あらすじ
禅は日本人の性格と文化にどのような影響をおよぼしているか。そもそも禅とは何か。本書は、著者が欧米人のためにおこなった講演をもとにして英文で著わされたものである。一九四○年翻訳刊行いらい今日まで、禅そのものへの比類なき入門書として、また日本の伝統文化理解への絶好の案内書として読みつがれている古典的名著。
...続きを読む感情タグBEST3
Posted by ブクログ
欧米向けで理論的に説明されている。禅の精神は日本人の芸術や生活に染み込んでいて、日本的であるとはつまり禅であると
現代の日本人はどうか
全文はブログで
www.akapannotes.com
Posted by ブクログ
本書、書店でふと目にとまったので深く考えずに手に取ったが、とても感銘を受けた。なにか日本人が忘れかけているものを気づかせてくれる本である。もともとは禅宗およびそれと密接な関係のある日本文化を外国人に説明すべく英語で執筆された本を、北川氏が日本語に翻訳しているものであるが、その意味では、西欧文化との対比が意識的に書かれ、日本人読者にとっても理解しやすい物となっている。
私自身はビジネスに深く携わっているのだが、近年はMBAブームもあり、米国流の経営管理手法がもてはやされている。書店でもそのような本が多く、日本の経営者の多くもそのような論理的なフレームワークに従って戦略立案や意志決定をするケースが増えてきている。
ただ、そのような動きに私自身は違和感を感じつつ、しかし「頭では」これが正しい流れなのだろう、と思っていたが、本書を読んで、過去の偉大な日本の経営者である松下幸之助や本田宗一郎などの経営には、ある意味禅的なエッセンスが含まれていると感じた。本書でも記載されているように、禅はロジックよりも自身の経験や内的な意識、さらに言えば「無意識」を重視する。本田宗一郎は新製品(バイク)のテストをするにあたって、自分がテストコースの地面にへばりつき、そのすぐ脇をバイクで走らせて、音と振動で良し悪しを判断したという。言葉にはできない、暗黙知である。
おそらくバブル崩壊後に日本企業の業績が悪化するにつれて、このような感覚や暗黙知に過度に依存する経営はいかんということで、様々な経営管理手法が日本に導入されたのだが、私自身このような米国流経営管理手法を学ぶことはとても大事だと思いつつ、日本人が心の奥底に持つ感性、これを失っては絶対にいけないと感じた。本書、日本企業の経営幹部も一読の価値ありと思います。おそらく、読後感としては全く新しいことを学んだ、というのではなく、忘れかけていた自分の心の奥底にあった何かが本書で引き出される、という感じだと思います。
Posted by ブクログ
欧米人に禅を理解してもらうために書かれた英語の本の和訳です。簡単かなと思ったら大変でした(゜ロ゜)ちょっと頭をクールダウンさせてからも一度読み返してみたいと思います。
Posted by ブクログ
日本は、中国、インド、朝鮮を始め、南方、北方の文化を受け入れてきた。
儒教、仏教、神道など、多くの文化の混合である。
わびさびなど、どうしてここまで洗練されてきたのか、極東という末端で、これ以上先がなかったからだろうか。
日本文化については分らないことがいろいろある。
本書では、禅を通じて、日本文化の一つの源泉を知ることができる。
Posted by ブクログ
ぜひ読んでほしい本です。私たちは日本人に生まれながら、西洋風の思考パターンを西洋風の教育によって身につけました。ですから純粋な日本文化や東洋文化を理解できないのです。ですから、鈴木大拙老師のように外交人のために英語で書かれた日本文化をもう一度日本語で読むとよくわかるのです。侘びさびからはじまり、侍スピリット、茶の湯、美術など読みどころ満載。
Posted by ブクログ
何度でも読み返すに値する。もともとが英文であったにもかかわらず、とても読みやすい。日本の特質の心臓部を欧米に伝えるという難事にあたった鈴木大拙の知力・言語力がいかに優れたものであったか、ということだろう。日本の背骨には、南宋文化によって熟成された「禅」(儒教とも重なり合っている)があり、そのエッセンスは「ただ本質をシンプルに直截に観ること」。
