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レーモン・ラディゲ Raymond Radiguet
生年:1903年
没年:1923年
フランスの詩人・小説家。風刺画家を父として、パリ郊外に生まれる。幼少期は成績優秀な生徒だったが、長じて、文学に傾倒。14歳で『肉体の悪魔』のモデルといわれる年上の女性と恋愛関係となり、欠席が増えて退学処分となる。退学後、詩人のジャコブやコクトーと出会い、処女長編小説の本作で文壇デビュー。ベストセラーとなる。その後もコクトーと旅をしながら『ドルジェル伯の舞踏会』を執筆するが、1923年、腸チフスにより20歳の若さで死去。
肉体の悪魔
by ラディゲ、江口清
ある人たちにとっては不幸なことが、...続きを読む 他の人たちにとっては幸福なのだ。母がお弁当をつくって、初めての恋の夜をぶち壊そうとしているとき、弟たちが 羨ましそうにそれを眺めているのに、ぼくは気づいた。ぼくは弁当をそっとかれらにやってしまおうと思ったが、やがてそれをすっかり食べてしまってから、後でお尻をぶたれる怖しさと、ぼくを困らせる面白さのために、何もかも喋ってしまいそうな気がしたので、そうするわけにもゆかなかった。
恋は幸福をともにしようとしたがる。例えば手紙を書いている最中に、急に冷たい性格の愛人が優しくなって、首に抱きついたり、さまざまな恋の 手管 を用いたりする。ぼくなども、マルトがぼくのことを忘れて仕事に精を出しているのを見ると、なぜか抱擁してみたくなったり、髪を 結っているのを見ると、たまらなくその手に触れ、かの女の髪を解きたくなるのだ。ボートのなかでも、不意にぼくはマルトに飛びついて、そのために櫂を手ばなし、ボートが藻草や、赤や黄色の 睡蓮 のとりことなって岸を離れるまで、ぼくはかの女を接吻で埋めてしまうのだ。マルトは、そうしたことに、 抑え切れぬぼくの情欲の 閃 めきを見た。そんなときのぼくは、妙にしつこくなり、駈りたてられるのだ。まもなくぼくらは、こんもりした茂みへ舟を着けた。みつかりはしまいか、 転覆 しやしまいかと絶えず気をくばることが、いっそう二人の快楽を高めた。 こうしたわけで、マルトの家へ行くのをむずかしくした家主の反感などには、すこしもぼくは困らなかった。
ぼくはまた、ぼくと一緒に行くことが、どんなに不道徳であるかといってきかせた。ぼくはこの言葉が、侮辱された男の口から出たもののように、あらあらしく響かないように願いながら、思い切って口にしてしまった。はじめてマルトは、ぼくが〈道徳〉などという言葉をいったのを耳にした。実際、よくもこんなことがいえたものだ。きっと根が善良なかの女のことだから、ぼくと同じように、自分らの恋愛の道徳性について、疑いを抱くに違いない。だから、もしぼくが自分からこの言葉を口にしなかったとしたら、ブルジョア特有の偏見に反対しながらも、根がやはりブルジョア女であるかの女のこととて、おそらくぼくを不道徳な男だと思うであろう。だが、それはまったく反対で、今はじめてこのことを注意したぐらいなのだから、実際は今までに何も自分らは悪いことなんかしなかったのだと考えていた何よりの証拠だ。
都合のいいことに、かの女は大食いだった。ぼくの大食いは、 公 にされないものだった。ぼくはサンドイッチや 苺 クリームをみても、別に食べたいとも思わなかったが、かの女の口に触れるサンドイッチや苺クリームにはなりたいと思った。ぼくは口を 歪めて思わず顔をしかめた。
数日して、ぼくはマルトから一通の手紙をもらった。それには家主の手紙が同封してあって、自分の家はつれこみ宿でないのに、ぼくが鍵を使って女を部屋へ連れこんだということが、書かれてあった。マルトはこれをぼくの裏切りの証拠だというのだ。そうして二度と会いたくないといってきた。それはもちろんかの女にとっては苦しみであったに違いない。だが 欺 されるくらいなら、いっそのこと苦しんだほうがまだましだったろう。
ぼくにはそれが、つまらないおどかしであるのがよくわかっていた。それを取り消させようと思えば、ちょっとした嘘を、たとえ事実であってもかまわないが、いってやりさえすればよかったのだ。ただ 癪 にさわったことは、こうした絶交の手紙のなかで、かの女が自殺のことにふれていないことだ。ぼくはその冷たさを責めるのだ。そうしてこんな手紙には返事をする必要もないと思った。もしぼくがマルトの立場にあったとしたら、自殺のことはともかくも、もうすこし頭のある責め方をしたであろう。とまれこうしたことを考えるのは、若げと高校生気質の抜けきらない何よりの証拠で、思うに嘘も場合によっては恋愛教典の命じるところでやむをえないことだと、ぼくは考えた。
