんですよね。
なぜそういった進化に至ったのか考察にとどまるところだけど、前述のように、結果的にそうなる可能性は十分考えられるし、それに慣れ切った世界はとても合理的に運用されている気もする。(実際、既に行為そのものは娯楽という文化に変化しているように)
ゴーレムが元ネタと考えると、なんとなく、
人工繁殖=元々が無生物→これは人間なのか?ロボット?繁殖し続ける意味ある?
という妙な疑問を持つ。繁殖したい欲望って、人間誰しもが持ってるわけじゃない。
でも、もし、この繁殖に対する知的好奇心や義務感の強い人間のDNAを持った個体や教育環境が拡大していけば、世の中の倫理観も変化して、そのうちその方法が実行されることが普通になり、結果的に人間が生き延び続ける唯一の方法だった、となることも考えられる。
(物語ではこそこそ研究してますが)
<人類科学の進化>=科学は神の領域に至りつつある→後から解明しているに過ぎない文化的行動にすぎない(信仰を手放す幸せ)
最初読んだとき、最近流行ってる「量子力学を理解したら引き寄せの法則で人生思い通りになります!」!みたいスピが流行る現象を揶揄してるのかな?笑
と思ったけど、そんな低レベルな風刺をテッドチャンがするだろうか?と思い直し、超人類=自然とか宇宙とか現象そのもの、人類=地球上の人類すべて(科学者含む)と考えることにした。
ちょっとインターステラーっぽい。
科学は文化だ(神ではない)と言い切ってますね。
<地獄とは神の不在なり>神は救ってくれる→救わない(信仰を手放す幸せ)
神の降臨=自然災害&啓示&祝福の機会っていう、不平等・不条理に振り回されてる人々の世界。
死者が天国もしくは地獄へ落されることまで観測可能な世界で、主人公が神を愛するに至った経緯を描いている。
主人公の知能で解釈(意味づけ)が可能な出来事を苦悩しながら経験していったにもかかわらず、最後は人知を超えた(=神の意図を放棄せざるを得ない経験)イベントによって、その後の人生で主人公は神を愛するに至った。
チ。~地球の運動について~に出てきた、過酷な状況に置かれた科学者達が、それでもこの世界を愛している、と言っているあれに似ていると思った。
ここまでの作品の流れで、この世の真理の理解を突き詰めた人類が、理解手放した結果、真理に行き着くという逆説が発生している。
<顔の美醜について>人間は頭が良く理性的な生き物だ→容姿に過剰反応する動物だ(理解や信仰みたいな考えはもともと持ってない)
やっと最後の作品!真理みたいな壮大なテーマから、急に俗っぽい題材になってびっくりした。でも意味ある設定なんでしょうね。
カリーという処置を施すことで、ルッキズム社会を緩和しようとする社会の話。
カリー自体の適用・解除は気軽にできるという設定だが、その処置に対する議論やプロパガンダの様子を発言集のような形式で構成されている。
人は容姿に思考が左右されてしまうほど弱い生き物だと認めるコミュニティと逆張りコミュニティと、そもそも業界として生存危機に立たされる化粧品業界の争い。
皆、自分を「自分は理性的な生き物」だと信じて行動しているけど、これは完全に逆説で、登場人物全員、美醜・容姿に対する過剰反応をしている。
高尚っぽい内容から俗っぽくなったのも、この人間のままならなさ、どうしようも無さが強く感じられて、良い舞台設定だと思う。 -
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ネタバレ悲しいけど、前向きな話。映画も大好き。
作者/訳者後書きにあるように、ディック自身の体験をもとに描かれたアンチドラッグ小説。SF要素といえば、着用者の姿がわからなくなる「スクランブル・スーツ」くらいだけど、話の本筋にはそんなに関係がない。
新型で強力な麻薬「物質D」の潜入捜査官である主人公が、薬中仲間と暮らしながら…その暮らしにどっぷり溶け込みながら、要はジャンキーと捜査官の二つの顔を持つ生活をしていく過程で
