鈴木大拙のレビュー一覧
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ネタバレ今日は朝3時頃に目が覚めたからこの本を読んでいた。日本で禅の文化がどのように浸透していったのかを追いかけた。
禅は日本に中国から儒教と共に、儒教の言葉で語られる形で流入したようだが、その起源はインドの仏教にあった。
中国では朱子学において儒教や禅の起源となるような文化が花開いたとされるが、中国はあくまで歴史的に実利を求める側面が強かった。その中で禅は異質なものだったのではないだろうか。中国人が禅の起源にあたる仏教に触れたとき、その奥深さに驚いたとされる。特に禅にあって儒教や道教になかったのは空(くう)の概念。
日本で禅が広がりを見せたのは鎌倉時代や南北朝時代であり、それは僧侶だけでなく武士の日常にも取り入れられた。禅は生死を日常的に意識する戦乱の時代に適合したようだ。さらに利休のような茶道の確立と共に武士の心構えとも同期する形で展開したところに禅の特殊性と特徴があるように思う。
日本人は侘び寂びの中に禅の体現を行った。侘び寂びは清貧、静謐、静寂、そして時に貧困をもあらわす。日本において一見、華やかさとは対極の生活の中においてこそ禅の精神が育っていったことは興味深い。日本人の奥ゆかしさやもったいないと思う心はここからも育まれたように思う。
細かく書くともっと色々ありますがこんな感じ。クリスマスの今日、キリスト教ではなく東洋の文化について振り返りました。禅の文化は今や瞑想や茶道という形で精神性を伴って世界中で受け入れられています。日本ではもともと中国からとりいれつつも、独自に解釈・発展させたようなところがあります。そしてその発祥はインドの仏教に関わるとされる。この禅の歴史的展開と発展は深すぎます。 -
Posted by ブクログ
禅を世界に広げた第一人者である鈴木大拙が欧米社会向けに禅と日本文化の精神について記した本。
元々は英文であったが、翻訳されている。
日本人の精神的背景にある禅の考えを日本文化という型を通して教えているという感じ。
日本人である私が読むと改めて私たちの意識・無意識に関わらず如何に禅が深く根付いているかが良くわかる。
題目は以下。
1.禅の予備知識
2.禅と美術
3.禅と武士
4.禅と剣道
5.禅と儒教
6.禅と茶道
7.禅と俳句
いいなと思った言葉
・般若を得れば我々は生と世界との根本的の意義を洞徹し、単なる個人的な利益や苦痛に思いわざずらわなくなる。大悲がその時に作用する。
・侘びの真意は「貧困」つまり、時流の社会のうちに、またそれと共におらぬということである。富・力・名に頼っていないが、普遍的な最高の価値を持つものの存在を感じること。
・美術品が表面的にもでも史的時代感を示せば、そこにさびが存在する。
・禅は武士を2面から支持した。その道徳的側面では、禅は一たびその進路を決定した以上は、振り返らぬ事を教える事。その哲学的側面は、生と死を無差別に扱うからである。
・天台は宮家、真言は公卿、禅は武士、浄土は平民
・鎌倉時代、天才は僧侶か武士になった
・刀には2重の務めがある。1つに持ち主の意志に反するいかなるものをも、破壊する事であり、もう一つは自己保存の本能から起こる一切の衝動を犠牲にすることである。
・刀剣の製作には、神徳の幾分かが加わるから、日本刀を帯するものは、精神的な人間たるべくして、獣性の代表者たるべきではない。
・一帯の水あれば、そこに月が映る。月はただひとつだが、水あるところどこにもその影を映す。これが理解されるとき、その技は完全になる。
・茶の精神は「和・敬・清・寂」である。
・禅に必要なのは心の誠実であり、そのたんなる概念化や物理的模倣ではない。
・無常を思い煩って何の益があろう。
・旅行が容易で快適に過ぎれば、その精神的意味は失われる。
・人生は畢竟、一つの未知から他の未知への旅であるからだ。我々に割り当てられた60年、70年、80年という期間は、できれば神秘のとばりを開くためのものである。
この本が記されたのは1938年。