恋の試練としての新しい仕事が生れた。それはマルトに対して自分の罪のないことをいい、なお家主ほどにもぼくを信じないかの女を責めることだった。ぼくはマランのような連中のやりかたが、どんなにずるいかということを説明してやった。そうしてほんとうのわけを話せば、ある日ぼくがおまえの家で手紙を書いていたら、そこへスヴェアがおまえに会いにやってきたのだ。ぼくは窓越しにあの娘のやってくるのを見て、それが無理におまえからひき離されている女だというのを知っていたし、おまえがいたらこのつらい別離のことでかの女をよそよそしく扱うようなことはしないだろうということを思わせてやりたかったので…
こうしてぼくらは町会議員も家主もみずに、ほんとうに二人きりで暮らすことができた。まるで土人のように平気な顔をして、ほとんど裸かのままで、あたかも離れ小島のような庭のなかを歩きまわった。芝生の上に寝ころんでは、ウマノスズクサや、スイカズラや、マルバノホロシの青葉の下で 愉 んだ。ぼくが拾ってきた、陽の光で熱くなって傷だらけの梅を、口と口を寄せて奪い合った。父がどうしてもぼくには、弟たちのように庭の手入れをさせることができなかったのに、マルトの家ではぼくは庭の世話などをするのだ。掃除をしたり、雑草をむしったりした。暑い一日の夕暮れに、ちょうど女の望みを満たしてやった男のような誇りを感じながら、 渇いた地面や、しおれた草に水をやった。ぼくにはいつでも親切などはばからしかった。それがようやくわかってきた。草花はぼくの世話で 蕾 を開き、鶏はぼくの投げ与えた餌をついばんで木蔭に眠っている。なんて親切なのだろう……だが、なんというエゴイズムだ! もしも花が枯れ、鶏がやせたら、ぼくらの恋の小島にも悲しみが満つるであろう。水も餌も、花や鶏にやるというよりは、自分から出て、ぼく自身に帰ってくるのだ。
それから二日してぼくはマルトから手紙をもらった。それにはぼくの訪ねたことはすこしも書いてなかった。きっと家の者が隠していわなかったのに違いない。マルトはぼくらの将来のことを、いささかぼくを心配させるほど、特異な、 冴えた、きよらかな調子で話していた。本当に恋とはエゴイズムの最も極端なかたちだ。というのは、自分の心配の理由を突きつめてみたら、それは子供に嫉妬をしているのがわかったから。この手紙によると、マルトは子供のことのほうを、ぼくのことよりもよけいに書いているのだ。
死期が迫っている、が自分ではそれと気づかない、そうした不規律な生活をしていたある男が、急に自分の身のまわりを整頓しはじめる。かれの生活はまったく変る。書類を整理する。早起きをし、早寝をする。悪いことをしなくなる。まわりの人びとは喜ぶ。それだけに、その男のむごたらしい死は、だからいっそう不当に思われるのだ。 これから幸福に生きようとして いたのに。
同じように、ぼくの生活のあらたな静けさは、罪びとの 粧いに以ていた。ぼくは自分にも子供ができたのだから、両親に対してもこのうえない息子だと思っていた。しかもぼくの優しさは、父と母をぼくに親しませた。やがてはぼくにも息子の情愛が必要であろうということを、ぼくのなかの何ものかが知っていたから。
レイモン・ラディゲの作品は、二十世紀初頭を飾る古典として扱われ、その短かい生涯はいろいろととり 沙汰 されている。このようにして、かれの名を不朽たらしめたのは、やはり「肉体の悪魔」の声価を多としなければならない。すでに映画でもご承知の「肉体の悪魔」の原作は、ラディゲが十七歳のときの作品である。一人称で書かれ、迫力のあるこの小説は、早熟な作者と思いあわせ、ともすると作者自身の体験を描いたものだと思われがちだった。
このような特色からしても、かれのモラリストであることは認められるであろう。かれは人のもっている深い資質にたいして、とくに敏感であった。であればこそかれは、「恋愛とは、なんという微妙な研究であろう」と、いうことができたのである。かれにとって「未知」は、「習慣」ほどに魅力があるとは思えなかった。かれは、すべての現実がそれとはっきりいい現わすことのできないものを表現するのが芸術の本来の目的であることを、よく知っていたのである。このような人生探求の精神が、かれのような若さのうちに宿っていたとは、いかにかれがきらいであったとはいえ、神童という称呼をもって呼ばねばならないだろうし、 すくなくともかれを、おそろしく早熟な作家ということができるであろう。