カントのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
"イマヌエル・カントさんが1796年に出版した本。
第一章 国家間の永遠平和のための予備条項を含む
第一条 将来の戦争をひそかに保留して締結された平和条約
第二条 独立している国家も、継承、交換、買収または贈与によって、ほかの国家がこれを取得できるということがあってはならない
第三条 常備軍は、時と共に全廃されなければならない
第四条 国家の対外紛争に関しては、いかなる国債も発行してはならない
第五条 いかなる国家も、ほかの国家の体制や統治に、暴力をもって干渉してはならない
第六条 いかなる国家も、他国との戦争において、将来の平和時における相互の信頼を不可能にしてしまうような行為をしてはならない
第二章 国家間の永遠平和のための確定条項を含む
第一確定条項 各国家における市民的体制は、共和制でなければならない
第二確定条項 国際法は、自由な諸国家の連合制度に基礎をおくべきである
第三確定条項 世界市民法は、普遍的な友好をもたらす諸条件に制限されなければならない" -
Posted by ブクログ
どうもカントはお堅いイメージがまとわりついて離れないが、一哲学者として、かなりこの平和というものに思うところがあったに違いない。自身の築き上げてきた学問を土台にして緻密に、そして熱情をもって書き上げていると感じた。
真の平和とは何か。平和のために争う、その皮肉に対して、彼は命ずる。そんなものは平和ではない、汝の普遍的な格率に従え。そのための法だ。
道徳とは、平和とは、法律が与えるものではない。よく巷では、憲法改正だとか、なんだとかでデモをしているが非常にばからしい。そんなものが平和を守っているのではない。戦争したくないからしないだけなのだ。それは憲法でも法律でもなんでもなく、ひとりの人間の気持ちなのである。カントはこれを格率と呼んでいる。法律とは、そのような格率から生まれたものであるから、義務なのである。誰かが与えるのではなく、したくないことを無理にするのは不正であるから、してはならない、そういうものなのだ。したがって、義務とはおのずから生じるものであって、外から与えられるものでは決してないのだ。
では、平和というものはどうすれば実現するのか。カントに言わせてみれば、みなが平和を自身の格率として価値あるものとみなせばいい。それだけの話である。でも、現状、そういうばかりではないから、互いに公表し、相互に監視し合う体制が必要なのだ。それが国際連合である。今の国際連合とはまったく違う。こうした連合体制は、国家としてまとまりをもったものを前提としている。それが共和制であると、カントは言う。この共和制は、民主制や僭主制とは異なる。どういうわけか、プラトンの哲人政治とも異なると言っている。この点、カントの弱いところだと思われる。代議制を是認しているようにもとらえられてしまうからだ。カントにとって共和制とは、すべての人間が、もうすでに、普遍的な格率をもってその義務に従っていることを前提にしているのである。だから、代表者が無理に哲人でなくても問題などないのだ。プラトンに異を唱えているというより、プラトンのような想定をする必要がない状態についての国家を述べているのだ。アプリオリに法的状態にある国家があるとするなら、連合形態や述べてきた条項が望ましい、そういう話なのだ。
では、そういう法的状態というのは、いったいなんなのか。カントは付録で自然状態と道徳・政治について述べている。確かに人間は争わずにはいられない。けれど、争いを嫌悪し、それを裁こうと法律というものを定めるのもまた、人間の自然状態でもある。では、なぜそんな自然状態が政治や道徳と結びつかないのか。それは、そもそもそういう結びつかない政治や道徳というのがおかしいからだ。人間に義務が生じているとするなら、おのずと道徳と政治は分かたれないはずである。法に従うということは、外部から与えられた決まりを守ることではない。おのずと自分の中から生じてきたものに従うまでのことだ。だから、自分のしたくないことをするということは、それこそ不自然であって、道徳的ではない。だから、公表しても問題ないはずなのである。隠すということは、それ自体に後ろめたいなにがしかがあるからだということになるのである。
哲学をする者にとって、平和とはかくも当たり前の話なのである。だからこそ、自由に哲学者がものを言えないといけない。哲学者のいうことが浮世離れしている、夢想の話をしているのではない。それを浮世離れしていると退けてしまう事の方が問題なのだ。彼らは現実をどうするかについて興味がない。現実というものが一体何なのか、そちらに興味がある。そもそものスタート地点が違うのだ。自分の従う現実というものに挑むからこそ、その現実を超えることができ、平和の意味が変わる。
平和だ戦争だ言う前に、そう言っている自分の胸に手を当てて同じことを問うべきだ。 -
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深い。
啓蒙とは自らがまねいた未成年の状態から抜け出ること。
いったいどの位の人が啓蒙されてることになるのだろう。
啓蒙も正しいものと正しくないものとあるのではないか。
永遠平和のために
常備軍を放棄、と言ってみたり、互いに競わせて連合を作って均衡を保てと言ってみたり矛盾をはらみながらも、第一時対戦も起こる前からこのようなことを論じてるなんて。