Posted by ブクログ
若き日に読んでかなり影響を受け、その後仏教への共感を深めていくきっかけになった一冊だ。鈴木大拙の著作の中で、世界でそして日本で最もよく読まれた本であろう。欧米に禅ブームを引き起こすのに一役も二役も買った。
禅は日本の文化にどんな影響を与えてきたか、そして禅とは何か。もともと欧米人のために英文で書かれた。そのためか随所に心理学的な用語が用いられている。かえってそれが、現代の日本人にも新鮮な禅との出会いを可能にする。私が「心理療法の考え方に通じる」と 「発見」したのも、そんな表現法によるところが多い。
私はその頃、ロジャーズを中心とした心理療法に関 心をもち初めており、禅の主張が心理療法の考え方に深く通ずることを「発見」し、たいへん感動した。それ以来、仏教と心理療法、人間性心理学、トランスパーソナル心理学等とは、一方の理解が他方の理解を深めるという形で、私にとっての主要な関心であり続けた。 その意味でも思い出深い本だ。 その後、特にトランスパーソナル心理学は、仏教に代表される東洋思想に深く影響されながら発展していったのである。その代表的な論客、ケン・ウィルバーは、禅からも深い影響を受け、深い座禅体験ももつ。
いかに心理学的な記述が多いか、一文だけ引いてみよう。 「偉大な行為はみな、人間が意識的な自己中心的な努力を捨て去って、『無意識』の働きにまかせるとき成就せられる。神秘的な力が何人(なんぴと)の内にも隠されている。それを目ざましてその創造力を現すのが参禅の目的である。」こんな調子だ。
この本は、禅を、美術・武士・剣道・儒教・茶道・俳句など日本の伝統文化のあり方に即して具体的に語るので、その意味でも禅への入門書としてすぐれている。禅が、日本の伝統文化の一面にいかに深い影響を与えたかが、説得力をもって語られる。
梅原猛は、この本が日本文化の禅的な一面だけを強調しすぎることを批判したが、にもかかわらず、この書が古典的な名著であることにかわりはない。
Posted by ブクログ
今まで知らなかった禅と武士、茶道、俳句などの関係が良くわかった。古来の日本人の知恵や文化は本当に素晴らしいと思った。禅の考えはもうなくなったのかと思っていたがまだまだ日本人の生活に残っている。その教えや生活の仕方を覚えておきたい。
Posted by ブクログ
日本芸術と禅との関係が興味深かった。
リアリティを概念化し分析するのか、直感的に体験するのか。それによって主体的な応答が変わる。
禅というのは、その反対に突き抜けること、いうならば狂うことだそうだが、社会を生きていくのには、どうしても言葉にする努力が必要だ。
しかし、禅の潔さが心をくすぐるのは、やはり日本文化、その精神性に深く影響を与えてきた思想だからなのだろうか。
Posted by ブクログ
今日は朝3時頃に目が覚めたからこの本を読んでいた。日本で禅の文化がどのように浸透していったのかを追いかけた。
禅は日本に中国から儒教と共に、儒教の言葉で語られる形で流入したようだが、その起源はインドの仏教にあった。
中国では朱子学において儒教や禅の起源となるような文化が花開いたとされるが、中国はあくまで歴史的に実利を求める側面が強かった。その中で禅は異質なものだったのではないだろうか。中国人が禅の起源にあたる仏教に触れたとき、その奥深さに驚いたとされる。特に禅にあって儒教や道教になかったのは空(くう)の概念。
日本で禅が広がりを見せたのは鎌倉時代や南北朝時代であり、それは僧侶だけでなく武士の日常にも取り入れられた。禅は生死を日常的に意識する戦乱の時代に適合したようだ。さらに利休のような茶道の確立と共に武士の心構えとも同期する形で展開したところに禅の特殊性と特徴があるように思う。
日本人は侘び寂びの中に禅の体現を行った。侘び寂びは清貧、静謐、静寂、そして時に貧困をもあらわす。日本において一見、華やかさとは対極の生活の中においてこそ禅の精神が育っていったことは興味深い。日本人の奥ゆかしさやもったいないと思う心はここからも育まれたように思う。
