カントのレビュー一覧

  • 純粋理性批判 1

    Posted by ブクログ

    人間は事物をありのままの姿で認識できない。自分の五感を信じるな。事物の本質は分からないのに、分かると考えるから心の平静が乱される。あらゆる物事の判断を控えるように。ピュロン

    どんな観念(=思考)も、元をたどれば対応する生き生きした感覚経験("印象")がある。盲人は色彩について、いかなる概念も形成できない。人間の観念(=思考)は経験の範囲内で構成されている(2章)→生得観念(生まれつき持つ知識)や経験に依らない概念形成は疑わしい。形而上学的な概念(魂・神など)は疑わしい。経験に基づかない観念は検証できない。認識は外界のコピーではなく内的再構成▼私たちは原因と結果の必然的つながりを経験していない。見えているのは繰り返しの連続だけで、因果関係は理性ではなく"習慣"。皿を落とした。割れた。その経験を何度も繰り返すと、「皿を落としたから割れた」と因果関係を理解するようになる。因果関係は経験("習慣")による思い込みであり、自然界には存在しない。客観的な因果関係は存在しない(4章)。デイヴィッド・ヒューム『人間知性研究』1748
    *「人間本性論」第1巻をヒューム自身が書き直した改訂版
    *カントによる発展: ヒュームの言うように、経験だけからは因果関係の必然性は導けない。また人間の認識には習慣や心の働きが関与する。しかし、因果関係のすべてが経験(習慣)による思い込みではない。数学の真理は経験による確認を待たずに成り立つ先天的な知識。ただ経験と無関係ではなく、数学や自然科学の普遍的な因果性は空間(幾何学)と時間(算術)という人間の認識形式に基づいている。数学は認識主体に由来する点では主観的だが、すべての人間に共通する認識形式に基づくため、現象世界においては客観的な真理(カント)。

    人間の認識はまず外界からの刺激を受け取り、経験の材料を与える(感性)。その際、感性は空間と時間つまり経験に先立つ人間の認識枠組み(純粋形式)によって対象を受け取る。”本が机の上にある”という経験には空間(についての認識の枠組み)が必要だし、”ボールが落ちる”という経験には時間の経過(についての認識の枠組み)が必要。空間や時間は世界そのものの性質ではなく、人間があらかじめ空間と時間という認識の枠組みを持っているから、対象を空間的・時間的に経験している▼しかし、それだけでは断片的な対象の印象があるだけで、それが何であるかは理解できない。そこで次に外界から与えられた材料を整理し、対象として理解する(悟性)。目で見た複数の印象を一つの「机」として認識したり、出来事の間に原因と結果の関係を見出したりする。その際、因果性など経験を理解する枠組み(カテゴリー)によって経験を構成する。外界から来るのは、色・音・硬さといったバラバラの印象(感性)。それらを、これは同じものだ(実体)、これが原因でこれが起きた(因果性)、これは一つの対象だ(統一)というように、バラバラの印象を整理して理解(悟性)。また、”私の経験”として統一する働き(統覚)が常に(すでに)働いているから、感性と悟性が経験として成立する▼このように外界は人間の認識能力を通して現れた世界(現象)であり、認識能力から独立した世界そのもの(物自体)を直接知ることはできない。人間に認識される以前の、認識から独立して存在しているもの(物自体)を直接知ることはできない。私たちが机を見ると、色が見える、形が見える、大きさが分かる。これらはすべて人間の認識の仕組みを通して経験されたもの、「人間に現れた机」であって、「机そのもの」ではない。物自体は人間とは無関係に存在するもの。物自体は存在すると考えられるが、認識することはできない。認識した瞬間に、見る・聞く・考えるといった人間の認識の仕組みが介入してしまうため、それはすでに「現象」になっている。私たちが経験するのは現象だけ。現象が「現れるもの」である以上、その背後に”認識から独立した何か”(物自体)を想定せざるをえない。"わたしたちは人間以外の他の思考する存在者による直感がどのようなものであるかについては、まったく判断できない"(p.89, 感性論051)。cf. ヤーコプ・フォン・ユクスキュル 「環世界」 ▼理性は外界から与えられた材料を整理、対象を理解して得られた知識を統一し、より広い説明を与える能力。条件づけられた認識を、より高次の無条件なものへと統一する能力。悟性は経験を概念によって整理・統一し、理性はその認識全体をより高次の原理へと統一する▼しかし理性はときに経験によって確かめられない事柄についても結論を出そうとする。「世界には始まりがあるか」「魂は不滅か」「神は存在するか」など。経験を超えて考えようとする理性(=純粋理性)が生み出す問いの体系が形而上学。これらの問いは認識の対象ではなく、希望や信仰の対象。信仰・道徳・自由に場所をあけるために、知識(科学)を制限しなければならない。理性は神の存在を肯定できないが、否定することもできない▼理性が経験できる範囲を超えて世界全体について考えると、正反対の結論がどちらも論証できてしまう(アンチノミー)。この問題は理性そのものが間違っているからではなく、経験可能な範囲を超えて理性を使ってしまったから生じる▼人間は経験できる範囲については確かな知識を得ることができるが(科学の客観性)、経験を超えた事柄については知識(科学)の限界を認めなければならない。イマヌエル・カントKant『純粋理性批判』 1781
    * 「太陽が地球のまわりを回る」のではなく「地球が太陽のまわりを回る」とコペルニクスが発想を逆転したように、カントは「認識が対象に従う」(世界は認識とは独立にそのまま存在し、認識はそれを受動的に写し取る)のではなく、「対象が認識主体の形式に従う」(世界がそのまま私に与えられるのではなく、私の認識の仕方に従って世界が現れる)と発想を逆転した。コペルニクス的転回
    *第3アンチノミー。自由は存在する(正題)。なぜなら、もしすべてが原因によって決定されるなら、原因の連鎖はどこまでも遡らなければならず、何かを自ら始める力がまったく存在しなくなる。自由は存在しない(反題)。なぜなら、すべての出来事には原因があり、その原因にもさらに原因がある。世界は因果関係の連鎖でできている。人間の選択も自然現象と同じく因果法則に従う。
    *時間(という内的な直感形式)。人間と人間以外の他の思考する存在者で時間にかんする直感は異なる。一瞬が非常に長く感じられる存在。未来を同時に見る存在。時間の順序が異なる存在。cf. 相対性理論: 「1秒」という単位は各観測者の時計では同じだが、異なる観測者の時計を比較すると経過した秒数が一致しないことがある。

