カントのレビュー一覧
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この巻の前半に出てくる「図式」(シェーマ)という概念は、なかなか面白いと思った。
その後に続く思索は、そろそろ難しくなってきており、厳密なあまり退屈を感じないでもない。
「アプリオリ/アポステリオリ」という区別や、「感性/知性/理性」といった区分に関しては、当時のカントにとっては重大だったかもしれないが、現代の私たちにとっては、そんなに緻密に区別できるものでもないし、そうすることにさほどの意味も見いだせない。
やはりカントもまた、時代の「言語」の内側にいて、別の言語空間から眺めると必然性・絶対性を欠いた思考遊戯をやっているように見えてしまう。
「物自体」は人間には知り得ないし、感性をとおして対峙せず、知性のみから把握された知(概念)は空虚である、とカントは言うが、たとえば物質の分子-原子-素粒子へと突き進んでいった自然科学の知見の歴史そのものによって、カント的思考の枠組みは一部乗りこえられてしまっている。
とはいえ、時代の制約を追いながらも、力強く厳格なカントの思考はやはり天才的なものであって、イギリス経験主義をはるかに超えてラディカルな近代哲学をきりひらいた事実の重要さは、いささかも損なわれることはない。 -
Posted by ブクログ
前巻で「感性」を扱ったので、この巻からテーマは「知性」(悟性)。
「判断表」「カテゴリー表」なるものが出てくる。これらが「完全なもの」とはまったく思えないのだが、その後に続く思考が素晴らしい。
「[現象において観察される]諸法則は、こうした現象そのもののうちに存在しているわけではない。たんに知性をそなえて[観察して]いる主体にたいして存在しているのであり、これらの現象はこの主体のうちに宿っているだけなのである。」(P.170)
こうしたカントの認識論は、まっすぐ20世紀のメルロ=ポンティまでつながっていくものであり、実に重要である。
「わたしたちは、いつかわたしたちの認識のうちに登場する可能性があるすべての像について、わたしたち自身がつねに同一であることを、アプリオリに認識している。
この[自己同一性の]意識はすべての像を可能にするための必然的な条件として意識されるのである。」(P219, 初版の文章)
ここで言われる統覚、同一性は、20世紀個人心理学でいう「アイデンティティ」のことではなく、つまり個体としての自我ということでなく、自己と共に存在している「世界」との「あいだ」、その刹那に「ともにある」すべての事象が直面する知覚の「パースペクティヴ」の同一性(統合性)と解釈する限りで、正しいと思う。
それにしても、巻末の訳者の長大な解説は、今回も余計なものに感じた。そう思っているのは私だけなのだろうか・・・ -
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岩波文庫版で相当昔読んだカント、再読しようと思っていたら、岩波版の訳は誤訳だらけと誰かさん(というか、中島義道)が言っていたので、やむを得ず新訳文庫でそろえ直すことにした。
こちらの訳者中山元さんは、私もこれまでいろんな翻訳を読んできたし、信頼している方だ。なるほど読みやすいが、「悟性」が「知性」になっていたり、昔の翻訳とはいろいろに変わっていて、ちょっと戸惑ってしまうかもしれない。
岩波文庫では全3巻に収まっていた『純粋理性批判』が光文社古典新訳文庫ではいきなり全7巻になってしまったのは、活字が大きいのと、各巻に1冊の3分の1強くらいの分量の「解説」を入れたからだ。
この「解説」は、きっと初心者用に、カントの言説をやさしくかみ砕いて説明してくれているのだろう、と予想していたが、まるでそういうものではなかった。
カントの本文には書かれていない背景や、他の哲学者との比較など、むしろ「知識を拡大するための解説」になっている。
本巻(超越論的な感性論)あたりはカントの本文も難しくなく、むしろ先を読みたい気持ちが強くて、この「解説」は余計なものに感じた。
大昔に読んだカント、なぜ「アプリオリとアポステリオリなんていう区別にこだわるんだろう」とかつて首をかしげたものだが、今回読み直してみて、確かにその疑問(「経験」なるものをキーワードにして人間の知的認識をふたつに分離しようという設定の不思議さ)は残らないわけではないが、このようにして厳密な哲学を、この時代にいきなり登場させたカントは、やはり抜群の存在だと思った。
さて続きをどんどん読もう・・・ -
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個々の人間がいかにして国際的な連帯を築くことが可能なのか。この本に治められた一連の著作を通じて、カントの政治哲学と歴史哲学を一望することができる。「啓蒙」の持つ可能性に絶対的信頼を寄せているあたりに時代の雰囲気も感じるのだが、カントが決して楽観的に「永遠平和」を唱えているのではなく、人間性がかかえる「非社交的な社交性」を冷徹に見つめ、それを与えた「自然」によって人間達が国際的な連帯へと導かれていくと考えるロジックが面白かった。中山元の解説にも大いに助けられ、カント入門には良い一冊。カントってとても真摯に人間の限界と可能性を見つめ、現実に向き合い、その改良を目指した思想家なのだと好感を持った。
