鈴木大拙のレビュー一覧

  • 禅とは何か

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    思惟の垢を脱ぎ捨て、無の深淵に臨むための書。

    [思考の彼岸に立つ禅の本質]
    『禅とは何か』は、単なる宗教哲学の解説ではない。
    そこにあるのは、知の光をもってしても射し込むことのできぬ暗黒の核、すなわち「禅」の本源に迫らんとする、鈴木大拙の精神の跳躍である。
    私が禅と出会った時の衝撃は、今でも忘れがたいほど記憶に刻まれている一方、その本質を掴むことは誠に難しい。
    禅とは何か。
    それは言語をもって定義されるものではない。
    それは、沈黙の中に閃き、日常の行為の中に突如として姿を現す。
    禅は「無心」であり、「空」である。
    だがその「無」は、空虚を意味するのではなく、むしろ、万象を孕んだ創造の母胎である。
    剣道の一太刀に、俳句の一音に、茶の湯の一滴に、禅は潜み、そこに生命の根源たる直感が凝縮する。
    鈴木大拙は、東洋の深奥を西洋の冷厳なる理性に対置しつつ、彼岸の知を開示するのである。

    [鈴木大拙という人間ーー静謐なる叛逆者]
    1870年、加賀の城下町・金沢に生まれた鈴木大拙は、その生涯を禅の「無」を西洋世界へ伝えることに捧げた。
    青年期に鎌倉の円覚寺にて釈宗演の膝下に参禅し、後にアメリカに渡ってケーラスと親交を結ぶ。
    仏教をして生きた宗教たり得せしめるのは、知識ではない。
    体験であり、沈黙である。
    大拙は終生、この信念を貫いた。
    彼は学者でありながら学者を超え、翻訳者でありながら霊的導師でもあった。
    その言葉は、英語で書かれてさえも日本の山河の気韻をまとい、異国の精神に風穴を開けた。
    大拙は、語る者ではなく、語らずして伝える者であった。
    そこにこそ彼の異様なまでの魅力がある。

    [大拙が影響を受けた人物――思想の種火をともした者たち]
    ■釈宗演(1860〜1919)
    大拙の精神を鍛え上げたのは、円覚寺の峻厳なる禅僧・釈宗演であった。
    思想ではなく生のあり方を以て、彼に「坐り、沈黙し、ただ在ること」の重みを教えた。

    ■ポール・ケーラス(1852〜1919)
    洋の東西を結ばんとする志を持ったドイツ系アメリカ人の哲学者ケーラスは、大拙に西洋的表現の鋳型を授けた。

    その思想的器がなければ、大拙は世界的な「声」を持ち得なかったであろう。

    ■井上円了(1858〜1919)
    理性の剣で東洋思想の幽明を斬り開こうとした哲人であり東洋大学の設立者。
    大拙にとっては、思考と直観の拮抗を教える教師であった。

    [大拙が与えた影響――言葉の枠組みを破壊した者]

    ■アラン・ワッツ(1915〜1973)
    禅をロンドンの霧の中からカリフォルニアの陽光へと導いた伝道者。
    大拙の思想に触れ、彼は理性の殻を脱ぎ捨て、精神の裸体を求めた。

    ■ジョン・ケージ(1912〜1992)
    沈黙という音楽の可能性を開いたアメリカ人の作曲家。
    大拙の禅的無に触れ、「音なき音楽」の創造へと踏み出した。

    ■ジャック・ケルアック(1922〜1969)
    アメリカ文学の反逆児的小説家であり詩人。
    『路上』の疾走の中に、大拙の禅的瞬間が閃く。
    彼にとって大拙は、精神のアナーキストであった。

    [西田幾多郎との関係ーー無をめぐる魂の交歓]
    大拙と西田幾多郎ーー彼らは同じ年、同じ石川の土に生を受け、異なる道から同じ深淵を覗き込んだ兄弟である。
    西田は「場所の論理」において、存在の根底に「絶対無」を据えた。
    大拙はそれを、禅の「空」として生きた。
    両者は常に対話し、交わらずして深く通じた。
    西田が「善の研究」で語る「純粋経験」は、大拙の直感的悟りと同根である。
    それは「考える私」を越えた「無の場所」にほかならない。
    西田の哲学は、大拙にとって禅を思惟の形式に昇華させたものであった。
    かくして、思想と宗教、哲学と実践という分断された知の大地に橋がかけられたのである。

    [無の裡にひらく真の自己]
    鈴木大拙の禅は、沈黙の哲学である。
    言葉は常に裏切り、概念は常に遅れる。
    だがその裂け目から、しばしば真の「自己」が顔を覗かせる。
    『禅とは何か』は、そのような自己を呼び覚ますための一書である。
    読者がこの書を手に取る時、知を越えた感応の刹那が訪れるであろう。
    それは、現代という煩悩の海を渡る者にとって、ほとんど奇蹟に近い灯火である。

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    2026年06月14日
  • 禅と日本文化 新訳完全版

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    日本文化の根底を捉えてくれる一冊。
    日本文化について知りたい人は、この一冊を読めば必ず深く日本文化を理解できると思う。

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    2026年05月19日
  • 日本的霊性 完全版

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    『死者と霊性』を読んでいる際に複数回参照されていたため、手に取る。
    鈴木大拙による日本的霊性についての書籍。霊性とは何かについて、「もののあはれ」から鎌倉武士、親鸞について触れながら語られていく。

    非常に難解な内容だった。読んでいくためには、ある程度の仏教の知識、平安、鎌倉時代の歴史知識が求められるように思う。
    霊性について理解を深めたかったため、主な該当部分である2章まで読み進めた。
    また、戦前、戦中に書かれた内容ということで、大日本帝国時代の精神構造を批判的に捉える内容も出てくる。この辺りは、時代背景を踏まえていないとやや突飛に感じる。

    霊性とは、精神の中にあり、あるものをありのままに受け止めるもの。
    感性や情動で揺れ動くものの先にあり、花は花であると受け止める。
    桜は散って、また芽吹くからこそ桜であるように、否定があってからこそ、ありのままのものになる。
    今の自分の理解度はこのくらいのものだった。

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    2026年02月13日
  • 禅と日本文化 新訳完全版

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    鈴木大拙が悟っていたかどうかはわからないけど、日本にすごい人がいたもんだ。