    イマヌエル・カントKant『プロレゴメナ』1783

    私たちは普段、時間を時計やカレンダーのように均等に区切られたものとして考えている。しかし、それは時間を空間のように扱った結果にすぎない。本当に生きられている時間は、1秒、2秒、3秒と区切られたものではなく、過去が現在に溶け込みながら連続的に流れていく経験。悲しい時間が長く感じられたり、楽しい時間があっという間に過ぎたりするように、人間が体験する時間には質的な違いがある。この生きられた時間を「持続(durée)」と呼ぶ▼19世紀、科学の発展によって、人間も自然現象と同じく法則に従う”機械”ではないかと考える人が出てきた。人間の行動を外側から観察すると、すべて原因と結果で説明でき、自由意志がないように見える。しかし自由意志が存在しないように見えるのは、人間の心の働きを空間的・機械的に捉えてしまうから。人間の行動を外側から観察し、原因と結果の連鎖として分析すれば、すべては決定されているように見える。しかし実際の人格は、記憶や感情や経験が一体となって流れる”持続”そのもの。自由な行為とは、その瞬間の気まぐれではなく、その人の人格全体が成熟した結果として生まれる行為▼自由とは因果法則から完全に独立した神秘的な力ではなく、自分自身の”持続”から生まれる行為、人格全体を反映した行為。人間は機械のように外部から決定される存在ではなく、時間の中で絶えず変化し創造される存在。アンリ・ベルクソンBergson『時間と自由』1889

    0
    2023年04月06日
  • 純粋理性批判 2

    Posted by ブクログ

    この本で強調されていた2つの事項の対比ー感性と知性、分析と総合、アプリオリとアポステリオリ、主体と客体、原因と結果だ。世の中の多くの事は2つの比較で考えられることが多いからだ。超越論的認識、形而上学、ロック、ヒューム、自己統合、カテゴリー、弁証法、実体の根拠付け、親和性、ものごとを抽象化して考えるくせを付けないといけない。