それにしてもホッブズ、ロック、スミス、そしてこのカントら啓蒙思想家の著作を読むと、彼らがみな人間の本性をしっかり見つめ、そこから人間の連帯(共同体)の成立について論じていくことにある種の感銘を受ける。人間とは何か、という問いが、全ての根底にあるのだなあ。 -
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ここでは、カントの哲学書について述べるのではなく、本書の構成を中心に話を進めてみたい。
本書には5編が収められている。タイトルに含まれる『永遠平和のために』、『啓蒙とは何か』以外の「他3編」の題名は下記のとおりである。
『世界市民という視点からみた普遍史の理念』
『人類の歴史の臆測的起源』
『万物の終焉』
このなかで一番短いのは、『啓蒙とは何か』である。これはわずか17ページの論考であった。『永遠平和のために』が、一番長くて128ページ。他の3篇は30ページ前後である。ほかにはカント年譜が6ページ。訳者の中山元氏による解説が充実しており、105ページある。以上が本書の構成である。
ここからは個人的な感想を書いてみよう。
この中で私が読みたかったのは、『啓蒙とは何か』である。『カント』と『啓蒙』という2つの言葉を聞いてすぐに思い浮かぶのは、ベートーヴェンである。ほとんどのベートーヴェンの評伝には、啓蒙思想という言葉が出てくるからだ。ベートーヴェンはボン大学時代に、啓蒙思想に触れた。当時流行し始めていたカント哲学にも、影響を受けている。いくつかの評伝には、そのようなことが書いてある。しかし、本書に収められている『啓蒙とは何か』を読んでみると、カントの啓蒙は政治哲学であり、ベートーヴェンの思想の間には関連性はないように感じた。
『啓蒙とは何か』は「啓蒙の定義」から始まる。その全文は下記のとおりである。
啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。だから人間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。こうして啓蒙の標語とでもいうものがあるとすれば、それは「知る勇気をもて」だ。すなわち「自分の理性を使う勇気をもて」ということだ。(p10)
ここだけを読むと、ベートーヴェンが影響を受けた感じがしないでもない。だが、全体を読むとそうでもないのだ。
中山氏の解説には、次のように書いてある。
この「啓蒙とは何か」という文章は、カントが発言の自由という一点に焦点をしぼって、自立した思考の重要性を考察したものであった。(p292)
ベートーヴェンは、「自分自身で考えること」を思想の中心として持っていたわけではない。フランス革命の「自由・平等・博愛」という思想が中心であろう。ベートーヴェン像からは、「カント」と「啓蒙」という言葉は抜いた方が、より正確なイメージをつかむことができそうだ。 -
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1巻と違い、こちらはざっと読み飛ばした。自分の浅い理解であるものの、本書では純粋知性概念について述べている。つまり、アプリオリな知性は何かということ。
その際、カントが拠り所としたのは、論理学の判断表。例えば、量に関しては単称判断(このAはBである)、性質に関しては肯定判断(AはBである)など。
これらの判断表は、人間がアポステリオリに作ったわけではなく、人間のアプリオリに備わる知性であるとカントは考えた。
その正しさについて、ひたすら論じているものの、別にその正しさに関心はないため割愛。
アプリオリな知性は何か?という問いに対して、論理学から判断形式を持ち出し、これこそがカテゴリーであると考えた発想が良い。
アリストテレスのカテゴリーは、帰納的な方法であり欠陥もあるものの、カントの場合は網羅性を担保できていると思われる。ただし、全称判断と単称判断が独立して含まれており、重複感は否めないものの、あくまでこれは一般の論理学ではなく、超越論的な論理学ということである。
何が問いとしてあり、そのための手段をどのようにしたのかがわかれば、カント研究者でもないため、十分であると考えている。 -
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非常に難しい。
理解できたことはほんのわずかだった。
カントは時間と空間をアプリオリなものとして前提しているが、この前提がまず納得できていな。人間はうまれたときから時間と空間を認識しているのだろうか。成長過程において認識するのではなかろうか。
今回も書籍の半分程度を中山元による解説が占めている。
これがなければ、理解は難しい。この解説があっても、ほとんど理解できないのだから。
人間は、連続した時間を認識して生きている。過去と現在がつながっているものだと認識している。それがなければ、音楽は理解できない。今聴いた音が、次の瞬間には過去になる。その音を記憶したうえで、その次に来る音とのつながりを理解する。その繰り返しによって、人間は音楽を理解する。つまり、人間がなにかを理解するためには、過去・現在・未来という時間の流れを認識している必要がある。