    今はインターネットもスマホもあり、必要な情報はすぐに得られるけど当時ここまで真理を突き詰めるとは並大抵の才能と努力ではなかったと思われる。

    「無分別智」(自他不二)は根本の真理でしょう。

    不立文字…

    「本当の自由」とは…

    善ではなく純、自己忘却…

    二項対立を超える…

    やっぱ禅が好きだなぁと実感。

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    2025年11月21日
  • 禅と日本文化

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    欧米向けで理論的に説明されている。禅の精神は日本人の芸術や生活に染み込んでいて、日本的であるとはつまり禅であると
    現代の日本人はどうか

    全文はブログで
    www.akapannotes.com

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    2025年08月06日
  • 新版 禅とは何か

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    思惟の垢を脱ぎ捨て、無の深淵に臨むための書。

    [思考の彼岸に立つ禅の本質]
    『禅とは何か』は、単なる宗教哲学の解説ではない。
    そこにあるのは、知の光をもってしても射し込むことのできぬ暗黒の核、すなわち「禅」の本源に迫らんとする、鈴木大拙の精神の跳躍である。
    私が禅と出会った時の衝撃は、今でも忘れがたいほど記憶に刻まれている一方、その本質を掴むことは誠に難しい。
    禅とは何か。
    それは言語をもって定義されるものではない。
    それは、沈黙の中に閃き、日常の行為の中に突如として姿を現す。
    禅は「無心」であり、「空」である。
    だがその「無」は、空虚を意味するのではなく、むしろ、万象を孕んだ創造の母胎である。
    剣道の一太刀に、俳句の一音に、茶の湯の一滴に、禅は潜み、そこに生命の根源たる直感が凝縮する。
    鈴木大拙は、東洋の深奥を西洋の冷厳なる理性に対置しつつ、彼岸の知を開示するのである。

    [鈴木大拙という人間ーー静謐なる叛逆者]
    1870年、加賀の城下町・金沢に生まれた鈴木大拙は、その生涯を禅の「無」を西洋世界へ伝えることに捧げた。
    青年期に鎌倉の円覚寺にて釈宗演の膝下に参禅し、後にアメリカに渡ってケーラスと親交を結ぶ。
    仏教をして生きた宗教たり得せしめるのは、知識ではない。
    体験であり、沈黙である。
    大拙は終生、この信念を貫いた。
    彼は学者でありながら学者を超え、翻訳者でありながら霊的導師でもあった。
    その言葉は、英語で書かれてさえも日本の山河の気韻をまとい、異国の精神に風穴を開けた。
    大拙は、語る者ではなく、語らずして伝える者であった。
    そこにこそ彼の異様なまでの魅力がある。

    [大拙が影響を受けた人物――思想の種火をともした者たち]
    ■釈宗演(1860〜1919)
    大拙の精神を鍛え上げたのは、円覚寺の峻厳なる禅僧・釈宗演であった。
    思想ではなく生のあり方を以て、彼に「坐り、沈黙し、ただ在ること」の重みを教えた。

    ■ポール・ケーラス(1852〜1919)
    洋の東西を結ばんとする志を持ったドイツ系アメリカ人の哲学者ケーラスは、大拙に西洋的表現の鋳型を授けた。
    その思想的器がなければ、大拙は世界的な「声」を持ち得なかったであろう。

    ■井上円了(1858〜1919)
    理性の剣で東洋思想の幽明を斬り開こうとした哲人であり東洋大学の設立者。
    大拙にとっては、思考と直観の拮抗を教える教師であった。

    [大拙が与えた影響――言葉の枠組みを破壊した者]
    ■アラン・ワッツ(1915〜1973)
    禅をロンドンの霧の中からカリフォルニアの陽光へと導いた伝道者。
    大拙の思想に触れ、彼は理性の殻を脱ぎ捨て、精神の裸体を求めた。

    ■ジョン・ケージ(1912〜1992)
    沈黙という音楽の可能性を開いたアメリカ人の作曲家。
    大拙の禅的無に触れ、「音なき音楽」の創造へと踏み出した。

    ■ジャック・ケルアック(1922〜1969)
    アメリカ文学の反逆児的小説家であり詩人。
    『路上』の疾走の中に、大拙の禅的瞬間が閃く。
    彼にとって大拙は、精神のアナーキストであった。

    [西田幾多郎との関係ーー無をめぐる魂の交歓]
    大拙と西田幾多郎ーー彼らは同じ年、同じ石川の土に生を受け、異なる道から同じ深淵を覗き込んだ兄弟である。
    西田は「場所の論理」において、存在の根底に「絶対無」を据えた。
    大拙はそれを、禅の「空」として生きた。
    両者は常に対話し、交わらずして深く通じた。
    西田が「善の研究」で語る「純粋経験」は、大拙の直感的悟りと同根である。
    それは「考える私」を越えた「無の場所」にほかならない。
    西田の哲学は、大拙にとって禅を思惟の形式に昇華させたものであった。
    かくして、思想と宗教、哲学と実践という分断された知の大地に橋がかけられたのである。

    [無の裡にひらく真の自己]
    鈴木大拙の禅は、沈黙の哲学である。
    言葉は常に裏切り、概念は常に遅れる。
    だがその裂け目から、しばしば真の「自己」が顔を覗かせる。
    『禅とは何か』は、そのような自己を呼び覚ますための一書である。
    読者がこの書を手に取る時、知を越えた感応の刹那が訪れるであろう。
    それは、現代という煩悩の海を渡る者にとって、ほとんど奇蹟に近い灯火である。

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    2025年06月25日
  • 一禅者の思索

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    一禅者の思索
    著:鈴木 大拙
    講談社学術文庫792

    衆生無辺誓願度
    この世の一切の生きとし生けるものを必ず救ってみせるという誓いがでてきます

    最後に、豊臣秀次の間が、高野山の金剛峯寺にあるという話がでてきます。
    秀吉から、僧侶になったにもかかわらず、秀次が切腹させられた部屋のことです。
    そして、それから15日余り後、秀次の側室や子供たちが、河原に集めらえて
    腐乱した秀次の遺骸を前にして、次々に殺害されたとの話がでてきます。

    大拙は、最後になぜこのような話をもってきたのでしょうか
    一禅者としては、政治を救えないということをいいたかったのでしょうか。

    日本人の一人として、このような非道を行った豊臣家は続かず、徳川の世になった
    ということは、納得がいくところです。

    仏教という宗教が歴史にはたしてきた役割とはなんだったのか、考えさせられます。

    ISBN:9784061587922
    出版社:講談社
    判型:文庫
    ページ数:228ページ
    定価:880円(本体)
    発行年月日:1987年

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    2025年03月14日
  • 無心ということ

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    無心ということ
    著:鈴木 大拙
    角川ソフィア文庫 H101 1

