カントのレビュー一覧

  • 永遠平和のために

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    終戦の日にちなんで、読んでみた。
    戦争はすべての人が道徳的にならないと無くならない、地球上すべての人が互いを尊重しえる世界はまだまだ来そうに無いなと思う。ページ数は少なくても、考えさせられる事がたくさんあった。
    また、再読したい。

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    2026年08月15日
  • 実践理性批判2

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     これは一般的に道徳と道徳批判についての哲学書ということで終わる場合が多いけど、紛れもなく宗教批判まで射程に入れている、宗教批判の哲学の本です。聖典に書いてあるんだ何が悪い!と言って殺人すら神の命令として正当化する宗教があった場合、私達はそれは困るんだけどどう反論していいか分からない。そんなときこの本が確実に役に立つと思います。これは宗教の狂信や思い上がりを挫く。そして私は宗教の特権的思い上がりは、特権的な人種が存在するという人種差別と同じ危険性をもつ差別だと思っています。しかし人種差別は悪いものだとは認識されてても、宗教的な差別は許容されてるように思える。

     全人類が共通に持つ道徳法則の命令、どうして持っているのかどうやって持っているのか分からない、この世に超常現象があるとするならこれのみ。そしてこの道徳法則から宗教が生まれるという(164ページ)。逆に言うと根っこが道徳でないならそれはニセモノの宗教ということです。他宗教の人間を迫害したり、他宗教の施設を燃やしたり、他宗教の祭りやイベントを妨害したり、他宗教の人間を殺害したりするようならそれは宗教ではないということになります。どれだけ宗教だと言い張っても法治国家では許されることはない。最高善である神が法律違反になるような行為を命令することなんかないし、人間同士の争いなど望んでいない、ましてや宗教という自分自身に関することで他の人間に迷惑かけたり傷つけたりすることなど言語道断で許さないでしょう。『純粋理性批判』にこのような記述があります。

    石川文康訳
    B646「物質と、そもそも世界に属するものは、最大の経験的統一としての必然的存在者の理念にふさわしくないということであり、そのような存在者は世界の外部に設定されなければならない」
    「その場合、あたかも必然的存在者がいないかのように、われわれは世界の現象とその現実存在を、つねに安心して、他の現象から導出することができる」

    B589「必然的存在者はまったく感覚界の系列の外部に(世界外の存在者として)、そしてまったく仮想的に考えられなければならない」
    「このようにしてのみ、必然的存在者がそれ自身、偶然性とあらゆる現象の依存性の法則に従うことは、防止されうる」

     カントといえばコペルニクス的転回が有名ですが、これもそうです。とてつもない革命的なことを言っています。これ要するにどの宗教にも神の言葉を記述したものとして聖典があると思いますが、その物資的な本や文字を見たり内容を聞かされたりすることは全く全知全能の神にふさわしくないと言っているのです。この聖典は神の言葉でうちの宗教だけが本物なんだと主張することは誰でもできる。しかし、例えば日本人の私には別の地域の言語も文字も理解できません。どれだけその地域の聖典と神の言葉がすごいと言われても全く理解できない。これがおかしい。神は全知全能なのになぜ特定地域の特定の人達にしか理解できない言葉と文字で自身の言葉を伝えたのでしょうか。なぜ普遍的なはずの神が一部の地域の人達だけに自分の言葉を伝えるというえこひいきをするのでしょうか。それは神の無能力を示しているのではないでしょうか。仮にその地域の人達が絶滅したら神の言葉が消滅してしまう恐れがあるのに。本というこれまた消失可能な物資的媒体に頼るのもおかしい。本当に普遍的なら全人類が理解できる言葉と文字によって全人類に自分の命令を伝えるものだと思いますけど、世の中そうはなっていない。神は自身の言葉を伝えるのに感性的な手段はとっていないということです。全知全能の神なら全人類に一律に命令を見たり聞いたりでない別の手段で与え、なおかつ人間が神の操り人形にならないという絶妙の配慮するでしょう。また神は常に全人類の心を永遠に認識しているということになります。でないとこの命令は不可能です。これが道徳法則ということになります。聖典を崇拝する気持ちは分かるけど、残念ながらそれらは100%人間が作成したものです。これは確定してます。上記の通り神に相応しくないのだから。神が本当に感性的な方法で言葉を授けたなどあってはならないのです。そんなことがあったら科学など成り立たなくなるし、それは紙とインクを神だと思って崇拝してるだけの真の偶像崇拝で、不信仰です。たとえ強大な権威として神の言葉が伝わっていても、私達はそれを本当に神の言葉として崇拝して実行していいのかどうかまず己の道徳法則に照らして吟味する必要がある。福音書の聖者イエスでさえ、私達が彼を聖者と認める前に、道徳的完全性についての私達の理想と比較されなければならないと述べられています『人倫の形而上学の基礎付け』。神は私達の外部ではなく内部にいます。となると、どれだけうちの宗教だけが本物だと言い張ってもそんな特別扱いなどありえないと分かる。神はこの世界の私達とは違った方法で存在しているのであり、それについての崇拝と祈りはある意味みな平等に無と言える。うちの宗教だけが神の言葉を保存しているなんてのは思い上がりであり、うちらだけが神と現実に接続することができるなんてのは理性の力を超えた狂信です。人類は全員等しく心の中で神と繋がっています。神を外部の書物などに求め、その文言を一字一句神聖視し、たとえ道徳的にもとる内容でも信じることが神への崇拝だと思ってるならとんでもない思い違いです。自分だけが神の声を聴くことが出来る、神を見ることが出来るというのもただのうぬぼれです。本当に神を見たり声を聴いたりできるなら、全人類が神を見られて、全人類が神の声を聴けないとおかしい。

