新庄嘉章のレビュー一覧
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人を愛することに理由はあるのだろうか。人を愛するというのは自身の生きる意味を見出すために必要な極めて本能的な営みであり、そこに理由など求めてはいけないのではなかろうか。とはいえ自分ではない他人を愛するということは極めて難しい。自身とは異なる考えを持つ一方で、いくらをもってしてもその考えを理解し尽くすことはできない。己の考えを理解し尽くせぬのと同様だ。たとえどれだけ互いの愛が互いにとって疑いのないものであったとしてもそれを証明するものは何一つないのだ。だからこそ互いの意思疎通が重要であるのだと認められているのであろうが、かえって過度な意思疎通もまたその愛に疑念を生じさせうる余地があるようにも思われる。今や我々が肌身離さず持ち歩く電子機器にていつ何度でも人と意思疎通を図ることができる。だからこそそこには余白が生まれにくいのではないか。愛というものが育まれるためには一定の制約が必要ではないのかと信じる自身にとって昨今の愛なるものは希薄化が進むようにも捉えられる。制約のないものには新たな力学が働かない。惰性の関係値こそ自身の肉体と精神を苛むものとなりうる可能性も否定はできぬ。とはいえ制約は必ずしもその愛の成り立ちを定義するものでもない。詰まるところ己のことも理解し尽くせぬ自身が人を理解し尽くし愛することなど不可能なのだ。一方人を理解し尽くそうとすることは愛ではないと定義づければ一体何が愛たるのか、その答えは未だ知らない。
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人生は、ままならない。
ハッピーエンドで終わる物語が好きで、報われない物語に対して毛嫌いをしていた。けれど、人生は不平等で不公平なのが普通であり、その現実を教えてくれた作品の一つでもある『女の一生』は、お気に入りになった。ジャンヌがレ・プープルにやってきた時の夜の思い出に浸っている時、この世界に喜びも幸福もないということがありうるだろうかと訝しんでいる描写が印象的であった。どれだけ辛いことに直面していたとしても、何かしらの過去の嬉しい出来事がいつかの自分を救ってくれる、そんな気持ちにしてくれたからだ。人生にはどうしようもないことがたくさんあるけれど、過去の嬉しい出来事が生きる活力を与えてくれると信じて、感情に左右されることなくありのままを受け入れて生きていきたい。 -
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この作品好きすぎる…!モーパッサンの人生における現実を浮かび上がらせる残酷なまでの冷徹な観察眼と、直接そうとは表現せずとも登場人物の心情の奥底まで読者の心に突き刺してくる表現技術によって、長編とは思えないほどあっという間に引き込まれ一夜で貪るように読破してしまいました。
はじめ完璧な男性に見えた夫ジュリヤンが、新婚旅行の最中から徐々にそのケチで小狡い性格を露呈していく描写のなんと面白いこと!それに対し、あれほど夢見がちにジュリヤンに恋していたジャンヌにその存在を「赤の他人」を言わしめるほど諦めに満ちた冷めた感情のなんとリアルなこと!
