絲山秋子のレビュー一覧
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⚫︎感想
精神病院から抜け出した男女2人が九州を駆け巡る。方言がとてもいい味を出している。
絲山秋子作品ふ3冊目。男女の友情というか、人間同士の繋がりを気持ちよい読後感をくれるところが絲山作品に通底するところだ。こちらの作品は、九州を必死で駆け巡る2人の珍道中といったところ。ちょっと切なくて、ちょっと笑えて、ちょっといい話。一気読み。
⚫︎本概要より転載
21歳の夏は一度しか来ない。あたしは逃げ出すことにした。
軽い気持ちの自殺未遂がばれて、入院させられた病院から。
逃げるのに思いつきで顔見知りを誘った。24歳の茶髪で気弱な会社員。
すぐに「帰ろう」と主張する彼を脅してすかして車を出させた。東へ。そして南へ。
__おんぼろ車で九州の田舎町を駆け抜けるふたりの前にひろがった暑い夏の物語。 -
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黒蟹県(架空)を舞台にした短編8話。
独立した話ではなく、登場人物やお店の名前などは共通する。そして異彩を放つのは、所々に現れる神。
神も神だが、登場する人たちも総じて緩い。
読んでて楽しいとはこのことかな。
しかし一方で、教訓的なことや人生訓を想起させるような含蓄のある話もあり、飽きない内容だった。
本文より、
世のおばちゃん方がなぜ飴を持ち歩き、人にくれたがるのか、やっとわかった。唾液の分泌が不安定でふとした弾みに口のなかがカラカラになっていることに気づくのだ。だから飴を持ち歩く。人にあげるということは自分でも舐めていいということだ。不調を隠しつつ愛嬌を前面に出して恩を売る。さっと差し出す迷いのなさと社会性の高さ。これこそがおばちゃんである。
閉経こそ赤飯を炊いたり鏡割りをしたり二階の屋根から餅を投げたりして祝うべきものではないだろうか。これからはいつだって温泉旅行に行けますから誘ってくださいねと紅白饅頭を配ってもいいのではないか。人からもらいたくはないけど。
まあ、それ以前に更年期症状でだるくて動きたくもないのだけれど。
人々は不便でも貧しくても変わらない暮らしが継続することを内心望んでいたりする。見た目の対称性や反復するリズムを好む。予測不能な自由より把握できる不自由を選んでしまう。それなのに退屈する。だからこそぎこちなさやためらい、突然現れる小さな反乱、不穏な気配、刺激に惹きつけられるのではないか。
そうなのか!(?) -
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ネタバレ⚫︎感想「沖で待つ」
初めての絲山さんの作品は「神と黒蟹県」(2024.4時点で最新作)だったが、15年以上前に書かれた芥川賞受賞作である「沖で待つ」にすでに絲山ワールドが完成されていたのだ…といった感想をもった。男女がベタつかない軽やかさや、全体に広がるユーモアと優しさ、少しの寂しさ、少し現実離れした不思議ワールドを感じられた。
二人はお互い先に死んだ時は残った者がハードディスクを壊し合うという約束を交わす。
「沖で待つ」は太っちゃんが妻に残したとされる詩のフレーズ。強い信頼を互いにもてて、ピンチの時は助けに行くし助けてくれる、必ず待っていてくれると思える安心感。
こちらの作品では、同期で働く男女2人の恋愛とは別の同志みたいな信頼感だったり、気のおけない感覚だったりが描かれており、とてもうらやましい人間関係だと思った。と同時に、転勤の多い方は良い人間関係を作り上げても、転勤になればまた1からスタートになるんだよな、と改めて感じた。「神と黒蟹県」も「沖で待つ」も「なんか羨ましい世界だな」と思える、ふわっとした、でも単なるいい話でもないところが好きだと思った。