     尊敬の念を道徳法則に抱き、尊敬という感情はこの神=道徳法則をまるで具現化させてるような人間に私達が抱く感情です。そしてこの道徳法則が極まってくると神聖さを帯び恥じます。しかし人間は神聖さの完全体にこの世でなることができない。なぜなら道徳法則は人間の私利私欲・報酬への期待を問答無用で断つからです。これでは幸福にはならない、しかし神聖さの完全体とは道徳と幸福が一致した状態なので、肉の体を失い魂だけになって天国でさらなる道徳の修行をする必要に迫られます。ここで天国とか地獄とかがあると意欲できるわけです。どうやってあるのか分からないけれど、とにかくあることは分かるから、人間の方から天国を要請する。そして理性は道徳法則により最高善を目指せと問答無用で言ってくる。ということは最高善の存在者が存在してないとおかしい。どこにどうやって存在してるのかは分からないけどとにかくそういう存在がいることだけは分かる。そこで人間の方が神を要請する。これらのことは人間の意志が誰からも縛られていない自由だからこそ自分で考えられるのです。人間は自らの意志を感性界に縛られることなく叡智界の法則に従って規定することができる。もし自由がなかったら人間は獣のように行動していたでしょう。ここに人間は自由という原因性を要請する。神や魂など超越的であったものは思弁的理性がアンチノミーに陥ったのに対し、実践的な理性では客体が現存することが必然的となったのでした。ここから分かることは、ある宗教者が毎日神に何度も祈って、複雑な宗教の規則を守ってれば天国へ行けて贅沢ができると思っているだけで、他の人間に対して横柄だったり傲慢だったりするのと、全然宗教的ではない人が道徳にもとる行為は止めようと誓い他人に対しても高潔な生き方をしていた場合、天国へ行くのは後者の人であると分かるのです。他のたとえでは、異教の祭りを敵視して参加しない人と、異教の祭りに参加して異教徒と仲良くしてる人どちらが天国へ行くか、これも後者だと分かるでしょう。神は祭りの違いなどでいちいち怒らない。異教の祭りを神のために妨害してやるなんて考えてる人は論外、地獄行き確定です。