自分で自分を監視することになり、自分が誰なのか?が曖昧になっていく。Dにハマったことによって、カオスはどんどん深まってしまい、最後は脳が焼けこげて収容所に入れられる。
自分がなんの仕事をしていたのか?自分は誰か?もわからずに、ただ単純作業をこなすだけ。
ディックが、若い友人たちがドラックによってめちゃくちゃになっていく姿に心を痛めていたことが伝わる。
主人公、、ボブ・アークターは何もかも失ってしまうわけだけど、最後に掴む青い花は希望のメタファーなんじゃないかなと思った。どんな状況下に置かれても、まぁそんなもんよと受け入れきらないで、足掻こうとするディック作品の主人公らしさが大好き。 -
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『猫のゆりかご』の2年後の作品。どこか風味が似ている。ウィットとユーモアたっぷり、実によくできている。
エリオット・ローズウォーター。大富豪、ヒューマニスト、慈善家、インテリで、歴史好き、そして酒好き。そのハチャメチャな生き方。箴言もたくさんある。一番気に入ったのはこれ。「けちけちするな。親切であれ。芸術と科学は無視してもいい。どちらもだれのためにもならないからだ。」
エリオットの好きなSF作家はキルゴア・トラウト。66歳、現役の倉庫係。87冊のペイパーバックを出しているものの、ほぼ無名。代表作は『2BRO2B』、ツービーアーノーツービー。数ページ出てくるだけなのに、強い印象を残す。 -
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読んでいるときの感覚は星4くらいだったのだが、そのあとに思考を整理するために感想を長々と書いていたら、とてもよい小説だったなと思い改めた。
以下、感想。
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「青ひげ」の主人公・ラボー・カラべキアンは元画家の老人で、海辺の屋敷で大量の美術品を抱えながら独り暮らしている。コックやその子供、使用人もいるが独りである。彼が二番目の妻と長年暮らしたその屋敷は今ではコックの娘が友達を連れてきて好き勝手に遊んでいる。そして妻にさえ見せなかったジャガイモの納屋が建っている。
そこにサーシ・バーマンという女性がやってくる。彼女はアメリカで大活躍中の作家であるが、彼にその姿は明かさず、海辺でカラべキアンがひとり佇んでいるところにやってきて、
「ねえ、あなたのご両親はどんな死にかたをしたの?」
と訊ねる。
彼女はカラべキアンの屋敷にしばらくの間、住むことになる。そして彼女の登場をきっかけに、彼は自分の半生を振り返る自伝的小説を書き始める。
この小説は、彼の書く自伝的小説の部分と現実でのバーマンとのやり取りが交互に展開されてながら進んでゆく。
自伝的部分では、アルメニア人の父母のもとで育っていた彼が、彼を目にかけるマリリーと出会ってパリにゆくまでの経緯が語られ、現実ではバーマンの登場によってそれまで化石のように動かなかった彼のうちの時間が次々に塗りかえられてゆく様子がわかる。
読んでゆくうちに、現在のカラべキアンと過去のダン・グレゴリーが重なり、彼をパリに呼んだマリリーがバーマンと重なるようにも見える。これは抑圧的に他者を抑え込もうとする父性的な象徴と、男性にとっての母性的な象徴を映すものとしてそれぞれがよく重なって見えたのであって、実際の彼らには少なからず差異がある。だがカラべキアンの視点を通して語られると、どうしてもそれが重なっているように見える。
ダン・グレゴリーの家での数年間は、十代のカラべキアンにとって苦痛の滲むものであった。カラべキアンが来た時点でマリリーは階段の上から突き落とされて片足にびっこを引くような状態に陥っている。話がちがう。悲惨的な状況と言えるだろう。彼を呼んだ人間がいない中で彼はパリでの暮らしをはじめる。現在のカラべキアンの陰鬱な性格を形づくった日々とも言えるかもしれない。後に彼は自虐的に自らのことをこう表す。