    0
    2023年01月21日
  • 永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編

    Posted by ブクログ

    本書が国際連合の理論的根拠にされているのは有名だ。
    その骨子は、永遠平和を実現するための6つの予備条項と3原則を柱としている。

    本書を手にとって把握できたのはそれくらいのもので「100分de名著」などの入門紹介本でもそれくらいのことはしっかり解説されている。
    つまり結論としては、「問い」を用意していたり、筆者や本の主張に「特別な関心」を持っていない場合においては、数十年以上前の名著については要約された入門書で十分だと思った。

    0
    2023年01月20日
  • 純粋理性批判 1

    Posted by ブクログ

    この本は色々な2つのことが対比して述べられている。アプリオリ(経験から独立)とアポステリオリ、分析的と総合的、空間と時間、知性と理性、必然性と普遍性、それらの違いは何かを抽象的に考えさせられる。そもそも本書は哲学書だからだ。先天的、超越論的、誤謬、デカルト、ライプニッツ、実在性とは何かを深く考えていかないといけないと感じた。

    0
    2022年12月25日
  • 永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編

    Posted by ブクログ

    ネタバレ

     人間が思考するのは、他者に考えた内容を伝達するためである。そして他者に思想を伝達するためには、他者の立場から考えることが必要なのである。完全な独語には、だれも耳を傾けようがないのである。アーレントが指摘するように「我々は他者の立場から思考することができる場合にのみ、自分の考えを伝達することができる。さもなければ、他者に出会うこともなければ、他者が理解する仕方で話すこともなであろう」。
     このことは、他者の存在こそが人間が思考するための条件を構成しているということである。他者との交わりのうちでしか、思考は形成されないし、刺激も荒れないのである。文化と文明の発達において、他者はその可能性の条件を構築する重要な役割を果たしているのであり、この問題は次の論文「世界市民という視点からみた普遍史の理念」でsらに掘り下げられることになる。

     ケーキ好きな悪魔たちを集めて、その中のどの悪魔も、最後の一切れをうけとるという条件でケーキを切らせてみよう。不公平にケーキを切ったならば、最後にうけとる悪魔は、もっとも小さなケーキを甘受せざるをえなくなる。だからその悪魔は可能なかぎり公平にケーキを切るだろう。これは悪魔が道徳的に判断をしたからではない。理性的に考えれば、理解できることだからだ。
     だから悪魔が、ほかの悪魔も自分だけは法律の適用を免れたいと願っているのを知っていながら、たがいに平和と自由を維持できる共同体を設立しようとしたら、外的な法律によって、どの悪魔も特権的な権利を行使することのできない自由で平等な共同体を設立することだろう。ほかの天使の利益のことばかり考える天使の国があったとしても、これと同じ国になるだろう。そこには道徳性はまったく関与しないのである。
     ここで求められているのは、人間を道徳的に改善することではなく、自然のメカニズムを機能させることだからだ」(二〇六ページ)。欲望についての洞察と、利己心という「自然のメカニズム」を行使することで、悪魔たちが「たがいに強制的な法に服させ、法が効力を発揮できるような平和な状態をもたらす」(同)には、このような社会でなければならないはずなのである。

     このようにカントのこの論文は、永遠平和を目指すための提案でありながら、平和そのものが人間の間に実現することは想定しておらず、反対に戦争こそが人間をたえず進歩させると考えているかのようである。カントは戦争を憎むが、戦争なしの完全な平和状態では、人間gな進歩する原動力が失われると考えるのである。