    これまた難解な書、自分を捨てることが、必要ではあるが、ただ捨てるではいけない

    無心なるも、ただの動物的な無心ではいけない。

    無心ということは、仏教思想の中心で、東洋精神文化の枢軸をなすものである、と大拙は説く

    依然として、まわりをうろうろするような感じをうける。真理を前に腑に落ちるという感覚がどうもつかめないのである

    気になったのは、以下です。

    ■無心とはなにか

    ・無心が宗教生活の極致であるということは、受動性がわれらの宗教体験の極地に立っているという風にとりたいと思うのです

    ・人間は死骸にならないと本当のことがわからんといってもよい
    ・木や石のようになるということは、今の死骸のようになることであると見てよい
     動かせば動く、座らせれば座る、蹴とばせばとばされる、そして、別に何とも不平を言わぬ、全く絶対の受動性を発揮している。そういうことがあるのです

    ・相のないものの話をするときは、相をそこに現わしてするより外に途がない

    ・きちんと論理や倫理やその外各種の理できめられたら動きがとれなくなる
     動きがとれなくなったら、人間というものは一日も生きてゆかれぬ

    ・心というものがあれば、それが自由になるのです、そうでなくてはならぬのです
     そこで解脱するということは自由を得ようとすることに外ならないのです。
     自由を得ることは、善悪などの値打ちのつけられる世界を超越してしまうことです
     無分別の世界にはいってしまうことです、無分別の世界にはいるから神通遊戯と言われる

    ■無心の探求

    ・自分をなくしてしまって、絶対の他、他力に自分の身を任せる、自分のはからいを容れないという風に、無心の意味を解するところに宗教があると思うのです

    ・自分を全く棄てるのである。しかして、この自分を棄てることは、この自分になんら道徳的な意味も働かせず、哲学的な意味もせずに、ただの自分なのです。そしてこの自分を棄てるのです

    ・身心脱落ということは、空になることではない。何かがある。あるが、そんならそれを掴もうと思うと掴めなくなってしまう。そういうものが、あると思うから掴もうということになる

    ・心は木石の如し
     自分にものをもたぬということです。つまり道元禅師の言われたような身心脱落ということです

    ■無心の活動

    ・浄土宗の方面では、どうしても浄土と穢土を分けます。この浄穢ということは、分別の世界をいうものです。相対抗するものをきちんと分けて、その間には直線的に連続のできぬものとしておくのです。

    ・弥陀の本願
     ところが、阿弥陀さんは、独坐大雄峯だけでは、その働きがでないのです。そこから本願というもの、いわゆる、仏祖の霊機輪なるものが動いてでなければならないのです。
     すなわち、衆生は名号すなわち南無阿弥陀仏と唱える、そしてその一念のところで助かるのです

    ・宗教的体験の根本義というものは、無心ということでなければならない
     木石如きもの、木人唱石女舞うというようなものでなければならない
     ある意味でいえば、本能的ということにもなるのです
     しかし、この本能的ということは、だいぶ条件づけておかぬとはなはだしい誤解を生じてきます
     また木石のごとしというても、それは静観的な、頑空無記的なものでなくして、そこから機輪が転じ出すのです

    ■無心の完成

    ・穢土を厭離して、浄土を欣求する

    ・つまり、自分はお釈迦様の言うところを、その通りに信じるんだ。
     法然上人さえおいでになれば、自分はどこにでも行く
     どこへ行っても変わらないのである。極楽でも地獄でも行くと、これが聖人の信仰なのである

    ・とにかく、いっぺん、その形あるものを脱ぎ棄てた世界に入り込まなければならぬのである
     身心脱落の世界は無分別の世界である。無心の世界である。この無心を体得するとき、往生するといってもよいのである

    ・つまり、無分別のところに、いっぺん、徹底することが、すなわち、かの国に往生することであるし、菩薩になることである

    ・負うた子に教えられるということがある
     いかにも怜悧な人で、理屈のみでやろうとするときは、概念的分析でいかにも計画的に秩序整然と調べてゆかれますが、かえってわからなくなるのです。
     背中の無心の子供が、生地のままで、ある意味でいうと、本能のままで、無分別の働きをして、むつかしく考えこむ大人をおしえることがいくらでもあります。

    ・本能は無心といえば無心であるが、それは動物の無心であって、人間生活の無心ではない
     人間界の無心には今一つ洗練せられたというか、あるいは人間化というか、あるいは仏化したとでも言うか、何かそういう風な無心の世界がなければならない

    ■結語

    ・仏とは即心是仏で、この心がすなわち仏である



    目次

    序

    第一講 無心とは何か
    無心の意味
    無心の表現
    宗教生活としての受動性
    宗教の極致
    分別を越える
    浄土のありか
    浄土の内容
    不可思議の妙味
    無限の開展と永遠の願い
    十万億土
    解脱と自由
    無心の境地
    最後心の見方
    飛躍横超
    大安楽境

    第二講 無心の探求
    三種の無心(心理学的・倫理学的・宗教的)
    無我と無責任
    最高の体験
    身心脱落
    「心無心」「心非心」
    無住無所得
    現代と無住思想
    達摩の「無心論」
    心木石の如し
    支那の無心思想
    夢幻か実在か
    無心にして生きる世界
    極楽へ往生すること
    不死

    第三講 無心の活動
    趙州和尚の話
    灌渓の話
    無心の活動
    無分別の作用
    浄土と無心
    弥陀の本願
    往生の決定
    「菩薩子喫飯来」
    機根の問題
    宗教的体験の根本義

    第四講 無心の完成
    極楽の実在性
    極楽と娑婆
    往生の意義
    往生の因
    自然法爾と無心の世界
    「自然法爾」の端的
    仏智不思議の世界
    無心完成の世界
    生死は仏のおん命
    浄ララのところ
    光明の顕現
    剣法と無心
    禅の活用と日支印の特色
    非論理の徹底
    矛盾矛盾に非ず
    無分別の境を通して
    無心と往生と悟徹
    梅巌の心学と無心
    堵庵の思案なしと無心
    心学と禅
    洒脱自在

    第五講 無心の生活
    無心と本能
    幼児と無心
    無心と生活の矛盾
    無心の活用
    人間的無心と天地の心
    意識と価値世界の出現
    矛盾のままの無心

    第六講 無心の体験
    無心の掴み方
    無心と心意識との関係
    無心の無自覚性
    般若の知恵
    阿頼耶識と光明
    光明・無心・絶対
    無分別の分別
    体験の世界
    神秘的直観、直覚に非ず
    呵呵大笑
    東洋的心理

