山内志朗のレビュー一覧
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哲学の起源であるギリシア哲学(紀元前6世紀〜6世紀)から中世(5世紀〜15世紀)を経て、世間的には軽視されがちなルネサンス時代の哲学(14世紀〜16世紀)までの歴史を主要な登場人物とその主張を、現代の研究家と対話形式で辿りながら読み進められる入門書です。
対話形式という形を取っているのと、丁寧に説明してくれているので非常に読みやすく面白かったです。(当然一読程度では理解出来ませんでしたが…)
読んでいていつの時代の哲学者達も古典(この場合はギリシア哲学)に立ち返ることを必須としていて、それがさらに進むと現代の私達も古典から学べることは多いということなんだろうなと感じました。
さすがに私達がギリシア哲学まで立ち返る必要は少ないかもしれませんが、、、
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Posted by ブクログ
「哲学の名著50冊が1冊で学べる」という本を読んだのだが、どうもマスターした気になれないので本屋で平積みされていた本書を読むことにした。古代ギリシャ哲学についてはとてもわかりやすく面白かったが、中世からルネサンスに進むにつれけっこうキツくなってきました。
この第1巻はとても良い本だと思います。現在第2巻を読んでいるのですが、カントがキツイです。共著本を読んでいつも思うのですが、やはりわかり辛い点が出てくるので、一人の著者が書いた本の方がいい。カント哲学をわかりやすく書いた本はないのかい、超越論的とか定言命法とかもっとやさしく書けないのかねぇ。 -
Posted by ブクログ
中世Ⅰ
古代で3つの枢軸であった3つの文化がついにユーラシア大陸の両端に達するのが中世である
冒頭に世界哲学史として、中世の特徴を俯瞰する
①民族の大規模な移動と侵入が世界を動かした時代(旅人の時代といっている)
②古典を形成するのではなく、古典を継承し、それに対する註解を蓄積する時代。
③思想の伝達と交換をする時代
④神と人間の対立⇒神の人間からの超越
ギリシア文化⇒ローマへ⇒(アカデミア→修道院、学校へ)西欧へ
⇒東方(ビサンチン)へ:コンスタンチノープル、東欧へ
⇒イスラム世界へ(シリア語→アラビア語)⇒再びヨーロッパへ
インド文化(仏教)⇒中国⇒日本へ
西洋思想というものは、とっつきがわるい、イメージがわかない、仏教や儒教はそれよりはまし。
気になったことは以下です。
・文化の伝播は民族や習慣ではなく、翻訳である。
・西欧における哲学とはアリストテレスが中心であり、ギリシア語からシリア語、アラビア語に訳されて、再びスペインのトレドで、ラテン語に翻訳されたものが西欧全体にひろがった。
・アリストテレスの著書に膨大な註解がつけられて、伝播していく。
・ビサンツに伝わった、キリスト教、ビサンツ正教が東方正教の中で、母体となって、ロシア、ルーマニア、ギリシアなどの伝播していく
・東欧は、制度としては、ローマ帝国を継承したのだが、文化としては、古代ギリシア、キリスト教を基盤として作られた
・受肉した神、イエス 前者では、血を滴るようにして苦しむイエスが、後者では栄光のイエスとして描写される
・ビサンツ正教が生んだ、特異な書物「フィロカリア」 修道生活の指南書がヨーロッパ全体に広がっていく。
・中世の2つの論理学、アリストテレスの古代ローマから継承されたものと、アラビア経由で再輸入されたもの、旧論理学(カテゴリー論)と新論理学(分析)とあるが、その明確な差異はよんでもわかりませんでした。
・ローマ法:ユスティニアヌス法典:は、スコラ学が援用されて、現在もヨーロッパ法の原点となっている。ゲルマン部族の侵入においても、異民族はローマ法を守ったのである。
・リベラルアーツ(自由学芸)がでてくるが、単なる教養ではなさそうだ。正しく話すこと、文法学の再構築などの言があるも、イメージがつかめなかった。