     ここからは本書の内容とは全然関係ないのですが、言っておきたい。このカントがドイツ観念論哲学としてヘーゲル達と同一のジャンルに分類されてるのが残念でなりません。はっきり言ってカントとヘーゲルは全然違います。カントは形而上学の思い上がりと暴走を止めようとした。ヘーゲルは矛盾こそが世界を動かす力として矛盾を許容し、シルクハットから生きたウサギを取り出すがごとき、文字通りなんでもありにしてしまった。アンチノミーのように、神だの魂だの超越論的な題材は何とでも言えるから、本人の好きなように因果関係を設定できる。カントはそういう何の苦労もかけず大きな発見を導出する神託まがいの哲学を批判したわけですが、そのヘーゲルがカントの名声を利用してのし上がっていったというのが真相です。このような哲学をカントは『哲学における最近の高慢な口調』で批判しています。またカントはどれだけ偉い権威だろうと批判の対象になると後の独裁者と呼ばれるような人を批判しました。一方ヘーゲルは権力者に媚びて、あらゆる批判を回避しその時の政権が最善となる独裁を正当化するような同一哲学を展開。これがマルクスを経て自由に牙をむき世界に災いをもたらすことになります。この点でも対照的です。カントがヘーゲルの始祖みたいな扱いになっている、これだけが残念です。

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    2026年08月12日
  • 永遠平和のために

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    戦争を防ぎ恒久的な平和を実現する条件を論じる。国家間の協力が大事。平和条約という名の一時休戦条約とならないために。短いけど内容は濃く、平和とは何かを深く考えさせられる

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    2026年07月12日
  • 実践理性批判2

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    第一部 純粋実践理性の原理論
    第一編 純粋実践理性の分析論
    第三章 純粋実践理性の動機について
    純粋実践理性の分析論の批判的な解明
    第二編 純粋実践理性の弁証論
    第一章 純粋実践理性一般の弁証論について
    第二章 最高善の概念の規定における純粋理性の弁証論について
    第二部 純粋実践理性の方法論
    結論
    解説(中山 元)
    年譜
    訳者あとがき

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    2026年07月09日
  • 実践理性批判1

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    序
    序論 実践理性批判の理念について
    第一部 純粋実践理性の原理論
    第一編 純粋実践理性の分析論
    第一章 純粋実践理性の原則について
    第二章 純粋実践理性の対象の概念について / 純粋な実践的判断力の範型について
    解説

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    2026年07月07日
  • 純粋理性批判 4

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    第1部 超越論的な原理論(超越論的な理論学(超越論的な弁証論(純粋な理性の概念について;純粋理性の弁証論的な推論について)))
    補遺

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    2026年07月04日
  • 純粋理性批判 3

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    第1部 超越論的な原理論(超越論的な論理学(超越論的な分析論(原則の分析論(超越論的な判断力一般について;純粋な知性の概念の図式論について;純粋な知性のすべての原則の体系;すべての対象一般を感覚的な存在と叡智的な存在に区別する根拠について;知性の経験的な使用と超越論的な使用の混同によって生まれる反省概念の両義性について))))

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    2026年07月04日
  • 純粋理性批判 1

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    序論(純粋な認識と経験的な認識の違いについて;わたしたちはアプリオリな認識を所有していること、日常的な知性の利用にもアプリオリな認識が含まれないわけではないこと;哲学には、すべてのアプリオリな認識の可能性、原理、範囲を規定する学が必要である;分析的な判断と総合的な判断の違いについて;理性に基づくすべての理論的な学には、アプリオリな総合判断が原理として含まれる;純粋理性の普遍的な課題;純粋理性批判と呼ばれる特別な学の理念と区分)
    第1部 超越論的な原理論(超越論的な感性論(空間について;時間について))
    序文(第二版)