細かく書くともっと色々ありますがこんな感じ。クリスマスの今日、キリスト教ではなく東洋の文化について振り返りました。禅の文化は今や瞑想や茶道という形で精神性を伴って世界中で受け入れられています。日本ではもともと中国からとりいれつつも、独自に解釈・発展させたようなところがあります。そしてその発祥はインドの仏教に関わるとされる。この禅の歴史的展開と発展は深すぎます。
Posted by ブクログ
禅を世界に広げた第一人者である鈴木大拙が欧米社会向けに禅と日本文化の精神について記した本。
元々は英文であったが、翻訳されている。
日本人の精神的背景にある禅の考えを日本文化という型を通して教えているという感じ。
日本人である私が読むと改めて私たちの意識・無意識に関わらず如何に禅が深く根付いているかが良くわかる。
題目は以下。
1.禅の予備知識
2.禅と美術
3.禅と武士
4.禅と剣道
5.禅と儒教
6.禅と茶道
7.禅と俳句
いいなと思った言葉
・般若を得れば我々は生と世界との根本的の意義を洞徹し、単なる個人的な利益や苦痛に思いわざずらわなくなる。大悲がその時に作用する。
・侘びの真意は「貧困」つまり、時流の社会のうちに、またそれと共におらぬということである。富・力・名に頼っていないが、普遍的な最高の価値を持つものの存在を感じること。
・美術品が表面的にもでも史的時代感を示せば、そこにさびが存在する。
・禅は武士を2面から支持した。その道徳的側面では、禅は一たびその進路を決定した以上は、振り返らぬ事を教える事。その哲学的側面は、生と死を無差別に扱うからである。
・天台は宮家、真言は公卿、禅は武士、浄土は平民
・鎌倉時代、天才は僧侶か武士になった
・刀には2重の務めがある。1つに持ち主の意志に反するいかなるものをも、破壊する事であり、もう一つは自己保存の本能から起こる一切の衝動を犠牲にすることである。
・刀剣の製作には、神徳の幾分かが加わるから、日本刀を帯するものは、精神的な人間たるべくして、獣性の代表者たるべきではない。
・一帯の水あれば、そこに月が映る。月はただひとつだが、水あるところどこにもその影を映す。これが理解されるとき、その技は完全になる。
・茶の精神は「和・敬・清・寂」である。
・禅に必要なのは心の誠実であり、そのたんなる概念化や物理的模倣ではない。
・無常を思い煩って何の益があろう。
・旅行が容易で快適に過ぎれば、その精神的意味は失われる。
・人生は畢竟、一つの未知から他の未知への旅であるからだ。我々に割り当てられた60年、70年、80年という期間は、できれば神秘のとばりを開くためのものである。
この本が記されたのは1938年。
反日感情渦巻く欧米社会においてどのように受け入れられていたのか気になる。
Posted by ブクログ
先日読んだ『茶の本』に続き、私にとっては難解な本で、単語も調べつつ読んでいきました。
著者が外国人のために、禅が日本文化に与えた影響について書いた書籍を和訳したもの。
読んでも禅について明確に分かった!という気にはなれなくて、
禅と日本文化(美術、武士、剣道、茶道、俳句)とに共通する思想がぼんやりと分かったような。
あまり著者について詳しくないのですが、「集合的無意識」と何度か出てくるところは、ユング心理学の影響を受けているのでしょうか。
説明苦手なので、恒例の一部抜粋。
<印象に残った個所>
・禅は初唐即ち八世紀に中国に発達した仏教の一形態である。
・禅のモットーは「言葉に頼るな」(不立文字)
・道徳的というのは、禅は、一たびその進路を決定した以上は、振り返らぬことを教える宗教だからで、哲学的というのは生と死とを無差別的に取扱うからである。
・禅には、一揃いの概念や知的公式を持つ特別な理論や哲学があるわけではない。ただそれは人を生死の覉絆から解こうとするのである。
・剣道の極意は死を恐れざることで御座る。
・「業」もじつは「心」から発する。ゆえに最も肝要なことは、「心」そのものを洞徹することである。
・禅宗と同様に、芸術のすべての部門において、この危機の通過ということは、あらゆる創造的作品の根源に到達するためにきわめて肝要だと考えられている。
・剣道においてその技術以外に最も大事なことは、その技を自由に駆使する精神的要素である。それは「無念」または「無想」という心境である。
・まことに和や柔軟心はこの世の生活の基礎である。