・イスラームの思想史、12イマーム派、シーア派、スンナ派。イスラームの宗教的な特徴は、宗教的な権威を一手に握る個人や組織が存在しないことである。時間が経るにつれて、イスラームにも、異端と正統が問題となる。啓典クルアーンの他に啓典の母というテクストがある。
・イスラームのペルシア派がギリシア哲学をイスラーム世界に取り込んだ。
・ギリシア哲学の伝統と継承では、註解書のスタイルを論ずる。註解書がもたらしたものは、既存概念の説明とともに、新しい概念を生み出す場でもあった。
・儒教には、仏教のいう、輪廻転生という概念がなく、死後の世界をめぐって、神滅不滅論争を引き起こしてしまう。仏教は、一切衆生悉有仏という生けとし、生けるものは、仏性をもつという如来蔵思想により不滅とする。
・仏教は、中華思想のように、1つの世界に固執しない。仏教の世界感を三千世界という
・インドにおける仏教、バラモン教、存在論の話があったが、各章、各段落の結論がわからなかった。残念
・日本の密教について、空海を中心に展開する。
・平安初期は、実力があれば、官僚にもなれ、遣唐使にも参加できた。空海の時代とはそのような空気の時代であった。
・空海の登場は、律令制=儒教が中心であった朝廷を、東アジアでもっともはやく仏教中心になるまでのインパクトがあった。
・空海の知られざる業績、それは、「文鏡秘府論」という音韻論、修辞法などのあらゆる詩論を網羅した漢文のテキストを残したことだ。松尾芭蕉も愛用したとある。
・空海は、さまざまな業績を残したもかかわらず、世俗を捨て、山野での修行をえらんだ。「家もなく国もなし、郷属を離れたり、子にあらず、臣にあらず」。これには官吏には理解されなかったようだ。
目次は以下の通りです。
はじめに
第1章 普遍と超越への知
1 中世という時代
2 超越ということ
3 普遍という視座
第2章 東方神学の系譜
1 ビサンツ帝国における哲学と神学の位置づけ
2 グレゴリオス・パラマスにおける身体へのまなざし
3 ビザンツ正教のその後と『フィロカリア』
第3章 教父哲学と修道院
1 教父たちと修道生活
2 アンセルムスの神学と哲学
3 11世紀から12世紀へ
第4章 存在の問題と中世論理学
1 はじめに
2 中世論理学のラフ・スケッチ
3 ボエティウス カモメの皮を被ったタカ?
4 アベラール 中世哲学の狼
第5章 自由学芸と文法学
1 複数の自由学芸(リベラルアーツ)
2 文法学と註解の伝統
第6章 イスラームにおける正義と異端
1 はじめに
2 イスマーイール派の起源
3 極端派と創世神話
4 10~11世紀における教義修正
5 おわりに
第7章 ギリシア哲学の伝統と継承
1 註解書というスタイル
2 ギリシア哲学の伝統と継承
3 おわりに 註解の営みの意義
第8章 仏教・道教・儒教
1 言語
2 精神、霊魂
3 孝
第9章 インドの形而上学
1 認識論的回転以後の論争史
2 実在をめぐる問い
3 認識論
第10章日本密教の世界観
1 はじめに 寓話から哲学史へ
2 空海の生きた時代と社会
3 文章経国的「正名」の理論と空海の密教的世界観
4 空海の密教的言語論の世界
5 まとめ 天皇の王権と真言化する
あとがき
編・執筆者紹介
年表
人名索引
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Posted by ブクログ
哲学=西欧哲学という常識を塗り替え、アジアやアフリカなどを含めた世界哲学の体系化を試みるという壮大な理念を掲げたシリーズである。
一巻ではメソポタミア文明からヘレニズム時代を扱う。メソポタミア文明を哲学史に組み入れること自体がすでに世界哲学への第一歩であり、その内容も大変興味深かった。
一点気になったのが、9章と10章の内容の矛盾である。9章ではヘレニズム時代にギリシャ人とインド人が出会ったエピソードを世界哲学の導入にはならないと切り捨てているが、10章ではそのエピソードを丸々取り扱っている。章ごとに作者が異なることに起因した矛盾であろう。