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    2026年07月04日
  • 実践理性批判1

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    実践理性批判
     この本は、人間はなぜ道徳を持っているのか、なぜ道徳的に生きるように自分で自分に言い聞かせているのか、そういうことを考え、また考えさせる本です。人間には誰しも自分だけの達成したい利益や欲望があるのに、それを中断させてまで道徳的に生きるように命令を下してるわけです。嘘をついて人を騙したり、盗んで手に入れたり、殺人を犯したり拉致したり、そういうことはやろうと思えば出来るはずなのにやらない。やってはいけないとなぜだか知らないけど分かってるから。カントはこの道徳的な命令は、自然因果の系列とは別のものだと洞察した。私達の生きる現実の世界は原因と結果の法則で成り立っている。しかしこの道徳命令は、その因果の法則を全然考慮に入れず、要するに人間達それぞれの私利私欲なんか全く気にせず一刀両断にしてくる。それ以上原因を遡れない究極の命令として与えられている。究極、これは神のことであり、触れたり見たり経験できない叡智的な概念であり、それが自由であると理解した。私達が生きる現実世界には経験的対象が存在しないものです。つまり人間は経験世界と叡智的な世界の両方にまたがってる種族だと言える。大事なのはこの法則は全人類が等しく持ち合わせてるものであり、人種や性別や国籍や年代など関係なく、簡単に理解できるものであろうということ。だから昔の欧州人のカントが言ってるだけだ、現在の別の地域の私達には関係ない、とはならないわけです。これによると、たとえ個人がついた嘘であろうとも、この社会全体を棄損していることになります。(その前に虚言は自分の人間の尊厳を投げ捨て、無化する行為『人倫の形而上学 道徳の形而上学的原理』)『法論の形而上学的原理』では、それが公法(国と国との関係)にまで拡大され、自国の利益のためなら、または自分が気に入らない人や国になら嘘をついて騙していい、という原理の国こそが不法な敵とされています。結局これらの人や国は、その自分の不誠実な原理がもし普遍的となったら、自分達こそ騙されたり攻撃されたりする危険が伴い、それについて何の文句も言えなくなる、ということに気付いていない。



    善と悪
     善と悪についても分析されていて、従来の善と悪の概念を最初に定め、そこから道徳法則を導き出す、という道徳哲学の誤謬を批判します。善と悪の概念を先に定める場合快不快の感情が羅針盤となりますが、そんなもの人それぞれ違ってるわけで、万人に当てはまる根源とはならないわけです。これの問題点は、万人が納得するわけもないものを無理やり当てはめようとする行動に出た場合、恐怖や暴力を使用することになるということです。カントと訳者の文脈では哲学者だけの問題として扱っていますが、これは宗教者や政治家にも適用される問題だと、私は読んでいて感じました。実際カントは宗教批判の本もものしています。ありがちな間違いは、聖典に道徳法則から逸脱する内容を書き込んだり、超感性的な能力を持つと自称する教祖の言葉を絶対視したり、それが神の命令だからと言って正当化するような行動です。これも人種や国籍など関係なくどこでも起こる間違いだと思います。日本でも起きてます。まず道徳法則が定められてから、その法則に従って、善と悪が既定されなければいけない。自分の行動原理がまるで普遍法則であるかのように行動しなさい、という命令。逆に言うと、自分の行動原理を普遍法則化させた場合、自分を破壊してしまうような原理は間違っており、偽の法則だということになります。そして、そういう人や組織は批判して構わないということです。そういう人は自分の人間性を破壊し、他人の自由をも侵害してることになる。善と悪が最初から存在してるのではなく、善と悪は人間の意志によって生み出されるもの。人間の外部に何か善きものがあるのではなく、人間の意志だけが良きもの、善におけるコペルニクス的転回(328P)。神や聖典の書いてあることだから信じる、というのは自分以外の他の者に服従していることになり、自由でもないんです。神だろうが聖典だろうが、どれだけ偉い人の命令であろうとも、まずその命令を自分の道徳法則と照らし合わせてみて、それが道徳的に敬っていいかどうか判断しなければいけないのです。

    神
     カントは『純粋理性批判』において究極を扱う思弁はアンチノミーに陥る、つまり概念のような経験的対象が与えられないものは無に等しいとした。無に対して斬りかかっても突いても空を斬るだけです。

    石川文康訳
    B646「物質と、そもそも世界に属するものは、最大の経験的統一としての必然的存在者の理念にふさわしくないということであり、そのような存在者は世界の外部に設定されなければならない」
    「その場合、あたかも必然的存在者がいないかのように、われわれは世界の現象とその現実存在を、つねに安心して、他の現象から導出することができる」

    B589「必然的存在者はまったく感覚界の系列の外部に(世界外の存在者として)、そしてまったく仮想的に考えられなければならない」
    「このようにしてのみ、必然的存在者がそれ自身、偶然性とあらゆる現象の依存性の法則に従うことは、防止されうる」