反日感情渦巻く欧米社会においてどのように受け入れられていたのか気になる。 -
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ネタバレ前に『仏教の大意』を読んで、すごくよかったので続けて読んだ。
『東洋的な見方』の方は、コラムを集めたもので、大筋テーマが似ているが、それぞれ書かれている目的が微妙に違うので、読み進めていてこのままもっと!と思ったら、テーマがちょっとずれてしまって若干消化不良。
前半の「東洋思想の不二性」は、東洋がまだ物が二分しないところから考えていくのに対して、西洋は、物が二つに分かれてから物事を考えるという風にわかりやすく違いを提示している。なるほど。だから西洋の方には、東洋の曖昧さが許せないのだろうな。そしてその曖昧さ=妙という概念を語る段もある。それってなんかわかるな。日本人的。
すごく真宗的だと思う点は、東洋人は「考えれないところから出立する」というところ。西洋は「考えられない」ところをそのまま放置する。
この東洋的見方から、往還二相の回向は、一円相であると。循環端なき円環とする。二分性からはわからないとしている。往還二相の回向は、同時性があるということかな。分けられない。
もう一つ面白いテーマは「自由・空・只今」。禅的な解釈だけれども、現れるけれども、見えるときにもうそれは底に見れないというような話は面白い。
肯定して否定し、否定して肯定する矛盾の同一性である。これがわからぬと、上来の所述は全くわからなくなる。矛盾の連続でしかないと考えられよう。
わからないことが多いが、その中で「わからないということをわかっている」ということだな。
鈴木師の本は2冊しか読んでいないが、自分としては初心者には『仏教の大意』の方をお薦めする。こちらは鈴木師の哲学を少しずつエッセンスをしりたいという場合向き。意外なことに、その後この東洋と西洋の違いということで物事を見ていくとすごく現象把握がしやすくなったので、かなりおすすめ。 -
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読み終えるのに約半年もかかった難儀な本。
読み進めるのに時間が掛かったことが、問題だった訳では無く、
時間を要するほど難解だと分かりながら、
それでも放置できない吸引力をもつ困った本。
今から半世紀も前に、海外向けに英語で「禅」を紹介した著作を、
著者自身の手で翻訳された本だそうで、
そもそもの言葉遣いが現代とは違うことが、遅読の原因の一つだと思う。
それでも内容に沿って複数の項目にまとめられ、
順序立てて案内してくれているから、
ゆっくりでも読み進めれば、なんとか理解できそうなもの。
しかし、ある箇所では何度読み返しても、頭に入らないし、
滞りなく頭に入ったとしても、すぐ昇華して消えてしまう。
同時に、そこにはとても普遍的で、本質的な何かがあるような、
根拠の無い確信をもってしまうから、読めないのに手放せない。
読み始めて、それほど頁数を重ねるまでもなくわかったことは、
「禅」というのは、別次元であるということ。
こちらの次元の頭で、あちらの次元を認識することは、
到底不可能だろうということ。
しかし、「禅」という別次元に身をおけたなら、
世の中は、平和に見えるだろうし、幸せになることが出来るだろうと思いつつ、
その見え方、感じ方こそ、こちらの次元の話しなのである。 -
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引用メモ。
自分の主張は、まず日本的霊性のあるものを主体に置いて、その上に仏教を考えたいのである。仏教が外から来て、日本に植え付けられて、何百年も千年以上も経って、日本的風土化して、もはや外国渡来のものでなくなったと言うのではない。初めに日本民族の中に日本的霊性が存在していて、その霊性がたまたま仏教的なものに逢着して、自分のうちから、その本来具有底を顕現したということに考えたいのである。ここに日本的霊性の主体性を認識しておく必要が大いにあると思う。(p.65)