    結語
    無心と道……色即是空

    解説(旧版) 古田 紹欽
    解説  末木文美士

    ISBN:9784044076016
    出版社:KADOKAWA
    判型:文庫
    ページ数:240ページ
    定価:760円(本体)
    2007年09月25日初版発行
    2012年02月25日7版発行

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    2024年10月09日
  • 日本的霊性

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    日本的霊性
    著:鈴木 大拙
    著:篠田 英雄
    岩波文庫 青323-1

    おもしろかった、日本的霊性へと日本人が達するための旅、鎌倉時代に日本的霊性が覚醒したことを解説している
    「仏教の大意」より本書を先に読めばよかった

    日本的霊性の覚醒をみたのは、1つは、浄土系思想であり、今1つは、禅であった

    ■霊性とは
    精神と物質の世界の後ろにいま1つの世界が開けて、前者と後者が互いに矛盾しながらしかも映発するようにならねばならない
    これは霊性的直覚、または、自覚により可能となる

    精神には、倫理性があるが、霊性はそれを超越している、超越は否定の義ではない、精神は分別意識を基礎としているが、霊性は、無分別智である

    日本的霊性とは、浄土宗でいえば、ただ念仏を称えること、称え続けることである

    要するに鎌倉時代における日本的霊性の覚醒は、知識人から始まらないで、無智愚鈍なるものの魂からであったことに注意したいのである(一般庶民からであるといっている)

    ■霊性と文化の発展
    霊性は民族が或る程度の文化階段にすすまないと、覚醒せられぬ
    霊性の覚醒は個人的経験で、もっとも具体的に富んだものである

    <平安期>
    平安時代の初めに伝教大師や弘法大師によりて据え付けられたものが、大地に落ち着いて、それから芽を出したと言える
    日本人はそれまでは、霊性の世界というものを自覚していなかった

    平安時代は、なんといっても女性文化時代である、あるいは公卿文化時代といいってもよい
    大宮人全盛期である。日本精神ととなえられるものの一面がいかんなく発揮せられている
    平安時代を通過しないと日本精神のこの方面が出なかったかもしれぬ

    仮名文字の発達がどれくらい日本思想の独自的展開に資することがあったかは、十分に認識する必要がある
    漢文字と、漢文学とに支配されている限り、日本思想は自由な立場に置かれない
    江戸時代に国学が盛んになって、みずからの主張をもつようになったのも、仮名文字に負うところがある

    文学が男性の手にのみ委ねられていたなら、日本文化は漢文学の圧迫的勢力から容易に脱却し能わなかったに相違ない
    日本魂は当時の日本女性によりて発揚させられたと言わなくてはならない

    <鎌倉期>
    平安朝時代の女性的感覚性と感情性の上皮層が崩れて、霊性の中枢が働き出たのは、鎌倉時代である。
    即ち、鎌倉時代で、日本民族のもっている宗教意識が自己肯定をやったのである

    元寇来襲という歴史的大事変は我が国の上下を通じて、国民生活の上に、各方面にわたりてなみなみならぬ動揺を生じたものであろう
    各種の動揺の1つで、精神的方面には、わが国民は自分らの国ということについて、深く考えさせられたことと思う。
    神道家が神道-我が国の神の道というものを意識し始めたのも鎌倉時代である

    日本的霊性なるものは、鎌倉時代ではじめて覚醒した
    まず浄土系思想の日本的な新たな展開を挙げたい
    つぎは、禅宗の伝来である
    その次は、日蓮宗の興隆を忘れてはならない

    真宗の中に含まれていて、一般の日本人の心に食い入る力を持っている者は何かと言うと、純粋他力と大悲力である。
    霊性の扉はここで開ける
    浄土教が教える浄土よりも、その絶対他力のところに、この教の本質がある

    何か日本民族の霊性そのものの響がこの間に鳴りわたらなければならぬのである
    武家階級は禅道に入り、庶民階級は、浄土思想を創案した

    超個の人が本当の個己である。歎異抄にある、弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなり、という、この親鸞一人である
    超個の人が個己の一人一人であり、この一人一人が超個の人にほかならぬという自覚は、日本的霊性でのみ経験せられたのである

    超個の個としての一人は孤独性をもっている。絶対に孤独であると言わなければならない。霊性的自覚は個己の上のおける最後の経験であるから、一人性をもっているのである

    宗教意識の形成確立には霊性的直覚がまずなくてはならない。そうして思想的機構は、その上にできるというのである

    鎌倉時代になって、日本人は初めて人生に対する痛切な反省をやったものである
    霊性的生活は、反省から始まる。反省のない霊性的生活はないのである

    ■仏教
    仏教は単に日本化して日本的になった、仏教は日本のものだということ話はすむのではない
    まず、日本的霊性なるものを主体において、その上に仏教を考えたい
    仏教が外から来て、日本に植え付けらえて、何百年も千年以上もたって、日本的風土化してもはや外国渡来のものでなくなったというのではない
    はじめに、日本民族の中に日本的霊性が存在していて、その霊性がたまたま仏教的なものと逢着して、自分のうちから、その本来具有底を顕現したということに考えたのである

    日本へ落ち着いて、日本的霊性の洗礼をうけた仏教であるから、インドのものでも、シナのものでもない、日本の仏教というのである
    インドで発生した仏教は固よりインド性をもっている。それが、中央アジアを通ったので又、その地方性をもってきたが、それからシナで一大転換をやったので、シナ性は十分にある
    そうして、最後に日本に入ってきて日本的霊性化したので、日本仏教は、すべての東洋性を持っていると言わなければならない
    ただそれだけではない。仏教は南アジア方面をも通ってきた、そして南方的性格もその中に包蔵しているのである
    「日本」仏教なるものは、それ故に北方民族的性格も南方民族的性格も、インド的直観も、シナ的実証心理もみなともに具有しているのである

    日本仏教は、日本化した仏教だと言わずに、日本的霊視絵の表現そのものだと言ってよいのである

    ■禅
    禅が日本的霊性を表詮しているのは、禅が日本人の生活の中に根深く食い込んでいるという意味ではない
    それよりも、むしろ、日本人の生活そのものが、禅的であるといったほうがいい

    ■浄土系・念仏
    日本的霊性の情性的展開というのは、絶対者の無縁の大悲を指すのである
    無縁の大悲が、善悪を超越して衆生の上に、光被して来る所以を、最も大胆に最も明白に闡明(せんめい)してあるのは、法然・親鸞の他力思想である
    絶対者の大悲は悪によっても遮られず、善によりても拓かれざるほどに、絶対に無縁、すなわち、分別を超越しているということは、日本的霊性でなければ経験せられないところのものである