・茶の湯が原始的単純性の美的鑑賞であること、換言すれば、茶は人間の生存が許しうるところまで自然に還って、自然と一つになりたいという、われわれの心奥に感じる憧憬の美的表現であることを示している。
・一芸の熟達に必要なあらゆる実際的な技術や方法論的詳細の底には、自分のいわゆる「宇宙的無意識」に直接到達するある直覚が存し、各種芸術に属するこれらの諸直覚はすべてみな、個々無関連な、相互に無関係なものとみなすべきものではなく、一つの根本的な直覚から生ずるものと、見なすべきものだ
・最大の芸術品は、それが絵であれ、音楽であれ、彫刻であれ、詩であれ、間違いなくかかる性質を、すなわち、なにか神の仕事に近いものを持つものである。
・禅が日本人に教えた多くの事柄のなかで、芸術と生活に関連して注目すべき一事は、すでに示唆したように、悟りの体験を強調していることだが、これによって「宇宙的無意識」が具現化して現れるのである。
Posted by ブクログ
鈴木大拙は、明治から昭和にかけて日本の禅文化を海外に広くしらしめた仏教学者・文学博士で、著書約100冊のうち23冊を英文で著している。
本書は、1935~36年に英米の大学でなされた講演を骨子として1938年に発行された原書“Zen Buddhism and its Influence on Japanese Culture”をベースにして、1940年に日本語訳されたもので、以来読み継がれている古典である。
本書は当時、従来の著者の作品にも増して、各国の宗教研究家や日本文化に関心を持つ人々から歓迎され、「恐らくこの書は単に日本に関するのみならず、英雄的精神の深奥にひそめる最も深遠なるものに関して著された最も美しい本であろう」とも評されたという。
著者は禅の特徴を「禅の鍛錬法・・・それは真理がどんなものであろうと、身をもって体験することであり、知的作用や体系的な学説に訴えぬということである。・・・禅のモットーは「言葉に頼るな」(不立文字)というのである。・・・言葉は代表するものであって、実体そのものではない、実体こそ、禅において最も高く評価されるものなのである」と述べ、「禅と美術」、「禅と武士」、「禅と剣道」、「禅と儒教」、「禅と茶道」、「禅と俳句」という観点から、禅が日本人の性格と文化にどのような影響を与えているかを綴っている。
禅についての幅広い理解を深めるために格好の書と思う。
(2010年1月了)
Posted by ブクログ
欧米の知識人はよく「禅」や「俳句」を話題に出しますが、その「禅」について欧米に紹介したさきがけがこの鈴木大拙さんではないでしょうか?
…ということで、日本人としては多少なりともどんな紹介のされ方がされているのか知っておかなくては…と読んだのですが、この本、さすがの名著と思います。訳も良い(原著は英文)。
1940年初版ですから、もう75年も前の本ですが、全く色褪せていません。
Posted by ブクログ
結構難しかったけど、禅というのが日本文化にとってこんなに身近だと気付かされた。西洋哲学は文字の概念によって表される理想論の対極として、体験・経験から得られる直感的な心理を禅というだそうです。
わび・さびの解説や、武士と禅、禅とは何かと和尚に訪ねている部分は理解するのに手助けになりました。
けっこう古い文も出てきて、理解しにくい部分もあるけど、日本人だからこそ何となく共感できるような内容です。
禅という立場から日本を見てみると、すごく誇らしい気がします。
Posted by ブクログ
[ 内容 ]
禅は日本人の性格と文化にどのような影響をおよぼしているか。
そもそも禅とは何か。
本書は、著者が欧米人のためにおこなった講演をもとにして英文で著わされたものである。
一九四〇年翻訳刊行いらい今日まで、禅そのものへの比類なき入門書として、また日本の伝統文化理解への絶好の案内書として読みつがれている古典的名著。
[ 目次 ]
第1章 禅の予備知識
第2章 禅と美術
第3章 禅と武士
第4章 禅と剣道
第5章 禅と儒教
第6章 禅と茶道
第7章 禅と俳句
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
Posted by ブクログ
2月?