今までの日本的霊性は、伝教大師や弘法大師やそのほかの宗教的天才によりて幾分か動き始めていたことは確かであるが、まだ十分に大地との関連をもっていなかった。即ち十分に具体性をもっていなかった。個己が超個己との接触・融合によりてみずからの存在の根源に目覚めていなかった。それが親鸞の世界で初めて可能になった。彼はいくらかは公卿文化の産物ではあったが、彼の個己は越後でその根柢に目覚めたのである。京都で法然上人によりて初めの洗礼を受けたのであるが、それはまた超個己の【人】には触れていなかった。後者は彼が京都文化のまだ到り及ばなかったところに定住したとき、初めて働き出したのである。彼が、具体的事実としての大地の上に大地と共に生きている越後のいわゆる辺鄙の人々のあいだに起臥して、彼らの大地的霊性に触れたとき、自分の個己を通して超個己的なるものを経験したのである。法然によりていかほどの信心を喚起したにしても、京都文化以外に出る機会がなかったなら、他力本願の親鸞も伝教・弘法以上に出られたかどうか、甚だ危ぶまれるのである。「親鸞」はどうしても京都では成熟できなかったであろう。京都には、仏教はあったが日本的霊性の経験はなかったのである。(p.90)(引用者注:【】は傍点部、以下同。)
彼(親鸞のこと)は実に人間的一般の生活そのものの上に「如来の御恩」をどれほど感じ能うものかを、実際の大地の生活において試験したのである。ここに彼の信仰の真剣性を見出さなければならぬ。(p.95)
霊性は、上記四種の心的作用(感性・情性・意欲・知性のこと)だけでは説明できぬ【はたらき】につける名である。水の冷たさや花の紅さやを、その真実性において感受させる【はたらき】がそれである。紅さは美しい、冷たさは清々しいと言う、その純真のところにおいて、その価値を認める【はたらき】がそれである。美しいものが欲しい、清々しいものが好ましいという意欲を、個己の上に動かさないで、かえってこれを超個己の一人の上に帰せしめる【はたらき】がそれである。この【はたらき】は知性の能くするところであると考える者もあろうが、知性は意欲に働きかける力をもたぬ。知性はかえって意欲の奴隷に甘んずるものである。 …(中略)…
しかし霊性の【はたらき】は、これだけではすまぬ。もしこれだけのものなら、日本的霊性ということはできぬ。霊性は大円鏡智で妙観察智たるに止まる。一般普遍性のものは白か黒かの素地を作るだけで、海のものにも山のものにもなる。従って海のものでも山のものでもない。霊性には仏教の語彙で言えば、成所作智がある。ここに日本的と言い得る霊性の特殊を認めるのである。即ち日本的にはたらき出るのである。この【はたらき】の現われをどこに認得するかというと、話は今までのと違った方向に転じなくてはならぬのである。大円鏡智を霊性の知的直覚というなら、成所作智はその意的直覚である。霊性の【はたらき】の二方面は、知的直覚と意的直覚とであるというと、前者は感性と情性の上に働き、後者は意欲の上に働くと見ておきたい。(pp.115-116)
この世の生活が罪業と感ぜられる。そうしてその罪業がなんらの条件もなしに、ただ信の一念で、絶対に大悲者の手に摂取せられるということを、我らの現在の立場から見ると、その立場がそのままそれでよいと肯定せられることなのである。即ちこれは自然法爾である(p.117)
何ゆえに神道的直覚は情性的であるかというに、それはまだ否定せられたことのない直覚だからである。感性的直覚もそうであるが、単純で原始性を帯びた直覚はひとたび否定の炉韛(ろはい)をくぐってこなければ霊性的なものとはならぬのである。否定の苦杯を嘗めてからの直覚または肯定でないと、その上に形而上学的体系を組立てるわけにはいかないのである。(p.124)