劇的な展開に引き込まれる作品でありながら、母親に裏切られたあの永遠の別れの夜の情景や、引っ越し準備の際に育った家の思い出を名残惜しむジャンヌの言動など、とにかく何気ないひとつひとつの文章にハッとさせられます。彼女の行動から、感情表現などほとんどなくても、その悲しみや失望、喪失感が胸に迫るのです。
生きる時代も国も家族もまるで違うのに、どうしてこんなにもジャンヌの人生がまるで自分のことのように感じられるのでしょうか。物語そのものが面白いのはもちろん、文学の尊さを感じられる作品でした。
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248P
レーモン・ラディゲ Raymond Radiguet
生年:1903年
没年:1923年
フランスの詩人・小説家。風刺画家を父として、パリ郊外に生まれる。幼少期は成績優秀な生徒だったが、長じて、文学に傾倒。14歳で『肉体の悪魔』のモデルといわれる年上の女性と恋愛関係となり、欠席が増えて退学処分となる。退学後、詩人のジャコブやコクトーと出会い、処女長編小説の本作で文壇デビュー。ベストセラーとなる。その後もコクトーと旅をしながら『ドルジェル伯の舞踏会』を執筆するが、1923年、腸チフスにより20歳の若さで死去。
肉体の悪魔
by ラディゲ、江口清
ある人たちにとっては不幸なことが、他の人たちにとっては幸福なのだ。母がお弁当をつくって、初めての恋の夜をぶち壊そうとしているとき、弟たちが 羨ましそうにそれを眺めているのに、ぼくは気づいた。ぼくは弁当をそっとかれらにやってしまおうと思ったが、やがてそれをすっかり食べてしまってから、後でお尻をぶたれる怖しさと、ぼくを困らせる面白さのために、何もかも喋ってしまいそうな気がしたので、そうするわけにもゆかなかった。
恋は幸福をともにしようとしたがる。例えば手紙を書いている最中に、急に冷たい性格の愛人が優しくなって、首に抱きついたり、さまざまな恋の 手管 を用いたりする。ぼくなども、マルトがぼくのことを忘れて仕事に精を出しているのを見ると、なぜか抱擁してみたくなったり、髪を 結っているのを見ると、たまらなくその手に触れ、かの女の髪を解きたくなるのだ。ボートのなかでも、不意にぼくはマルトに飛びついて、そのために櫂を手ばなし、ボートが藻草や、赤や黄色の 睡蓮 のとりことなって岸を離れるまで、ぼくはかの女を接吻で埋めてしまうのだ。マルトは、そうしたことに、 抑え切れぬぼくの情欲の 閃 めきを見た。そんなときのぼくは、妙にしつこくなり、駈りたてられるのだ。まもなくぼくらは、こんもりした茂みへ舟を着けた。みつかりはしまいか、 転覆 しやしまいかと絶えず気をくばることが、いっそう二人の快楽を高めた。 こうしたわけで、マルトの家へ行くのをむずかしくした家主の反感などには、すこしもぼくは困らなかった。
ぼくはまた、ぼくと一緒に行くことが、どんなに不道徳であるかといってきかせた。ぼくはこの言葉が、侮辱された男の口から出たもののように、あらあらしく響かないように願いながら、思い切って口にしてしまった。はじめてマルトは、ぼくが〈道徳〉などという言葉をいったのを耳にした。実際、よくもこんなことがいえたものだ。きっと根が善良なかの女のことだから、ぼくと同じように、自分らの恋愛の道徳性について、疑いを抱くに違いない。だから、もしぼくが自分からこの言葉を口にしなかったとしたら、ブルジョア特有の偏見に反対しながらも、根がやはりブルジョア女であるかの女のこととて、おそらくぼくを不道徳な男だと思うであろう。だが、それはまったく反対で、今はじめてこのことを注意したぐらいなのだから、実際は今までに何も自分らは悪いことなんかしなかったのだと考えていた何よりの証拠だ。
都合のいいことに、かの女は大食いだった。ぼくの大食いは、 公 にされないものだった。ぼくはサンドイッチや 苺 クリームをみても、別に食べたいとも思わなかったが、かの女の口に触れるサンドイッチや苺クリームにはなりたいと思った。ぼくは口を 歪めて思わず顔をしかめた。