    0
    2022年07月18日
  • 永遠平和のために

    Posted by ブクログ

    カントの政治哲学(?)、国際法のありかた、政治と道徳(倫理)のあり方などが書かれている。

    難しいけど、完全にわからないわけではない。

    現在にも十分通じる部分が多くあるように感じた。

    0
    2022年04月18日
  • 純粋理性批判 6

    Posted by ブクログ

    純粋理性批判は、主に時間と空間を軸に、世界と人間の関係についての考察を続けてきたが、6巻ではいよいよ神の証明というデリケートな話題に切り込む。
    さまざまな方位から、神の存在を分析していくが、いずれもカントの理論によって矛盾が露呈する。要するに神という存在は虚構なのか。
    しかし、神は存在しなければならない、というのがカントの結論のようだ。ようだ、と書いたのは、小生はカントの結論が読み取れず、解説を読んでようやく理解したからだ。理解、というか、解説にそう書いてある、というのが正直なところだ。
    そういった難解さがあるとはいえ、カントの分析眼は鋭い。そして、時代的に、神はいない、という結論はありえないとはいえ、存在は証明できないが、存在はしなければならない、という落としどころは、かなり挑戦的だったのではないか。
    カントは純粋理性批判という一連の書物において、人間とはこの世界において、現実だと考えているものは果たして本当に現実なのか、それは意識が作り出したものであり、誰もが同じ「現実」を生きているわけではないという観点から、時間や空間は本当に継続的に存在しているのか、神はいるのか、というところまで理論を展開した。人間はみずから作り上げた虚構の中に生きているのだなあ。
    いよいよ次は最終巻となる。
    ここまで広げた理論をどのようにまとめるのか楽しみだ。

    0
    2022年04月17日
  • 永遠平和のために

    Posted by ブクログ

    イマヌエルカント 永遠平和のために

    永遠平和のための9条項(予備条項6と確定条項3)を論じた本。一つの世界共和国を作るというより、それぞれの国家の独立を維持しながら、平和連合体制を作るイメージ

    ソンタグの「世界平和を信じる人間などいない」という諦めの論調より、カントの「世界平和のために9条項に着手せよ」というメッセージの方が 読む価値がある。 

    永遠平和は人間の利己的傾向から自然に導かれるとする第一補説を入れたあたりが、永遠平和が空想でなく実現可能であることを証明したいカントの哲学者としてのプライドを感じる

    9条項の中で最もハードルが高そうなのは「常備軍の全廃〜自衛軍は認めるが、段階的に常備軍はなくせ」という条項。カントは「平和とは、一切の敵意が終わることであり、軍事力による均衡は 平和につながらない」と考えていることがわかる


    6つの予備条項
    1.平和条約は将来戦争の種を残さない
    2.国家は 他の国家に取得されない
    3.常備軍の全廃
    4.戦時国債は発行しない
    5.暴力により他の国家に干渉しない
    6.戦争の最中においても卑劣な行為はしない

    3つの確定条項
    1.共和的な市民体制
    2.諸国家の連合制度に基礎を置いた国際法
    3.友好をもたらす世界市民法〜外国人が入っても敵意を持たれない

    共和的体制
    *自由と平等の権利が確保された国民が、共同の立法に従っている
    *代表制を採用し、国家の立法権と執行権が分離している
    *共和制の下では戦争をするには国民の賛同が必要〜戦争という割に合わない賭け事を国民は求めない






    0
    2022年03月15日
  • 道徳形而上学の基礎づけ

    Posted by ブクログ

    ネタバレ

     本論でさらに詳しく考察されるが、「道徳的な法則にかなっているようにみえ」(同)る行為が、その行為者の道徳性のためではなく、たまたまその行為者にそなわっている偶然的な要因のために行われることも多いのである。たとえば友人が好きで、困っている友人を助ける人がいるとしよう。この人の行為は、友人にたいする愛情の表現であり、好意の表現であり、善いことである。しかしこの行為は、その人の友人を愛する「心の傾き」によって行われたものである。たしかに困っている人を助けると言う道徳的な法則に適っている行為ではあるが、「道徳的な法則のために」(同)、道徳的な法則に基づいて行われた行為ではないのである。
     この「道徳的な法則に適っている」行為と、「道徳的な法則に基づいて行われる」好意の違いを明確にするための基準として役立つのが、純粋な道徳的な原理であり、純粋な道徳形而上学は、この原理を確立することを目指すのである。