世界哲学を体系化しようという試みの中でこのような齟齬が生じるのは本末転倒に思える。 -
Posted by ブクログ
第四巻は13世紀を舞台とした思想群が紹介されている。歴史の流れとして12世紀は成長の時代(騎士道精神、大恋愛)、13世紀は西洋中世の最盛である。本書の目的は哲学の流れはそこに呼応しているのか解明するところにある。際して、都市の発達、商業の成長、教育と大学の発達、托鉢修道会の成功などが論じられ、日本においての大思想家の誕生などまで様々なことが論じられている。中でも「存在と本質」、「普遍論争」に関してはとても興味深かった。
そこで簡単にまとめてみようと思う。
存在と本質
存在はesseとexsistentiaの二つがありそれは明確に区別されている。本質は形相としてそれをそれたらしめているものであり、形象においても認識される場合、それらをまとめて本性(naturaという。存在、すなわち「在る」というのは、現実に在る時、すなわち質量によって規定される場合exsistentiaとして使われ、形相によって規定される場合essentiaとして使われる。同じ在るということでも2種類考えられるということである。
トマス、スコトゥスにおける存在と本質の区別はどちらも人間の知性を必要とする点で共通している。トマスにおいてはより形而上的に、スコトゥスにおいては’命題’として論理学的に、それを区別していると私は理解した。
対してオッカムは、「オッカムの剃刀」という信条の元、存在と本質は文法的な機能が異なるのみで同義であると結論している。exsistentiaの世界とessentiaの世界は人間の知性を介在として対応することはないということである。それ故に存在することに先行する本性なるものはない。オッカムは「犬」という普遍は我々の心の中にある概念や言葉として実在していれば十分だと考えたのだ。そしてそれはアウグスティヌスの「記号としての言葉」や「内的言葉」とも繋がる。そこから唯名論の「この世界に実在するものは、徹底的に個物でしかない」というテーゼが提出される。
認識について
認識には「感覚認識」と「知性認識」の二つがある。感覚認識とは身体器官を通じて把握することであり、知性認識とは知性によって音や光の性質を学習、観測し把握することである。この認識の枠組みは、実在論も唯名論も一致する。しかし、この枠組みが外界の事物とどのように関わりあうかという説明は当然異なっている。共通するのは、我々の認識は、感覚であれ知性であれ、その出発点となっているのは、広い意味で「心の中」の働きであるということである。そしてそれは近世の観念論につながっていくらしい。それは国家であり、社会であり、環境倫理学や政治哲学、個人の尊厳、倫理と繋がっていく。らしい。ここまでが私の理解です。特に印象に残ったのでまとめてみました。間違ってたらすみません。 -
Posted by ブクログ
第一巻目がとても面白かったので、楽しみにして読んだ。結果、第二巻もとても面白く読めた。
第二巻目は古代から古代末までの世界の哲学を取り上げている。今から2000年も前の世界だ。特に、ギリシアの哲学者やその世界観、アウグスティヌスの自由意志、内的超越の話は印象に残っている。仏教や中国哲学、ペルシア哲学(ゾロアスター教、マニ教)の話は、とても難しかった。というのも、それらの章は本の中盤に位置しているのだが、それらの考え方に対して慣れ親しんでいない上にそれらの話がすごいスピードでスイッチするためである。とても頭が疲れたが、マニ教の話はあとの章のアウグスティヌスの話に繋がってくるし、仏教世界が綺麗に二分されているが故の”歴史”に対しての捉え方、そして”起源”、テクストとしての大乗仏教などはとても奥深く、面白く、別個でまた別の機会に探求してみたいと思った。
P.S 第三巻が楽しみだ。