カラべキアン[名](二十世紀のアメリカ画家、ラボー・カラべキアンより)。ある人物が愚鈍さか不注意、またはその両方で、自分の業績と評判に泥を塗るような大失敗を演じること。
画家だったときの知り合いはことごとく自殺を遂げている。たとえばキッチンは、父親に拳銃を向け、一発撃った後に(弾は頭をそれて肩に当たっていた)、拳銃の銃口を口にくわえてそのまま死んだ。
ほら、また自殺だ。フォークナー、アーヴィング、そしてヴォネガット。
彼らにとっての自殺は、という問いが自ずと浮かんでくる。その秘密に近づくためには、スローターハウス5の彼らみたいにヴォネガットの時代にまで遡らなければならないのかもしれない。その地点で生きてみる必要がある。ただひとつ明らかであるのは彼らの自殺と、日本文学における三浦哲郎が描いた兄姉の死や、芥川、太宰、三島が自らの身体をもって体現した死とは根本的に何かが違う。
人が死を選ぶのはおおよそ、自身の生きる「自身」か「環境」に絶望するためだと思う。死は完全なる休符であり、そこから先に音やリズムを繋がないための唯一の方法である。それはある種の美しさとして捉えることもできるだろう。それを身体の劣化というような自然的要因に身を任せて遂げるのか、事故や殺人のような偶発的な事故として他者によって定められるのか。はたまた自殺のように、自らの理性をもって自らの生を決めようという意思なのか。恐ろしいことに、理性によって本能のベクトルを定めようとし構築されたこの社会では、自殺の周辺に薫るこの静けさを、ある種の美しさとも捉えることができる。ヴォネガット、フォークナーらが描いた自殺と、日本文学において重要な産物である自殺。自殺する理由が、客観的にはっきりと説明づけられるのはアメリカ文学に置いて描かれてきた「自殺」の方である。
この小説は終盤にかけて、静かでまたドラマチックなあらすじに向かってゆく。ひどく緩慢な速さで。
その終着点はどこかというと、ジャガイモの納屋がついに開けられて、その中にある絵をカラべキアンとバーマンが眺めるシーンだ。タイトルは「こんどは女性の番だ」。カラべキアンが戦争の終わった直後に見た谷での光景を描いた絵。とても長い絵で、どこから見ようとしても一目で全貌を見渡すのは不可能なほど大きい。
「第二次世界大戦がヨーロッパで終わった日に、太陽が昇ってきたとき、ぼくがいた場所だ」
と彼はバーマンに伝える。
絵には戦争時には殺し合った人種たちが入り混じって描かれている。強制収容所の囚人、奴隷労働者、捕虜、ドイツ軍の兵士、地元の農夫とその家族。誰もが救いを待ち受けている。絵にはカラべキアンも描かれていて、画面のいちばん下の床すれすれのところにいる。
これは戦争の話だ。読み終えたときには自然とそうわかる。戦争は、いつまでも語られるべきなのだ。語られながら、いつまでも起こされないものとして伝承されるべきものである。
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謎多い作家コードウェイナー・スミスの人類補完機構シリーズを年代記風に並べた短編集(50年代から発表されておりエヴァンゲリオンとは全然関係ない)。古いSFマガジンで何かの短編を読んで衝撃を受けて以来虜になってししまった。
物語は第二次大戦のナチスの話から1万6千年先までの人類の趨勢が描かれています。戦争によって人類は絶滅しそうになるのですが、そこからの復活がなんとも皮肉が効いていて印象的です。非常なドライでもなくかといってベトベトウェットでもなく、その一歩引いた姿勢がかっこいい。ドイツ人以外の人類を殲滅するための人間狩猟機(メンシェンイェーガー)が何千年も経て文明が崩壊しマンショニャッガーとなまって言われる殺戮機械としてのこっていたり、猫の遺伝子を組み込んだ生命爆弾兵器やら精神障害者の特化した能力を宇宙船に組み込んで宇宙を航行したりと異様な世界が描かれます。政治学者でもあった著者の思考は独特ではあるけれどリアルな感触を持たせるところも魅力。がちがちなハードSFとは違うけれどなんでもありありファンタジーとも違う。やっぱりスミスの作品は他の何とも似ていない唯一無二の存在。遺伝子操作された結果である言葉を話すクマ人間やカメ人間とかネコ人間出てきて、シドニアの騎士とかに影響を与えたんだろうなとも想像してしまいます。古びない作品群は今読んでも想像力を刺激します。 -