解説は絲山さんと同期で働かれていたという編集者さんが書かれていて、絲山さんの会社員時代が垣間見れて面白かったし、「どこの方言もすぐにマスターし」という記述も納得だなぁと思った。
⚫︎あらすじ(本概要より転載)
同期入社の太っちゃんが死んだ。約束を果たすべく、彼の部屋にしのびこむ私。恋愛ではない男女の友情と信頼を描く表題作他全3篇 -
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3編ともおもしろいが、やはり表題作『沖で待つ』が特に良かった。登場人物、彼らの会話がおもしろく魅力的。会社の中での「同僚」という人間関係。時に共に喜んだり時には互いの失敗をフォローしたり、日々仕事の中で同じ体験を共有しており、飲むと学生時代の友人以上に話がはずんだり…。読んでいると、その人間関係がリアルで、自分の若かりし頃を思い返して懐かしい気持ちになる。
主人公と太っちゃんの、恋愛にはならないけど、ただの友人よりも深い、運命共同体のような同士のような関係性は、読んでいると憧れてしまう。現実味があるかといえば無いような気もするが、それ以上に二人の描写が自然で魅力的で、気にならない。
絲山秋子さんの他の著作も読んでみたいです。 -
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ネタバレ女と男の友情・・・。
成立するのかしないのか、周りで議論されるのを何度か聞いたことがあるが、もう一つ、20年前に早逝した友人の葬儀で、彼の親友が、「エッチなビデオ一式を生前の約束通り全部処分してやった」と言っていた。
そんな僕個人の思い出が込み上げる標題作②は秀作。
③は全文ひらがなとカタカナのみ。そんな小説は、筒井康隆の「心狸学・社怪学」で目にして以来。(絵本や宮沢賢治作品ならありそうだが)
ちょっと蓮っ葉で物足りなさを感じた①だったが、「オマエ、書いてよ」と絲山先輩に命令されて書いた夏川けい子さんの解説で、その、もの足らない部分がガチン!と音を立ててハマる快感。
解説まで堪能できた。
話のついでのように貸してくれたが、楽しめました。
ツッチー、ありがとう!
【冒頭のみ】
①勤労感謝の日
36歳、無職の恭子は命の恩人であるご近所さんの勧めで見合いをすることに。
②沖で待つ
ルミエール五反田のドアをノックすると、あっさりドアが開いて太っちゃんが出てきた。3ヶ月前に死んでいるのに。
③みなみのしまのぶんたろう
さまざまな才能に恵まれて大臣まで昇り詰めた〝ぶんたろう”。でも、ひょんなことで総理大臣の逆鱗に触れてしまい・・・。 -
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ネタバレ・絲山秋子の小説って「海の仙人」とか「沖で待つ」とか「離陸」とか「薄情」とか、思い切りのいいタイトルが多いので、え、いきなり「。」つきのタイトルってなんか秋元康っぽくね。と、戸惑ってしまった。ために購入後少し時間を置いてしまった。
・スレた人間なので、小説を読んで泣いたなんていう経験はほぼない。が、本作は2回、鼻の奥がツーンと来る経験をした。それを悔しいとは思わず、嬉しいと思った。
・2011年に36歳だというから、1983年生まれの私より8歳年上の、夫婦の話(生年は1975年生まれだろう)。作者は1966年生まれなので、だいたい10歳くらい年下を想定したのだろう。その夫婦の1998年から2022年を描く。つまり24年、およそ四半世紀を捕捉する小説だ……ざっくり「新世紀エヴァンゲリオン」のテレビ放送から「シン・エヴァンゲリオン」までと捉え直してもよさそう。
・といっても基本的には中年の話で、主には30代後半から40歳前後。つまり読者たる私にしっくりくる年齢感なのだ。そして狙い通り、ばっちりのめり込んでしまった。
・というのも、今はなんとか誤魔化せているとはいえ、パニック発作経験者。電車がヤバい時期に妻の運転でよく帰っていたな、と約10年前を懐かしく思い出す。第3章の沙和子のカラッとした態度に、支えられた側なのだ。