    親鸞はお寺を作らなかった、愚禿に相応なのは、草庵であって、七堂伽藍ではなかった

    親鸞は、仏教者であるからその経験、その言説はいずれも仏教的だと考えているが、そこと彼を見ることの欠陥がある。
    彼はまた日本人なのである
    日本人ということが彼の本質で、仏教者であることが彼の偶然性だと言ってよいのである

    日本的霊性の人格的開顕という点から見ると、法然上人と親鸞聖人とを分けない方が合理的かと思われる
    法然と親鸞とを一人格にしてみて良い
    それは、親鸞の告白にもあるように、彼は法然の教えを遵奉するものとのみ思惟していたのである

    浄土系思想の中心は、念仏であって、極楽往生ではない、念仏なしの往生はないのである
    念仏そのものが大切なのである、一心の念仏だけが、大切なのである

    破戒の僧、愚痴の僧を供養しても功徳になるか、との問いに対して、法然は、破戒の僧、愚痴の僧を、末の世には、仏のごとくたとむべきにて候也 と答えている

    目次
    緒言
     1 日本的霊性につきて
    第1篇 鎌倉時代と日本的霊性
     1 情性的生活
     2 日本的霊性の自覚
    第2篇 日本的霊性の顕現
     1 日本的霊性の胎動と仏教
     2 霊性
     3 日本的霊性の主体性
    第3篇 法然上人と念仏称名
     1 平家の没落
     2 浄土系思想の様相
     3 念仏と「文盲」
     4 念仏称名
    第4篇 妙好人
     1 赤尾の道宗
     2 浅原才市
    解説
    索引

    ISBN:9784003332313
    。出版社:岩波書店
    。判型:文庫
    。ページ数:286ページ
    。定価:910円(本体)
    1972年10月16日第1刷
    2023年12月05日第63刷

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    2024年10月09日
  • 仏教の大意

    Posted by ブクログ

    仏教の大意
    著:鈴木 大拙
    紙版
    角川ソフィア文庫 H104 4

    知の巨人、鈴木大拙(1870/11/11-1966/07/12)が著した、仏教の集約の書(入門書ではない)です。裏表紙には、日本的霊性と対をなす名著とあります

    仏教を英語で世界に広め、本書でも、その引用は仏典のみならず、聖書や、西洋哲学にも及びます。臨済禅を極め、円覚寺より、大拙の居士号を得る

    李登輝総統の書に、大拙の名がありましたので、本書を手に取った次第です
    英語で "The Essence of Buddhism" とあります
    150頁の小書であるが、その内容は恐ろしく複雑であり、比喩や説話が多く、行ったりきたりしましたが、大拙のいう大意を得るにはいたりませんでした。

    複雑な論理、智にがんじがらめになった現代において、仏教の理情の矛盾の上に成り立っている考え方は、今日行き詰まっている状況を打開する一つの考えになるのではないかと思いました

    気になったのは以下です

    大智

    ・我々の世界は1つではなく、2つ。感性と知性の世界、そして、霊性の世界です

    ・人生の不幸は、霊性的世界と、感性的分別的世界とを2つの別々な世界で相互にきしりあう世界と考えることからでる。渾然たる一真実の世界に徹せんことを要します

    ・無差別、無分別の世界を霊性の世界といっておきます。伝統的には、涅槃、菩薩、成仏、極楽往生などといいます

    ・知性は差別や分別の世界では物事の理解に欠くべからざる道具なのですが、無差別界にはいることとなれば、その必要性を失うこととなります
    禅者が智を殺せというのはこの理です。殺すとは、それを超えるの義でありまして、ここではじめて存在の根源に触れることになります

    ・仏教は、真っ裸になることを要求します。

    ・仏教の根源義は、対象界を超越することです。この世界は知性的分別と、情念的混乱の世界であるから、ひとたびこれを出ない限り、霊性的直覚を体得して絶対境に没入することができません

    ・仏教、それを会得しようとするには、一旦は知性の領域を逸脱しないといけないのです。知性は分別をその生命とするのですから、何でも二つに分けないと承知しないのです。

    ・我執分別の念は、人間我のある限り取り除かれないものです

    ・思を尽くして度量しても仏智は測れぬ、仏智とは霊性的自覚のことです

    ・人間苦、これは業につながれているということです

    ・業の問題で、無分別と分別という矛盾
     業が人間の生命そのものだとすれば、業を逃れるということは死するという義にほからならない。しかし、業繁苦からの解脱がないと、霊性的生活はないのです
    ・死んで生きなければならぬということ、業に繋がれていながらこれを離れること、ここに人間の運命の不可思議があるのです

    ・業繁の自覚と離業の努力は祈りという形で意識せられる。論理的にいうと祈りはまた、絶対矛盾である

    ・仏教のみならず、すべての宗教は、知性を排斥します

    ・知性は分析し総合するといいますが、いずれも限定性の対象を持っているので、絶対の自由ではありません。分析も総合も合目的性の上での話である
     業繁からでてくる一切の煩悩、憂愁、不安は霊性的自覚の域に入りくることによって、解消させられる。行かんと要すればすなわち行き、住せんと欲すれば、すなわち住す。これが自由です。不可思議解脱です

    ・3本の線
     ①物理・自然的線
     ②知性・道徳的線
     ③霊性的線
     知性・道徳的線から、物理・自然的線へ還るわけにはいかないが、霊性的線からは、物理・自然的線へは移ることができる
     霊性的線の特異性は、絶対的受動性、または、絶対的憑依です

    ・霊性には霊性としての領域があって、それは、知性の分野を犯すものではない
     両者の交差の円融無礙なのを、無分別の分別、分別の無分別という

    ・般若経の至るところに、「AはAにあらず、故にAなり」という論理が説かれてある

    ・不昧因果は、因果は因果にはあらず、故に因果なり

    大悲

    ・仏教という大建築を乗せている二つの柱がある
     ①般若、または、大智
     ②大悲、または、大慈
     智は悲から出るし、悲は智からでるので本来1つであるが、分別智では2つに分れる
     大悲は生きた人格であるが、霊性的自の上に現れるので、神格とみてもよい
     悲と智とは一丸となっているので、見る人からは、悲とのみ映ることもあり、智とのみ映ることもある

    ・華厳思想
     事:個、特殊、具体、原子など、分別、差別という これを 色という
       西洋では、形体(フォーム)という
     理:事に反するもの、全、一般、抽象、原理という これを 空という
       西洋では、質料(マター)という
     色即是空空即是色 色がなければ空がなく、空がなければ色もない
     円融無下 理と事は相互に鎔融する