     カントはこの義務の概念と善い意志の結びつきを明らかにするために、正価で商品を販売する小売店の店主の実例をあげている(以下で明らかになるようにカントは本書で多くの身近な実例をあげている。これらの実例によって本書は、『実践理性批判』よりも読者の思考を刺激する力をそなえているのである)。その店主が「買い物に慣れていない客に、高い値段で商品を売りつけないとすれば、これは義務にかなった行為である(023)。しかしこの行為が善い意志に基づいた行為、すなわち道徳的な行為であるかどうかは、すぐに明確にはならない。「義務に適った行為」には、次のような三種類の行為が考えられるからである。
     第一はこうした行為が、その人の「直接的な心の傾き」(同)のために行われる場合である。たとえば買い物にきた人が幼い子供であって、店主は子供好きだったとしよう。この店主はふつうなら、値段もわからない客には高い値段をふっかけるのだが、たまたまその客が子供だったから、正価で販売したとしよう。その場合には、店主は自分の「直接的な心の傾き」のために「義務に適った」かのようにみえる行為をしたにすぎない。いつもはその義務は守っていないのである。だからこの場合には店主のこの行為は「善い意志」から行われたものとは言えないだろう。
     第二は、その人の直接的な心の傾きからではなく、「自分の利益を重んじた」(同)ために義務に適った行為が行われる場合である。この場合には店主は、たしかに商品を正価で販売するが、それは義務によってではなく、「すべての人に定価で販売する」(同)ようにすれば、「子供でも他のすべての人と同じように、この商人の店で安心して買い物ができる」(同)という評判が高くなることを期待してのことなのである。この場合には、このような評判が高くなれば店は繁盛するだろうから、結局は利益になると計算して、店主は「義務に適った」行為をしたことになる。この行為もまた、善い意志に基づいたものではなかったのである。
     第三に、心の傾きからでも自己の利益のためでもなく、「義務に基づいて」(同)こうした行為が行われた場合である。店主は、客を欺くことは自分の義務に反するし、誠実であろうという意志に反するという理由から、幼い客に正価で販売したとしよう。この場合だけが、善い意志による行為と判断される。この場合にかぎって店主は「義務や誠実さという理由からこのような客の扱いをした」(同)と考えることができる。これはたんに「義務に適った」行為ではなく、「義務に基づいた」行為と判断されるのである。
     このように、ある行為が良い意志による行為であるかどうかを判断するためには、その行為が直接的な心の傾きによるものでも、計算高い利己心によるものでもなく、義務に基づいたものであるかどうかを点検してみればよいことになる。

     ところで本書の序文では、この基礎づけの課題を「道徳性の最高の原理を探求し、確定すること」(013)にあると定めていた。定言命法の最終的な定式化が行われた今、この課題がいよいよ表現される段階に到達した。
     カントは自分の義務を忠実に遂行する人には「崇高で尊厳がある」(114)と感じることを指摘していたが、その尊厳の由来は、たんにその人が道徳的な法則に適って行動するところからは生まれない。わたしたちは道徳的な法則に適って行動するだけではなく、道徳的な法則に基づいて行動する人、しかもその法則を外的な強制とみなすのではなく、みずから法則を定める人、そして「それがゆえに法則に服従している」(同)人に、尊厳を感じるのである。
     だからここで真の意味での道徳性をつくりだしているのは、たんに道徳的な法則に服従するという側面ではなく、道徳的な法則を自らの意志で自由に作り出し、それに服従するありかたなのである。カントはこの意志の自由を「自律」(095)と呼んだのだった。

    0
    2022年01月17日
  • 純粋理性批判 7

    Posted by ブクログ

    ようやく、読み終わったが、いよいよこれからが本番である。わかりやすいという評判の本訳であるが、いわゆる定番の訳語を当てはめていないことによって、かえってわかりづらい部分も多い。また、丁寧に訳者が解説していることは、細かすぎて全体が見えづらく、巻数も多くなっていることも含めて、やや「おなか一杯」という感じである。他の解説書や他の訳本も読んでみたい。どちらにしても難解である。なんとなくわかった部分はまだ多くないので、再読しながら、理解できる部分を増やしていきたい。

    0
    2021年11月21日
  • 純粋理性批判 1

    Posted by ブクログ

    長い解説のおかげでなんとなく理解できた。
    アプリオリとアポステリオリ。
    アプリオリとは、その事象を経験する前から、他の経験や知識を通じて、その経験を理解していること。アポステリオリは、経験しないとわからないこと。
    時間と空間についてはアプリオリなものとして挙げられる。しかし、時間や空間は生まれたときから認識しているのだろうか。これには疑問を覚えた。
    また、神の概念は避けがたいらしく、カントも持ち出してくる。神の概念を述べなければ、哲学というものは大きく違ったのではないだろうか。
    それにしても面白い本だ。理解できたとはとうてい言えないが。思考の訓練に役立つ。

