人間は事物をありのままの姿で認識できない。自分の五感を信じるな。事物の本質は分からないのに、分かると考えるから心の平静が乱される。あらゆる物事の判断を控えるように。ピュロン
どんな観念(=思考)も、元をたどれば対応する生き生きした感覚経験("印象")がある。盲人は色彩について、いかなる概念も形成できない。人間の観念(=思考)は経験の範囲内で構成されている(2章)→生得観念(生まれつき持つ知識)や経験に依らない概念形成は疑わしい。形而上学的な概念(魂・神など)は疑わしい。経験に基づかない観念は検証できない。認識は外界のコピーではなく内的再構成▼私たちは原因と結果の必然的つながりを経験していない。見えているのは繰り返しの連続だけで、因果関係は理性ではなく"習慣"。皿を落とした。割れた。その経験を何度も繰り返すと、「皿を落としたから割れた」と因果関係を理解するようになる。因果関係は経験("習慣")による思い込みであり、自然界には存在しない。客観的な因果関係は存在しない(4章)。デイヴィッド・ヒューム『人間知性研究』1748(95)
*「人間本性論」第1巻をヒューム自身が書き直した改訂版
*カントによる発展: ヒュームの言うように、経験だけからは因果関係の必然性は導けない。また人間の認識には習慣や心の働きが関与する。しかし、因果関係のすべてが経験(習慣)による思い込みではない。数学の真理は経験による確認を待たずに成り立つ先天的な知識。ただ経験と無関係ではなく、数学や自然科学の普遍的な因果性は空間(幾何学)と時間(算術)という人間の認識形式に基づいている。数学は認識主体に由来する点では主観的だが、すべての人間に共通する認識形式に基づくため、現象世界においては客観的な真理(カント)。
人間の認識はまず外界からの刺激を受け取り、経験の材料を与える(感性)。その際、感性は空間と時間つまり経験に先立つ人間の認識枠組み(純粋形式)によって対象を受け取る。”本が机の上にある”という経験には空間(についての認識の枠組み)が必要だし、”ボールが落ちる”という経験には時間の経過(についての認識の枠組み)が必要。空間や時間は世界そのものの性質ではなく、人間があらかじめ空間と時間という認識の枠組みを持っているから、対象を空間的・時間的に経験している▼しかし、それだけでは断片的な対象の印象があるだけで、それが何であるかは理解できない。そこで次に外界から与えられた材料を整理し、対象として理解する(悟性)。目で見た複数の印象を一つの「机」として認識したり、出来事の間に原因と結果の関係を見出したりする。その際、因果性など経験を理解する枠組み(カテゴリー)によって経験を構成する。外界から来るのは、色・音・硬さといったバラバラの印象(感性)。それらを、これは同じものだ(実体)、これが原因でこれが起きた(因果性)、これは一つの対象だ(統一)というように、バラバラの印象を一つの対象にまとめる(悟性)。また、”私の経験”として統一する働き(統覚)が常に(すでに)働いているから、感性と悟性が経験として成立する▼このように外界は人間の認識能力を通して現れた世界(現象)であり、認識能力から独立した世界そのもの(物自体)を直接知ることはできない。人間に認識される以前の、認識から独立して存在しているもの(物自体)を直接知ることはできない。私たちが机を見ると、色が見える、形が見える、大きさが分かる。これらはすべて人間の認識の仕組みを通して経験されたもの、「人間に現れた机」であって、「机そのもの」ではない。物自体は人間とは無関係に存在するもの。物自体は存在すると考えられるが、認識することはできない。認識した瞬間に、見る・聞く・考えるといった人間の認識の仕組みが介入してしまうため、それはすでに「現象」になっている。私たちが経験するのは現象だけ。現象が「現れるもの」である以上、その背後に”認識から独立した何か”(物自体)を想定せざるをえない。"わたしたちは人間以外の他の思考する存在者による直感がどのようなものであるかについては、まったく判断できない"(p.89, 感性論051)。