    ・同時互即:華厳的宇宙観、法界観という
     十面の鏡を、東西南北の八方と上下とに据え付けている喩えが使われる

    ・華厳経は、唐の法蔵、賢首大師の時代に頂点に達する
     華厳の教えは、十に分割するのがならわしになっている、十全、すなわち完全な教えと言う意味である

    ・華厳の世界観を4つに分けることができる
     事法界、理法界、理事無礙法界、事事無礙法界である
     法界が4つあるというわけではなく、4通りに見られるというのである

    ・華厳の直観は2つある
     ①感性的、知性的直観 概念的、静態的、空間的
     ②霊性的直観 生命そのものの中に飛び込むから、空間的、時間的

    ・大悲心は、華厳の法界を動かしているものにほかならない
     仏教者はこれに人格的相好を与えて具体化をしている。阿弥陀如来も人格化の1つです

    ・二元的対象の世界にいて、分別的論理の圏外に出ることができないと大悲の事事無礙法界に透徹することはできない

    ・人間はただ道徳だけで、生きていけないものである

    ・阿弥陀の側では48願、衆生の側では、不断の念仏と懺悔、宗教の本質はこれで尽きているのです

    ・何かわからないが、それだけのものでなくて、人間を超えた、そうして人間にもっとも関係の深密な何者かがなくてはならないという感じ、それに対するあこがれが、我々の方にあるのです

    ・分別面では二元論的対象の世界から離れられないので、すべてが、然り、と否とに領分されるのです
    事事無礙法界では、あれも、これもで、いずれをも取り入れて、同時互即させます。

    ・衆生を苦しみから救うことが、とにかく、当面の大問題です。ここに菩薩道がある

    ・菩薩の大悲心なるものは、絶対で無限で無目的的であるが、それはただ、抽象的に概念的に一般的にしかいわれるのでなくてお、一事一物の上に、時間的空間的にもっとも具体的に動くということです

    ・日本の仏教では、禅は大智の面、浄土系は、大悲の面を代表するといっていいでしょう

    ・地に平和、天に栄光。浄土の荘厳と同じく、いずれも大悲心の発露にほかなりません。今後の世界を救うものは、この大悲心なのです。そうして大悲は、また大智でなければなりません。

    目次

    序
    第一講 大智(1~7) 
    第二講 大悲(1~8)
    解説 若松英輔

    ISBN:9784044002244
    出版社:KADOKAWA
    判型:文庫
    ページ数:160ページ
    定価:600円(本体)
    2017年01月25日初版発行

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    2024年10月07日
  • 仏教の大意

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    仏教について初めて読んだ書籍
    難しい。でも感覚的に分かるところも多い。
    用語を落とし込むにはまだまだ知識が足りないけど、もっと勉強したいと思う内容

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    2024年07月21日
  • 禅と日本文化 新訳完全版

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    ネタバレ

    何かでの紹介を踏まえて読書
    さすがの本で非常に奥深くて面白い。一度読んだだけでは全然理解しきれないが。
    近代の本で読みやすいのも良い。

    メモ
    ・禅は中国人の心がインド人の思想に触れた後に生み出したものの一つ
    ・詫びの真の意味は貧poverty。時代の流行に乗る人々の一員にはならないということ
    ・不完全の美。古めかしさや原始的な粗野さを伴う時、さびがかすかに見えてくる。ある芸術の対象が歴史的な時代感を表面的にでも示していれば、そこにはさびがある。
    ・さびの文字通りの意味は寂しさや孤独だが、ある茶人は次のとおり表現している。見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ
    ・禅と武士の人生の間には必然的な関係性がある
    ・二元論的な思想を超える。生か死か、否定か肯定かといった考えがある限り、人生を歩む上での躓きの石となる
    ・隙をつくらないこと。精神的固着をつくらないこと。

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    2024年02月23日
  • 禅と日本文化

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    本書、書店でふと目にとまったので深く考えずに手に取ったが、とても感銘を受けた。なにか日本人が忘れかけているものを気づかせてくれる本である。もともとは禅宗およびそれと密接な関係のある日本文化を外国人に説明すべく英語で執筆された本を、北川氏が日本語に翻訳しているものであるが、その意味では、西欧文化との対比が意識的に書かれ、日本人読者にとっても理解しやすい物となっている。

     私自身はビジネスに深く携わっているのだが、近年はMBAブームもあり、米国流の経営管理手法がもてはやされている。書店でもそのような本が多く、日本の経営者の多くもそのような論理的なフレームワークに従って戦略立案や意志決定をするケースが増えてきている。
    ただ、そのような動きに私自身は違和感を感じつつ、しかし「頭では」これが正しい流れなのだろう、と思っていたが、本書を読んで、過去の偉大な日本の経営者である松下幸之助や本田宗一郎などの経営には、ある意味禅的なエッセンスが含まれていると感じた。本書でも記載されているように、禅はロジックよりも自身の経験や内的な意識、さらに言えば「無意識」を重視する。本田宗一郎は新製品(バイク)のテストをするにあたって、自分がテストコースの地面にへばりつき、そのすぐ脇をバイクで走らせて、音と振動で良し悪しを判断したという。言葉にはできない、暗黙知である。

    おそらくバブル崩壊後に日本企業の業績が悪化するにつれて、このような感覚や暗黙知に過度に依存する経営はいかんということで、様々な経営管理手法が日本に導入されたのだが、私自身このような米国流経営管理手法を学ぶことはとても大事だと思いつつ、日本人が心の奥底に持つ感性、これを失っては絶対にいけないと感じた。本書、日本企業の経営幹部も一読の価値ありと思います。おそらく、読後感としては全く新しいことを学んだ、というのではなく、忘れかけていた自分の心の奥底にあった何かが本書で引き出される、という感じだと思います。

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    2023年04月26日
  • 新版 禅とは何か

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    禅ってニーチェの考えに近いかも??他力本願ではなく、自分で苦難を乗り越えなければならないというのが教えだから。
    ここから思ったのが、資本主義って案外悪くないのでは?自分の苦悩を乗り越えた部の結果がお金であるという考え方を持てるかもしれない。マックス・ウェーバーもプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神の中で言っているぽいけど、めっちゃ働くというある種の禁欲主義的発想なのでは?