[内容]
禅と日本文化のかかわりを書いている。具体的に本書で挙げられているのは、美術、武士、剣道、儒教などである。禅の予備知識の説明に始まり、従来あまり意識することのなかった禅と日本文化のかかわりを眼にする。[感想]まず印象的だったのは、本書の序における西田幾多郎の鈴木大拙の評であった。また内容的には、自分自身には難解な部分もあるが、禅というものが体験的なものであり、言葉に頼らないという説明など興味深かった。
Posted by ブクログ
まさに西洋哲学的な知識の体系みたいなものを得ようとして読みはじめたので、冒頭からばかやろう!といわれた気分だった。ただそれである程度禅の概要は理解できてしまう(もちろん体得ではない)ので、その後の禅の考え方をさまざまな日本文化のうちに読みとっていく、という段は、まあその考え方を踏まえたらそういう見解になるだろうな、といった予定調和の感があって次第に飽きてくる。でも禅を知るには格好の入門書なんだろうと思う。
Posted by ブクログ
「日本で私も考えた」に、著者が、「「日本文化の入門書」としていろんな人から薦められた」とあったので、手にしましたが、、、、
私には難解すぎました。
これを読んで理解する外国人の方々、すごい(@_@)
Posted by ブクログ
禅と日本の文化がいかに深くつながっているか、美術、武士、剣道、儒教、茶道、俳句などの分野にわたり元は日本以外へ向けてかかられた論文を日本語に訳された本。俳句から感じるわびとさび、武士や剣道が禅の考えの中に見出した心の平静を保つために如何にすべきかを述べているあたり、非常に日本の文化を改めて見直すよいきっかけになった。わびと寂の世界感を他国の人に伝える言葉をおそらくは持ちえないが、少し知り直しまた自分の子供にはせめて伝えられるようにはなりたい。
Posted by ブクログ
書かれた時代から考えると結構考えさせるところある本かもしれんです。実際、国家主義とは無関係とは言いつつ、あらゆる思想・政治・社会に結びつくとも言及しているところを見るに、著者は禅という一つのフィルターを通して日本の柔軟性とも、無私の志向とも、節操の無さとも、危うげさ等々全てを見通していたんだろうなと推察。
必ずしも禅礼賛に見えないところがこの時代の足枷に対する著者の必死の抵抗とも思えるところが哀しくもあり。
Posted by ブクログ
しわの足りない私の脳みそでは、著者の云わんとする事の半分も理解できなかった。禅と武士、禅と剣道、禅と茶道禅と俳句辺りは面白く読めた。もう少し勉強してから読み返したいと思う。
目次
序 西田幾多郎
原著者序 鈴木大拙
禅の予備知識
禅と美術
禅と武士
禅と剣道
禅と儒教
禅と茶道
禅と俳句
後記
Posted by ブクログ
仏教徒でもあり仏教学者であると同時に長期の海外滞在経験を持つ鈴木大拙氏は海外において禅を普及させた第一人者であり、氏の尽力が無ければニンジャスレイヤーという作品も生まれ得なかったでアイエエエ!禅の思想というのは非論理的・非合理的な側面が強く体系的に学ぼうとすればする程難解になりがちなのだが、本書は氏が英米の諸大学で講演された内容を日本語に翻訳されたものというのもあって入門書として格好の位置付けになっている。古典の引用部分はやや込み入った部分はあるものの、それ以外は概して平易。
Posted by ブクログ
半分読んだ。
禅=抽象概念だと思っていたけど、この本を読んで、実はその逆かも…と思った。
禅とは、経験から共通概念を見出すことで、たしかに日本人の性格に根ざしたものであると実感できた。
残り半分は気が向いたら読む。
Posted by ブクログ
この本はスゴい。禅そのものについて語るのではなく、「武士」「茶道」「俳句」など、日本固有の文化を切り口として、それぞれと禅の関係を語ることによって、禅というものを浮かび上がらせるという、斬新な手法だ。
年を重ねるほどに思うことだけれど、日本が長い年月をかけて熟成してきた文化というのは、本当に素晴らしいものだと思う。どの時代にも、どの文化にも、その背景には必ず、仏教と禅の影響があったということは、言われてみれば当然のことなのだけれど、新しい気づきだった。
現代においてもやはり、禅や仏教の影響というのは、日常生活の中に根強く入り込んでいる気がする。俳句というもの一つとっても、この本を読むと、これは確かに西洋的な分析思考で評論出来るようなものではなく、日本人が培ってきた精神の結晶なのだと思った。
