あらすじ
宗教とは何か。仏教とは何か。そして禅とは何か。自身の経験を通して読者を禅に向き合わせながら、この究極の問いを解きほぐす名著。初心者、修行者を問わず、人々を本格的な禅の世界へと誘う最良の入門書。解説・末木文美士
第一回 宗教経験としての禅
第一講 宗教経験とは何か
第二講 何を仏教生活というか
第三講 仏教の基本的諸概念
第四講 証三菩提を目的とする禅
第五講 心理学から見た禅
第二回 仏教における禅の位置
第一講 宗教経験の諸要素
第二講 宗教経験の諸型
第三講 宗教としての仏教
第四講 楞伽経大意
第五講 神秘主義としての禅
解説(旧版) 古田紹欽
解説 末木文美士
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Posted by ブクログ
思惟の垢を脱ぎ捨て、無の深淵に臨むための書。
[思考の彼岸に立つ禅の本質]
『禅とは何か』は、単なる宗教哲学の解説ではない。
そこにあるのは、知の光をもってしても射し込むことのできぬ暗黒の核、すなわち「禅」の本源に迫らんとする、鈴木大拙の精神の跳躍である。
私が禅と出会った時の衝撃は、今でも忘れがたいほど記憶に刻まれている一方、その本質を掴むことは誠に難しい。
禅とは何か。
それは言語をもって定義されるものではない。
それは、沈黙の中に閃き、日常の行為の中に突如として姿を現す。
禅は「無心」であり、「空」である。
だがその「無」は、空虚を意味するのではなく、むしろ、万象を孕んだ創造の母胎である。
剣道の一太刀に、俳句の一音に、茶の湯の一滴に、禅は潜み、そこに生命の根源たる直感が凝縮する。
鈴木大拙は、東洋の深奥を西洋の冷厳なる理性に対置しつつ、彼岸の知を開示するのである。
[鈴木大拙という人間ーー静謐なる叛逆者]
1870年、加賀の城下町・金沢に生まれた鈴木大拙は、その生涯を禅の「無」を西洋世界へ伝えることに捧げた。
青年期に鎌倉の円覚寺にて釈宗演の膝下に参禅し、後にアメリカに渡ってケーラスと親交を結ぶ。
仏教をして生きた宗教たり得せしめるのは、知識ではない。
体験であり、沈黙である。
大拙は終生、この信念を貫いた。
彼は学者でありながら学者を超え、翻訳者でありながら霊的導師でもあった。
その言葉は、英語で書かれてさえも日本の山河の気韻をまとい、異国の精神に風穴を開けた。
大拙は、語る者ではなく、語らずして伝える者であった。
そこにこそ彼の異様なまでの魅力がある。
[大拙が影響を受けた人物――思想の種火をともした者たち]
■釈宗演(1860〜1919)
大拙の精神を鍛え上げたのは、円覚寺の峻厳なる禅僧・釈宗演であった。
思想ではなく生のあり方を以て、彼に「坐り、沈黙し、ただ在ること」の重みを教えた。
■ポール・ケーラス(1852〜1919)
洋の東西を結ばんとする志を持ったドイツ系アメリカ人の哲学者ケーラスは、大拙に西洋的表現の鋳型を授けた。
その思想的器がなければ、大拙は世界的な「声」を持ち得なかったであろう。
■井上円了(1858〜1919)
理性の剣で東洋思想の幽明を斬り開こうとした哲人であり東洋大学の設立者。
大拙にとっては、思考と直観の拮抗を教える教師であった。
[大拙が与えた影響――言葉の枠組みを破壊した者]
■アラン・ワッツ(1915〜1973)
禅をロンドンの霧の中からカリフォルニアの陽光へと導いた伝道者。
大拙の思想に触れ、彼は理性の殻を脱ぎ捨て、精神の裸体を求めた。
■ジョン・ケージ(1912〜1992)
沈黙という音楽の可能性を開いたアメリカ人の作曲家。
大拙の禅的無に触れ、「音なき音楽」の創造へと踏み出した。
■ジャック・ケルアック(1922〜1969)
アメリカ文学の反逆児的小説家であり詩人。
『路上』の疾走の中に、大拙の禅的瞬間が閃く。
彼にとって大拙は、精神のアナーキストであった。
[西田幾多郎との関係ーー無をめぐる魂の交歓]
大拙と西田幾多郎ーー彼らは同じ年、同じ石川の土に生を受け、異なる道から同じ深淵を覗き込んだ兄弟である。