霊性的直覚なるものは、まず個己の霊の上において可能である、すなわち【一人】の直覚である。ところが神道には、集団的・政治的なものは十分にあるが、【一人】的なものはない。感性と情性とは、最も集団的なるものを好むのである。それは集団の上にみずからを映し出すことによりて、みずからの存在が最も能く認められるのである。冷静的直覚は、孤独性のものである。これが神道にない。神道に「開山」というべきもののないのはその故である。「開山」はどうしても超個己を個己の上に映した【一人】であるから、集団性を持ち能わぬ。集団は【一人】の「開山」をめぐりて集まりきたるものである。集団の上に一面に拡がっているものには中心がない。或る意味でそれは全体的であるが、この種の全体性は中心のない集合で、いわばただの群衆でしかない。そのときどきの感性と情性との動きに任せて蕩揺不定の行動をなすのが常である。これらは冷静的直覚によって指導せられねばならぬ 。なんとなれば霊性的直覚の上にのみ、形而上学的体系が加えられ得るのである。(p.128)
鍬をもたず、大地に寝起きせぬ人たちは、どうしても大地を知るものではない、大地を具体的に認得することができぬ。知っていると口でも言い、心でもそう思っているであろうが、それは抽象的で観念的でしかない。大地をそれが与えてくれる恵みの果実の上でのみ知っている人々は、まだ大地に親しまぬ人々である。大地に親しむとは大地の苦しみを嘗めることである。ただ鍬の上げ下げでは、大地はその秘密を打明けてくれぬ。大地は言挙げせぬが、それに働きかける人が、その誠を尽くし、私心を離れて、みずからも大地になることができると、大地はその人を己がふところに抱き上げてくれる。大地は【ごまかし】を嫌う。(pp.131-132)
煩悩具足が具体的事実として体験せられるとき、信心決定の機がおのずから出るのである。前者が真剣であればあるほど、後者は的確性を帯びてくる。まず前者を体せよ、後者の来らんことを期するな。それは仏を拝んで、その功で自分も成仏したいというのと同じである。道宗が猛烈な自己練成をやったのも、実に霊性的直覚の道を進んでいたのである。(p.203)
「わしが阿弥陀になるじゃない、阿弥陀の方からはわしになる。なむあみだぶつ。」名号は阿弥陀の方から来て才市に「あたる」と、才市は才市で変わりないが、しかしもはやもとの才市ではない、彼は「なむあみだぶつ」である。そしてこの「なむあみだぶつ」から見ると、一面は弥陀であり、一面は才市であって、しかもまたそれ自身たることを失わぬ。「なむあみだぶつ」は霊性的直覚の又の名である。直覚の内容であるというのが正当かもしれぬ。或いは弥陀の個己化が「なむあみだぶつ」だと言うべきであろうか。文字の上で詮索すると、こんなようなことよりほかに言われない。(p.220)
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2013.7記。
吉本隆明や梅原猛といった仏教と日本との関係を論じるひとたちがしばしば引用するいわば基本書である「日本的霊性」。いざ手にして見ると、議論は融通無礙(←仏教用語)にあちこち飛びまくるし、内容も「往生がすんで還相があるというのではなくて、往生がすなわち還相で」といった調子でわけが分からないから、適当に割り切って読み飛ばさないと手におえなかった。それでも、難解な仏教の教義がどう日本人の心のありようと関わっているのか、という部分でははっとさせられることが見出される。
平安末期は「末法思想」が広がった、と歴史の授業で習う。著者は、貴族が弱体化し武家が勃興するこの変革期における、「何となく、『このままで、すむものではない』という気分」(P.145)を、「鋭敏な宗教的天才は、必ずこの種の焦燥不安が社会意識の上にただようて居るのを看取せずにはおかない」のだ(P.146)、という。
また、ありがちな日本人論でよく取り上げられるものとして、「日本人はオリジナルを生み出すのは苦手だが、それを取り入れて応用するのが得意である」という言い方がある。外国から伝来した仏教に対しても、そのようなイメージを持つことは容易であろう。しかし、著者はこれを「日本的霊性がたまたま仏教にぶつかって霊性は仏教の上にどんな力を示したか」(P.131)と捉える。
著者の思索を、分からないなりに追いかけることを通じて、何かをちょっとは垣間見たかな、という気分には浸れた。読み返せば理解は深まるかもしれない(が、まあその気力はないな、今のところ・・・)。 -