200年以上経って、進歩したところもあれば前より複雑化したこともあるし変わらないこともある。
永遠平和が実現されるためには、牧歌的生活に戻るしかないのか、それとも相互牽制による表面的なものなのか。 -
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この巻は、理性をいかに鍛錬するかとか、「道徳」の構築に向けた思考の動きとか、本書の「応用編」的な部分となっている。つまりカントは既に、次の「実践理性批判」へ向けて、カントは動き出しているのである。
やっと光文社新訳文庫版『純粋理性批判』全7巻を読み終えたわけだが、カントのこの著作とは、結局何だったか。
それまでの経験主義としてくくられる著作家たちを「独断論」として批判し、緻密な思考を展開して見せたこの書物は、18世紀「近代」を切り開いた、やはり革命的だったと思われるし、現在読んでみてもその思想はじゅうぶんに刺激的で、挑発的である。
しかしカントの思考の枠組みが、せいぜい18世紀までの範疇に限定されて見えることも否めない。
なんでも分類する事が大好きなカントは、人間精神の活動を「感性」「知性(旧訳では悟性)」「理性」に分けるのだが、現在の我々のパースペクティヴから見ると、このような分け方は便宜的なものではあっても、それ自体リアリティを欠くし、さほど意味がない。
こんにち的な位置から見ると、私たちは脳をさらに細かく「分ける」こともできるが、人間が思考するとき、それらの各部が複雑に作用し合っていることを理解できるし、また、人間の心的な営みが「脳」という局所にだけ孤立的に限定されているというより、人間存在全体として考えているのだ、という風にも考えられる。
「感性」「知性」「理性」といった「カテゴライズ」は、西洋の言語体系のなかでは便宜的に成立し・活用される概念ではあるが、そうそう截然と区分けされるわけもなく、我々は意識と、意識外(無意識)、あるいは神経伝達物質、シナプス、あるいは身体すべて、といった全要素が複雑に絡み合った「全体」=ゲシュタルトとして、思考活動を行っているのだ、と思う。
だから「感性」も「知性」も「理性」も、人間の心性のちょっとした一面(特性)を示す用語ではあっても、それ自体として「存在するもの」ではないのに、それらを「主語」とし、あたかも独立して機能しうる何者かであるように記述するのは、明らかに「近代の誤謬」に過ぎないと私は思う。
この点で、カントの哲学もまた、「批判」されるべきであった。
しかし緻密な「批判」なる知的営為を確立したカントの「革命」の価値が損なわれることはないだろう。 -
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この巻では「神」について扱われる。
ヨーロッパにおける既存の「神の存在証明」は批判され、カントオリジナルな物として、「道徳的な神学」が提起される。
これは神が最初に存在し、その認識(信仰)から人間的な様々の思考が生まれてくるのではなく、その逆に、道徳的思考の果てに、人間みずからが「神の存在」を「要請」するのである。(P.128-132付近)
この驚愕すべき倒錯により、神学は人間の「理性」に服従するものとなり、ここに西洋的な「近代」が出現するのだ。
これは歴史的にきわめて画期的な飛躍であるが、この新たな神学については、この本ではそれ以上深く追究されない。 -
Posted by ブクログ
難解といわれるカントの文章だけれど、光文社の新訳でとても読みやすくなった一冊。
本書は、カントの政治哲学、歴史哲学に関する著作5編が収められている。それらを通じて語られるのは、人が自立し理性的であることの重要性。そしてそれを実現させるための自由が社会にあることの重要性。人間は本来、平穏で安楽な生活を営みたい本能がある一方で、社会を形成して生きていかざるを得ず、そのため他社との競争が必然的に生まれる。そのことこそが、人間の成長、そして長い目でみると人類の進歩につながる。
これだけでカントの思想の全体像を語ることは到底できないだろうけど、単なる宗教を超え、かつ人類としての運命論的な宿命を超えて、個々人の理性の重要性を説くカントの思想の一端に触れ、元気をもらえる一冊だと思います。 -
Posted by ブクログ
狭義の「理性」の領域へと話題は移り、いよいよこの著作の核心部分に入っていゆく。
この巻で非常に興味深いのは<わたし>なるものについての考察である。この<わたし>は、人格とも「こころ」とも異なる、単なる「思考の主体」である。その上でカントはデカルトを論駁し、「我思う、故に我あり」という命題の論理的破綻を指摘、心身二元論をも批判する。
だがカントの思考をたどってゆくと、「他者」なるものの確かさが危うくなる箇所がある。
あの頑迷で尊大で、愚かな中島義道を独我論に導いたと思われる一節も見られる。
「[思考する存在という]対象は、このわたしの自己意識を他の物に<移す>ことによって成立したにすぎない。」(P.108)
しかしこれは私の考えでは倒錯である。
人間は他者たちとの共同性から出発するのであり、<わたし>が出現するのは<他者>がそこにあって思考し、<わたし>にまなざしを向けるその地点からなのだ。だから<わたし>の方が後から現出した「仮象」なのではないかと私は疑う。
それはともかく、デカルトを堂々と批判した点においてこの巻は痛快だった。なるほどカントには、決して古くさくはない面が存在する。
さて次巻は例のアンチノミーだ・・・。