数日して、ぼくはマルトから一通の手紙をもらった。それには家主の手紙が同封してあって、自分の家はつれこみ宿でないのに、ぼくが鍵を使って女を部屋へ連れこんだということが、書かれてあった。マルトはこれをぼくの裏切りの証拠だというのだ。そうして二度と会いたくないといってきた。それはもちろんかの女にとっては苦しみであったに違いない。だが 欺 されるくらいなら、いっそのこと苦しんだほうがまだましだったろう。
ぼくにはそれが、つまらないおどかしであるのがよくわかっていた。それを取り消させようと思えば、ちょっとした嘘を、たとえ事実であってもかまわないが、いってやりさえすればよかったのだ。ただ 癪 にさわったことは、こうした絶交の手紙のなかで、かの女が自殺のことにふれていないことだ。ぼくはその冷たさを責めるのだ。そうしてこんな手紙には返事をする必要もないと思った。もしぼくがマルトの立場にあったとしたら、自殺のことはともかくも、もうすこし頭のある責め方をしたであろう。とまれこうしたことを考えるのは、若げと高校生気質の抜けきらない何よりの証拠で、思うに嘘も場合によっては恋愛教典の命じるところでやむをえないことだと、ぼくは考えた。
恋の試練としての新しい仕事が生れた。それはマルトに対して自分の罪のないことをいい、なお家主ほどにもぼくを信じないかの女を責めることだった。ぼくはマランのような連中のやりかたが、どんなにずるいかということを説明してやった。そうしてほんとうのわけを話せば、ある日ぼくがおまえの家で手紙を書いていたら、そこへスヴェアがおまえに会いにやってきたのだ。ぼくは窓越しにあの娘のやってくるのを見て、それが無理におまえからひき離されている女だというのを知っていたし、おまえがいたらこのつらい別離のことでかの女をよそよそしく扱うようなことはしないだろうということを思わせてやりたかったので…
こうしてぼくらは町会議員も家主もみずに、ほんとうに二人きりで暮らすことができた。まるで土人のように平気な顔をして、ほとんど裸かのままで、あたかも離れ小島のような庭のなかを歩きまわった。芝生の上に寝ころんでは、ウマノスズクサや、スイカズラや、マルバノホロシの青葉の下で 愉 んだ。ぼくが拾ってきた、陽の光で熱くなって傷だらけの梅を、口と口を寄せて奪い合った。父がどうしてもぼくには、弟たちのように庭の手入れをさせることができなかったのに、マルトの家ではぼくは庭の世話などをするのだ。掃除をしたり、雑草をむしったりした。暑い一日の夕暮れに、ちょうど女の望みを満たしてやった男のような誇りを感じながら、 渇いた地面や、しおれた草に水をやった。ぼくにはいつでも親切などはばからしかった。それがようやくわかってきた。草花はぼくの世話で 蕾 を開き、鶏はぼくの投げ与えた餌をついばんで木蔭に眠っている。なんて親切なのだろう……だが、なんというエゴイズムだ! もしも花が枯れ、鶏がやせたら、ぼくらの恋の小島にも悲しみが満つるであろう。水も餌も、花や鶏にやるというよりは、自分から出て、ぼく自身に帰ってくるのだ。
それから二日してぼくはマルトから手紙をもらった。それにはぼくの訪ねたことはすこしも書いてなかった。きっと家の者が隠していわなかったのに違いない。マルトはぼくらの将来のことを、いささかぼくを心配させるほど、特異な、 冴えた、きよらかな調子で話していた。本当に恋とはエゴイズムの最も極端なかたちだ。というのは、自分の心配の理由を突きつめてみたら、それは子供に嫉妬をしているのがわかったから。この手紙によると、マルトは子供のことのほうを、ぼくのことよりもよけいに書いているのだ。
死期が迫っている、が自分ではそれと気づかない、そうした不規律な生活をしていたある男が、急に自分の身のまわりを整頓しはじめる。かれの生活はまったく変る。書類を整理する。早起きをし、早寝をする。悪いことをしなくなる。まわりの人びとは喜ぶ。それだけに、その男のむごたらしい死は、だからいっそう不当に思われるのだ。 これから幸福に生きようとして いたのに。
同じように、ぼくの生活のあらたな静けさは、罪びとの 粧いに以ていた。ぼくは自分にも子供ができたのだから、両親に対してもこのうえない息子だと思っていた。しかもぼくの優しさは、父と母をぼくに親しませた。やがてはぼくにも息子の情愛が必要であろうということを、ぼくのなかの何ものかが知っていたから。
