日本的霊性
著:鈴木 大拙
著:篠田 英雄
岩波文庫 青323-1
おもしろかった、日本的霊性へと日本人が達するための旅、鎌倉時代に日本的霊性が覚醒したことを解説している
「仏教の大意」より本書を先に読めばよかった
日本的霊性の覚醒をみたのは、1つは、浄土系思想であり、今1つは、禅であった
■霊性とは
精神と物質の世界の後ろにいま1つの世界が開けて、前者と後者が互いに矛盾しながらしかも映発するようにならねばならない
これは霊性的直覚、または、自覚により可能となる
精神には、倫理性があるが、霊性はそれを超越している、超越は否定の義ではない、精神は分別意識を基礎としているが、霊性は、無分別智である
日本的霊性とは、浄土宗でいえば、ただ念仏を称えること、称え続けることである
要するに鎌倉時代における日本的霊性の覚醒は、知識人から始まらないで、無智愚鈍なるものの魂からであったことに注意したいのである(一般庶民からであるといっている)
■霊性と文化の発展
霊性は民族が或る程度の文化階段にすすまないと、覚醒せられぬ
霊性の覚醒は個人的経験で、もっとも具体的に富んだものである
<平安期>
平安時代の初めに伝教大師や弘法大師によりて据え付けられたものが、大地に落ち着いて、それから芽を出したと言える
日本人はそれまでは、霊性の世界というものを自覚していなかった
平安時代は、なんといっても女性文化時代である、あるいは公卿文化時代といいってもよい
大宮人全盛期である。日本精神ととなえられるものの一面がいかんなく発揮せられている
平安時代を通過しないと日本精神のこの方面が出なかったかもしれぬ
仮名文字の発達がどれくらい日本思想の独自的展開に資することがあったかは、十分に認識する必要がある
漢文字と、漢文学とに支配されている限り、日本思想は自由な立場に置かれない
江戸時代に国学が盛んになって、みずからの主張をもつようになったのも、仮名文字に負うところがある
文学が男性の手にのみ委ねられていたなら、日本文化は漢文学の圧迫的勢力から容易に脱却し能わなかったに相違ない
日本魂は当時の日本女性によりて発揚させられたと言わなくてはならない
<鎌倉期>
平安朝時代の女性的感覚性と感情性の上皮層が崩れて、霊性の中枢が働き出たのは、鎌倉時代である。
即ち、鎌倉時代で、日本民族のもっている宗教意識が自己肯定をやったのである
元寇来襲という歴史的大事変は我が国の上下を通じて、国民生活の上に、各方面にわたりてなみなみならぬ動揺を生じたものであろう
各種の動揺の1つで、精神的方面には、わが国民は自分らの国ということについて、深く考えさせられたことと思う。
神道家が神道-我が国の神の道というものを意識し始めたのも鎌倉時代である
日本的霊性なるものは、鎌倉時代ではじめて覚醒した
まず浄土系思想の日本的な新たな展開を挙げたい
つぎは、禅宗の伝来である
その次は、日蓮宗の興隆を忘れてはならない
真宗の中に含まれていて、一般の日本人の心に食い入る力を持っている者は何かと言うと、純粋他力と大悲力である。
霊性の扉はここで開ける
浄土教が教える浄土よりも、その絶対他力のところに、この教の本質がある
何か日本民族の霊性そのものの響がこの間に鳴りわたらなければならぬのである
武家階級は禅道に入り、庶民階級は、浄土思想を創案した
超個の人が本当の個己である。歎異抄にある、弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなり、という、この親鸞一人である
超個の人が個己の一人一人であり、この一人一人が超個の人にほかならぬという自覚は、日本的霊性でのみ経験せられたのである
超個の個としての一人は孤独性をもっている。絶対に孤独であると言わなければならない。霊性的自覚は個己の上のおける最後の経験であるから、一人性をもっているのである