    0
    2021年10月16日
  • 永遠平和のために

    Posted by ブクログ

    永遠平和のための6つ条件:(第1章)予備条項
    殲滅戦に突入するのを防ぎ、永遠平和の展望を開くための条項

    1. 将来戦争の種が保留された平和条約は平和条約とみなされない
    2. 独立国家の相互不可侵性
    3. 常備軍の撤廃
    4. 戦争国債の禁止
    5. 他国への不干渉
    6. 国家間における信頼を損ないうる行為の禁止

    3の常備軍の撤廃は最も有名な条文。常備軍の存在が先制攻撃の原因となり、かつ国家が人を殺したり、殺されたりするために人を雇うのは、人間性の権利に反する。後者はカントの定言命法からも帰結する条項。ただし現在のスイスの国民皆兵のような自衛措置は認められる。

    予備条項を実現するための3つの条件:(第2章)確定条項
    永遠平和を実現するための具体的な条件

    1. 人間の法に完全に適合している唯一の体制は共和的体制
    2. 国際法の理念は諸国家は分離を前提とし、連合体制を基礎とする
    3. 世界市民権では普遍的な友好権が確立する

    0
    2021年10月02日
  • 純粋理性批判 4

    Posted by ブクログ

    いよいよ本筋のデカルト批判に入る。やはり難解で、本書以外の他の解説も必要だ。本書は解説が細分化されすぎていて、全体の位置づけが分かりにくい。

    0
    2021年08月25日
  • 純粋理性批判 3

    Posted by ブクログ

    全巻の中でも、かなり難解な巻で、通読するのに時間がかかった。まだまだ消化不足であるが、先を急いでいくことにしよう。

    0
    2021年07月22日
  • 純粋理性批判 3

    Posted by ブクログ

     感性が受け取る直感すなわち経験的対象に、カテゴリーがいかに適用されるかを論じる「図式論」とその各論となる「原則論」。この図式を用いて理性の定める原則との適合性をジャッジする「判断力」と、前分冊で出てきた知性が個別の直感をまとめ上げる際に用いられる「想像力」との関係がよくわからず混乱したが、どうやらそれぞれの「根拠づけ」の対象が異なるようだ(前者は理性、後者は知性に権限がある)。
     
     しかしこの「図式論」も厄介な代物だ。現象とカテゴリーを媒介する純粋な形式としての図式即ち〈時間〉が多様な私的経験のうちに含まれているからこそ、客観性を担保するカテゴリーが感性のうちに与えられて自己の追加的な判断即ち〈総合判断〉が成り立つというのだが、本当にこのような複雑な過程を経てアプリオリな総合判断というものが生まれているのだろうか。そもそもこの感性・図式・カテゴリー・原則というメカニズムは実証不可能なカント一流の説明にすぎない。しかし、「現象などの物自体にカテゴリーは直接適用できない」というカントの金科玉条からすれば、特にこの図式は人間認識の制限項として導入不可避なメカニズムだったのだろう。
     
     「原則論」はよく言われるように、「本当にこれだけの原則で概念が網羅されているの?」という素朴な疑問を否応なく惹起するが、僕に関しては特に力学的な原則(関係と様態のカテゴリーに対応する「経験の類比」と「経験的な思考一般の前提条件」)についてはある程度の納得感を伴って読めた。例えばスピノザやライプニッツ的な決定論に対し、因果律は人間が現象認識の結果として確立したものだというカントの主張は、若干情緒的に感じられはするが、人間中心主義的な世界観に立脚する点で共感を覚えた。