カントが述べるところによると、三段論法は、個別の事象を説明するだけで、普遍的な物事を説明することができない。アリストテレスは人間である。人間は必ず死ぬ。だからアリストテレスは死ぬ。のように。アリストテレスについて語ることはできても、人間全体について語ることはできない。
また、たとえば、庭を眺めていて、そこにケヤキがあることを認識するためには、木という概念をしらなければ、目の前には緑の塊があるだけで、地面とケヤキを区別することもできない。など。
要するに、人間がなにかを認識する際に、人間の中でなにが起きているのか、ということを分析していくのが、本書なのだろう。
難解であるとはいえ、こういう思考の流れに触れることで、頭を使う。自分なりに理解しようとする。カントはなにを考えているのかとか、この理論は果たして正しいのだろうかとか、そういう風に考えることで、読者も成長していく。それが哲学の面白さだ。 -
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宇宙には理性が貫かれている。人間は宇宙の一部なので、人間も理性に従って生きるのが自然だ。欲望や快楽に心を乱されてはいけない。あらゆる人間には等しく理性が宿っている。なので人類はみな等しい。全ての人間は1つのコミュニティに属するべきだ。特定のポリスに閉じこもるな。私はコスモ(世界)の市民だ▼キュニコス派。制度や文化は人為的なもの。動物の生き方が理想。虚飾は捨てよ。自足せよ。ディオゲネス
実践的な政治家は、国家の問題を考察するには経験が必要だと言い、私のような理論家をアカデミズムの世界の住人だといって見下す。しかし私が実現できそうもない理想を述べても、世間のことに通じている政治家にはなんの影響もないのだから、言いたいことを言わせていただく(留保条項)▼代議制による立憲国家であれば、国民は戦争経費を自分の資産から支払い、自分たちが兵士として戦わなければならないため、戦争には賛成しない。だから立憲国家は戦争を起こしにくい。一方、専制国家では少数者の利益が優先され、国民の犠牲お構いなしに戦争を始める。だから専制国家は戦争を起こしやすい。なので各国は専制をやめ、立憲制になるべき▼国家を超えた平和連盟をつくろう。世界政府は専制になるかもしれないので、国家連合にする。国際法(inter-national)を超えた、世界市民法を作ろう。カント『永遠平和のために』1795
市民とは自ら責任を負える範囲で成り立つ概念であり、世界市民として世界中の問題に責任を負うとしたら、それは耐え難い重荷になる。ハンナ・アーレント『暗い時代の人々』1972
国籍・階級・民族・ジェンダーの違いによって、人間の間に壁を作るべきでない。理性と道徳に期待しよう。マーサ・ヌスバウム
グローバル化の時代、個人の法的権利・義務が国家を媒介としない形で問われることが増えた。国際機構(世銀・IMF・EUなど)が国家を拘束する意思決定をしているのに、デモクラシーは国内のレベルでしか実現していない。国の自律や安全は国単位のデモクラシーの基礎なのに、安全保障は他の軍事大国に依存・従属している。グローバル化により先進資本主義国が文化的に各国を支配しており、各国のアイデンティティが損なわれている。国際金融市場がグローバル化しており、各国の市場への管理能力が損なわれている▼今や、個々人の生命・財産は重複するいくつかの共同体(国際組織や他国)に委ねられているのに、デモクラシーは未だに国単位のまま。デモクラシーは「国家とその国民の間」だけに限らない。デモクラシーをグローバルな形で再建しよう。デイヴィッド・ヘルドHeld『デモクラシーと世界秩序』1995 -
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「超越論的な理想」で神の存在証明の不可能性を論じる第六分冊。超越論的な神学を扱う下りで、初めはカントがID(Intelligent Design)を信奉しているのかと思ったが、よく読むと絶対存在の想定が自然科学の探究のために〈実践的な〉意義を持つ、ということが語られており納得。例え理性が構築した虚構であっても道徳的理念を実践する上での実用的な意義(統制的原理)がある、とする点には目的論と自然科学の調和の必要性を謳ったカントの先見性が垣間見え、流石と思わせる。
本分冊の神の存在証明のポイントは、存在証明の3類型、すなわち自然神学的な証明、宇宙論的な証明、存在論的な証明のうち、前2者は結局のところ存在論的証明の変形である、というところ。こうしてしまえば、「概念の存在が必ずしも実体の存在を導かない」というアクィナス以来の否定神学を適用することが可能になるからだ。
しかしここで行われていることが単純に神の否定というわけではないことも注意すべき。「神は存在する」という理論的な認識を証明することは不可能だが、その逆もまた然りである。理神論的な道徳神学の立場に立てば、「神は存在すべきである」という実践的な要請はアプリオリに想定される原理であり、人間の生き方や世界観に指針を与えるという統制的原理として有用なのだという。これが「実践理性批判」で定立される「道徳的命法」、すなわち「己の意志の格律が常に同時に普遍的立法となるように行為せよ」の基盤になっているのだろう。