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先日読んだ『茶の本』に続き、私にとっては難解な本で、単語も調べつつ読んでいきました。
著者が外国人のために、禅が日本文化に与えた影響について書いた書籍を和訳したもの。
読んでも禅について明確に分かった!という気にはなれなくて、
禅と日本文化(美術、武士、剣道、茶道、俳句)とに共通する思想がぼんやりと分かったような。
あまり著者について詳しくないのですが、「集合的無意識」と何度か出てくるところは、ユング心理学の影響を受けているのでしょうか。
説明苦手なので、恒例の一部抜粋。
<印象に残った個所>
・禅は初唐即ち八世紀に中国に発達した仏教の一形態である。
・禅のモットーは「言葉に頼るな」(不立文字)
・道徳的というのは、禅は、一たびその進路を決定した以上は、振り返らぬことを教える宗教だからで、哲学的というのは生と死とを無差別的に取扱うからである。
・禅には、一揃いの概念や知的公式を持つ特別な理論や哲学があるわけではない。ただそれは人を生死の覉絆から解こうとするのである。
・剣道の極意は死を恐れざることで御座る。
・「業」もじつは「心」から発する。ゆえに最も肝要なことは、「心」そのものを洞徹することである。
・禅宗と同様に、芸術のすべての部門において、この危機の通過ということは、あらゆる創造的作品の根源に到達するためにきわめて肝要だと考えられている。
・剣道においてその技術以外に最も大事なことは、その技を自由に駆使する精神的要素である。それは「無念」または「無想」という心境である。
・まことに和や柔軟心はこの世の生活の基礎である。
・茶の湯が原始的単純性の美的鑑賞であること、換言すれば、茶は人間の生存が許しうるところまで自然に還って、自然と一つになりたいという、われわれの心奥に感じる憧憬の美的表現であることを示している。
・一芸の熟達に必要なあらゆる実際的な技術や方法論的詳細の底には、自分のいわゆる「宇宙的無意識」に直接到達するある直覚が存し、各種芸術に属するこれらの諸直覚はすべてみな、個々無関連な、相互に無関係なものとみなすべきものではなく、一つの根本的な直覚から生ずるものと、見なすべきものだ
・最大の芸術品は、それが絵であれ、音楽であれ、彫刻であれ、詩であれ、間違いなくかかる性質を、すなわち、なにか神の仕事に近いものを持つものである。
・禅が日本人に教えた多くの事柄のなかで、芸術と生活に関連して注目すべき一事は、すでに示唆したように、悟りの体験を強調していることだが、これによって「宇宙的無意識」が具現化して現れるのである。 -
Posted by ブクログ
鈴木大拙は、明治から昭和にかけて日本の禅文化を海外に広くしらしめた仏教学者・文学博士で、著書約100冊のうち23冊を英文で著している。
本書は、1935~36年に英米の大学でなされた講演を骨子として1938年に発行された原書“Zen Buddhism and its Influence on Japanese Culture”をベースにして、1940年に日本語訳されたもので、以来読み継がれている古典である。
本書は当時、従来の著者の作品にも増して、各国の宗教研究家や日本文化に関心を持つ人々から歓迎され、「恐らくこの書は単に日本に関するのみならず、英雄的精神の深奥にひそめる最も深遠なるものに関して著された最も美しい本であろう」とも評されたという。
著者は禅の特徴を「禅の鍛錬法・・・それは真理がどんなものであろうと、身をもって体験することであり、知的作用や体系的な学説に訴えぬということである。・・・禅のモットーは「言葉に頼るな」(不立文字)というのである。・・・言葉は代表するものであって、実体そのものではない、実体こそ、禅において最も高く評価されるものなのである」と述べ、「禅と美術」、「禅と武士」、「禅と剣道」、「禅と儒教」、「禅と茶道」、「禅と俳句」という観点から、禅が日本人の性格と文化にどのような影響を与えているかを綴っている。
禅についての幅広い理解を深めるために格好の書と思う。
(2010年1月了)