レイモン・ラディゲの作品は、二十世紀初頭を飾る古典として扱われ、その短かい生涯はいろいろととり 沙汰 されている。このようにして、かれの名を不朽たらしめたのは、やはり「肉体の悪魔」の声価を多としなければならない。すでに映画でもご承知の「肉体の悪魔」の原作は、ラディゲが十七歳のときの作品である。一人称で書かれ、迫力のあるこの小説は、早熟な作者と思いあわせ、ともすると作者自身の体験を描いたものだと思われがちだった。
このような特色からしても、かれのモラリストであることは認められるであろう。かれは人のもっている深い資質にたいして、とくに敏感であった。であればこそかれは、「恋愛とは、なんという微妙な研究であろう」と、いうことができたのである。かれにとって「未知」は、「習慣」ほどに魅力があるとは思えなかった。かれは、すべての現実がそれとはっきりいい現わすことのできないものを表現するのが芸術の本来の目的であることを、よく知っていたのである。このような人生探求の精神が、かれのような若さのうちに宿っていたとは、いかにかれがきらいであったとはいえ、神童という称呼をもって呼ばねばならないだろうし、 すくなくともかれを、おそろしく早熟な作家ということができるであろう。 -
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ネタバレ今となっては個々人が独立して自由に生きている印象が強いフランスにも、女性が自分の意志では何も決められない時代があったんだなあと、最初から最後までなかなかの衝撃を受けながら読んだ。一回では物足りなかったので読み終わってすぐ二周目に突入。さすがフランス人、事あるごとに接吻するなあと思って「接吻」というワードを最初から全部数えてみたら77回だった。言うほど多くなかったジャンヌ。
思春期のほとんどを学校にも行かず家と修道院で過ごし、修道院を出た直後にほとんど何も知らない相手と結婚。最初感じた熱烈な恋に落ちたような感覚は所詮幻想で、度重なる夫の不貞で結婚生活は早々に破綻。一人息子は家族総出で甘やかしすぎたせいで立派なろくでなしに成長。男性や年長者や司祭に言われる「こうすべき」に忠実に従ってきたジャンヌは、大人になっても、自分が何をしたいのか、自分にとっての幸せとはなんであるかがわからない。考える能力もない。唯一自分を必要としてくれた幼い我が子に執着の照準を合わせて付き纏い、その子が成長と共に離れていくと、加速する老いの中でただただ孤独と絶望を深めていく。天真爛漫で快活だった少女がそうして落ちぶれていく過程は、読んでいて辛いけれど、なんら想像に難くはない。母親が隠し遺していた古い手紙を読んだ彼女が家族の過去を知って震撼するシーンがあるけれど、当時は彼女のみならず周囲の女性たちもみな同じような状況だったから、それ以外の生き方があるという可能性に思い至ることすらなかっただろう。
物語の終盤はジャンヌの情緒不安定さがなかなかのホラーだった。自然の美しさに歓喜したと思えば分かち合う相手がいないと打ちひしがれ、かつての友と昔を懐かしんでいたと思えば過ぎ去った日々への寂しさと悲しさで咽び泣きながら深夜に家中を彷徨い歩く。わたしはこうならないように生きたいなあと読みながらずっと思っていた。
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Posted by ブクログ
一般的な恋愛物語ではないと思わせる様な文体。16歳とは思えないほどの思慮が成熟した主人公が歳上女性を愛していく様を描いている。勿論思慮が未熟であるとも取れるが、文体のみで主人公の気持ちを想像するのであれば、常識的な世間批判からも苦しめられ、非道徳と道徳を常に真面目に考えている主人公の葛藤が描かれている。それを読者が肉体に取り憑かれてしまっていたと結論付けて了えば其れ迄であるが、愛するが故にマルトに対する姿勢や言葉が冷徹になりエゴイズム化していく様は、人間誰しもが持っている愛情の裏返しである。
愛しているが故にマルトに自己を投影させ類似性を探っている主人公の想いが何とも可愛くなってくるのは私だけでは無いはずだ。
彼を愛せたのはマルト以外にいないのであり、マルトが彼の子供を産んで死んだという事実を述べる事により、未成年の愛が幾つも阻まれようとも彼らの愛の結晶が温かく世間に正当に迎えられたとも思えた。