     これによって、世界の現象を神やその他の巨大な力のせいにすることなく、人間は探求できるというわけです。では神は存在しないのか?というとそれも違う。神は、道徳法則と純粋な実践理性の使用の目的としてのみ、実在性を備えています。そして、私達の理性は、因果の法則により必然的に究極を目指そうとする。しかし、究極に辿り着くとアンチノミーという無の戦いに陥ってしまう。そういう問い続ける能力があるのに、問いが解決しない、これはあまりにも理不尽でしょう。ここから、徳と幸福の合一という最高善へと人間は辿り着くことができると想定されます。しかし、それは生きてるうちは不可能で、死後魂だけになって実現されるのでしょう。神(最高善)と死後の世界は現実世界にあるのではなく、私達が叡智的な世界として要請するのです。

    神の種族
     人間が感性的自然と非連続で、他の動物達とは違っている証拠が、自由概念に求められるわけです。カントは遺稿で、人間の道徳的実践理性において、人間のあらゆる義務がまるで神の命令であるかのように認識することにおける人間の規定が証明されうる。自由という私達にも把握できない能力が無限に感性界の外の領域に私達を立てる。すなわち使命そして素質において、理性的存在者は神の種族である、と述べています。『カント全集 10 たんなる理性の限界内の宗教』岩波書店。このカントの考えによると、理性を持つ人間には他の動物にはない目的があるようなのです。それは全人類が自分の行動原理を普遍的法則であるかのように行動し、お互いの理性を信頼しあい生きていく平和な社会を作る、と。人間は道徳的実践理性においてだけ、まるで神の命令かのようにそれを認識できるのです。神などいない、という無神論ではこれの説明がつかないです。神などいないと言ってる人は普段どうやって生活してるんでしょうかね?理性を捨てて獣のように生きることになると思うんですが…。それと、人間はサルから進化したという仮説がありますが、人間はどの段階でサルから神の種族になったのでしょうか。カントの哲学は無神論と進化論にも疑問を呈します。

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    2026年06月20日
  • プロレゴーメナ

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    『純粋理性批判』の解説および、その批判への応答を意図した著作とされる。要約書であるため比較的直線的に読み進められるが、それでも『純粋理性批判』との比較は不可欠だろう

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    2026年06月04日
  • 永遠平和のために

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    昨今の国際情勢にて、現状追認しかしない賢しらなリアリズムが跋扈するのに絶望して読んだ。

    永遠平和を実現するための必要条項について徹底的に考え抜かれている。
    何度も読み直したい。

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    2026年03月28日
  • 永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編

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    オランダのある宿屋には、墓地を描いた看板の上に、「永遠の平和のために」という皮肉な銘が書かれていたという。さてこの言葉は、すべての人間にあてはまるものなのか、それとも戦争に飽きることがない国の政治家たちにとくにあてはまるのか、あるいは死という甘い夢をみる哲学者だけにあてはまるのか

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    2026年02月21日
  • 純粋理性批判 1

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    言わずと知れた名著『純粋理性批判』のさわりを少しだけ。
    人間の経験を経験たらしめる秘密のベールを紐解いていく。超自然的で形而上学的な概念や存在は我々の直感を超越してしまうゆえにそのブレーキの効かない理性に制限を作る、というよりも焦点を絞ると表現した方が適していそう。
    時間と空間がアプリオリに与えられているからこそ感性が生まれ、主観と客観が入り混じるこの「世界」で体験を得ることができる。
    物自体を見ることは不可能、その懐疑的思考が後の現代哲学を生み出す礎石ともなっている。
    もちろん、批判哲学というすべての理性に対する基礎的学問を生み出すカントの言い分にはフッサールの現象学にも通じる。
    ヘーゲルは主観と客観の弁証法によって現れ出る絶対精神こそが大事だろ、と力説していたがカントに対する強気なカウンターだったんだな。

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    2025年12月09日
  • 道徳形而上学の基礎づけ