     なお本分冊では全くメジャーな論点ではないが、個人的には原則論の観念論への反駁で出てくる「基体」の扱いが微妙だなと感じた。カントは我々が対象の変化を知覚する際に、時間そのものは知覚できないのでその代わりに不変なるものとの相対変化を知覚しているという。ここが外部の実体性を要請する点でバークリ的な際限のない懐疑論やデカルトの唯心論的懐疑に対する論駁の根拠となっているのだが、この不変な基体というものの実体が判然としないのだ。どうやら対象の変化というのは対象の不変な基体すなわち「実体」そのものではなく、その属性が変化するさまを指すようだが、やはりライプニッツが言うように「対象の実体」という変化しない本質というのはそれこそ人間が認識不能な「物自体」の最たるものではないのか。それとも、カントは人間に認識可能な「変化」を定義するためにそのような基体という概念を構成的に導入したのだろうか。つまり人間がアプリオリにもつ法則に従い変化を認識する際に、構成的に後付けで設定される基準点のようなものか。確かに「コペルニクス的転回」ではあるが、しかしそれだと循環論そのものになってしまうような気がするのだが…。

    0
    2021年07月11日
  • 純粋理性批判 2

    Posted by ブクログ

     感性を扱った第1分冊に続く本書では、主に人間の認識における知性の役割に焦点が当てられる。ちなみにこの中山訳では「悟性」ではなく一貫して「知性」が使用されている。
     哲学というものは往々にしてそうなのだろうが、用語の使用が一般のそれと全く乖離しているために用語を見ただけではそれが意味するところを把握しづらいところがあるが、本分冊では特にこれが目白押し。何度読んでも「判断力」と「想像力」の違いや、「総合」とか「統覚」の関係性が頭に定着せず、その度に定義を確認する羽目になる。
     極め付けは頻発する「根拠づけ」という言葉。流石にわかりづらいと考えたのか、訳者も解説に多くの紙面を割いているがそれでもピンとこない。訳者によれば、ここで行われているのは直訳の「演繹」ではなく「権利問題」、つまりカテゴリーにより生ずる客観認識の場合ならば、感性・知性・理性のどれがその認識を生じさせるかについての「権利」=「権限」を有しているのかが論じられているのだという。これは直感的には極めて理解しにくい。それならもっと字面から意味がはっきりわかる言葉にしてくれればいいのだが…。

     なお本分冊の「純粋理性批判」全体の中の守備範囲はさほど広くない割には、解説の記述量が多く丁寧な説明がされている。やはり経験に基づく判断によりカテゴリーが理解されるのではなく「カテゴリーを用いた経験の統合が客観的判断そのものを可能する」という例の転回が、「批判」の前半の大きな山場となるからだろう。ここのところは多くの例示を用いられていることもあり割と理解しやすかった。ロックやヒューム的な経験論との対照も鮮明でわかりやすい。

    0
    2021年07月11日
  • 純粋理性批判

    Posted by ブクログ

    ネタバレ

    ストーリー自体はよくある人間とロボットの恋物語なのだが、もちろんカントの時代にそのような物語が存在するはずはない。しかし、現代のテンプレストーリーに不自然なく当てはまる哲学を考えたという点でカントの凄さの証明となっている。