cf. ヤーコプ・フォン・ユクスキュル 「環世界」 ▼理性は外界から与えられた材料を整理、対象を理解して得られた知識を統一し、より広い説明を与える能力。条件づけられた認識を、より高次の無条件なものへと統一する能力。悟性は経験を概念によって整理・統一し、理性はその認識全体をより高次の原理へと統一する▼しかし理性はときに経験によって確かめられない事柄についても結論を出そうとする。「世界には始まりがあるか」「魂は不滅か」「神は存在するか」など。経験を超えて考えようとする理性(=純粋理性)が生み出す問いの体系が形而上学。これらの問いは認識の対象ではなく、希望や信仰の対象。信仰・道徳・自由に場所をあけるために、知識(科学)を制限しなければならない。理性は神の存在を肯定できないが、否定することもできない▼理性が経験できる範囲を超えて世界全体について考えると、正反対の結論がどちらも論証できてしまう(アンチノミー)。この問題は理性そのものが間違っているからではなく、経験可能な範囲を超えて理性を使ってしまったから生じる▼人間は経験できる範囲については確かな知識を得ることができるが(科学の客観性)、経験を超えた事柄については知識(科学)の限界を認めなければならない。イマヌエル・カントKant『純粋理性批判』 1781
* 「太陽が地球のまわりを回る」のではなく「地球が太陽のまわりを回る」とコペルニクスが発想を逆転したように、カントは「認識が対象に従う」(世界は認識とは独立にそのまま存在し、認識はそれを受動的に写し取る)のではなく、「対象が認識主体の形式に従う」(世界がそのまま私に与えられるのではなく、私の認識の仕方に従って世界が現れる)と発想を逆転した。コペルニクス的転回
*第3アンチノミー。自由は存在する(正題)。なぜなら、もしすべてが原因によって決定されるなら、原因の連鎖はどこまでも遡らなければならず、何かを自ら始める力がまったく存在しなくなる。自由は存在しない(反題)。なぜなら、すべての出来事には原因があり、その原因にもさらに原因がある。世界は因果関係の連鎖でできている。人間の選択も自然現象と同じく因果法則に従う。
*時間(という内的な直感形式)。人間と人間以外の他の思考する存在者で時間にかんする直感は異なる。一瞬が非常に長く感じられる存在。未来を同時に見る存在。時間の順序が異なる存在。cf. 相対性理論: 「1秒」という単位は各観測者の時計では同じだが、異なる観測者の時計を比較すると経過した秒数が一致しないことがある。
イマヌエル・カントKant『プロレゴメナ』1783
私たちは普段、時間を時計やカレンダーのように均等に区切られたものとして考えている。しかし、それは時間を空間のように扱った結果にすぎない。本当に生きられている時間は、1秒、2秒、3秒と区切られたものではなく、過去が現在に溶け込みながら連続的に流れていく経験。悲しい時間が長く感じられたり、楽しい時間があっという間に過ぎたりするように、人間が体験する時間には質的な違いがある。この生きられた時間を「持続(durée)」と呼ぶ▼19世紀、科学の発展によって、人間も自然現象と同じく法則に従う”機械”ではないかと考える人が出てきた。人間の行動を外側から観察すると、すべて原因と結果で説明でき、自由意志がないように見える。しかし自由意志が存在しないように見えるのは、人間の心の働きを空間的・機械的に捉えてしまうから。人間の行動を外側から観察し、原因と結果の連鎖として分析すれば、すべては決定されているように見える。しかし実際の人格は、記憶や感情や経験が一体となって流れる”持続”そのもの。自由な行為とは、その瞬間の気まぐれではなく、その人の人格全体が成熟した結果として生まれる行為▼自由とは因果法則から完全に独立した神秘的な力ではなく、自分自身の”持続”から生まれる行為、人格全体を反映した行為。人間は機械のように外部から決定される存在ではなく、時間の中で絶えず変化し創造される存在。アンリ・ベルクソンBergson『時間と自由』1889