    宗教はその人・時代に合わせて柔軟に合わせる必要がある。←仏の教えは変わらないけど、それを受け取る人々の差はある。いわゆる原理主義というものは意味がないとみていいのではないか?(これはさまざまなことに言えると思う)→ツァラトゥストラの中でも言われているけど、生み増やすのではなく生み高めるということなのかもしれない。

    理屈も大事だし、神秘性も大事、そしてモノをそのまま見る力全てが必要。

    苦しみが多いほど、そしてその苦しみが大きい(?)ほどよいみたいな感じだけれど、以前weekly Ochiai で羽生さんが「良い人生とは後悔の多さだ」と言っているのはまさしくこれじゃないか?

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    2023年03月23日
  • 親鸞の世界

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    ネタバレ

     鈴木 大拙、金子 大榮、曽我 量深の3人の対談の司会が西谷 啓治。
     なにこの豪華絢爛さ。
     くまなく真宗の肝要について話しをされるわけだが、鈴木師のつっこみが素な感じでものすごい。あくまで冷静、言葉を選ぶ金子師に自分の言いたいことが溢れてきたら止まらない曽我師。絶妙な質問を交えて話しを振っていく西谷師。これいろいろ考えられたけど空気感を伝えるためにそのままテープ起こしみたいな場面もあるんだろうな。
     曽我師の見解については通して聴いてもちょっとわからないところはあった。世自在王仏と法蔵菩薩を同一と捉えるのはなんかこの話の流れだとよくわからなかった。あと、寺に来る年寄りにはむずかしいことはわからないからいわなくていいみたいなところも何度かあり、ちょっとうーんとなる。
     曽我師と金子師の領解か違うと西谷師が指摘するのもすごいなと。でもそれは表現であって、通じている感じがまた不思議なのだ。
     とにかくこのメンツの対談、おお!そうきたか!と興奮しながら自分はどうかなと考えながら読み進める。真宗の方は是非一度読まれることをおすすめする。

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    2023年02月27日
  • 無心ということ

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    鈴木大拙先生の講演録。
    改めて彼の生きた時代といふものを見ると、それは決して最近のひとではないといふことに改めて気づかされる。養老孟司、吉本ばなな、Azuki七、松村栄子、宮崎駿、池田某、永井均、なだいなだ、福田恒存、小林秀雄、宮沢賢治、一休宗純、ブッダ、どこか綿々と続く精神の大きな働きの中にゐるやうな気がしてならない。かうして言葉は、普遍的な精神は誰かが死んでもどこかでまた息づいて生まれるのだと思ふ。生命の明滅を眺めてゐるそれは、本当に時間から垂直に立ち上がつてゐるやうだ。
    無心といふこと。考へないで本能の赴くままではない。何かを感じないことではない。ないといふことさへ言えない、ことばの尽きる場所に一度落ちてゆく。さうして在ることしかできないといふ端的な事実。自分といふ存在が最初になければ何も存在しないこと。けれど、その在るといふことが言えるのは裏返せば、ことばに決してなりえない存在しない何かがなければ言えないといふことに気づかされる。生と死は確かに正反対で混じりあうことのない、けれど、どちらもただのことばでしかない。そのことばがそのことばたりえる何かがやはりなければ、ことばは存在できない。すべては釈迦の大きな掌の上だつた。弥陀が望んだことなのだ。あるいは、自分で望んだから、この世に生まれてきてしまつたのだ。
    一周廻つてこの自分が点となる。存在しないのに、確かに存在する。流れているのに流れてゐない。
    存在するから信じるのではない。存在とは何か疑ひ尽くして、みると存在を信じるより他ないのだ。自分と他人は確かに異なる。けれど、やつぱり他人も自分と同じやうに何か思ひ考へてゐると思はざるを得ないのだ。とんでもない矛盾であるが、どうもさうなつてゐるとしか言えない。矛盾が笑えてきて仕方ない。

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    2020年11月14日
  • 日本的霊性 完全版

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    ネタバレ

    元来広い意味においての意志は、宇宙生成の根源力であるため、それが自分らすなわち個々の人間の上に現れるとき、心理学的意味の意志力と解せられる。この意志力が強ければ強いだけ仕事ができるというわけあいである。

    精神家というのは形式ばらぬ人のことである。杓子定規や物質万能主義などにとらえられずに、なにか1つの道義的理念を持って万事に当たらんとする人である。

    なにか二つのものを包んで、二つのものが畢竟ずるに二つでなくて一つであり、また一つであってそのまま二つであるということを見るものがなくてはならぬ。これが霊性である。

    今までの二元的世界が相克し、相殺しないで、互譲し、交歓し、相即相入するようになるのは人間霊性の覚醒にまつよりほかないのである。

    精神には倫理性があるが、霊性はそれを超越している。精神は分別意識を基礎としているが、霊性は無分別智である。その意味で霊性の直覚力は精神のよりも高次元のものであると言ってよい。

    精神の意志力は霊性に裏付けられていることによって初めて自我を超越したものになる。

    いわゆる精神力なるものだけでは、その中に不純なもの、すなわち自我の残滓がある。これがあるかぎり、「和をもって貴しと為す」の真義に徹しあたわぬのである。

    物事の表面だけを見る人々の眼光は薄い紙の裏さえ見透すことができぬと言わなければならぬ。

    明き心清き心というものが意識の表面に動かないで、そのもっと深きところに沈潜していって、そこで無意識に無分別に莫妄想に動くとき、日本的霊性が認識せられる。

    情緒で支配せられている国民にとりては、論理性を帯びた善因善果説が効果的である。

    恋愛の悲劇は人間を宗教に追い込む一つの契機となるが、これには成熟した頭脳がなくてはならぬ。

    人間は何かに不平・失望・苦悶などということに際会すると、宗教にまで進み得ない場合には酒にひたるものである。

    男はいつも肩怒らして喧嘩腰でいなければならぬ理由はないが、知性と深さはあってほしい。深き創造はどうしても男性的であるらしい。

    美しい女の子が生まれないで尊貴の身辺に近づけぬ悩み、位があがらぬので威張れぬ悩み、文芸の才なく男振りがよくないので異性にもてはやされぬ悩みーそんな悩みくらいで宗教は生まれぬ。なるほど宗教は現成世界の否定性を持っている。しかしそれは心の底から感じられるものでなくてはならない。霊性そのもののおののきでなくてらならぬ。