出版されたのは戦前のことなので、現代の日本人読者とは価値観的に相容れないところが多いと思うけれど、自分にとっては、共感するところが非常に多い、相性がいい本だった。著者の意見は、かなり独断的なもの言いが強くて、当時で考えれば危険思想の部類だったかもしれない。
この本は、たとえば漢文や禅の公案を引用するような場合も、それぞれについて懇切丁寧に説明をしているというわけではなく、その内容については読者は既に知っているものとして、いきなり本題に入るような説明の仕方をする。
それでいて、どれも非常に本質的な話しばかりなので、ページ数はそれほど多くないにもかかわらず、内容的にはかなり濃い本だ。どの章も面白く、余計な部分がない。何度も繰り返し読み込む価値が充分にある本だと思う。
近代西欧の贅沢品や生活の慰安物がわが国を侵すようになっても、なお、わび道に対するわれわれの憧憬の念には根絶し難いものがある。知的生活の場合でも、観念の豊富化を求めないし、また、派手でもったいぶった思想の配列や哲学体系のたてかたも求めない。神秘的な「自然」の思索に心を安んじて静居し、そして環境全体と同化して、それで満足することの方が、われわれ、少なくともわれわれのうちのある人々にとって、心ゆくまで楽しい事柄なのである。(p.15)
禅匠たちが、いやしくも、芸術に対して感受性をもつ以上は、その鍛錬によってえた根本的の直観は彼らの芸術的の本能を動かすにきまっている。直感は明らかに芸術感情と密接に関連しているからそれによって禅匠たちは美を創造する、すなわち醜や不完全なものを通して完全感を表現する。禅匠のなかには立派な哲学者にはなれなくても、すぐれた芸術家となれる者がしばしばある。(p.24)
和尚は、あらゆる禅匠と同じく、かかる僧に対しては言語的説明の無益なるを知った。言葉の上の詮議は一つの複雑から他の複雑に入って、終わるところを知らぬからである。(p.29)
正宗は人を斬るということに関心を持たなかった。それは切る道具以上のものだった。しかし村正は切るということ以外にでられなかった。(p.66)
朱子は孔子の例にならい、自ら司馬光の大著を簡約して一部の中国史を編纂した。この書において、彼は「名分」という礼節の大原則を宣言し、それをもってあらゆる時代に通ずる政策の指導原理となすべきものと考えた。宇宙は天地の諸法則によって支配され、人事もまたそうである。これらの諸法則はわれわれのすべてに本来自らそなわるところのものを遵守することを要求する。人は「名」を有し、社会において一定の地位を占めるがゆえに、ある「分」を果たすべきである。(p.115)
禅の茶道に通うところは、いつも物事を単純化せんとするところに在る。この不必要なものを除き去ることを、禅は究極実在の直感的把握によって成しとげ、茶は茶室内の喫茶によって典型化せられたものを生活上のものの上に移すことによって成しとげる。(p.121)
日本は近来好戦国として知られてきたが、全然誤りである。自己の性格について持つ意識は、自分たちは、全体としては、穏和な性質の国民だということである。その考えるのも道理である、日本全島をとりまく自然科学的雰囲気は気候上の水蒸気の存在にもとづく。山嶽・村落・森林などは水蒸気につつまれて柔らかな外貌を呈する。花は概して色がけばけばしくなく、やや和らぎを帯びてたおやかである。そして、春の葉ぶりは目にもさわやかである。このような環境に育てあげられた感じやすい心は、誤りなくそこから多くのものを吸収するが、それが心の和となる。(p.126)
仏教がどれほど日本人の歴史と生活のなかに入りこんでいるかを知ろうと思うなら、その最上の方法として、あらゆる寺院とそこに蔵せられている宝物のいっさいが破壊されたと想像することだ。そういう場合、いくら自然の風景と親切に富んだ人民に恵まれても、日本はいかにも荒涼たるところという感じがするであろう。(p.150)
人が「狂気」になったとき、偉大な事が成就されるとしばしば言われる・・という意味は、人間普通の意識層では思想や観念が合理的に組織され、道徳的に統制配置されている。それであるから、ここではわれらはいずれも通常の、常套的の、平々凡々の俗人である。すなわちもとより無害の市民で、合法的に行為する集団の一員であるから、その点では賞賛に値するのである。しかし、かかる魂には創造の性はなく、踏みなれた径をはずそうという衝動もない。(p.160)
俳句は元来直観を反映する表象以外に、思想の表現ということをせぬのである。まずこういうことを知らねばならぬ。これらの表象は詩人が頭で作り上げた修辞的表現ではなくて、直接に元の直観の方向を指すものである、否、実際は直観そのものである。(p.169)