管啓次郎のレビュー一覧
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これは新たな視点で世界を見るきっかけになった。ものすごい世界観だった。
私の身近では、マクロビオティックやオーガニック、スローライフに視点をおく傾向がある。だけど、そもそも、どうしてそうすることが必要であり、その根源にあるものが一体何かは混沌としていた。
それが、まさかアメリカ・インディアンの人々に関連しているなんて!
私が住んでいる世界は、「都市」であり「土地」という観念はない。しかし、その「土地」は、アイデンティティとみずからの存在の「意味」をも含有するものであるのだ。
ものすごく印象的だったのは、人間における自己定義のメカニズムについて。それは、差異化と同一化の二つ。差異化ばかりを意識してた。でも、同一化することで、紋様ができる。 -
Posted by ブクログ
著者の処女作で、著者のブラジル滞在中に書き綴られたアフォリズム的な断章や詩、友人への書簡や他の作家の作品からの引用が、そぞろ歩きの足跡のように連ねられている。それは一見旅行記のようではあるが、そう呼ぶのは相応しくない。それは「旅行」なるものを否定したところに成り立っている、ほとんど書くことと一つになった旅の痕跡と呼ばれるべきではないだろうか。実際著者はこう述べている。「旅と記述は、たしかに似ている。ほとんどおなじものだといってもいいくらいだ。紙に書くか、地表に見えない足跡を書くか。どちらにも、賭けられているものは〈自由〉だった」。どの方向へ一歩を進めるか、どのような一句を継ぐか、誰にも、もしかすると自分にも決められないのかもしれない。そして、こうしてどこへということなく進むことのうちにあるのは、言葉の混成を生き抜き、自分だけの言葉を探る道なき歩みである。それについて著者は、ほとんどデリダの『他者の単一言語使用』の「絶対的翻訳」の思想を先取りするかのような洞察を示している。「ことばに断絶はない、ことばは波打って変化するだけだ。ジョイスの、イヴァン・ゴルの、ナボコフの読者ならすぐわかるように、人は移動するかぎり必然的に混成語を身につける。(中略)きみがしゃべることばはきみのシュプールと似た輪郭をもち、きみとおなじ唯一の顔をし、どんどん組み替えられて、けっして安定しない。きみというひとりはひとつの民族であり、複数の人からなる〈単一民族〉はけっして存在せず、きみはきみ自身のイディオレクト[個人語]を話すだけ。個人的な訛り、独自のしぐさ、小さなことばが、長い距離をゆく。訛り、混成し、話す。そしてはじめて〈きみ〉が存在するのだ」。いくつもの言語が混淆するなかに自分の言葉を探るあてどない旅のうちにこそ、私の自由が、私自身がある。そのような旅を生きる立場から、本書では「ヨーロッパ」なるものが、そして不断に境界線を押し広げ、「アメリカ」なる虚構とともに、その暴力をも産み出した「ヨーロッパ」の植民地主義が批判される。その経路を開いた最初の一人に数えられるコロンブス。彼は航海に犬を連れ、その犬を先住民にけしかけたという。本書の表題にも掲げられるこの犬とは何か。グローバルな資本主義経済のなかの消費者の一人である私も、コロンブスの犬の一匹なのかもしれない。そのことを踏まえながら、砕け散った世界──世界を廃墟として見る視点を著者は、サン・パウロで教えるジャン=マリー・ガニュバンのベンヤミンの研究書から得ている──を縫うように歩む旅へ一歩を踏み出すこと。不可能な救済と統一への深い「サウダーヂ」を抱いて。言葉を語ること、生きることそのものであるようなこの旅への誘いが本書にはある。
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ネタバレ-2009.02.24
システムが自分自身の組織を形成し変化させていく閉じた環のなかにとどまり、その徤環をよき環として捉え直そうというオートポイエーシス論の提唱者たる二人の原理的入門の書。
<いかにして知るのか>を知る
ぼくらの経験が、いかにぼくらの<構造>にしっかりと結びついているか-
ぼくらは世界の「空間」-客観的・外在的な-を見るわけじやない。ぼくら自身の個別の視野を、生きているのだ。
反省的思考-Reflection-[=反映]とは、ぼくらが<いかにして知るのか>を知るプロセスのことだ。
それは自分自身に向かって帰還してゆく行為だともいえる。それは自分の盲目性を見いだし、他人の確信や知識[認識]にしたところで、ぼくら自身のそれと同じくらい、困った、頼りないものだと認識するための、唯一の機会なのだ。
ぼくらが<いること>「存在」と、<おこなうこと>「行動」と、<知ること>「認識」の、この継ぎ目のない偶発的同時性がふくみもつ意味に、気づくということ。
外部にあるいかなるものについての経験も、「そのもの」が<描写>の中に立ち現れてくることを可能にする人間の構造によって、特別のやり方で価値づけられて【有効化されて】 いるのだ。
アクションと経験のこの円環性、この連結、ある特定の<ありかた>「存在様式」と世界の見え方とのこの分離不可能性は、ぼくらに、それぞれの認識行為はひとつの世界を生起させるということを教える。
これらのことは次のようなアフォリズムに要約されることになろう-
「すべての行動は認識であり、すべての認識は行動である」と。 -
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ネタバレ本当にこの人の翻訳がとても読みづらくて苦手。でもエイミーベンダーの小説の雰囲気は好き。でも私が読んでいるのは翻訳版のみ。結局私はこの読みづらい翻訳の雰囲気が好きなのか?