・また本作、旅行記・観光記でもある。広島住まいの私にとって、埼玉や北海道の土地勘はないが、冒頭の岡山のくだりや、ラストの松江とか三次とか東広島とかは、まざまざと眼に浮かぶので、嬉しい……絲山秋子が取材で来たんだろうなと想像する以上に、高之と沙和子という人物が、本当に「あのあたり」にいたような気がする。横田の棚田が「土地って神様の手なんだな」という直感で言及されるが、仕事でその辺をよく走る自分の状況すら、この小説に出会うための伏線だったのかも、と思える(cf.宮崎駿「もののけ姫」のタタラ製鉄)。
・この、今まで生きてきた経緯と、目の前の事象が響き合って、当人にとって強烈な感動が自然に生まれる、という経験が、第9章と第12章で描かれる。高之と沙和子にとっての経験は小説に描かれた通りだが、読者たる私も、この小説を読むことで、彼らに似通った経験をしたと思う。
・思春期、中島らも「水に似た感情」を読んだ。〈こうしてみると、島は確かに人間に似ている。それぞれが孤立していて他の島と隔絶されている。月満つ夜、島は狭くなり息苦しくなる。干潮のときには広くなってゆったりと息をつく〉でも潮が引いて海水がなくなったら?〈バリ島もロンボク島もスンバワ島も「島」ではなくなる。地続きのひとつの大地になる。岡か山があるだけだ。もう孤島ではない。人間もそうなのではないか。我々は時間軸と空間軸に沿って点在している。0.何ミリかの皮膚によって外界と遮断されている。個というものだと自分を意識している。そうだろうか。「海の水」が引いてしまったらどうなる。ひとつの全体、大地があるだけだ。地続きだ〉。ある島で猿が芋を海水につけて食べる。同時に遠く離れた島でも。〈我々は確かに島だ。だが根底のところでは地続きになっている。だから何が起こっても不思議ではない。そういうことではないだろうか。いや、そういうことだ〉
・これ、実はジョン・ダンの「人は島嶼にあらず」で、ヘミングウェイ「誰がために鐘は鳴る」のエピグラフに引用されている(大久保康雄訳「なんぴとも一島嶼似てはあらず なんぴともみずからにして全きはなし、人はみな大陸(くが)の一塊(ひとくれ)、本土のひとひら」)。そもそも「誰がために鐘は鳴る」は該詩の一部分。さらにそれを村上春樹も「ねじまき鳥クロニクル」で引用しているくらいだから、インテリには当然の詩句なのだろうが、らもさんの小説に、いま、絲山秋子が並んで、私にとって特別な作家になった、と思う。ここ十年ずっと追っている作家に対して、大袈裟かもしれないが、思春期に埋め込まれた作家と、中年以降に知った作家が同列に並んだというのは、結構なことで、いわば列聖したということ。それだけ感動した小説。これは極私的な読書体験だと思う。
・また最近気づいたが、現在の自分が過去の(幼い)自分を抱きしめる、という構図に、弱い。ほぼ相米慎二「お引越し」を念頭に置いていることだが、本作でも、それがある。第9章。「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」にも、あるのだよ……と唐突に。
・細かい「よさ」として気づいたのは、義理の親との距離感について。高之の母を、沙和子は慕っているし、沙和子は母をどうしても許せないが、高之は義父母の寛容さに救われている。この、直線ではなく、交差しているからこそ生まれる感情って、結婚した中年にならなければ、なかなかわからんのよ。
・本筋は高之と沙和子のふたりに視点に寄り添うのだが、一瞬だけ親戚の渡部鈴香視点が差し挟まれたり、過去編ということで大学生当時が描かれたりすることで生じる、抜け感……と不用意に自分に馴染んでいない語彙を使ってしまったが、肩の力が抜けて大きく深呼吸できるような瞬間が、読んでいて何度かあった。作中ルールから少しはみ出す破調が、快い。
・知っていてあえてかもしれないのでいわずもがなかもしれないが、2010年、まだLINEアプリはない。