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     本書は熟読を勧めたい最初に読むべきカントの著作である。カントといえば三批判、特に翻訳も多い『純粋理性批判』に手を伸ばす人も多いであろう。しかしどの翻訳が良いのかは読者の置かれた状況に応じて変わってくる。その良し悪しを見極めるにはカントその人の文章に慣れる必要がある。三批判に取り組む前に読むものとしてぜひとも勧めたいのが本書なのである。
     カントは感性界(現象界)と叡智界(知性界)とを峻別した。わたしたちがどのような世界(感性界)に生きていて、どのようにその世界を捉えるべきかを明らかにするのが『純粋理性批判』であり、そしてその世界の内でわたしたちにはどのような自由が与えられているのか(叡智界)を明らかにするのが『実践理性批判』であり、そこから理性的存在者相互の共通した判断を追求するのが『判断力批判』であると言えよう。カントの哲学は基本的に理性的存在者であればどのように物事を捉え、生きるべきかを巡るものである。一見近寄りがたいものを感じる読者もいるかも知れないが、論じていることの見通しが立てば、とんでもない要求がされている訳ではなく、寧ろ人権思想の礎を築くその人の論の組み立てに納得するところもあるのではないだろうか。(三批判の相互関係については中山元『自由の哲学者 カント』が簡潔に全体像を提示してくれる。)
     『道徳形而上学の基礎づけ』は『純粋理性批判』を世に出し、その第二版と『実践理性批判』を準備している頃に書かれたものである。カント自身の著作で入門的とみなされているものにはプロレゴメナもあるのだが、本書『道徳形而上学の基礎づけ』の方がカントの批判哲学の全体像を理解するための要(かなめ)となる著作であることから最初に読むのにふさわしいように思われる。さらに本書においてはカントの人格論に直接触れることができ、読者も関心を抱きやすいことと思われる。その論述において「定言命法」や「尊厳」だけでなく、「感性界(フェノメノン)/叡智界(ヌーメノン)」が触れられ、批判哲学全体の素描が与えられるのである。
     本書には「純粋実践理性批判」という言葉が出てくる。これは単に「実践理性批判」のことではなく、その基礎づけを企図した言葉なのである。ことの消息は訳者注によって簡潔にして奥行きのある注記に窺うことができよう。カントが前提としていたことや、意図していたであろうこと、それからカント研究において解釈が分かれる部分の解説が記された注はカントの叙述に躓きそうな読者を支えてくれることであろう。しかし特筆すべきは何よりも精読に値する本文にある。日本語で正確に事柄を一つ一つ抑えていく訳文を通して、読者はカント自身の言葉によって批判哲学の核心へと案内されるのである。

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    2025年12月08日
  • 純粋理性批判 2

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    皆さんは物事の理解が、自分の中にある特定の法則に従って行われているのではないか、と疑問に思ったことはないだろうか。
    カントはこの『純粋理性批判』の二巻によって、そのような法則の正体を明らかにしようとする。

    すなわち感性で思い描いた現象の像(表象)は、知性(悟性)によってカテゴリーに分類された上で、規則に従って総合される。そして自己統合の意識(統覚)でその総合された概念を統一的に理解する。これらの作用によって物事を認識できるというのである。

    何を言っているのかわからない方もいらっしゃると思われるので、少しわかりやすく言い換えよう。

    物事を認識するには、物事を五感による現象としてイメージ(像, 表象)にし、それをまず自分の内に取り込む必要がある。この働きが直観であり、それを行うものが感性である。

    そしてその像を様々なカテゴリーに仕分けする。さらにその仕分けしたものから一定の規則を見出し、互いに関連性を持つように結びつける(総合による概念化)。
    この働きは知性によって行われる。また、この総合の働きをする力こそが想像力(構想力)であると、カントは言う。(想像力が感性に属することには注意が必要だ)

    そうして最後にそれを全体で統一された概念として把握し、理解し納得するのである。
    この一連の過程をカントは経験と言い、経験によって得られたものを認識と呼ぶ。

    カントによれば、このカテゴリーや、概念を統一する働き(自己統合の意識)は人類にとって普遍的なもののようである。

    普遍的ということはあらゆる人間に当てはまるということだ。それゆえ、そこには心理学(応用論理学)などの経験的な学問の入り込む余地はない。
    それは例えば、人間が感性で像を思い描くための形式が空間と時間という、人類にとって普遍的なものに由来することに似ている(この辺りは一巻で述べられる)。