Posted by ブクログ
ジュラシックパークの原作者の代表作。限りなくリアリティのある設定で進むので思いっきり没入できた。高校生物の知識で専門的な部分もほぼ理解できた。宇宙探索における地球外生命体と人類の接触について、生物の定義そのものを揺るがす未知の生命体の解明への様々な調査が進む。その中で、ヒトという存在や地球上で共存する生物について、新たな視点が生まれたのが嬉しい。地球上の極限環境にも生物がいるのだから、宇宙に広義の生物が存在する可能性を否定できない。地球ではないところで進化を遂げた生物は、遺伝情報としてDNAを用いなかったり、タンパク質は存在せず未知の物質を持っているかもしれない。そのような生態を見てみたいと強く思う。
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Posted by ブクログ
大きいことはいいことだ。人間は生物の中でもとりわけ大きな脳を持ち、またそれを鼻に掛けてきた。だが、脳が大きいことはそんなにすごいのか? 大きいことは、本当にいいことなのだろうか?
本書は「人間の脳は大きくなりすぎた欠陥品で、しかも危険きわまりない邪悪な機械である」という洞察のもとに書かれたサイエンス・フィクションである。私はこの本を大学生のときに知り、以来作者のファンとなった。
ご存じのようにヴォネガットは、未来を戯画的に描くことで現実世界の歪みを浮き彫りにする手法をよく用いる。本作もまたその好例で、われわれの脳の大きさは実際には一五〇〇グラム程度だが、この小説ではそれがさらに進化し、三キログラムという設定になっている。そして人類は大きくなりすぎた脳のせいで、破滅の道を歩み始める。
彼一流のユーモアに溢れた表現をいくつか紹介しよう。
──当時の人間のおとなの大部分が、三キログラムもの重さの脳を持っていたのだ! それほどふくれあがった思考機械が想像し実行できる邪悪な計画には、およそ限界というものがなかった。
──いくら人間がふえたといっても、この惑星にはまだすべての人間にたっぷりいきわたるだけの食料や燃料などがあったが、いまや何百万人もの人びとが飢えで死にかけていた。
──そして、この飢饉は、ベートーヴェンの第九交響曲とおなじく、純然たる巨大脳の産物だった。
──だから、こういうしかない。当時の人間の脳は、生命をどこまで粗末に扱えるかについて、ひどく口数の多い、無責任な発案者になっていたため、未来の世代の利益のために行動することまでが、ちょうど限られた範囲の愛好家がたのしむゲームのように扱われた──たとえば、ポーカーや、ポロや、証券市場や、SF小説の執筆のようなゲームのように。
いかがだろうか。本作は構成の緻密さという点でもヴォネガットの作品群の中でとりわけ優れた部類に入るが、作品のいたるところに散りばめられた痛烈な批判の数々を眺めるだけでも一読の価値がある。
ところで、この物語では人類は絶滅してしまうわけではない。しかし、ある意味ではそれよりももっと皮肉な結末といえる。過酷な自然選択の法則は大きすぎる脳を無用と宣告し、人類から取り上げた。われわれの子孫は小さな流線型の頭とひれを持ち、和毛に覆われた体へと「進化」して、ガラパゴス諸島の片隅にあるサンタ・ロサリア島という架空の楽園でひっそりと暮らしていくのだ。
この物語における現在、すなわちいまから百万年後の人類には、もはやベートーヴェンの第九は書けない。だが、そんなものが何になる? ここでわれわれは再び冒頭の疑問に戻る。巨大な脳を持つことがそんなに偉いのか。人間は本当に賢いのだろうか。