西田は「場所の論理」において、存在の根底に「絶対無」を据えた。
大拙はそれを、禅の「空」として生きた。
両者は常に対話し、交わらずして深く通じた。
西田が「善の研究」で語る「純粋経験」は、大拙の直感的悟りと同根である。
それは「考える私」を越えた「無の場所」にほかならない。
西田の哲学は、大拙にとって禅を思惟の形式に昇華させたものであった。
かくして、思想と宗教、哲学と実践という分断された知の大地に橋がかけられたのである。
[無の裡にひらく真の自己]
鈴木大拙の禅は、沈黙の哲学である。
言葉は常に裏切り、概念は常に遅れる。
だがその裂け目から、しばしば真の「自己」が顔を覗かせる。
『禅とは何か』は、そのような自己を呼び覚ますための一書である。
読者がこの書を手に取る時、知を越えた感応の刹那が訪れるであろう。
それは、現代という煩悩の海を渡る者にとって、ほとんど奇蹟に近い灯火である。
Posted by ブクログ
禅ってニーチェの考えに近いかも??他力本願ではなく、自分で苦難を乗り越えなければならないというのが教えだから。
ここから思ったのが、資本主義って案外悪くないのでは?自分の苦悩を乗り越えた部の結果がお金であるという考え方を持てるかもしれない。マックス・ウェーバーもプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神の中で言っているぽいけど、めっちゃ働くというある種の禁欲主義的発想なのでは?
宗教はその人・時代に合わせて柔軟に合わせる必要がある。←仏の教えは変わらないけど、それを受け取る人々の差はある。いわゆる原理主義というものは意味がないとみていいのではないか?(これはさまざまなことに言えると思う)→ツァラトゥストラの中でも言われているけど、生み増やすのではなく生み高めるということなのかもしれない。
理屈も大事だし、神秘性も大事、そしてモノをそのまま見る力全てが必要。
苦しみが多いほど、そしてその苦しみが大きい(?)ほどよいみたいな感じだけれど、以前weekly Ochiai で羽生さんが「良い人生とは後悔の多さだ」と言っているのはまさしくこれじゃないか?
Posted by ブクログ
日本を代表する禅学者、鈴木大拙の講演をまとめた本。
入門書として最適との触れ込みではあったが。。
いかんせん、私には難しすぎた。
一応、すべて読み切ったものの、全体像は「?」が付いたままで、容易に理解できない。
そういうものかもしれないが。
Posted by ブクログ
ある事柄について、「○○○と解釈した方が良いと思う」「○○○でなければならぬのである」といった表現が多く、その根拠を明示して欲しいと思う箇所が多々あった。しかし、解説を読んで、宗教的体験としての禅に明るい人でなければ、いくら文章で根拠を示されてもわからないだろうということを理解した。
禅宗のみならず、仏教全体の歴史について学べたのは大きな収穫だった。
Posted by ブクログ
仏教には4つの要素がある。仏の人格(カリスマ)、仏の経験、仏の教え、実践者の経験である。実践者の経験がそれぞれあるからして仏教にはいろいろな宗派が認められた生きた宗教となる。
仏の経験の中で特に大事なのは涅槃と成道である。
仏の教えの根本は菩提樹の下の正覚を説くのが目的である。悟った(知)だけでは十分でなくそれを広める(説法)のも大事。社会性を有する。
禅の極致は心理的方面になければならない。すなわち神秘的体験の上になければならない。禅宗とは論理的(客観的)に考える哲学のようなものではなく、心理的な(主観的な)もの。禅はいつも自分に戻ることであり、個人個人の信仰、体験に立脚してそれが土台になる。その信仰を押し進めていくとそれは自分の経験事実があるからでこの経験を解釈すると禅の意味もわかる。意識の底の底まで入って突き破ったところは吸う教的解釈の領域で、自分と天地とがそこでは一つになる。