宗教意識の形成確立には霊性的直覚がまずなくてはならない。そうして思想的機構は、その上にできるというのである
鎌倉時代になって、日本人は初めて人生に対する痛切な反省をやったものである
霊性的生活は、反省から始まる。反省のない霊性的生活はないのである
■仏教
仏教は単に日本化して日本的になった、仏教は日本のものだということ話はすむのではない
まず、日本的霊性なるものを主体において、その上に仏教を考えたい
仏教が外から来て、日本に植え付けらえて、何百年も千年以上もたって、日本的風土化してもはや外国渡来のものでなくなったというのではない
はじめに、日本民族の中に日本的霊性が存在していて、その霊性がたまたま仏教的なものと逢着して、自分のうちから、その本来具有底を顕現したということに考えたのである
日本へ落ち着いて、日本的霊性の洗礼をうけた仏教であるから、インドのものでも、シナのものでもない、日本の仏教というのである
インドで発生した仏教は固よりインド性をもっている。それが、中央アジアを通ったので又、その地方性をもってきたが、それからシナで一大転換をやったので、シナ性は十分にある
そうして、最後に日本に入ってきて日本的霊性化したので、日本仏教は、すべての東洋性を持っていると言わなければならない
ただそれだけではない。仏教は南アジア方面をも通ってきた、そして南方的性格もその中に包蔵しているのである
「日本」仏教なるものは、それ故に北方民族的性格も南方民族的性格も、インド的直観も、シナ的実証心理もみなともに具有しているのである
日本仏教は、日本化した仏教だと言わずに、日本的霊視絵の表現そのものだと言ってよいのである
■禅
禅が日本的霊性を表詮しているのは、禅が日本人の生活の中に根深く食い込んでいるという意味ではない
それよりも、むしろ、日本人の生活そのものが、禅的であるといったほうがいい
■浄土系・念仏
日本的霊性の情性的展開というのは、絶対者の無縁の大悲を指すのである
無縁の大悲が、善悪を超越して衆生の上に、光被して来る所以を、最も大胆に最も明白に闡明(せんめい)してあるのは、法然・親鸞の他力思想である
絶対者の大悲は悪によっても遮られず、善によりても拓かれざるほどに、絶対に無縁、すなわち、分別を超越しているということは、日本的霊性でなければ経験せられないところのものである
親鸞はお寺を作らなかった、愚禿に相応なのは、草庵であって、七堂伽藍ではなかった
親鸞は、仏教者であるからその経験、その言説はいずれも仏教的だと考えているが、そこと彼を見ることの欠陥がある。
彼はまた日本人なのである
日本人ということが彼の本質で、仏教者であることが彼の偶然性だと言ってよいのである
日本的霊性の人格的開顕という点から見ると、法然上人と親鸞聖人とを分けない方が合理的かと思われる
法然と親鸞とを一人格にしてみて良い
それは、親鸞の告白にもあるように、彼は法然の教えを遵奉するものとのみ思惟していたのである
浄土系思想の中心は、念仏であって、極楽往生ではない、念仏なしの往生はないのである
念仏そのものが大切なのである、一心の念仏だけが、大切なのである
破戒の僧、愚痴の僧を供養しても功徳になるか、との問いに対して、法然は、破戒の僧、愚痴の僧を、末の世には、仏のごとくたとむべきにて候也 と答えている
目次
緒言
1 日本的霊性につきて
第1篇 鎌倉時代と日本的霊性
1 情性的生活
2 日本的霊性の自覚
第2篇 日本的霊性の顕現
1 日本的霊性の胎動と仏教
2 霊性
3 日本的霊性の主体性
第3篇 法然上人と念仏称名
1 平家の没落
2 浄土系思想の様相
3 念仏と「文盲」
4 念仏称名
第4篇 妙好人
1 赤尾の道宗
2 浅原才市
解説
索引
ISBN:9784003332313
。出版社:岩波書店
。判型:文庫
。ページ数:286ページ
。定価:910円(本体)
1972年10月16日第1刷
2023年12月05日第63刷