    宗教は実に超時間性を持つ。その意味で未来はその中に含まれていると言ってよい。

    仏教者の使命は時局に迎合するものであってはならぬ。日本人の世界における使命に対して十分の認識を持ち、しかも広く、高く、深く思惟するところがあってほしい。

    はじめて新しいものが入ってくると、その新しいものに対して反抗するというのはむしろ人情の自然といってよい。

    人間の心理または自然の人情なるものはなかなか複雑であるから、なんでも簡単に片付けると大いなる破綻がそれから出る。

    実際主義・実証性はだいたい地面から離れることを好まぬ。

    霊性の動きは現世の事相に対しての深い反省から始まる。この反省はついには因果の世界から離脱して永遠常住のものをつかみたいという願いに進む。業の重圧なるものを感じて、これから逃れたいとの願いにたかまる。これが自分の力でできぬということになる、何が何であっても、それに頓着なしに、自分を業縁または緊縛から話してくれる絶対の大悲者を求めることになる。

    業の重圧を感じることにならねば、霊性の存在に触れられない。これを病的だという考えもあるにはあるが、それがはたしてそうであるなら、どうしてもその病にいっぺん取り憑かれて、そうして再生しないと宗教の話、霊性の消息はとんとわからない。病的だという人はひとたびもこのような経験のなかった人である。

    霊性はいっぺんなんとかして大波に揺られないと自覚の機縁がない。

    病というのは自己否定の経験である。

    感覚や感情も、それから思慮分別も、もともと霊性のはたらきに根ざしているのであるが、霊性そのものに突き当らないかぎり、根無し草のようで、今日は此岸、明日は彼岸という浮動的生涯の外に出るわけにはいかない。これは個己の生活である。個己の根底にある超個の人にまだお目どおりが済んでいない。

    超個の人はすでに超個であるから、個己の世界にはいない。それゆえ、人といってもそれは個己の上に動く人ではない。さればといって万象を擲って、そこに残る人でもない。こんな人はまだ個己の人である。

    超個の人は個己と縁のない人だということではない。人は大いに個己と縁がある、実に離れられない縁がある。彼は個己を離れて存在し得ないといってよい。それかと言って、個己が彼だとは言われぬ。超個の人は、そんな不思議と言えば不思議な一物である。


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    意識は個体の範囲で完結しているものではなく、それを生み出す根源となる部分があるという考えが東洋思想の根幹をなしている。日本人におけるそれを鈴木大拙は日本的霊性と言い、西田幾多郎は真実在と言う。これは、デカルト的自然観が強く影響している西洋ではなかなか受け入れられない。東洋において個体は意識の部分で繋がっているのに対し、西洋では主客は明らかに分離されているからである。「神の天啓」が天から限られた個人に向かって「与えられる」性質のものであることからも、神と個人、個人と個人は断絶された独立の存在ととらえられていることがわかる。

    東洋では違う。著者は「なにか二つのものを包んで、二つのものが畢竟ずるに二つでなくて一つであり、また一つであってそのまま二つであるということを見るものがなくてはならぬ。これが霊性である。」と言う。個は霊性の部分で繋がっているのである。霊性は誰かから誰からに「与えられる」ものではなく、気付くものであり、触れるものであり、遭遇するものである。

    霊性は個を超越しており、そこが精神と違う。超個の人はすでに超個であるから個己の世界にはいない。それゆえ人といってもそれは個己の上に動く人ではない。感覚や感情、思慮分別に揺さぶられ生きる人は個己の人である。つまり、世のほとんどの人は個己の人ということになる。だが、超己の世界に生きる人も人である以上個己を離れることはできず、また個己の世界に生きる人と離れられない縁がある。個己の人を離れることはできないが、超己の人である。このような物の捉え方は「禅」的である。人間は言葉によって世界を分節する。その分節によって対立概念が生まれる。だが、それは人間が作り出した言葉あっての対立概念である。「矛盾」は人間から見て「矛盾」なのであり、人間が言葉によって対立概念を創造しなければ「矛盾」はそもそも世界に存在しない。禅はそのような人間が言葉で作り出した世界を超越する。もっと正確に言えば、超越というのも禅の本質から少しずれるのではないだろうか。超越とは「二元論的な対立概念があってそれを乗り越える」というような意味であろう。つまり、超越と言うと対立概念が存在することを認めてしまうことになる。言葉を用いるということはなにものかを措定するということであるから、その時点で「禅」的でない。その「ありのまま」の極地で出会うのが霊性なのである。

    霊性は無分別智であるが、精神は分別意識を基礎としている。つまり、精神は個の中を抜け出すことがない。したがって、個己の人は精神にのみ生きる人であり、超個の人は精神と霊性に生きる人とも言えるだろう。霊性は主体と客体、精神と物質といった対立関係を含むものを全て「超越」している。ゆえに霊性に触れた時その人の精神にあった対立相克の悶は融消する。しかし、その融消の仕方は霊性がどのような形でその人の精神に現れるかで変わる。精神に影響を与えているのはその人の育った環境であり、それはつまり民族性である。だからこそ日本的霊性なるものが話されるのである。山頂への登り方が様々あるように、霊性への触れ方も多様である。浄土真宗であれば南無阿弥陀仏と唱えることであり、曹洞宗であれば座禅を組むことなのかもしれない。

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    2019年11月20日
  • はじめての大拙 鈴木大拙 自然のままに生きていく一〇八の言葉

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    シンプル&分かりやすさでセレクトした鈴木大拙の108の言葉。
    仏教や禅思想を世界に広めた大拙の言葉に、禅とは、宗教とはを想う。
    自由意志で生まれてきた者なんて、ひとりもいない。
    あの世で親を選び、人生の課題を設定して生まれてくるという世界観もあり、大拙の言葉だからといって鵜呑みにする必要はない。
    矛盾に悩む人生だからこそ、だれもが宇宙の中心の尊い気づきに生かされていると想う。
    19-98

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    2019年09月14日
  • 無心ということ

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    「何といっても仏教の基礎は心理学にある。もとより世間でいう自然科学的心理学ではないが。
    ちょっと見ると、哲学のようにも、認識論のようにも、また、いわゆる「神学」のようにも見えるかもしれぬが、仏教の本領は心理学にある、超絶的または形而上学的心理学とでもいうべきところにある。
    これが本当にわかると、仏教は神秘主義でもなく、知性主義でもなく、また汎神論的でもないことが認識せられる。」

    エラノス会議にも出席していた鈴木大拙が、ユングとどのような会話を交わしていたのか。
    想像が膨らみます。

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    2016年12月09日
  • 禅とは何か

    Posted by ブクログ

    禅を世界に広めた鈴木大拙が、英語で書いたものを翻訳した逆輸入モノ。西洋人向けにかかれているので、変な話ですが、かえって解りやすい。思考のループにはまって抜け出れない人向け。

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    2016年05月27日