鈴木大拙のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
若き日に読んでかなり影響を受け、その後仏教への共感を深めていくきっかけになった一冊だ。鈴木大拙の著作の中で、世界でそして日本で最もよく読まれた本であろう。欧米に禅ブームを引き起こすのに一役も二役も買った。
禅は日本の文化にどんな影響を与えてきたか、そして禅とは何か。もともと欧米人のために英文で書かれた。そのためか随所に心理学的な用語が用いられている。かえってそれが、現代の日本人にも新鮮な禅との出会いを可能にする。私が「心理療法の考え方に通じる」と 「発見」したのも、そんな表現法によるところが多い。
私はその頃、ロジャーズを中心とした心理療法に関 心をもち初めており、禅の主張が心理療法の考え方に深く通ずることを「発見」し、たいへん感動した。それ以来、仏教と心理療法、人間性心理学、トランスパーソナル心理学等とは、一方の理解が他方の理解を深めるという形で、私にとっての主要な関心であり続けた。 その意味でも思い出深い本だ。 その後、特にトランスパーソナル心理学は、仏教に代表される東洋思想に深く影響されながら発展していったのである。その代表的な論客、ケン・ウィルバーは、禅からも深い影響を受け、深い座禅体験ももつ。
いかに心理学的な記述が多いか、一文だけ引いてみよう。 「偉大な行為はみな、人間が意識的な自己中心的な努力を捨て去って、『無意識』の働きにまかせるとき成就せられる。神秘的な力が何人(なんぴと)の内にも隠されている。それを目ざましてその創造力を現すのが参禅の目的である。」こんな調子だ。
この本は、禅を、美術・武士・剣道・儒教・茶道・俳句など日本の伝統文化のあり方に即して具体的に語るので、その意味でも禅への入門書としてすぐれている。禅が、日本の伝統文化の一面にいかに深い影響を与えたかが、説得力をもって語られる。
梅原猛は、この本が日本文化の禅的な一面だけを強調しすぎることを批判したが、にもかかわらず、この書が古典的な名著であることにかわりはない。 -
Posted by ブクログ
やっとここまで来たという到達感。
濫読の途中で仏教というテーマの中間整理になった。
この本は読み出すまでは難解で近寄りがたいと思っていた。生涯の友西田幾多郎の『善の研究』を連想して勝手にそう思い込んでいた。
鈴木大拙は激動の時代にあって日本仏教の霊性の覚醒を洞察しそれを鮮やかに表現した。濃密な内容は読む者の頭に深く沁み、混沌が一つ一つ整理され得心する手応えは格別だ。戦後を生きる日本人の思考の原点となり仏教を世界に知らしめた意義は大きい。
彼は第四高等学校で西田と交流し、西洋思想に傾倒するが父の早逝で中途退学し、英語教師を経て21歳で東大専科生になる。鎌倉の建長寺で傑僧今北洪川や釈宗演から禅の指導を受ける。27歳で渡米し独宗教学者ポール・ケーラスの助手になり11年間出版活動に従事する。難解な高橋巌の『大乗起信論』を共訳し『大乗仏教概論』を著す。
39歳で帰国し学習院や東大で英語を教える。
柳宗悦はその時の教え子である。
41歳でビアトリスと結婚、ズヴェーデンボルグの
『霊界日記』を翻訳しキリスト教の神秘主義と仏教の霊性の構造的類似性に惹かれる。
1944年74歳の時、この『日本的霊性』を発表する
太平洋戦争で日本の敗色濃厚ななか、軍国主義イデオロギーの日本精神と弁別し日本仏教の霊性を考察。
1946年「大智と大悲」を天皇に進講
(‘47『仏教の大意』、’49『臨在の基本思想』出版)
戦後日本の再出発に日本の仏教の意義を説く。
1953年からエラノス会議会員となり講演をする
1967年井筒俊彦に引き継ぐ
世界を視野に神秘主義や言語・哲学を研究する。
晩年、親鸞に回帰し『教行信証』の英訳を行う。
禅宗から臨在・華厳教をへて浄土教の「絶対他力」
に行きつき、そこに日本的霊性の極致を見いだす。
96歳で没。
邦文著作百巻超、外国語著作三十巻余
確固たる宗教体験で、思惟能力・表現能力・伝導
精神が傑出した日本の最もすぐれた仏教哲学者。
本文は霊性の定義、精神との違いから始まる。
日本的霊性は鎌倉時代の禅と浄土仏教で覚醒する。
平安時代までの仏教は為政者の政治手段であり、
文献解釈と仏像や豪華建築の権威誇示であった。
万葉集や源氏物語のかな文字も有閑エリート層の
恋愛やもののあはれをうたうものであった。