    こうして普遍的な認識も成り立つ。そしてそこから例えばすべての自然科学の法則が生まれる、とカントは言うのである。

    自己統合の意識はこの二巻のキーワードだ。
    私たちはまず私たち自身を過去・現在・未来において一貫性のある統一体として認識している。
    この自己認識が自分の中にあまねく及んでいることにより、他の対象にその統一を広げて、それを現象として直観し、概念化して、統合的に認識することができるのである。

    例えば対象が自分にとってバラバラなものとして直観され、概念化されたとしても、自分の直観や概念に統一性が生まれなければそれを認識することはできないだろう。
    この統一性を生み出すのが自己統合の意識だ、というわけである。

    また、例えば他者が何かの現象を見て、それを認識したとしても、それはあくまで他者の認識であり、経験であって、自分自身の認識にはなり得ない。
    自分が対象を(現象として)認識するには、まさに自分が自分自身として、時系列にそってその物事を経験するより他にはない。言い換えると自分が自分であり続けているという意識が大事なのである。

    終わりに僕の個人的感想を述べる。僕は心理学的にはおそらく感性優位の人間であり、知性を軽んじている節がある。
    実際、この二巻が自己統合の意識を含む知性を論じていると聞いて、読むのが退屈ではないかと躊躇ったほどだ。

    けれども、読んでいるうちに知的好奇心が刺激され、熱中して読み進んでいった自分がいたことも事実だった。
    それはある種のアイデンティティの新発見だった。自己統合の意識とはまた違う話になるが、僕はある程度の知的議論にも耐えることもできるらしいことが分かったのである。
    それが理解できただけでも、この書籍を読んだことは大きな収穫だったと言えるのではないだろうか。

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    2025年11月01日
  • 実践理性批判1

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    抽象的で非常にわかりにくいが、カントは抽象的なまま考えていたから、仕方ない部分も多いよね。中島義道によれば、もともとラテン語で思考し、出版する予定でいたらしい。

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    2025年06月23日
  • 判断力批判(下)

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    むずかしい。
    この本を簡単という人はいないと思う。ただ、色々なことをじっくりと考えてきた人にとっては共感できる部分もあると思う。

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    2025年06月21日
  • 純粋理性批判 1

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    毎日20ページほど読んで、ようやく全7巻あるうちの1巻だけ読み終えた。
    難解な書籍なので、以前の僕がそうだったように、深く考える癖のない状態だと冒頭で門前払いを食うかもしれない。
    だけどめげずに読み続けたら豊饒な世界観の片鱗に触れられる。

    1巻は有限な存在としての人間のそもそもの感性の形式と、その限界が語られる。
    訳者のスタイルが前面に押し出された独特の翻訳なので、より多角的に把握したければ別の翻訳も読むといいだろう。僕は気に入っている。

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    2025年05月20日
  • 永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編

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    カント『永遠平和のために』は,フランスとプロイセンがバーゼルの和約を締結した1795年にケーニヒスベルクで出版された。この著作において,カントはバーゼルの和約を戦争の戦果を調整する一時的な講和条約と位置づけ,永続的な平和の実現には不十分であると批判している。そして,永遠平和の実現可能性を追求するために必要な予備条項および決定条項を提示し,法的・道徳的観点から永続的な平和の構築の枠組みを論じた。

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    2025年03月18日
  • 永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編

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    最初に──
    本書の後ろにある訳者の解説を参照すると良い。というか必須だ。時代背景や地域背景、歴史の流れの中でこそ普遍性のあるメッセージが見えてくるのだから。
    私たちは常に考えなくてはならない。

    カントは、いまだ未解決のテーマへの挑戦を力強くエンカレッジしてくる。

    不思議に東洋思想との融合感を感じるのは、自らの認識論に『コペルニクス的転回』とキャッチコピーを付したカントならではの大きな世界観・統合感のためかもしれない。カントの時空を物ともしない視点の広さ(寛容さ)に感動してほしい。と私が思うのは、おこがましいかもしれないが ....。

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    2024年10月06日