"そんなにちがったことだったのだろうか、私がまだ工場で作られ自販機で売られる食べ物を食べるのを好んでいたことは?… そのころ私は十二歳くらいだった。学校であの自販機がなかったなら、いったいどうやって一日を過ごせたことか、わからなかった。私は、ありがとうというお祈りを自販機にむけ、毎晩それに商品を補充する人、また商品を買う人にもむけた。
それははたしてカードテーブル用の椅子を選ぶことと、それほどちがったことだったろうか、ただ私の選択は私がこの世界に留まることを許し、彼の選択がそうでなかったことを除けば?" -
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ネタバレ特殊能力やアリエナイコトが起こるこの物語を、ただ深い意味のないファンタジーと捉えることもできるかもしれない。
でも、誰かの心の中で起こることは、その人の中での真実。現実とそうでないことの境目は、常に曖昧だ。自分には信じられないからと、それを嘲笑ったりたしなめたりすることが、なんの役に立つのだろう?
著者のエイミー・ベンダー氏に、「あなたはどこまで他人の真実を受け入れられますか?」と聞かれているようだった。
“食事はあいかわらず食事だし、食べ物はあいかわらず決まったはじまりと終わりのあいだにある、そして私は自分に食べられるもの食べられないものを自分で決められる、と。そして父の場合は完全に避けて通ることもできる病院であり、おじいちゃんの匂いの場合はどうやらお店でのことらしかったけど、もし、ジョゼフが毎日感じたことにはそんなはっきりしたかたちがなかったのだとしたら、どうだろう?避けることも、変えることも、できなかったのだとしたら?いつもそうだったとしたら?”
わたしたちは例え家族であっても、肌をどんなに重ねも、感覚を、思考をひとつにすることはできない。椅子になってしまったジョゼフは、その孤独さを常に感じていたのかもしれない。
愛情を注いでも、あなたが必要だと言っても、それは彼の孤独をさらに強めるだけで、彼の救いはただのものになること。ローズはそれを理解したが故に、あの「最後のお願い」をしたのではと思う。
わたしはローズのようにその選択を尊重できるだろうか。彼の選択を尊重するということ、それが正しいのかすら、今のわたしには、わからない。 -
Posted by ブクログ
面白かったです。エイミー・ベンダーの本を読むのは久しぶりでした。
料理を食べると、作った人の感情が解ってしまう力を持つローズが哀しくも、でも料理に携わって生きていこうとする光を感じました。
彼女の家族もつらくて…ローズの兄のジョゼフは世界を手離して、椅子になってしまうのでしょうか。そこがよくわからなかったのですが、この作者さんらしい不思議さでした。
空気を読む、とかのレベルでなく、人の感情が解ってしまうというのは大変な能力です…人の秘密や、知りたく無いことまで知ってしまう、というのは悲劇です。
それでも絶望せず、最後は進む道を獲得するローズが眩しかったです。ローズの能力を知っている、ジョゼフの友人のジョージが良い人だったというのもありますが、ローズ自身の力も大きいのではないかと思いました。
アメリカの料理は美味しそうだというより大柄だなと思っていたのですが、ローズが働くカフェの料理は優しく美味しそうでした。