浄土教の他力本願は鎌倉時代に法然と親鸞によって
大地に生きる農民の切実な宗教として確立する。
蒙古襲来で日本民族の主体性を自覚する武士の禅宗
とともに日本的霊性の発露である。
親鸞で完成する法然上人の浄土思想、この全貌を解明した後、最終章で妙高人という信仰厚く徳行に富んだ象徴的信者の実像を示す。筆頭に越中赤尾の道州、次に石見の国の浅原才市、両人の法悦三昧・念仏三昧の生活と心がけを活写する。凄まじい浄土教の実践行は当該論考の掉尾を飾って余りある。
「即非の論理」について
肯定されている概念をいったん否定し、この否定を経てもういっぺん肯定に戻ったときに初めてその概念に対応する物の真実がとらえられる。
心が主観と客観に分かれて成立する関係がいわゆる知識或いは認識であり分別とも呼ばれる。ところが主観は人によってそれぞれ異なる。こういう認識作用によって知られるものは「存りのままの存る」ではない、それは常に主観による変容が加わっている。そこでこのような分別をまず否定する、つまり主観と客観の対立を掃いのける、或いは心が主客に別れる前の状態に戻る。心はもともと一心であり絶対の一であり、これを主観と客観に分けたのは我々自身だ。いずれにせよ初めの肯定がこうして否定されるとそこへありのままの物が現出する。これが「即非の論理」の意味である。
普通に言われる知識は知性即ち分別の所産である、これに反して物の真実を直観する能力は智慧である。直観には直観するものとされるものという対立はない、「存りのまま存る」をじかに直観するのだからそこに主客の区別はない。このような智慧を般若或いは「般若の智慧」と呼び、「即非の論理」は「般若の論理」とも言われる。
このように物の真実をとらえる方法が即非の論理であり、この論理は論証的思惟で認識されるのではなく霊性的自覚という体験においてのみ得られる。例えば神や仏、自由、不死或いは不生というような概念はすべて霊性の世界での話である。
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東洋的な見方
なかなか興味深く楽しく読めます。難しい言葉、専門用語も多々ありますから何度も読み返すことが必要ですが、良く理解するまで熟読する書だと思います。
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購入済み
我々も忘れている禅を巡る文化
今の時代の我々にとって特に気づかされることが多いのは、武士と剣術の章。かの国々で現在進行中の争いを我々が思いやるとき、ここで語られている考え方が新たな視点を提示しているような気はする。同時にこうした文化を持つ日本文化と、かの国々の文化との際立った違いを浮き彫りにもする。少々不思議に思うのは、我々でさえすっかり忘れているが、大切で有効なこうした考え方や思考を欧米の人たちはどのように読んで、意味を汲み取っているのであろうか?
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Posted by ブクログ
(01)
霊性という語には仏教味が少なく,著者が近代の知を浴びながら捻出した造語とも言える.しかし,精神でもなく心でもなく,ましてや無意識でもないし,もちろん物でもない霊性とは何か.
浄土真宗(*02)こそが,著者の信条を捉え,身体性に染み付いた実践でもあったと考えられる.真宗の創始にあたった法然と親鸞,そして真宗の近代的な実践者である道宗や才市の例をあげ,それが他の宗派や宗教ではなし得なかった霊性に着地した思考(*03)と実践であったと説いている.
(02)
浄土真宗の念仏は,常に問題となる.日蓮宗の「南妙法蓮華経」よりもさらにコンパクトになった名号「南無阿弥陀仏」が膾炙し,膾炙するだけの理由が語られていく.それは理論的なものでもなく,狂信的なものでもなく,霊性的な境地にのみ発せられる人間の表象とでも家るのではないだろうか.もちろん意味をなす言葉でないところにその六字の聖性があるする考えはよく了解される.
(03)
鎌倉仏教や禅宗に至るちょっとした精神史,思想史も霊性の立場から説かれており,「大地」というイメージも面白い.また,その思考は,武士道にも引き継がれ,言わずもがな,明治以降の国家神道に差し向けたアンチなテーゼとしてもとらえられる.また,キリスト教ほかも視野に入れた世界史の中での日本的霊性の位置付けもなされている.