    0
    2021年06月09日
  • 純粋理性批判

    Posted by ブクログ

    なかなか面白かった。意外にしっかりした内容で要点が押さえられていた。このシリーズ、ほかのも読みたくなった。

    0
    2020年06月22日
  • 永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編

    Posted by ブクログ

    イマヌエル・カント(1724~1804年)は、プロイセン王国に生まれ、『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の三批判書を発表し、認識論における所謂「コペルニクス的転回」をもたらした。ヘーゲルへと続くドイツ古典主義哲学(ドイツ観念論哲学)の祖とされ、彼による超越論哲学の枠組みは、以後の西洋哲学全体に強い影響を及ぼしている。
    本書には、カントの政治哲学、歴史哲学に関連した重要な論考である、「啓蒙とは何か」、「永遠平和にために」のほか、「世界市民という視点からみた普遍史の理念」、「人類の歴史の憶測的な起源」、「万物の終焉」が収められている。
    「啓蒙とは何か」のエッセンスは、冒頭の一段落に集約されている。「啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。だから人間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。こうして啓蒙の標語とでもいうものがあるとすれば、それは「知る勇気をもて」だ。すなわち「自分の理性を使う勇気をもて」ということだ。」
    本稿が発表されたのは1784年、近世から近代の転換点と言われるフランス革命(1789年)の直前で、「啓蒙」という概念がイギリス、フランスからプロイセンに入ってきて、一般市民にも教育の関心が高まってきた時代で、その時代の要請に応える形で書かれたと言える。しかし、それから2世紀以上を経た現在、我々は「自分の理性を使う勇気」を持ち得たのだろうか? 第二次大戦のファシズムは言うに及ばず、現在世界を席巻するポピュリズムも、「自分の理性を使う勇気」を放棄した結果の現象なのではないだろうか。。。今こそ読み返す価値のある短著である。
    また、「永遠平和のために」は1795年に発表された。同年はフランスとプロイセンがバーゼルの和約を締結した年であるが、同和約は将来の戦争を防止するものではなく、戦争の戦果を調整する一時的な講和条約に過ぎず、こうした条約では永遠平和の樹立はできないと考え、カントには永遠平和の実現のための具体的な計画を示す必要があった。
    そして本稿では、永遠平和を実現するための予備条項と確定条項が示されている。予備条約では、①将来の戦争の原因を含む平和条約、②継承・交換・売却・贈与等による国家の所有、③常備軍、④国家間の紛争を理由とした国債の発行、➄他国に対する暴力による内政干渉、⑥相互信頼を不可能にするような敵対行為、を禁止するとしている。また、確定条項では、平和の条件として、①各国の政治体制が共和的なものであること、②国際法は自由な国家の連合が基礎となること、③世界市民法は普遍的な歓待の条件に制限されるべきこと、が定められている。
    しかし、カントは、永遠平和の実現は容易ではないとし、本書を「公法の状態を実現することは義務であり、同時に根拠のある希望でもある。これが実現されるのが、たとえ無限に遠い将来のことであり、その実現に向けてたえず進んでいくだけとしてもである。だから永遠平和は、これまでは誤って平和条約と呼ばれてきたものの後につづくものではないし(これはたんなる戦争の休止にすぎない)、たんなる空虚な理念でもなく、実現すべき課題である。この課題が次第に実現され、つねにその目標に近づいてゆくこと、そして進歩を実現するために必要な時間がますます短縮されることを期待したい。」と結んでいる。第二次世界大戦の後、(現代しか知らない我々には)未来永劫続くとさえ思われた東西冷戦は20世紀末に終結したが、その後の世界は、文明・宗教間の衝突の渦の中におり、解決は到底不可能なようにも思える。しかし、「永遠平和」は、カントの言うように、義務であり、根拠のある希望であり、実現すべき課題であり、人類として諦めることは許されないのだ。
    今こそ、18世紀にカントが希求した啓蒙への夢とヨーロッパ的な共和国(=永遠平和)への夢を、改めて考えるべきときなのだと思う。
    (2019年12月了)

    0
    2019年12月29日
  • 永遠平和のために

    Posted by ブクログ

     先日防衛政策に関する本を読んだ際に引用されていたため購入した。NHKの「100分de名著」でも2016年に紹介されていたそうで、副読本として同出版社のテキストも参考にした。岩波青を自分一人で噛砕く気力が無いのが情けないが、以下の感想は多分に同副読本の解釈に依るものが大きい(副読本に引っ張られてしまうなら、一度前知識なしで読んだ方が良かったかもしれないな)。

     平和主義と聞くと、どうしても理想主義的な印象を纏っているように見える。例えば核の廃絶を唱えれば、必ずと言ってよいほど核により世界大戦が起こっていないとする、パクス・アトミカ(核による平和)が反論として帰ってくる(妥当性は私には分からないが)。
     しかし、カントの説く「永遠平和」への道筋は、現実が性悪説を根底に置いた『リヴァイアサン』的な社会を前提に置いている。そして、そこから「善い人になりなさい」などと啓蒙的な主張をすることなく、人間の利己的な側面をうまく往なすことで「永遠平和」を樹立するという手段を採っている。

     今まで、例えば国防に関する言説について、現実主義⇔平和主義という二律背反的な考えを持っていた。しかし、本書を通じて現実的平和主義とでも言えるような、単なる折衷案ではない真の平和を希求するものの考え方があることを知ることができた。「あちらを立てればこちらが立たぬ」と悩むことは、平和に限らず非常に多い。そんなときに、本書のような考え方を応用できたならば、問題解決の糸口が見えてくるのかなと思った。

    0
    2019年04月09日